「男がほんとうに女に贈り物をしたいと思ったら結婚するものだ」 ココ・シャネルの名言より

目次 🏃

シャネルの名言より

男が本当に愛していたら、結婚するものだ

「同棲も結婚も一緒よネ」「愛があれば、永遠に結婚できなくても幸せだよネ」と気楽に考えている部屋女、もしくは不倫相手のお嬢さん方は、一度、真剣に、『結婚』というものの社会的意味について考えてみたらいいと思います。

精神的・肉体的結びつきに結婚が関係ないのは、本当の話です。

でも、社会的意味において『結婚の重み』というのは、この世のどんな関係よりはるかに勝ります。

「紙切れ一枚」というけれど、その紙一枚がどれほどの効力をもっているか──男がどれほど調子の良い事を言っても、法や社会の前には、愛人や恋人には何の権利も立場もないのです。

そして、それほど重いものを女に与えようという。

この男の決意、覚悟、諦め、etc。

単に「交際3年目」だけでは男が首を縦に振らない理由は、「好き」とか何とか以上に、そして女性以上に、この重さを本能で理解しているからです。

言い換えれば、男にとって、結婚は、相手の女性に対する最大の誠実でもある。

「こんなに愛し合ってるんだからさぁ、結婚なんかしなくていいじゃん、一緒に暮らすだけで楽しいじゃん」などとヌケヌケと口にするような男を信用すればバカを見るよ、というのはそういう理由です。

だからギリギリのところでアーサー・カペルに秤にかけられ、結婚という最大の誠実から背を向けられたシャネルの痛みと屈辱は計り知れないものだったでしょう。
あれほど信じた大胆不敵な男が、結局は、自らの保身のために貴族の娘を選んだのですから。
著書では、そんなアーサーもやがて自らを悔い、離婚して、シャネルと一緒になるために動き始めた矢先に交通事故で亡くなった……というような話が伝えられていますが、それはもう当人にしか分からないことです。

何にせよ、女性の自立のシンボルとされたシャネルが、こういう言葉を残しているのは非常に興味深いです。

家で待つだけの女になってはいけない

これは専業主婦否定の言葉ではなく、ぼーっと男の愛を期待して、振り回されるだけの女になるな、という事です。

だからといってがむしゃらに予定を増やしたり、明るくはしゃいで見せる必要はないし、デキる女を気取る必要もない。

ただ、自分の幸せの決定権を男に依存するな、ということですね。

男というのは、苦労させられた女のことは、忘れられないものね

私も昔、ある女性に言われました。「億を積まれる女になれ」と。

男は自分が金をかけた女のことは絶対に忘れないし、たとえ飽きても粗末にもできない。逆に、どれほど夢中になっても、一銭もかけなかった女のことはすぐに切り捨てることができる。

だから、億を積まれる女になれ。男には金を使わせろ、と。

それは「男が奢るべき」という意味ではありません。

たとえばレストランに行って、「ここはボクが……」と男が財布を出してくる。

それは女性に対する礼儀云々よりも、自分の男としての力の誇示なわけです。

「ボクには君をご馳走して、満足させられるだけの器も経済力もあるよ。男としての力をいっぱい持ってるんだよ」

それを理解して、男を立てれば、同じだけのものをお返しされなくても、男はプライドが満ち足りる。

自分の力で女を幸せにしたという自信がみなぎって、ますますその女のことが愛しくなる。

幾ら払ったか、ではなく、どれだけ男の力を認めてもらえたか、ここが重要なポイントなわけです。

そこで「平等にしましょう」とか「同じだけのものを買ってお返ししましょう」とか、女がしゃしゃり出ると、途端に興ざめる。女は、礼儀正しいつもりでも、男は面目丸つぶれ、こんな女、いらん、となってくるわけです。

もちろん、相手の男性に、男としての矜持があれば……の話ですが。

だから、言い方乱暴ですが、男には、彼が望む限り、せっせと働いてもらえばいいのです。

そしてどんな小さなことでも満足して、喜んで見せる。

あなたが先に満足してはいけない。男のプライドを満たすのが一番です。

そうして、あなたの為に、手間暇掛け、お金をかけ、さんざん苦労させられた男は、あなたのことを絶対に粗末にできない。

たとえ他に若くて可愛い女の子に目移りし、「やっぱ若い娘はええなぁ」と思ったとしても、別の部分であなたのことも思い続ける。

それだけのものをあなたに懸けてきた、その重さが惜しいからです。

男の気持ちって、「あの子に会うために、深夜の高速を5時間かけて走ったなぁ」とか「会議を抜け出して、トイレに行く振りして公衆電話に駆け込んで、風邪引きのカノジョに『大丈夫か?!』と電話したなぁ」とか、そういう部分にあるものだから。

「自分を安売りする」というと、「全然イケてない男と妥協して付き合うことだ」と思い込んでいる女性も多いけど、まったく意味が違う。

「安い女」というのは、男が一銭(労力)も使わなくても気ままに遊べる女、そしてそれを愛と思い込み、自分の方から精神的にも肉体的にも投資する都合のいい女のことを言う。

男に大事にされたければ、いい意味で、どんどん男を働かせて、男のプライドを満たすことだと思います。

男がほんとうに女に贈り物をしたいと思ったら結婚するものだ

ココ・シャネルの伝記や映画を見るたび、女性にとっての自立とは何だろうということを考えさせられる。

ブランドの「CHANEL」に関しては、まったく関心がなくて、シャネルのバッグよりはバーキン、シャネル・スーツよりはフワフワ・キラキラの宝塚系ファッションが好きだったので、みんな二言目には「シャネル、シャネル」ってそんなにいいかな、と思ってたくらい。

今頃になって「シャネルもいいなあ」と思い始めたのは、伝記や映画を通して、ココ・シャネルという人に愛情を感じるようになったからだ。

きっかけは、私の大好きなオドレイ・トトゥー主演の映画「ココ・アヴァン・シャネル 特別版 [DVD]。オードリーが出てるし、テーマとしても面白そうなので、レンタルしたのが初めてだった。

正直、映画としてはイマイチだったけど、華麗な上流婦人のファッションに流されることなく自分らしいスタイルを見出してゆく姿がとても魅力的だったし、白いシャネル・スーツをエレガントに着こなすオードリーを見てはじめて「ああ、シャネル・スーツって、こんなに素敵だったんだ」と開眼したもの。某芸人がシャネルを着ても、「どこの成り上がりの姉ちゃん?」にしか見えなかったからね。

それから山口路子さんの「ココ・シャネルという生き方 (新人物文庫)」、高野てるみさんの「女を磨く ココ・シャネルの言葉を読み、最近、シャーリ・マクレーン主演の「ココ・シャネル [DVD]」を見て、ますますシャネルという人に感じ入った次第。今ではかなり本気で「いつか機会があれば・・」なんて思ったりする。この体型ではもう無理だろうけど、夢見るだけならタダだからね。

そんなココ・シャネルは、ファッションから人生まで様々な名言を残しているが、一番心に突き刺さったのが『男がほんとうに女に贈り物をしたいと思ったら結婚するものだ』。

ストラヴィンスキーやウェストミンスター侯爵など、様々な一流の男性と恋を楽しみ、熱心に求婚されることもしばしばだったココ・シャネル。

あれほどの美貌と才能、聡明さに恵まれ、「自立した女性」のアイコンでもあるシャネルが、「結婚」についてこんな言葉を残しているのは意外かもしれない。

だが、男爵の囲われ者として宙ぶらりんな数年を過ごし、最愛の男アーサー・カペルは他の女性と結婚してしまう──という体験の持ち主だからこそ、ココは男女関係の本質と女性の立場の弱さを身をもって理解していたのだ。男にとって最大の誠意は何かと問われたら、「結婚」だということも。

「女性の自立」と言えば、「給料も対等」「意見も対等」「家事も対等」etc、すべてにおいて男性と対等であり、男性にまったく依存しないで一人で生きて行けることだと思われがちだが、実際には逆である。

真に自立した女は、男女差や矛盾を理解した上で、男性の存在を楽しみ、またそれを必要とする自分を客観的に眺めることができる。

そこには対等や公平を叫ぶヒステリックな主張はないし、ギリギリした意地もない。

性差や不条理を受け入れた上で、自分のペースで人生を楽しむことができる。

この世に在る限り、男性の影響を受けずに生きて行くことなど不可能なのだし(二人の対義として独りを標榜するなら、それは男性の存在を意識しているのと同じことである)、男性と同じ力を得たからといって、女性ならではの悩み苦しみが消えてなくなるわけでもない。

ならば「男」という対を完全に無視して、独りの砦の中で頑なに生きて行くのではなく、違いや矛盾を調整しながら、同じ河の上を滑る二隻の船のように着かず離れず生きて行けばいい。

その為には、自分で舵を取るためのオールとエンジンが必要だが、男と同じ機能である必要はまったくない。
それが高級であれ、今にも折れそうな細い棹であれ、要は、自分のペースで人生をコントロールできれば上出来なのだ。

言い換えれば、高給取りで、家持ちで、並より上の生活していても、男に人生の舵を奪われ、心の平安を失えば、それは自立とは言えないのである。

シャネルが生涯を通じてテーマとした「自立」に目覚めさせてくれたのは、最初の愛人、エチエンヌ・バルサンとの上流階級の暮らしだった。高級な邸宅に暮らし、名だたる紳士や貴婦人と交流する中で、シャネルは裕福な暮らしを堪能するが、やがて退屈し、男に媚びてよりかかるだけの貴婦人たちの生き方に疑問を持つようになる。

そんなシャネルの心を決定づけたのは、シャーリ・マクレーン主演の映画に登場するこんなエピソード。

ある日、エティエンヌの邸宅に、彼の母親や兄弟が遊びに訪れる。
だが、エティエンヌはシャネルを紹介するどころか、別室に閉じ込め、親兄弟からその存在を隠そうとした。
メイドに聞けば、「あなたは正餐の場に同席させるにふさわしくない女性だから」と。

今までさんざん「愛している」だの「君が一番美しい」だの美味しいことを囁きながら、この扱いは何だろう? 母親に紹介する価値もないとは、どういう意味なのか?

詰め寄るシャネルにエティエンヌは言う。

「『結婚しよう』と約束した覚えはない。僕は君を愛しているし、いつまでもここで一緒に暮らしたい。結婚してるのと、してないのと、何がどう違うというんだ?」

その瞬間、シャネルはついに目を覚まし、エティエンヌの元を去る決心をする。

彼が自分に惹かれているのも本当なら、愛しているのも本当。「君を幸せにしたい、いつまでも一緒に暮らしたい」という気持ちに嘘偽りはないだろう。

だが、この社会において「シャネルが何ものか」と問われれば、愛人以外の何ものでもない。

エティエンヌは、ただ自分の快楽のためにシャネルを側に置いているだけであって、恋心は本物でも、そこに「男としての誠意」はひとかけらもないのだ。

『結婚』といえば真っ先に愛情の問題が思い浮かぶが、その『社会的意味』も計り知れないほど大きい。ある意味、結婚とは、社会的にけじめをつけるためにするものである、ともいえる。そして、それは、時に男性の地位、人生、財産をも左右するほど大きい。もしかしたら、男性にとっては女性よりも「社会的意味」がはるかに大きいかもしれない。

シャネルがどれほどエティエンヌに愛されようと、「(上流階級の)母親に紹介もできない女」である限り、誰もシャネルを対等な存在とはみなさないし、その立場はいつでも切って捨てられる愛玩物にすぎない。

シャネルがエティエンヌとの結婚に求めたのは「愛の保証」ではなく「社会的意味」であり、彼の属する社会に正式に迎えられることだ。それが出来ないということは、彼女の社会的立場、しいては人生に、何の責任ももたない、ということである。

その狡さを見抜いたからこそ、シャネルはエティエンヌから離れ、仕事をもち、名を成して、自立することを決意した。

それは「男と対等に張り合う」というアマゾネス的な決断ではない。

男の気まぐれで明日にも路頭に迷うような媚びと隷属の人生ではなく、自分で舵を取る人生だ。

その為にはお金と仕事がいる。仕事をするからには一流になりたい。女のママゴトとは決して呼ばせない。

今でこそ当たり前だけれど、シャネルの時代には、こうした意気込みこそ革新的だった。

そして、多くの女が、媚びと隷属の人生から抜け出し、自分で舵を取る人生を切り開こうとしていた。

コルセットをやめ、スカートの裾を短くして動きやすくし、両手が自由になるようショルダーバッグにし、いつでも片手で口紅がさせるようリップスティックを発明し……シャネルのファッションは「創造」というより「工夫」である。どうしたら女がより動きやすく、生き生きと暮らせるか、というアイデアの結晶である。美しさはそこから萌え出た華であり、根本にあるのは「意志の表明」だ。それは「綺麗に見られたいから」というお洒落とは一線を画する、「女の宣言」なのである。

そんなシャネルを精神面と経済面の両方から支えたのが英国の有能な若き実業家アーサー・カペルだ。

シャネルの並々ならぬ才能と情熱にすっかり魅せられたカペルは、彼女に出資し、立地条件に恵まれたカンボン通りに「シャネル・モード」という帽子屋をオープンする。

だが、真の自立を目指すシャネルは、カペルの好意に甘んじることなく、数年のうちに全額返済する。

「僕を本当に愛してる?」と尋ねるカペルに対し、

「それは私が独立できたときに答える。あなたの援助が必要でなくなったとき、私があなたを愛しているかどうか、わかると思うから」

「おもちゃを与えたつもりだったのに、自由を与えてしまったね」と苦笑するカペルに、シャネルはついに本物の勝利をつかんだ気分だったろう。

だが、人生も男も皮肉なもので、このカペルもまたイギリスの名門女性と結婚してしまう。私生児という出生の傷をもつこの男は、貴族社会の一員になることでその傷を埋めようとした。またもシャネルは「一族に紹介できない女」として振り分けられることになる。

だからといってカペルの愛が偽物で、誠意の欠片もない男かと言えば決してそうでなく、「それが男」と言ってしまえばそれまで。

男がほんとうに女に贈り物をしたいと思ったら結婚するものだ」というシャネルの言葉も、男への恨み辛みではなく、そうした男の弱さ、しいては社会の現実を理解した上での自戒であり、世の女性への忠告であり、そこには男女関係の本質や女性の立場など、様々な意味が含まれる。

女性がどれほど強く、賢くなっても、超えられない苦しみ──それがこの一言に凝縮されているように思うのだ。

だからこそ、もっと強くなるのだ、男なみの地位や財力を得て、この受け身の苦しみから逃れるのだ……と息巻く人もあるだろう。

恋愛一つとっても、なぜ女ばかりが男からの電話を待ち、デートの誘いを待ち、プロポーズを待ち、家に帰ってくるのを待ち──こんな不利な態勢で関係を維持しなければならないのか、不公平だわと鼻の穴を膨らませる人も少なくないと思う。

しかし、メスがどれほど発情してもオスが勃たないことには営みが成り立たない──自然の性がそういう形になっている以上、受け身になってしまうのは仕方がないし、仮に、メスがオスのように「種をまき散らす性」であったとしたら、年中、妊娠して、大変なことになってしまうだろう。見方を変えれば、メスというのは最高の状態で卵をかえすために、最高の状態でオスが近づいてくるのを待つように
出来ているのかもしれず、一見不利に思える「待ち」の姿勢も、その実、女たちの方で時機を選択しているのだ……と思えば、多少は納得行くのではなかろうか。

この社会は一見理性で構成されているように見えて、本質はトドのハーレムや猿山と変わらない。コミュニティのトップには力のあるボスザルが立ち、優れたオスからメスと交尾して子孫を残す恩恵にあずかれる。弱いオスから優先的に子孫を残せるようになったら種は滅びる。人間社会も根本では同じ構図を描いているに違いなく、美しいが何処の馬の骨とも知れぬシャネルと、魅力的はないが数百年に渡る貴い血筋をもった女が居れば、後者をとるのは男の性なのかもしれない。

だからこそ、そうした打算や社会の慣習を打ち破り、彼の属する社会に迎え入れてくれる本物の男、本物の愛をシャネルは求めた。

そして、一度ならず二度までも、男の弱い脛を見てしまったシャネルだからこそ、他の女達にはこんな屈辱を味わって欲しくない、その為に目を開き、自立する力をつけ、強く美しく生きて欲しいと、女を輝かせるモードを作り続けたのだろう。

シャネルのバッグはお金さえあれば誰でも買えるが、シャネルのスピリッツは一朝一夕に身につくものではない。

本物のエレガンスは、自分で創り出す存在の美しさである。

ココ・シャネルと女性の自立について ~男に振り回されない人生

ココ・シャネルの伝記を読んでいると、女性の自立を体現した、先進的な人物として描かれることが多いが、一方、心の奥深くで、グツグツと煮えたぎるような女の怨念を感じることもあり、果たしてこれが女性の目指すべき真の自立なのかと考えさせられること、しきりである。

これが十年前なら――独身時代の、一番生き生きと輝いていた頃に読んでいたら――「ココ・シャネルは素敵な女性。私もこんな風になりたい」と強く憧れたに違いない。

だが今、じっくり読み直してみると、彼女の言動や生き方は、かなりの部分で強がりも入っているし、それを「自立」というなら、こんな自立は要らない――というのが正直な気持ちだ。

「シャネルがつまらない女だから」ではなく、立ち位置の違いで、そう感じるだけのことなのだが。

そんな私のシャネルに対するイメージは、『世界一、コケにされた女』。

その一言に尽きる。

そういうと、世界にごまんと存在するシャネルの信奉者、あの世にいるシャネル自身からも跳び蹴りを食らいそうだが、実際にそうなのだから仕方がない。

最初に、誤解のないように言っておくが、この言葉は、シャネルをコケにした男たちに対する怒りの気持ちが99%である。

たとえば、シャネルの最愛の男で知られ、シャネル・ブランドを世に送り出す原動力となった、『ボーイ』こと、アーサー・カペル。

シャネルとあれほど愛し合い、支え合いながらも、ギリギリのところで己の将来と天秤にかけ、貴族の娘と結婚した。

私がシャネルなら、こんな仕打ちは絶対に許さないし、その日を限りに、愛も信頼もすべて消え失せるだろう。

いやもう、女である我が身さえも呪わしく、腹の底に怨念をたぎらせ、総力を尽くして復讐するに違いない。

「あんたより絶対に偉くなってやる。そして、もう二度と、誰にも、私を踏みにじらせはしない」と。

その後の、凄まじいまでのシャネルの仕事ぶりについて、高尚な志や努力の賜と思うなら、その人は「女」というものを相当に誤解しているか、シャネルその人を美しく想像し過ぎだと私は思う。

世界で最も自分をコケにした男に対する復讐心――見方を変えれば、人を人とも思わず、家柄だけで平然と差別し、切って捨てる上流社会、そして、その階級に生まれたというだけで、シャネルよりもはるかに多くの富と特権を誇る女たちに対する闘争心――それらが渾然一体となって、モードの頂点を駆け抜けたのが、シャネル・ブランドの本質だ。その根底には、美しき怨念の火の玉が燃えさかっている。

女性の両手を自由に解放するため考案されたショルダーバッグも、片手で楽に取り扱えるリップスティックも、「もう誰の手も必要としない。あたしは、あたしのやり方で、力強く生きていく」という意思表明であり、自分をコケにした男たちに対する宣戦布告でもあるからだ。

でも、何からの自由? と問われたら、そこには『男』が当てはまる。

女たちがうんざりしているのは、男社会や男性そのものではなく、いつも心のどこかで男の支えや愛を必要とし、その度に裏切られ、もう待つまいと心に決めながらも、どこか覚束ない自分自身に他ならないからだ。

シャネルの体現した自立、そして、彼女に賛同する女性たちが思い描く自立とは、突き詰めれば、『男に振り回されない人生』である。

男に依存せず、煩わされることもない、強い心と生きる手立てを得る為なら、仕事もバリバリこなすし、対等に意見だってする。教養も身に付けるし、男が跪くほどの美貌だって手に入れてみせる。

男より優位に立てば、裏切られることもないし、待つ必要もない。

あてにならない言葉にすがって生きていくのは、もうたくさん。

あたしは、二度と、男に振り回されたりしない。

――と信じて。

しかし、男女という性において、立場が逆転することは絶対にない。

たとえ、法的、社会的に平等になろうと、愛の場面において、女性が男性より優位に立つことは不可能だからだ。

下品な言い方になるが、その気のない男を呼び覚ますことはできない、それが真実だ。

女性性というのは、とことん受け身にできていて、それ故に我が身を守ることができる。

もし、女性の卵子が、男性の精子なみに製造されて、異性を求めて激しく活動したら、年中、妊娠・出産を繰り返して、心身ともに激しく消耗するだろう。

だから、一ヶ月に一個、活動期も期間限定、男性がその気になった時だけ受精のチャンスがある。

それは有利とか不利とかの問題ではなく、個体が生き延びる為のシステムであり、その凹凸をひっくり返して、男性より優位に立とうとすれば、どこかで無理が生じる。

それは能力や人間性の問題ではなく、生物としての仕業である。

ゆえに、昔の女性は、それを『業』と呼び、我が身を呪って井戸に身を投げたり、大蛇になって男を焼き殺すこともあれば、とことん耐えて、尽くすことに美徳を見出したりもしてきた。

武家の花嫁のように、「この業から逃れる術はない」と腹を括ればこそ、思いがけない強さを身に付けることもできたのである。

その点、現代はどうだろう。

金とキャリアを手にすれば、男より優位に立てると幻想をもったばかりに、余計なことで自分を磨り減らし、かえって愛を遠ざける結果になった女も少なくないのではなかろうか。

女性にとって、真の自立とは、男性と対等な地位や力を手に入れることではなく、男に左右されない明鏡止水の境地である。

たとえ男と同等のものを手に入れたとしても、あなたが「女性」である限り、男性から完全に自由になることはできないし、たとえ男性を求めないにしても、自分の中の「女性」をまったく意識することなく、人生を終えることなど不可能だろう。

何所で、どんな風に生きようと、私たちは、まず第一に『女性』であるし、それを否定したり、取り消すことは誰にもできない。

だから、「強くなれ」ではなく、「受け入れろ」なのだ。

それは、屈服や諦めとは異なる、積極的な受容である。

女ゆえの弱さ、淋しさ、不安、諸々を正面から見据え、それならそうと腹を括って、新たな作戦を立てる。

挑戦すべきは自分であって、男性ではないのだ。

だから、まずは自分を許そう。

心と体の不自由を受け入れよう。

そして、「こうでなければ」という拘りから、自由になろう。

自立とは、男から、社会から、家族から、一人旅立つことではない。

自分自身から自由になることである。

男と張り合う人生も、男に振り回される人生も、根本的には変わりない。

動機に『男』が存在する限り、女は不自由だ。

真に自立した人生とは、男がいようと、なかろうと、まったく動じることがないのだから。

ともあれ、ココ・シャネルの伝記は、若いうちに一度は読んで欲しい。

そして、本当にシャネルを尊敬するなら、シャネルのバッグを片手にセレブを気取ったり、男漁りなどしないこと。

それこそシャネルの志した女性の姿とは真逆のものだから。

ココシャネルの名言集と伝記映画

シャネルの名言集

シャネルの生い立ち、恋、ファッション、生き様、哲学をトータルにまとめた良作。シャネルの人間像と程よい距離感を保ち、さらりと描いているところに好感。シャネルの場合、彼女を崇め奉るような、あまりに思い入れの強い文章は読みにくいので。
シャネル・モードが支持された時代的な背景も丁寧に説明されているので、ファッションや歴史に予備知識のない人でも楽しめます。

シャネル哲学: ココ・シャネルという生き方 再生版 シャネル哲学: ココ・シャネルという生き方 再生版
「ファッション革命」だけではなく「女の生き方革命」をも成しとげたシャネル。
ゴージャスな恋愛、仕事への情熱、結婚への想いを「嫌悪の精神」に富んだ「シャネルの言葉」を織りこみながら、コンパクトかつ濃密に描き出した「ココ・シャネルという生き方」(2009年刊行)の再生版。出版以降に明らかになった「新事実」を加え、新たな装いで美しく蘇りました。

あたしは自分で引いた道をまっすぐに進む。自分が勝手に選んだ道だからこそ、その道の奴隷になる。孤児院から人生をはじめ、自力で莫大な富と名声を手にした世界的ファッションデザイナー、ココ・シャネル。彼女はコレクションのショーの最後をウエディングドレスで飾ったことがなかった。なぜか―。「働く女の先駆者」シャネルのゴージャスな恋愛、仕事への情熱、結婚への想いを、「嫌悪の精神」に富んだ「シャネルの言葉」を織りこみながら、コンパクトかつ濃密に描き出す。シャネルからのメッセージがつまった、熱くてスパイシーな一冊。

ココ・シャネル 伝記

ココ・シャネル 伝記

シャネルの名言と時代背景を手っ取り早く把握したい方におすすめ。

私の好きな言葉は・・

エレガントでありながら、行儀を悪くする、つまり、くずすには、まず第一に礼儀正しい基礎がなければならない

男というのは、苦労させられた女のことは、忘れないものね

恋も、仕事も、ファッションも、美意識も、「男に媚びない、おもねない、妥協しない」という、かっこいい女の生き方を生涯貫いたシャネル。女の自立を成し遂げた彼女の、先駆者的人生からうまれた60の名言は、現代を生きる女性の心を魅了してやまないばかりか、女を磨く珠玉のアドバイスにもなっています。著者は映画プロデューサーであり、パリ映画代表の高野てるみ。ココ・シャネルのエスプリを知り尽くした女性です。不幸を幸運に変える知恵、女性だからこその「気づき」の力など、ココ・シャネルのもつ魅力を彼女自身どのようにして培ってきたか。映画人・高野てるみならではの視点で描いてゆきます。

ココ・シャネル 女を磨く言葉 (PHP文庫) ココ・シャネル 女を磨く言葉 (PHP文庫)
本書では、「わたしは女の肉体に自由を取り戻させた。」
「香水をつけない女に未来はない。」
「出かける前に、何かひとつ外したら、あなたの美しさは完璧になる。」
「鋏(はさみ)はわたしの武器。」
「インテリアは心の表れよ。」
「翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすためにどんなことでもしなさい。」
など、ココ・シャネルが残した60の名言を紹介。

ココ・シャネルの伝記映画

フランスの人気女優で、シャネル・ブランドのモデルもつとめるオドリー・トトゥの『ココ・アヴァン・シャネル(意味:シャネル以前のココ)』。シャネル・モードを確立するまでの恋と仕事を軽やかに描いている。シャーリー版のような根性節はなく、次々に移り変わるココのファッションを通して、革新的なスピリッツを表現。ファッション好きなら見ているだけで溜め息かも。
その分、シャネルに関する予備知識がないと、何のことか分かりづらい。
シャネル・ファン、オドリー・ファンの為の、映画版「ヴァンサンカン」という感じ。
ラストの「白いシャネル・スーツのオドリー」はエレガンスの極致。

ココ・アヴァン・シャネル(字幕版)
田舎のナイトクラブからパリへ、そして世界へ──
コネクションも財産も教育もない孤児院育ちの少女が、世界のシャネルになるまでの物語。

こちらは前衛的な音楽家ストラヴィンスキーとの恋を縦軸に、二人の天才の生き様と葛藤を綴った秀作。
二つの才能が出会った……といえばそうだけど、家庭人の目から見れば、「あなたを許すことはできない」というストラヴィンスキー妻の台詞が全てを物語っているような気がします。

冒頭の「春の祭典」の映像は素晴らしいです。これだけでも見る価値がありますよ。

シャネル&ストラヴィンスキー [DVD]
シャネル&ストラヴィンスキー [DVD]
パリ、1913年。ロシアの天才作曲家イゴール・ストラヴィンスキー(マッツ・ミケルセン)の《春の祭典》の初演は、観客の罵声と怒声で大混乱に陥る。その客席には、ココ・シャネル(アナ・ムグラリス)の姿もあった。7年後。すでに名声を手に入れていたが愛する人を失ったばかりのココと、ロシア革命後パリで亡命生活を送っていたイゴールが出会う。作曲に打ち込めるようにと、ココはイゴールに家族とともに郊外の自分のヴィラに移り住むよう提案する。惹かれ合いたちまち恋に落ちたふたりは、互いを刺激し、心を解放し、それぞれの中に眠っていた新たな創造力を次々と開花させていった。初めての香水創りに魂を注ぐシャネル。《春の祭典》再演にすべてを賭けるストラヴィンスキー。そして、ふたりの関係に気づき苦しむ妻カーチャ。それぞれが選ぶ道は──。

七十歳を超えたシャネルは、スイスからパリに戻り、十五年ぶりのコレクションを開催する。(第二次大戦の最中、政治的な理由もあり、長くフランスからもファッション界を離れていた)
シャネルはことごとく酷評され、ビジネスパートナーからも店の売却を提案されるほどだった。

だがシャネルは「今までそうしてきたように、これからも生き延びてみせる」と過去を回想し、カムバックの決意を新たにする。

名女優であり、シャネル・ブランドの支持者でもあるシャーリー・マクレーン主演の『ココ・シャネル』は、彼女がデザイナーとして世に立つまでの若き日々をフラッシュバックで綴るもの。

シャーリーの重量級の存在感もさることながら、若き日のシャネルを演じたバルボラ・ボブローヴァの瑞々しい美しさも見物。ハリウッド版らしい、シャネルの強靭な意志と情熱が強調される話運びになっている。

ココ・シャネル [DVD]
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●生誕125周年を迎えた伝説の女、ココ・シャネルの真実の物語が日本中を席巻!
●主演は『愛と追憶の日々』でアカデミー賞主演女優賞を獲得したシャーリー・マクレーン!
●ファッション界に革命をもたらした、数々のシャネルファッションが鮮やかに蘇る!
●本作の為につくられた衣装はココ・シャネル役だけで70着!他にもシャネルを有名にした数々のアイテム“ジャージー・ドレス、カメリア、ツイード・スーツ、シャネルNo.5”などの歴史的アイテムがつくられた背景とともに次々と登場!
誰かにこっそり教えたい 👂
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この記事を書いた人

MOKOのアバター MOKO Author

作家・文芸愛好家。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚の小説を手がけています。東欧在住。作品が名刺代わり。Amazon著者ページ https://amzn.to/3VmKhhR

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