あなたたちは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。
あざけられ、苦しめられて、見世物にされたこともあり、このようなめに遭った人たちの友となったこともありました。
実際、あなたたちは捕らえられた人たちと苦しみをともにし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでもなくならないものを持っていることを知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
ですから、自分の確信を捨ててはいけません。
この確信には大きな報いがあります。
神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
「もう少しすると、来たるべきかたがおいでになる。遅れられることはない。
信仰によるわたしの正しい人は生きる。
もしひるんで、信仰を捨てるようなことがあれば、その者はわたくし(神を指す)の心にかなわない」
しかし、わたしたちは、ひるんで信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
ヘブライ人への手紙 10:19-26 『奨励と勧告』
ここでは「キリスト教と信仰心」がテーマになっているが、「信念」もしくは「意志」に置き換えると分かりやすい。
「あれをしよう」「こうなりたい」という決意は今日からでも出来るが、それを維持するのは非常に難しい。
一度はこうと決めたことも、「思うようにいかない」「人に理解されない」といった理由から、諦め、目移りし、止めてしまうのはよくあること。今は一事に専心するより、あの手この手でフィールドを広げる方が良しとされるから、余計で決心も鈍りやすいだろう。移り気、迷い、飽き性、等。本来、欠点とされてきたことも「情報強者」「フットワークが軽い」「マルチタスク」といった言葉に置き換えれば、何やら正しいことに思えるので、まあいいか、と呆気なく鞍替えする人もあるかもしれない。
しかし、一事に専心することが無くなれば、継続の価値も分かりにくくなる。
たとえば、子供の頃からピアノをずっと習っている人は、技術を習得する難しさも、いつそれが報われるかも、肌で知っている。「止めずに頑張ってよかった」と実感できるのは、たいてい、何年も経ってからだ。
そうした体験なしに、「一事に専心するなど無駄なこと」と決めつけ、こっちが良いと聞けばこっち、あっちが儲かると聞けばあっち、ころころ転がるばかりでは、身に付くものも身に付かないのではないか。
「フットワークの軽さ」は、継続の重みを知っているからこそ分かる違いであって、軽いばかりの人には「本当に継続すべきこと」と「そこまで必要はないこと」の違いも分からないと思う。
たとえば、経営のプロには事業の引き際や踏ん張り時が判断できるが、何の経験もない者には、どこまで維持すべきか、何を目安に撤退するか、見当も付かないだろう。そんな中、身軽さばかりを追いかければ、結局、何一つ実を結ばないまま終わってしまうこともある。粘りも転身も両方体験して初めて潮目が分かることであって、どちらか一方に偏れば、大事なものを見失う。
上記の文章で一番印象的なのは『苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください』という言葉。
人間、時が経ち、なまじ経験値が高まると、逆に耐えることを軽んじるようになるものだ。
それまでの報われない過程が、「忍耐なんて、やるだけ無駄」と耳元で囁くようになるからである。
しかし、『もしひるんで、信仰を捨てるようなことがあれば、その者はわたくし(神を指す)の心にかなわない』の「わたくし(神)」という箇所を、自分自身の良心に当てはめれば、非常に分かりやすい話だ。
なぜなら、途中で捨てたり、諦めたりしたことは、自分自身の心が一番よく記憶しているからである。
ここでの対象は≪神≫だが、神でなくとも、≪自分自身≫は決して裏切れない。
「信仰によって命を確保する」というのは、結果がどうあれ、自己の信念を貫いた実感は一生の支えになるということ。
人がドヤ顔で生きていくには、最低限、自分で自分を裏切らぬことが必要である。