詩心とは世界と人を愛する気持ち 『寺山修司 少女詩集』について

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寺山修司 少女詩集について

作品の概要

寺山修司はたくさんの詩を書いているが、それらは『ロング・グッドバイ 寺山修司詩歌選 (講談社文芸文庫)』『愛さないの 愛せないの(ハルキ文庫)』『赤糸で縫いとじられた物語 (ハルキ文庫) 』など、様々な形で収録されているので、「どれが代表的な詩集」というのは存在しない。

その都度、編纂され、廃刊になっては、また新たな詩集が刊行され・・の繰り返しである。

しかし、数ある詩集の中でも、初心者に一番分かりやすいのが、角川文庫から刊行された『寺山修司少女詩集』ではないだろうか。

本書は、以下の九章から構成され、少女詩集のタイトルにふさわしく、乙女心や恋について謳った短い詩がたくさん収録されている。

平易な文章でありながら、美しい詩情をたたえ、安っぽいロマンチシズムとは一線を画している。

かといって、激甘のポエムでもなく、はっと胸をつかれるような表現に、筆者の深い洞察力と哲学を感じるはずだ。

寺山修司の著作を読んだことのない人には、意味が分からず、首をかしげるような部分もあるかもしれないが、それも含めて『作品』という。

「あれはどういう意味だったんだろう」と、いつまでも考えさせられる点に、寺山作品の真髄がある。

  • ぼくの作ったアザーグース
  • ぼくが男の子だった頃
  • 悪魔の動揺
  • 人形あそび
  • 愛する
  • 花詩集
  • 時には母のない子のように

一ばんみじかい叙情詩

一ばんみじかい叙情詩

なみだは

にんげんのつくることのできる

一ばん小さな

海です

初めてこの詩を見た時――そう、『読んだ』のではなく、文字がごろりと目に飛び込んできた――、こんな言葉の天才がいるものかと震撼したほどだ。

次いで、思いを馳せずにいなかった。

これを書いた人の心情と人柄を。

海について語れば、多くの人は、その蒼茫を称え、波の音に自分の感情を託すと思う。

だが、寺山修司の詩は、よくある海の詩とは違っていた。

海が自分の内側から流れ出るなど、考えもしなかったからだ。

そして、人の流す涙には、海のもつ、全ての感情が込められている。

悦び、切なさ、痛み、悲しみ……。

海を見に出掛けなくても、私たちはすでに自分の内側に持っている。

それは、もしかしたら、あの青い海より、もっと広いかもしれない。

あまりに深さに気付かないだけで。

私も海について書こうと思ったが、この詩が全て言い尽くしているので、書く気もなくした。

どう逆立ちしても、これ以上のものは書けないと思ったら、逆に気が楽になって、私は私の海を書けばいいと思った。

これより上手に書けなくても、書くべきことはたくさんあるから。

*

海から見れば、私たちは、ほんの一瞬、世界を垣間見ることができる花火のようなものだ。

たった一言、その心象を表すのに最適な、運命の言葉を探して、日夜、心の辞書をめくっている。

だが、どんな美辞麗句も、目からこぼれ落ちる水を海に喩えるセンスには敵わない。

私の中では、ジャン・コクトー(上田敏・訳)『わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ』と並ぶ名詩である。

しゃぼん玉

生まれてはみたけれど
どうせ酒場の家なき子
花いちもんめ
赤いべべ着て
地獄へおちろ
親のある子は
地獄へおちろ

酔っぱらってはみたけれど
どうせ闇夜の宿なし子
花いちもんめ 
少女倶楽部は
地獄へおちろ
花嫁人形は
地獄へおちろ
 
おちる地獄を
うつしてまわれ
浮気なキネマの
しゃぼん玉

この詩を書いた寺山氏、母との間にもいろいろあったと思う。

だが、それをストレートに「親死ね、ムカつく」と口にするのではなく、『毛皮のマリー』や『身毒丸』のように、独創的な戯曲に表現した。

そして、その力は、誰の中にもある。

今、この瞬間にも、書き始めればいい。

上手である必要はないし、他人に媚びる必要もない。

言葉というものに対して、謙虚な心と愛情と、言霊に対する敬虔な気持ちがあれば、その憎悪や孤独はきっと素晴らしい一篇の詩になる。

それが真の意味で創造的な人生ではないだろうか。

(参考→ 創造的であることが、あらゆる苦悩から我々を解き放ってくれる

三匹の子豚

三匹の子豚
あしたはみんな死ぬ
一匹は退屈で
つぎの一匹も退屈で
最後の一匹も退屈で

これはジャック・プレヴェールの詩『五月』のパロディだろう。

ロバと王様とわたし
あしたはみんな死ぬ
 
ロバは飢えて
王様は退屈で
わたしは恋で

時は五月

しかし、三匹の子豚が、退屈のあまり、次々に死んでいくのはシュールだ。

オオカミは肉体を滅ぼし、退屈は心を滅ぼす。

退屈は、怠惰と無関心の子供。

十九歳

五歳の時
わたしは宝石を失くした

十歳の時
わたしは宝石が何であるかを知った

十五歳の時
わたしは宝石をさがしに出かけた

十七歳の時
わたしは宝石は水の中で光った

十九歳の時
わたしは愛という名の宝石を手に入れた

だが
それはわたしの失くした宝石ではない
わたしの失くした宝石は
いまも
世界のどこかで
名もない星のように光っていることだろう

人生の一つの目的は、子供の頃になくしたものを手に入れる旅と思う。

幼い時、喪失感を味わって、その代わりになるものを、時々、得るけども、何かを手に入れたと思ったら、また失って、その繰り返し。

そうした飢餓感を埋めるために、愛を求めることもある。

普通、愛を得たら、幸福も、平安も、全てを手に入れたような気分になるが、一方で、確実に失われるものもある。

それは、悲哀や慟哭から生まれる激しい言葉だ。

愛だけが万物の神ではなく、憤怒、怨嗟、絶望、嫉妬からも、詩は生まれ出る。

愛や平和に満たされると、満腹の猿みたいに心も鈍磨し、何かを成そうという激しい希求も失われ、鋭さも消える。

創造性においては、オオカミみたいな飢餓感が不可欠だから、逆に満たされると困るのだ。

愛に満たされたら、もう二度と、愛の詩は詠えないから。

それを名もない星に喩えたのが、この詩ではないだろうか。

かなしみ

私の書く詩のなかには
いつも家がある

だが私は
ほんとは家なき子

私の書く詩のなかには
いつも女がいる

だが私は
ほんとうはひとりぼっち

私の書く詩のなかには
小鳥が数羽

だが私は
ほんとは思い出がきらいなのだ

一篇の詩の
内と外とにしめ出されて

私は
だまって海を見ている

詩を生むのは、現実の欠けた所。

その隙間を埋める為に空想があり、空想が詩を作り出す。

だが、それを書き上げてしまうと、詩の中にも、外にも、自分の居場所がなくなってしまう。

詩人とは、半分夢の中に生きる人。

内と外の狭間で立ち尽くす、寺山氏の心情はまったく正しいし、詩など永遠に完結しない方が、むしろ幸せなのだ。

汽車

ぼくの詩のなかを
いつも汽車がはしってゆく

その汽車には たぶん
おまえが乗っているのだろう

でも
ぼくにはその汽車に乗ることができない

かなしみは
いつも外から
見送るものだ

ぼくの中には、現実を生きるぼくと、詩を書くぼくと、二人いる。

前者はプラットフォームに佇み、後者はそんなぼくを斜め上から見下ろす。

どちらも同じぼくだけど、違う次元を生きていて、一つの詩を書き上げたら、もう一人のぼくはそれを遠くから見送るイメージ。

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詩心とは世界と人を愛する気持ち

近頃は、他人の発言を揶揄するのに、『ポエム』という言葉が使われる。

少女詩集みたいに、非現実的で、甘ったるい理想は何の役にも立たない、といった意味合いで。

では、現実的で、実効性があれば、優れた意見というのだろうか。

世の中を変えるのに、理想や抒情は必要ないと?

『詩を作るより、田を作れ』 文芸の価値と詩を役立てる心でも書いているが、ポエムを揶揄する声は、「詩を作るより、田を作れ」という政治性に通じる。

ポエムが、人間の痛みや儚さ、夢や悲しみといったものを美しく歌い上げるとするなら、実効性は効率よく田を生産する為の施策だからだ。

確かに、田がなければ、人は飢えて死ぬし、愛や希望を歌ったところで、田が増えるわけでもないのは本当だ。

詩人より、種を蒔く人や畑を耕す人が多い方が、豊かになるのも本当だろう。

だが、人間や社会の価値は、生産性や効率性でしか測れないものだろうか。

一円も生まない人間は無価値というなら、それは人間社会ではなく、ただの工場ではないだろうか。

正直、『詩』など、この世にあっても、なくても、大差ないし、詩や小説など読まなくても、契約書や説明書きが読めれば、社会の一員として生きていける。

本屋も、実用書や図鑑だけ置けばいいし、暇つぶしなら、SNSの雑談で事足りる。

だが、それで本当に、人の心は潤うだろうか。

『ポエム』と揶揄される理想や夢も同じ。

政治も、経済も、生産的で、実効性があって、利益に直結するような意見だけを取り入れて、無駄なものは片っ端から排除すればいい。

だが、そんな事をすれば、年寄りや、病人や、労働力としての価値のないものはものは生きる権利も否定され、たちまち居場所をなくすだろう。

そして、それが本当に、人間社会のあるべき姿なのだろうか。

『ポエム』、すなわち、詩を詠む心は、非効率的なものにも、美しさや存在意義をを見出す技術である。

美しい薔薇は、一本、300円で売れるから、貴重。

野に咲く花は、一銭にもならないから、むしり取っていい。

そうした考えを政治的とするなら、詩心は、野に咲く花にも美を見出し、生きる力とするものだ。

その心は、花や星のみならず、人間にも通じる。

いわば、詩心とは、人と世界を愛する気持ちであり、これこそ人間社会の基盤と言える。

詩心を欠いた社会は、効率化された工場と同じ、役に立たぬものは解雇され、機械の傍に花を植えることも許されない、殺伐とした世界である。

そんな世界に人間が長く置かれたらどうなるか、容易に想像がつくのではないだろうか。

いかに生産力を上げるかを工場の政治学とするなら、窓際にグリーンを配し、休憩スペースを充実して、人に優しいローテーションを考えるのは詩心である。

直接、詩作と関係なくても、詩のように人の内面を慮る気持ちが、本当の意味で、社会をより良くするのではないだろうか。

優れた詩は、人に詩心を思い出させ、殺伐とした社会に希望や優しさをもたらすカンフル剤でもある。

歴史において、しばしば詩や詩人が敵視されるのは、そういう理由である。

誰かにこっそり教えたい 👂
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