絵本『だるまちゃんとてんぐちゃん』の魅力
作品の概要
著者 : 加古 里子(かこ さとし)
発売日 : 1967年11月20日 (福音館書店)
だるまどん(父)の優しさ
『だるまちゃんとてんぐちゃん』は、幼稚園時代から私のバイブルです。
自分自身が親となった今も、折に触れて読み返し、子供より自分が喜んでいます。
子供の頃、私が飽くことなく眺めていたのは、見開きいっぱいに描かれた帽子や履き物の絵。
「これは、どうやってかぶるのかな」
「こんな靴だと、走れない」..等々。
あれこれ思い巡らせては、一人、空想の世界に遊んでいたものです。
しかし、大人になって読み返すと、心惹かれるのは、父である、だるまどんの優しさ。
子供(だるまちゃん)に、「てんぐちゃんのような帽子が欲しいよぅ」とおねだりされると、親の気づかいで、部屋いっぱいに、いろんな種類の帽子を並べて見せるけど、だるまちゃんはひと言、「こんな帽子じゃないんだけどな」 (子供は正直)
結局、父が用意した帽子には目もくれず、お椀で自作
「うちわ」「はきもの」と繰り返した挙げ句、今度は「てんぐちゃんみたいな“はな”が欲しいよう」。
無茶な要求にもかかわらず、だるまどんが親の気づかいで、花畑に連れて行くと、だるまちゃんは目を真っ赤にして、「ちがうよ、ちがうよ、まるでちがうよ! ぼくのほしいのは、咲いている花でなくて、顔にある鼻だよ!」
私なら、この時点でキレます (`ω´)キリッ
私の方が、だるまちゃん状態になります。
二度も、三度も、子供の我が儘に付き合えるほど、私は寛容ではありません。
この目玉が血しぶくような芸術的描画……。
このだるまちゃんだけでも一見の価値があります。
それでも、だるまどんの優しいこと。
「ごめん、ごめん、これは大間違いのとんちんかん」と頭をかきながら、だるまちゃんの気に入るように、えっちら、おっちら餅米をつき、家族総出で、ころころまるめて、形のいい鼻を作ってあげるんですね。 一度も、キレることなく ( ´△`)y-~~
これを親の慈愛と呼ばずに、なんと呼ぶ。
ほんと、親というものは、かくあるべきと、つくづく。
心の広いだるまどんは、私みたいに、「自分で作れば?」なんて冷たいことは絶対に言わない。
最初のおねだりの段階で、(ちっ、うるせーな)なんて、決して思わない。
我が子、だるまちゃんの願いを叶えるために、うちわや履き物を何十個も並べて、「どれが欲しいか、言ってごらん」とばかり、ニコニコしながら見守っている。
私は、だるまどんの姿に全てが集約されているような気がしてなりません。
だるまちゃんは、我が侭といえば我が侭だけど、それが幼子というもの。
「てんぐちゃんみたいなウチワが欲しいよぅ」と泣きつく子供に、
「むやみに他人のモノを欲しがるんじゃねぇよ」と説教したり(←私)、
「何度もしつこく言うんじゃない」と自制を強要したり(←私)、
「これだけ親が気を遣ってるのに、『ちがうよ、ちがうよ、まるでちがうよ』とは何事じゃ、感謝せんか!」とキレたりしない(←私)
どんな時も子供の願いに寄り添い、親として出来るだけの努力をしてあげる。
これこそ、本物の愛です。
そして、今の私は、部屋いっぱいの帽子や履き物を眺めて喜ぶ、だるまちゃんの立場から、だるまどんの立場にシフトし、どう逆立ちしても、慈悲深き達磨大師にはなれない自分を戒めるばかりです。
amazonのレビューには、どこを、どう読めば、そういう感想になるのか、残念な意見も散見されますが、だるまどんこそ慈愛の象徴ですよ。
子供の為に、杵をつき、餅をこねて、それで天狗ちゃんみたいな鼻を作ってあげるなんて(・_・、)
これのどこが慈愛か分からない人も、人の子の親になれば分かります。
「子供の(理不尽な)お願い」に応えることが、いかに難しいか。
そして、『親』であり続けることが、どれほど難しいか。
今も、だるまどんを見る度に、親って、何? 優しさって、何? と問いかけずにいられないのです。