女装スパイの悲恋を描く映画『エム・バタフライ』
作品の概要
エム・バタフライ(1993年) ー M.Butterfly (プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(Madama Butterfly に基づく。タイトルの『M』は、Male =男性)を表すという説もある)
監督 : デヴィッド・クローネンバーグ
主演 : ジェレミー・アイアンズ(フランス大使館の情報部員ルネ・ガリマール)、ジョン・ローン(歌姫ソン・リリン)
ソン・リリンは、「東洋女性の慎み」を理由にガリマールの誘惑を遮るが、次第に受け入れるようになる。やがて肉体的にも結ばれるが、ソン・リリンは決してガリマールに自分の裸体を見せようとしない。
一方、フランス大使館では情報漏洩が噂されていたが、ガリマールはソン・リリンの策略に気づくことなく、彼女を慕い続ける。
やがて中国で文化大革命が起こり、ソン・リリンとも離ればなれになるが、彼女の帰りを信じて待つガリマールの元に届いたのは驚愕の知らせだった……。
本作の魅力は、人気絶頂だったジョン・ローンが美しい女形に扮し、ルネ・ガリマールと濃厚なラブシーンを見せてくれる点だろう。それもヌルヌル、ベタベタとしたラブシーンではなく、衣類を着けたままというのが、逆にエロティックかつ神秘的である。
「東洋女性の慎み」とか、何じゃそれと思うが、西洋人のガリマールには新鮮に映ったのだろう。全部脱いでみせる本物の女より(精神的にも)、大事な所は完璧に隠しつつ、あっちをチラッ、こっちをチラリと、チラ見せするから余計でそそられるのだと思う。もちろん、それは同性として男を知り尽くしたソン・リリンの計算なのだが。
ルネ・ガリマールにとって、ソン・リリンは至高の女性であり、理想そのものだった。
だが、そんな女は、実在しない。
幻に恋した男の末路をシビアに描いており、歴史的には、蝶々夫人が復讐を遂げたような内容になっているのが面白い。
- 心の醜悪は外見に現れる ~嫉妬に狂った男の悲劇 映画『ザ・フライ』
嫉妬に狂った天才科学者は自暴自棄になって物質転送機に入るが、ポッドの中に一匹のハエが紛れ込んでいた。人間とハエの遺伝子が融合し、奇怪なモンスターとなった男は恋人に執着し、人を殺めるようになる。
東洋の女が西洋の男に捨てられるからドラマになる
男が女を愛したら……
それも「西洋の男」が「東洋の女」を愛したとしたら……
その結末は、プッチーニの歌劇『蝶々夫人』(お蝶夫人ではない)に象徴されるように、最後は女の方がポイと捨てられ、自殺するものと相場が決まっている。
実際、白人男性に遊ばれ、どん底に落ちる日本女性は少なくないし、国民性か、はたまた大和撫子の遺伝子か、Noと言えない日本女性が、外国人男性にとって「都合のいい女」になりやすいのは事実である。
そうした歴史的慣習(?)を打ち破って、「東洋の女」が「西洋の男」を破滅させたのが、鬼才デヴィッド・クローネンバーグ監督の『エム・バタフライ』である。
国家の信任を一身に背負い、北京のフランス大使館に赴任したエリート外交官ルネ・ガリマール(ジェレミー・アイアンズ)は、プッチーニのアリア『ある晴れた日に』を高らかに歌う、美人女優のソン・リリン(ジョン・ローン)に一目惚れする。
そんなガリマールに、ソン・リリンは言う。
「チアリーダーの金髪娘が日本の小男のビジネスマンに恋をする。結婚後、男は妻を残し、帰国して三年。ケネディ家の求婚さえ断り、彼女は夫を待つ。やがて夫の再婚を知った彼女は自殺する。救いようもなくバカな女だと思うでしょ? でも東洋の娘が西洋の男のために死ぬと美しいわけね」
それでもソン・リリンの神秘的な美しさが忘れられないガリマールは、彼女の出演する劇場に足繁く通うようになる。
だが、ソン・リリンは、生物学的にはれっきとした「男性」であり、中国政府が使わした女装スパイだった。
そうとも知らず、ソン・リリンの美しさに引き込まれるルネ・ガリマール。
この世のものとは思えぬほど妖艶、かつ神秘的なクローネンバーグ監督の演出も素晴らしい。
やがて二人は肉体的に結ばれ、深く愛し合うようになる。
しかし、裸になると男性とばれるので、ソン・リリンは「中国の女性は慎み深いから、決して男性に肌を見せたりしないの。どうか、私の慎みを大切にして」とガリマールに哀願する。交わる時も、着衣のまま、起坐位で、という徹底ぶり。
が、それゆえに、ガリマールはいっそう欲望をかき立てられ、ソン・リリンを神秘の存在として崇めるようになる。
一方、ソン・リリンも、愛人を演じるうちに演技と一体化し、私生活でも女性と化していく。
この仕草など、本物の女性より美しい。
だが、中国では文化大革命が起こり、ソン・リリンは強制労働所に送られ、ガリマールとも離ればなれになってしまう。(ソン・リリンは子育てのため、実家に戻ると嘘をつく)
ガリマールは彼女の愛を信じ、帰りをひたすら待ち続けるが、ガリマールに突きつけられたのは、逮捕状と、ソン・リリンが中国の女装スパイであるという驚愕の事実だった。
逆転した『蝶々夫人』の悲劇
映画では、まずルネ・ガリマールがスパイ容疑で逮捕され、次いで、検察側の証人として、ソン・リリンが法廷に出廷する。
二人は同じトラックで護送されるが、裏切られた悲しみに、ガリマールは彼の顔を見ようともしない。
すると、彼は、ルネに当てつけるように衣服を脱ぎ、「オレの裸を見ろ」と迫る。
「どうだ、見ないのか? 見たかったんだろう?」
だが、ルネはきつく目をつぶって、彼の裸体を見ようとしない。
すると、彼はルネの手を取り、「どうか、昔を思い出して。あなたの愛したソン・リリンよ……」と優しい声で囁きかける。
最初は男の顔でトラックに乗り込んだソン・リリンが、次第に女性の表情に戻っていく演技が素晴らしい。
さすが清の皇帝・溥儀の生涯を描いた大作『ラストエンペラー』でアカデミー主演男優賞を受賞しただけのことはある。
だが、ルネは顔を背けて、うずくまり、「なんて醜いんだ。私の愛したソン・リリンは完璧な女性だった。お前は断じて、ソン・リリンではない」と冷たくあしらう。
あの激しい愛が二度と戻らぬことを知って、涙を流すソン・リリン。
彼もまたガリマールを心から愛していたのだろう。
裁判の結果、ルネ・ガリマールは、中国スパイに加担した罪で刑務所に送られ、狂気の中に生涯を終える。
愛する男に捨てられ、破滅する女、エム・バタフライは「私自身だった」と告白して。
エンディングのネタバレ動画です。興味のある方は視聴して下さい。
M. Butterfly (D.Cronenberg) “..There is a vision of the Orient that I have..”
本当に男女の交わりが可能だったのか
この物語は『実話』である。
私が映画館で購入したパンフレットには、外交官男性は刑期を終えて釈放され、今も某国でひっそり暮らしていると記載されていた(公開当時)。
女装した中国人スパイは、疑いようのない『完璧な女性』であり、普通の男女のように交わることも可能だったそうだ。
現実にそんな事が有り得るのかと思うが、ゲイのカップルでも、普通に性生活を楽しんでいることを思えば、頷ける。
当時は、東西文化が日常的に交わることもなかったから、「東洋女性のたしなみ」と言い張り、彼の前では決して衣服を脱がず、秘所に触れさせることもなければ、本当にころりと騙されたのかもしれない。
あるいは、愛しているから、「女性」と信じたかったのかもしれないが。
ともあれ、ジョン・ローンの美しさは白眉のものだし、ジェレミー・アイアンズも、性愛に耽溺し、破滅する男性を演じさせたら、当代一である。(代表作『ロリータ』)
近年、動画配信サービスでも、見放題で公開されるようになったので、機会があれば、ぜひご覧になって欲しい。
クローネンバーグ監督の描く異形愛
デヴィッド・クローネンバーグといえば、異形のキャラクターが特徴で、傲慢な天才科学者が物質転送機の中でハエと遺伝子レベルで融合し、奇怪なハエ男に変身する『ザ・フライ』が有名だが、双子の天才外科医が一人の女性を愛し、やがて精神に異常をきたして、片方を解剖してしまう『戦慄の絆』も衝撃的で、トラウマ級の世界観が魅力の映像アーティストである。ロリータの中年男も、ある意味、異形だし。
クローネンバーグの描く『異形』はグロテスクではあるが、誰よりも人間らしい。私の言う、“人間らしさ”とは、善人という意味ではなく、弱さ、脆さ、醜さといった、負の部分だ。
彼らの特徴は、自分たちが「異形」であることを、ほとんど自覚してない点。
だから、余計で、一般社会における孤独が際立つ。
だが、クローネンバーグの映画を観ていると、実は、一般社会の方がグロテスクで、冷酷ではないかと思ったりする。
普通に暮らしている人々も、中身は、ドロドロ、ベタベタ、醜いクリーチャーなのに、本性を押し隠し、紳士然と振る舞っている。
だから、「素」のままに振る舞う異形の者たちを見ていると、苛立ち、嫉妬し、苛めたくなるのだ。
クローネンバーグの異形キャラは、見た目も振る舞いもグロテスクだが、どこか哀しく感じられるのは、やはり我々の中に同じものが存在するからだろう。
にもかかわらず、締め出し、忌み嫌う、普通の人々よ。
それが監督の狙いとしたら、『異形』こそ、人間の正体を映し出す鏡なのかもしれない。
米国社会に侵食するチャイニーズ・マフィアと熱血刑事の攻防を描いた社会派アクション。ジョン・ローンが若きドンを演じ、ナイフのような切れ味をみせる。ミッキー・ロークも刑事役を好演。どこか男たちの挽歌を思わせる、抒情的な内容に仕上がっている。
初稿 2010年4月27日