『ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)』の巻末に収録された『付録 プリンツ・フォーゲルフライの歌』より。
これが私の一番好きな詩。
かなたへ――われは向かわんと欲する
今より頼るは この我と わがうで(伎倆)のみ
海原は眼前にひらけ
その蒼茫の涯へと
わがジェノアの船は乗り出す
すべて新たに いよいよ新たに われを輝(て)らす
時間をも空間をも眠りにおしつつむ正午――
なんじの眼ひとり――もの凄く
われを凝視(みつ)める
なんじ 無限よ!
今でも新しいものが胸に訪れると、「今より頼るは この我と わがうで(伎倆)のみ 海原は眼前にひらけ その蒼茫の涯へと わがジェノアの船は乗り出す」のフレーズが思い浮かぶ。
船出の時は、いつも一人。
目の前の海だけが、私の決意を知っている。
天頂に輝く、あの太陽だけを道連れに、どこまでも、どこまでも――。
ちなみに「なんじの眼」というのは太陽のこと。
これが後の『ツァラトゥストラ』のクライマックス、「これがわたしの朝だ。わたしの日がはじまる。さあ、のぼれ、のぼってこい、おまえ、偉大な正午よ」に繋がってくる。
ニーチェが目にした海も、立った岬も、生きた時代も全く違うけれど、その瞬間の感動は理解できる。
一生に一度、あるかないかの、決意と閃きだ。
自分が生まれてきた理由も、生きる意義も、成すべきことも、すべて納得がいく。
『我が、我たるゆえん』の悟入の瞬間だ。
2001年4月、初めてオランダを訪れ、アフシュライトダイクの締め切り大堤防建設を指揮したコルネリス・レリーの彫像を見た時、上記の詩とぴったり重なった。
締め切り大堤防(アフシュライトダイク)とコルネリス・レリーの偉業 ~世界は意思の表象にも書いているが、内海を仕切るアフシュライトダイク(締め切り大堤防)は全長 32 km、ハイテク重機もコンピュータも無い時代、人力を駆使して建設された。
いかに水害が深刻とはいえ、海を仕切るなど、誰が決意するだろう。
失敗すれば、多大な経済的損失を生じるばかりでなく、人命にもかかわる。
あの時代の、コルネリス・レリーの決意を思うと、こちらまで総身が震える。
だが、一方でこう思う。
何かを志す機会を与えられたものは幸福だ。
漫然と日々を過ごす人も多い中、一生の夢や志など、なかなか巡り会えるものではない。
たとえ、それが望み通りに実を結ばなくても、夢は生き甲斐を、志は生きる強さを、与えてくれる。
何の為にこの世に生まれてきたの……と問われたら、やはり、自分の持てる力、好きな何かに向かって全力を尽くすことだと思わずにいない。
大きな試練は大きな苦痛を伴うかもしれないが、それは選ばれた人間だけが背負うことのできる天命と思う。
そう考えれば、夢や志がある時点で、人生は8割成功したも同じではないだろうか。
『新たななる海へ』に続く詩。
シルス・マリーア
ここに坐り、われ待ちに待つ ――
何を待つとなく
善と悪との彼岸に
ときに光を ときに影を 愉しみ
ただに戯れのみ
ただに湖 ただに正午 ただに目的なき時そのとき 突如 女友達よ(ともよ)!
一は二となりき――と ツァラトゥストラ わがかたえをば過ぎゆきぬ
シルス・マリーアにはニーチェが滞在したことで有名なパブリックハウス(Nietzsche Haus) http://nietzschehaus.ch/de/が存在し、一般にも公開されている。
こんな風光明媚な場所なら、ツァラトゥストラでも、メフィストフェレスでも、なんでもやって来るだろう。
『善と悪との彼岸に ときに光を ときに影を 愉しみ』というのは、自分の感情すらも越えて、はるか高みから世界を俯瞰する視点だ。
感情の渦中にいる間は、「嬉しい」とか「悲しい」といった感情が全てで、感情の中に自分がいるが、そこから脱却すれば、悦び悲しむ自分自身を客観的に見つめることができる。高次な視点は、悲喜に振り回されることなく、すべての事象をあるがままに受け止めることができる。そこには、優劣も、勝ち負けもなく、ただ「感じ、考える、生きた自分自身」が存在するだけだ。影の部分も含めて、生きることを愉しめたなら、それは『大いなる肯定者』であり、何ものにも脅かされない、魂の幸福をもたらす。
そうして、『ただに湖 ただに正午 ただに目的なき時』、あるがままを見つめ、明鏡止水の心境で、今一瞬の生を感じていると、突如として、あの閃きが訪れる。
大いなる肯定者にして、永劫回帰の英雄、ツァラトゥストラだ。
この悟りの語り部であり、脱却の象徴でもある、海の巨人。
ロダンのダンテが『考える人』なら、ツァラトゥストラは『突き抜けた人』というイメージ。
地獄も、天国も、それ自体に意味があるのではなく、その中で生きる自分自身に意味があるのだ。たとえ地獄の業火に焼かれて苦しんだとしても。
この思想をどう表したものか、いろいろ試行錯誤する中で、ようやく巡り会えたツァラトゥストラという魂の代理人。
『一は二となりき』というのは、意識下に漠然と存在した様々なアイデアやメッセージが、ツァラトゥストラという代理人を通して明確な輪郭をとり、一つの形に結晶した悦びをいうのだろう。
それは、くだらないことでも、考えて、考えて、考え抜いた人だけが辿り着ける思考の臨界点だ。
トーマス・エジソンの言葉を借りれば、99%の思考が、最後に訪れた1%のインスピレーションによって、ようやく具現化したのである。
シルス・マーリアの心の岬で、ツァラトゥストラのイメージを掴んだニーチェは、その場で小躍りしたいほど幸福だったろう。
そして、コルネリス・レリーの大堤防がそうであるように、ニーチェの著作も現代人の精神の基盤として今に生きている。
「それを作ろう」と決意した瞬間は誰もが美しく、高貴の光に輝いているものだ。
そして、それを維持できたなら――なおかつ、形にできたなら――それは非常に恵まれた人生と言えるのではないだろうか。