映画『愛の嵐』 あらすじと見どころ
愛の嵐(1974年) ー Il Portiere di notte 英題: The Night Porter
監督 : リリアーナ・カヴァーニ
主演 : ダーク・ボガード(元親衛隊マクシミリアン)、シャーロット・ランプリング(ルチア)
あらすじ
ナチス親衛隊の生き残りであるマックス(マクシミリアン)は、身分を隠しながら、ホテルの夜番(ナイトポーター。映画の原題 Night Porter を意味する)として働いていた。
ある時、アメリカから有名なオペラ指揮者と、その妻が宿泊客としてやって来る。
妻のルチアは、今でこそ上流階級の貴婦人だが、かつて強制収容所に送られ、マックスの性の玩具として弄ばれていた過去があった。
突然の再会に戸惑いながらも、二人は再び結ばれ、運命を共にする――
見どころ
1974年に公開された『愛の嵐』(英題 The Night Porter)は、ナチスの収容所で結ばれた男女の倒錯した愛と破滅を描いた傑作だ。
未見の人も、ナチスの将校服を身につけた半裸の少女(シャーロット・ランプリング)が、両手で胸を覆い、マレーネ・ディートリッヒの歌曲を哀しげに歌う場面は知っているのではないだろうか。(補足:昔のDVDジャケットには、この写真が使われていたのですが、今は公序良俗に配慮して、無難なデザインに変わっています)
シャーロット・ランプリングの唄の場面があまりに強烈なので、SMを描いた性愛ドラマというイメージがあるが、本質は、収容所という極限下で、支配する者(将校)と支配される者(囚人)という主従関係にありながら、互いに惹かれ合い、快楽を貪り合う男女の孤独と悲しい運命を描いた人間劇である。
異常な状況下で、男女の間に強いシンパシーが芽生え、心理的に結ばれるケースは、ストックホルム症候群を想起させるが、マクシミリアンとルチアの場合、むしろマクシミリアンの方がルチアの魅力に屈服するような印象で、どちらが本物の支配者か分からない。
再会後の展開も、ルチアに振り回されるようにして悲劇に突っ走ることを思うと、本当に運命を狂わされたのはマクシミリアンの方ではないか――と思わずにいられないほどだ。
一方、「私は第三帝国に仕えたことを誇りに思う。再び生まれても同じことをするだろう」という台詞に象徴されるように、この映画はナチズムのもう一つの現実を照らし出している。
もう一つの現実とは、ナチズムに賛同し、積極的に協力する人間が少なからずいた、ということだ。
映画『アイヒマンを追え』 なぜ戦犯は裁かれねばならないのか ~歴史と向き合う意義でも描かれているが、ヒトラー政権時代、誰もが反逆者になることを恐れて、嫌々、ナチズムに従ったわけでもなければ、歴史的犯罪と認識していたわけでもない、
中には本気で「ユダヤ人絶滅」や「人種政策」の思想を支持し、実行に手を貸す人々が存在したわけで、もし、ドイツが戦争に負けなかったら――ヒトラーが最後まで生き延びて、絶滅計画を成し遂げたなら――その後の価値観も大きく変わっていただろう。
多くの人は、人間や社会の都合のいい部分だけを見ようとするが、それが現実であり、今後も十分に起こりうる話である。
個人的には、SMチックなラブシーンより、ナチスの残党がビルの屋上に集結して、「再び生まれても同じことをする」とナチスを賛美する場面が衝撃だった。
(彼らはいずれも一般人として社会に溶け込み、その様子は上記の『アイヒマンを追え』にも克明に描かれている)。
戦争も、差別も、虐殺も、ある日突然、異常な人々によって引き起こされるのではなく、その時々の思潮や社会情勢が普通の人々を狂気に駆り立てるのだと。
今は第二次大戦の頃より情報も発達し、人権や武力に対する人々の価値観も大きく変わったので、そうそう、あのような過ちは繰り返されないと思うが、いつの時代も、そのトリガーを握っているのは、普通の人々である。
世の流れが一気に動く時、「私だけは違う」という言い訳は通用しないのだ。
僕には光が眩しいんだ : Night Porterであり続ける訳
2015年のレビュー
今、この手の映画を製作するのは絶対に不可能だと思う。
ナチスの残党が口にする、
私は第三帝国に仕えたことを誇りに思う。再び生まれても同じことをするだろう。
という台詞は、たとえ創作であっても、決して許容されてはならないからだ。
加えて、支配と服従の中で育まれる愛。
異常な状況下での倒錯と快楽。
上品な貴婦人と淫らな女の両面を見事に演じ分けるシャーロット・ランプリングの妖しい魅力。
全てがスキャンダラスで、歴史的タブーを孕んでいる。
けれど、どこか美しく、納得できる。
一見、社会の良識に対する挑戦であり、倫理への反逆だが、これも確かに男女の愛なのだ。
*
ウィーンの高級ホテルで夜番のフロント係(『The night porter』が原題)を勤めるマックスは、元ナチス親衛隊であり、強制収容所に配属されていた。
そこで囚人の美少女ルチアに目をつけ、彼女が決して逆らえないのをいいことに性を教え込んでゆく。
一方で、マックスは、ルチアの美の奴隷でもあり、彼女のキズに下僕のごとく口付けたりする。
やがてルチアも、自らマックスを愛するようになり、二人の間に奇妙な絆が生まれる。
終戦後、ウィーンのホテルで思いがけなく再会した時、ルチアは有名指揮者の妻として裕福な暮らしを送っていた。
強制収容所の過去など微塵も感じさせない、エレガントなスタイルだ。
上流階級の貴婦人として、栄光が約束されていたにもかかわらず、宿泊中の部屋に訪れたマックスとルチアは激しく抱き合う。
映画史上に残る名場面。
ナチスの秘密クラブで、上半身裸にナチスの制服を身に着け、愛の歌を歌うルチア。
『愛の嵐』といえば、このショットです。
歌の場面は23秒ぐらいから。
歌の場面は23秒ぐらいから。(YouTubeにて。18歳以下は視聴制限があります)
https://youtu.be/vDG7Ytkj_a4
常人には、有名指揮者の妻で、社会的にも経済的にも申し分ない暮らしをしているルチアが、何を思ってマックスの元に転がり込んだのか、まったく理解不能だ。
だが、この歌詞を知れば、少し分かるような気がしないでもない。
私が愛するのは生きるため
そうでなければ楽しむためよ
たまには本気で愛することもあるわ
きっといいことがありそうな気がして何が欲しいと聞かれれば
分からないと答えるだけ
いい時もあれば 悪い時もあるから何が欲しいと聞かれたら
小さな幸せとでも言っておくわだってもし幸せすぎたら
悲しい昔が恋しくなってしまうから歌詞は字幕版より。唄はマレーネ・ディートリッヒの代表曲『Wenn ich mir was wünschen dürfte 何が望みかと尋ねられたら』
一方、ナチス狩りから身を潜めて生きる元親衛隊たち。
「私は第三帝国に仕えたことを誇りに思う。再び生まれても同じことをするだろう」という台詞が私には一番衝撃的だった。
実際に、それを肯定して生き延びた者もあっただろう。
マックスは言う。
「僕はあえてドブネズミの人生を選んだんだ。夜、働くのには訳がある。光だよ。私には光が眩しいんだ」。
罪の意識から、もはや人々が明るく過ごす昼の世界には戻れない、いう気持ちだろう。
たとえ裁きを逃れても、加害者の側にも良心の咎は一生残る、といったところ。
そうして、一時、懐かしい快楽を貪る二人だったが、二人の存在は危険視され、追ってから逃れるために、アパートに立てこもる。
だが、外からの食料補給も絶たれ、二人はたちまち飢えて苦しむ。
空腹に耐えきれず、自らの手を傷つけて血を舐めるルチア。
それをマックスが窘める中で、またも快楽を貪り合う。
ここまでくれば、死と性の極致だ。
もはや何所にも逃げ場はないと覚ったマックスとルチアは、深夜にアパートを抜け出し、川の向こうを目指すが・・
「私には光が眩しいんだ」と語っていたマックスが、最後には夜明けの光を目指して歩いて行く場面が非常に印象的。
どのみち、この世に救いはなく、ただ愛があるだけ・・という、幸福とも不幸ともいえない、切ない幕切れが心に残る。
暴力か、SMか ~極限下の愛と支配
何の予備知識もなく『愛の嵐』のポスターやパンフレットを見たら、「SM映画?」と思うかもしれない。
男が調教し、女は隷従する。
SM趣向といえば確かにその通りだけでは、それだけでは説明のつかない部分がある。
なぜなら、時にマックスとルチアの力関係は逆転するからだ。
最初は有無を言わせぬ暴力によって、ルチアの身も心も支配していたマックスだが、いつしかルチアの愛の奴隷となり、女の足元にひざまずく。
ルチアを自分の手元に引き留めるためなら、仲間に背くことも厭わない。
ついには食糧を立たれ、命を脅かされても、女の愛を請い続け、最後は自ら光の中に身を晒す。
『暴力と支配でしか愛を表現できない男』というと、女性には甚だ不愉快かもしれない。
だが、そういう男は現代にもたくさん存在するし、その悪癖を知って、なお離れられない女も同じ数だけ存在すると思う。
両者の絆など、当人にしか分からないし、正論を説いて聞かせたところで、何の救いにもならないだろう。
映画『愛の嵐』でも、マックスはルチアを乱暴に殴った後に「愛してる」などと囁く。
そして、これほど酷い目に遭っても、ルチアはマックスと別れようとしない。
常人には決して理解できない情愛である。
そんな二人を強固に結びつけている理由が『快楽』としたら、ますますもって理解不能だろう。
だが、これも一つの愛の形であり、正しく生きるだけが人生でもない。
本作については、誰もが一言、コメントしたくなるが、愛にもSMにも疎い人間が物申すのも野暮というものだろう。
それほどに、男女の愛は、傍からは窺い知れぬものだから。
何にせよ、二度、三度と繰り返し見たくなる作品ではない。
史実にせよ、何にせよ、あまりに重く、やりきれない話だからだ。
*
日本版の予告編は有志がアップしています。興味のある方はどうぞ。昔の映像なので、生々しい場面も含まれます。
https://youtu.be/CtLf_-9nXUs
同性愛のバレエダンサー
これも非常に印象に残る場面。
ナチス親衛隊が見守る中、男性ダンサーがほとんど全裸でバレエを踊る。
あの異常な状況が芸術の糧となり、ダンサーにインスピレーションを与える。
これも解る人にしか解らない演出。
高画質の動画を視聴できます。性的表現を含むため、年齢制限があります。
https://youtu.be/MFFD0W4lgX8