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ケルビムの炎の剣と生命の樹

第一章 GEN MATRIX ~エデンの庭師 (3)

STORY
アドナは生まれて初めて最下階に降り、強い西日に心を打たれる。だが、それは生命の樹への道を阻むケルビムの剣のようだった。アドナは医療界のラスプーチンのように勝ち誇るエルメインの悪の所業を思い返し、自らの運命を嘆く。

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目次 🏃

最下階へ ~エレベーターと階層社会

アドナは午後五時に仕事を終えると、セスに教えられた少女の個人情報を頼りに、フロア中央のメインエレベーターに乗り込んだ。

二十人乗りの垂直型エレベーターは、長大なライトフォールに沿って、東西南北に二台ずつ、合計八台が設置されている。いずれもガイドレールによってキャビン(カゴ室)が移動するリニア式だ。

アドナは液晶パネルの操作盤に指を滑らせると、『144』と目的階を入力した。

強化ガラスで覆われた半円塔型のキャビンは、円柱のエレベーターシャフトを分速200メートルでゆっくりと移動する。超高層ビルのエレベーターにしては速度がゆっくりなのは、ライトフォールへの負荷を軽減する為だ。

直径15メートルのライトフォールは、タワーの心柱の役目も果たしている。その天端は屋内農園の中央に煙突みたいに突き出し、透明なアクリル樹脂の天板で覆われている。天端の周囲には、緑黄色野菜の水耕タワーが生け垣のように張り巡らされている為、農園で働く者は普段意識しないが、もし天端から下を覗けば、底なし井戸のような絶景に目が眩むに違いない。

ライトフォールのある中心部(センターコア)は『主塔』と呼ばれ、フロアを東西南北に区画する主通路の交差点でもある。四つのエリアは『翼』と呼ばれ、各翼の間取りもフロアごとに大きく異なっている。また各翼のコーナーには十人乗りの小型エレベーターが三台ずつ設置され、市民の足となっている。こちらは古典的なロープ式で、移動範囲も限られているが、カゴ室はステンレス製で、外から見えないのがかえって都合がいいらしい。

アドナは強化ガラスの側板に軽くもたれながら、上から下に流れゆく都市の様子を遠目に見つめた。

思えば、《天都》も絵に描いたような階層社会だ。「住んでいる階と人間の質は無関係」と言うが、現実には、《特別な人々》は5階から7階の豪奢なVIPフロアに住み、Classified(クラシファイド)の称号をもつ知的階級や高度技能者は吹き抜けのある8階から20階に住んでいる。それ以外の庶民は31階以降の居住ユニットに暮らしているが、そこにも暗黙のルールがあり、上は上、下は下で固定して、階層を超えて移動することはほとんどない。

アドナも最下階に降りるのは初めてで、食糧管理委員会の実態調査で80階あたりまでは行ったことがあるが、そこから先は降りたことがない。行くなと禁じられているわけではないが、やはり先入観があるのか、下に降りるのは躊躇われる。下階の住民も上階の住人に反感を抱いているという話だし、お互い交わる所はないというのが本音だろう。

実際、庶民が1LDKから2LDKの小さな居住ユニットに暮らし、食事も日用品も配給制、衣類はフリーマーケットに出品されたお下がりを着回し、家具や照明器具が故障しても、電球の交換さえままならないのとは対照的に、VIPは今も広々した二階建てのロフトに暮らし、専用のジムやプールもある。学校も診療所も庶民とは別で、誰がどのような暮らしをしているのか、下階の住民にはまったく窺い知れない。

それでも庶民から不満の声が上がらないのは、適当に床磨きでもしておれば、お腹いっぱい食べられるからだろう。《隔壁》を解除して、タワーの外に出たところで、待ち受けるのは、《天都》よりもっと苛酷な野外生活だ。もう十年もすれば深刻な物不足に陥り、日々の暮らしはおろか、人類の存続自体が危うくなるとしても、ぎりぎりの状況になるまで、難しいことは考えたくないのが人情かもしれない。

やがてエレベーターが100階を過ぎると、アドナは改めて下階の様子に見入った。

狭い通路に、同じ外観、同じ間取りの居住ユニットが隙間なく詰め込まれ、まるで大型客船の二等デッキの如くである。随所に光ダクトが設けられ、明度は十分に保たれているが、上階に比べれば、どこかみずぼらしい印象は否めない。

そして、130階を通過し、いよいよ最下階に迫ると、アドナは息を呑むようにしてエレベーターの外を見つめた。ここまで来ると、もはや都市空間というより箱詰めだ。ノアの方舟の下層甲板みたいにきゅうきゅうとして、むりやり居住ユニットを詰め込んだ感がある。大理石のウォーターインテリアもなければ、通路を彩るイルミネーションライトもなく、エレベーターホールにわずかにフェイクグリーンが置かれているだけで、下町の雑居ビルみたいだ。

ケルビムの炎の剣

そして、とうとう144階に到着すると、アドナは大きく息をつき、エレベーターを降りた。

これぞ世界の最下階。

洗礼の恵みを受けない罪人が死後に行き着くという辺獄(リンボ)の際。

《隔壁》の向こうは害虫と害獣の巣窟と思うと、地の底から瘴気が這い上がってくるように感じる。

しかし、行き交う人はみな普通だし、子供連れも多い。VIPフロアがいつもしんと静まりかえり、通路で他人と出会っても、なるべく目を見合わせないように通り過ぎるのとは対照的だ。ここでは皆が肩を寄せ、互いに声かけしながら、ぺちゃくちゃとお喋りを楽しんでいる。天井も低く、全体に薄暗いのに、どこか明るさを感じさせるのは、人々の笑顔のせいだろうか。

アドナは簡素なフロアを見まわし、ふと天井の随所に設けられた光ダクトの放光部に目を留めた。

縦横に張り巡らされた光ダクトはタワーの貴重な光源だ。主塔のライトフォールから取り込まれた太陽光は、特殊鏡面アルミ材でコーティングされた60センチ四方のダクト内を複数回反射して、天井や壁面スリットの放光部から屋内を明るく照らす。放光部には照度センサーも取り付けられ、一定の光量を下回れば、LEDライトが自動点灯するが、近年は節電の為に光度が三割近くもカットされ、ただでさえ薄暗い通路がいっそうみずぼらしく見える。

ただ、フロアの窓際だけは幅4メートルの外周回廊がぐるりと張り巡らされ、西日が眩いほどだ。ガラスカーテンウォールに沿って設けられたグリーンベルトには、アイビー、ポトス、アジアンタムといったインドアグリーンの他、パンジー、マーガレット、バーベナなど多年草の花も植えられ、明るい雰囲気を醸し出している。また外構床は赤茶色のカラフルなモザイク舗装で、等間隔に円形の休憩所が設けられ、窓と向かい合うように鋳鉄製ベンチが設置されている。ベンチの周囲には、ベンジャミン、ユッカ、パキラといった背の高い観葉植物も植えられ、高齢の住人が飲み物を片手にのんびりとくつろいでいた。

アドナはいったん外周回廊に向かうと、グリーンベルトをじっくり観察した。これらの緑色植物は直射日光を遮り、熱エネルギーを大幅にカットして、室内温度の上昇を抑える働きがある。そして今も、カーテンウォールから差し込む強い西日を葉陰が遮り、温かい雰囲気を醸し出している。

アドナは窓際に歩み寄ると、葉隠れの向こうに燃えるような夕陽を見つめた。

暦は五月上旬。外気温はまだ零度近いが、夕陽は火輪のような輝きを放ち、山間の雲海を黄金色に染めている。周囲にはなだらかな山地が広がり、よく晴れた日には、峰の向こうに水晶のような氷河湖を目にすることができるが、日が暮れると、たちまち闇に包まれ、恐ろしいほどの静寂がやって来る。四方に目を凝らしても、どこにも文明の明かりはなく、原始の風景が果てしなく続くばかりだ。

だとしても、燃えるような西日の美しさはどうだろう。人類が地上から追われても、太陽だけは変わらず光を投げかけ、僅かに生き残ったものを育み続ける。

まこと『神』と呼ぶにふさわしいものがあるとすれば太陽だ。小手先でヒトゲノムを弄ぶエルメインのような人間では断じてない。たとえエルメインが創造主を気取っても、まことの神は決してその傲慢を許しはしないだろう。

《御覧、ヒトはわれわれの一人と同じように善も悪も知るようになった。今度は手を伸ばして生命の樹から取って食べて、永久に生きるようになるかもしれない》

旧約聖書『創世記』

その昔、人はエデンの園に暮らし、飢える心配も、死の恐怖もなかった。知恵の実以外はどれを取って食べてもよく、男(アダム)と女(イブ)は幸せに暮らしていた。ある時、女は邪悪な蛇に「食べれば、神のように賢くなれる」とそそのかされ、知恵の実を口にした。それを男にすすめると、男も食べたので、二人の目が開け、自分たちが裸であることを知った。怒ったヤハウェ3はエデンの園から二人を追い払い、男には労働の苦しみを、女には産みの苦しみを負わせた。そして、二人が楽園に戻ることがないように、エデンの東に智天使ケルビムと自転する炎の剣を置いた。知恵を身に付けた男と女が、次は生命の樹を求めることを恐れたからである。

人類も知恵の実を口にして楽園を追放された男女と同じだ。神を気取ってゲノムに手を出し、異種を放ったが為に生態系も崩れ、地上を離れざるを得なくなった。そして、今もその罪は赦されず、高い塔の天辺に閉じ込められている。

遺伝子工学の鬼才 エルメイン

アドナは爬虫類みたいなエルメインの顔を思い出し、胸が塞いだ。あの男がいる限り、彼にも、市民にも、永久に平安など訪れないからだ。

エルメインはいわば国父のようなものだ。敬愛の対象かどうかは別として、多くの市民が「エルメイン先生のおかげで生き延びた」と思っている。実際、八千人が安全な住まいと食を得て、七十年も平和に暮らしているのだから、その功績をすっかり否定することはできない。

エルメインが得意とするのは、ゲノム編集を用いた遺伝子治療だ。《隔壁》を締め切る以前から、人工細胞を患者に移植したり、個人の体質に合わせたオーダーメイド医療を施して、大勢の患者を救ってきた。自らも先天性の遺伝子疾患に苦しみ、苛酷な少年時代を過ごした経験から、エルメインの遺伝子治療に対する野心は並々ならぬものがある。自身にも様々な遺伝子療法を施し、幼少時、アルビノみたいだった容姿は、血色のいいコサック風になり、百十八歳になった今も五十代のような容姿と体力を誇っている。

そんなエルメインの究極の目標は『RNAエミュレーション』だ。本人のRNA(リボ核酸)を受精卵に移植することにより、生前の記憶を新しい肉体に移し替える施術である。

もちろん、RNAだけで全ての記憶を移し替えるのは不可能で、足りない部分はデジタルアーカイブを用いた催眠療法で補填する。デジタルアーカイブとは、本人の一生を記録した動画や写真をはじめ、日記、論文、交遊録、ウェブサイトの閲覧記録や検索語に至るまで、ありとあらゆるものをデジタルデータ化したものだ。その際、不都合な記録は消去し、代わりに自尊心を高めるような偽の記憶を植え付ける。たとえば、本人が容姿に劣等感を持っているなら、デジタルアーカイブの中では、厳しいダイエット療法と筋肉トレーニングによってアポロンのように逞しい肉体を手に入れたとデータを書き替える。すると、次の人生では新たなセルフイメージが植え付けられ、体重管理のみならず、学問、仕事、人間関係、あらゆる面で超人のように生まれ変わるというわけだ。

普通に考えたら馬鹿馬鹿しいが、VIPフロアの住人は本気で不老不死を願い、エルメインの診察室に通い詰めている。秦の始皇帝が不老不死の霊薬を求めて、大勢の家来を遣わした逸話は有名だが、霊薬が医療技術に置き換わっただけで、不老不死への執着は現代も変わらない。実際、エルメインの遺伝子療法がそこそこに功を奏しているのは確かで、昨年度の美人コンテストの優勝者の実年齢を知ったら、庶民は腰を抜かすに違いない。

だが、エルメインのゲノム編集が完璧でないことは、アドナが一番よく知っている。手を加えた受精卵の多くがシャーレの中で成長を止め、残りの胚も代理母の胎内から流れ出た。出生と同時に息絶えた赤ん坊も数知れず、あれも『ヒト』としてカウントするなら、おびたただしい人命が失われたことになる。

また、無事に出生し、乳児期を生き延びても、その先の運命はさらに苛酷だ。彼も学童になるまで、高機能クリニックに隣接する保育室で過ごしたが、同じ集団保育グループには、両手足の欠損した性別不明の子供もいれば、眼球のない少女もいた。別のグループでは、十歳を過ぎても簡単な読み書きもできなかったり、いつも全身の皮膚がただれて異臭を放ったり、まともに育った者は一人としてない。

だが、エルメインや彼の助手は、そうした事実をひた隠し、小手先の施術でVIPの信望を繋ぎ止めている。

エルメインの信者がいとも簡単に騙されるのは、何かあっても自分達だけは助かるという、根拠なき自信と傲慢ゆえだ。『選ばれし者』という自負心は、「自分は永遠に存在すべき」という自惚れを助長し、この世には自分の為だけに特別にカスタマイズされた奇跡の治療法があると思うようになる。標準治療では物足りず、エルメインが唱える「何やら高尚で小難しい治療法」に自尊心をくすぐられ、「あなたのDNAに合わせた」と言われると、無条件で仰ぎ見るようになるのだ。

彼らにとって、他人の受精卵など爪の垢ほどの価値もないし、自らが生き延びる為なら、誰かが犠牲になることも厭わない。

エルメインはそうした人々の心を巧みに操り、自らの地位を不動のものにした。だが、それは人民を支配する為ではなく、自分の治療法が《特別な人々》に支持されているという陳腐な自負心ゆえである。《十二の頭脳》が亡くなった時も、手を叩いて喜んだのは、むしろ彼を後押しする勢力だ。GEN MATRIXも万人ではなく、自分たちの為に使われるべきだと思っている。

あとは設計図さえ手に入れば、世界を牛耳ったも同然だ。旧司令部に赴き、GEN MATRIXを再起動して、生命創造の業(わざ)を手に入れる。そして、ヒトの形をした奴隷を大量生産し、自らは不老不死を得て、再び地上を支配しようというわけだ。

アドナがそうした不正を知りながらも、いまだ行動を起こせずにいるのは、彼もまた死の恐怖に怯えているからだ。

自分がエルメインによってデザインされ、自然とは異なる方法でこの世に生み出されたと知ったのは十二歳の時だ。初めはさほど深刻に受け止めなかったが、遺伝学を知るにつれ、その恐ろしさが身に染みるようになった。

この世に永久不変の生命体など存在せず、どんなDNAも自己複製を繰り返すうちにエラーを生じ、悪性腫瘍や代謝の機能低下を引き起こして、最後にはヒトを死に至らしめるものだ。生が自然なら、死は運命であり、それに抗うことはできない。

だが、彼を創りだしたのは地上で最も罪深い人間だ。エルメインが崇高な使命感からゲノム編集したとは到底思えず、アドナのDNAにも悪魔の意図が組み込まれているような気がしてならない。

何が怖いといえば、死後、研究開発の為に解剖され、ホルマリン漬けにされることだ。エルメインの信者が居並ぶ中、身体の隅々まで視姦され、肉を切られ、骨を断たれ、内臓、眼球、髪の一筋に至るまで、生体標本として晒されるぐらいなら、いっそケルビムの炎で焼かれた方がいい。

この身を創造したものがヤハウェのように尊い存在なら、遺伝学の発展の為に喜んで我が身を捧げただろうが、彼の創造主は神を気取った卑しむべき人物で、今も医学界のラスプーチン4みたいに勝ち誇っている。

だが、彼もいつまでも生き血を捧げる子羊ではない。出自を知ってからは懸命に医学や遺伝学を学び、来るべき日に備えた。訳も分からず祭壇の生贄となるよりは、少しでも自分の身に起きたことを理解して、人間らしく息を引き取りたいからだ。

やがてその思いは、市民に美味しい農作物を届けたい願いに昇華し、学ぶ動機も変わった。今後いっそう社会に必要な人材になれば、エルメインも迂闊に手出しできないはずだ。

いずれ死ぬにしても、エルメインの実験動物ではなく、ヤハウェの創造物として死にたい。

そして叶うなら、わたしにも地上を歩く道連れが与えられますように――。

書籍の紹介

神との約束を破り、楽園から追放されたアダムとイブの有名なエピソードは、旧約聖書『創世記』に収録されています。様々な翻訳がありますが、創世記に関しては格調高い関根正雄・訳をおすすめ。
Kindle版もリリースされて、読みやすくなりました。
「カインとアベル」「バベルの塔」「ノアの箱船」など、西洋美術でもお馴染みのエピソードの大半が創世記に収録されています。

誰かにこっそり教えたい 👂
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この記事を書いた人

MOKOのアバター MOKO Author

作家・文芸愛好家。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚の小説を手がけています。東欧在住。作品が名刺代わり。Amazon著者ページ https://amzn.to/3VmKhhR

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