宮沢賢治『銀河鉄道の夜』と蠍の火 ~まことのみんなの幸のために

「どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください」
蠍の願いは燃えるような赤い星に昇華する。
慈愛と救済がぎゅっと凝縮された『銀河鉄道の夜』の名場面をアニメと併せて紹介。ブルカニロ博士の削除に関するコラムも掲載しています。

目次 🏃

作品の概要

銀河鉄道の夜(1924年~1931年)
宮沢賢治・作

ケンタウルス祭の夜、ジョバンニは「銀河ステーション」のアナウンスに導かれ、友人のカムパネルラと共に銀河鉄道に乗車する。
星の海を旅しながら、ジョバンニは様々な乗客に出会い、心を新たにする。
やがて、銀河鉄道は天上と言われる「サザンクロス(南十字)」に到着し、大半の乗客はそこで降車する。
車内にはジョバンニとカムパネルラだけが残され、「ほんとうのみんなのさいわい」のために共に歩むことを誓うが、、、

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銀河鉄道の夜 Kindle版
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蠍の火 ~まことのみんなの幸のために

アニメ『銀河鉄道の夜』(1985年)

本作は、1985年、アニメ映画『銀河鉄道の夜』(監督・杉井キザブロー / 原案・作画 ますむらひろし)として劇場公開されました。

銀河鉄道の夜 [DVD]

ジョバンニ役に日本を代表する声優・田中真弓さん、カムパネルラ役に坂本千夏さんを迎え、朗読劇としても非常に質の高い作品に仕上がっています。

また、音楽は当時人気絶頂だったYMOの細野晴臣氏が手がけ、宇宙的な広がりを感じさせるサウンドトラックにも定評があります。

観客のターゲットが、松本零士の名作『銀河鉄道999』に親しんだ世代であることから、ちょっと意識した作りになっていて、ラストは、鉄郎とメーテルの別れを連想して、涙した人も少なくないのではないでしょうか。

映画は原作に忠実に作られ、様々な乗客が登場しますが、とりわけ印象的なのが、『蠍の火』のエピソードです。

蠍の火

ジョバンニとカムパネルラは、鷲の停車場のあたりで、青年と幼い姉弟と出会います。

彼らは、大型客船に乗っていたが、氷山に衝突して沈み、気がつくと、銀河鉄道に乗り込んでいたのでした(沈没したタイタニック号のこと)。

姉の「かおる子」は、星座の蠍の火を見ながら、身体が焼けて死んだ蠍のエピソードについて話します。

むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。

するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。

さそりは一生けん命にげてにげたけど、とうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。

ああ、わたしはいままで、いくつのものの命をとったかわからない、

そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命ににげた。

それでもとうとうこんなになってしまった。

ああなんにもあてにならない。

どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。

そしたらいたちも一日生きのびたろうに。

どうか神さま。私の心をごらんください、

こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください

って言ったというの。

そうしたらいつか蠍はじぶんのからだが、まっ赤なうつうくしい火になって、よるのやみを照らしているのを見たって。

この場面の声の演技も素晴らしく、一部、演出でエコーがかかっているのが残念なほど。

声優は、中原香織さん。

細野晴臣さんの音楽も素晴らしいです。

まことのみんなの幸のために

蠍の火のエピソードで語られる、『こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください』という言葉が、本作の主題となっています。

最後に乗客らが向かう『南十字星(サザンクロス)』が、イエス・キリストの十字架を想起させるように、本作では、宗教的な愛と犠牲が根幹にあります。

仏教やキリスト教がそうであるように、宗教的な愛は、男女の愛や人間愛を遙かに超えて、全てを包容する、究極の愛です。

男女の愛や人間愛は、個人の幸福を願いますが、宗教的な愛は、人類全体の幸福を理想とします。

全人類の罪をあがなう為に、十字架に架けられたイエスがそうであるように、いざという時、自分の身を犠牲にしても、別の命を救おうとする、思いやりと慈しみの心こそ、地上に本当の幸福をもたらすわけですね。

それがいかに難しいかは、皆さん自身が一番ご存じでしょう。

多くは、蠍のように、自分だけが損するのはイヤだ、ただで身を捧げるなど、とんでもない、という人が圧倒多数でしょう。

でも、そうして、個々が自分の事しか考えなくなったら、地上は我利我利亡者の争いになり、平和や幸福からは大きくかけ離れます。

世の中には、眠いのを我慢して働く人や、電車の席を譲るような人がいるから、平和が保たれているのであって、そうした思いやりや慈しみの気持ちが失われたら、この世は地獄のように殺伐とした世界になるでしょう。

ジョバンニとカムパネルラも、様々な人との出会いを通して、ほんとうの幸せは何かを考えます。

自分を犠牲にして、他人を助けることは、とても損に思うかもしれませんが、他人を救うことによって、自分もまことの命を得ます。

人間としての尊厳や誇りです。

与えることで、自分も与えられ、一つの捧げられた命は、二つにも、三つにも、広がっていくのです。

平素はなかなか出来なくても、時には「まことのみんなの幸」を思い起こし、ちょっとばかり隣人に手を差し伸べるだけで、世界はずいぶん暮らしやすくなるのではないでしょうか。

わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です

アニメのエンディングで語られる、「わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」は宮沢賢治の『春と修羅』の序文です。

全文は、『春と修羅』 関連草稿一覧でも紹介されています。

「わたくしといふ現象は~」の序文はこちら。

有名な「わたくしといふ現象は ~~ひとつの青い照明です」の一節だけ読んでも、意味は分からないと思います。

何故なら、答えは次の節に書いてあるから。

上記のサイトで詳しく紹介されているので、ぜひ、序文の全文を読んでみてください。

アニメのエンディングは、常田富士夫の詩の朗読が素晴らしいです。

『春と修羅』は、青空文庫でも無料で公開されています

Kindleストアでも無料公開されています。『春と修羅 Kindle版』。

ますむら ひろしのコミック

アニメのキャラクターデザインを手がけた、ますむら ひろし氏のコミックです。

近年、小学生向けのまんが本もリリースされていますが、宮澤賢治の世界観をファンタジックに味わいたいなら、ますむら氏の猫絵がおすすめ。

1985年版のアニメを見たことがない世代には、違和感があるかもしれませんが、私はむしろ、擬人化することで、作品のもつ悲劇性を中和し、少年たちの友情や感動をまろやかに表現しているように感じます。

Kindel版もあるので、興味のある方はぜひ。ストアで試し読みもできます。

銀河鉄道の夜 ますむらひろし賢治シリーズ (扶桑社BOOKS文庫) Kindle版
銀河鉄道の夜 ますむらひろし賢治シリーズ (扶桑社BOOKS文庫) Kindle版

サウンドトラック盤

本作は、細野晴臣氏のサウンドトラックも素晴らしいです。

特に、カムパネルラとの別れの場面は、一度聞いたら忘れられません。

いわゆる「泣かせる音楽」ではなく、遠い幻夢を音にしたような、個性的なサウンドです。

銀河鉄道の夜・特別版
銀河鉄道の夜・特別版

全曲、Spotifyで視聴できますので、興味のある方は、ぜひ。

仕事・勉強用BGMとしても最適です。

また、元NHKフリーアナウンサー、永吏子さんによる朗読も無料で視聴できますので、読むのがしんどい方はYouTubeもでの耳読書もおすすめです。

【コラム】 利己主義の限界

利己主義というのは、案外、長続きしないものです。

いつの時代も、「自分らしく生きる」とか「一人でも生きられる」といったキャッチコピーがもてはやされますが、何でも自分の思い通りにできて、パラダイスのように感じるのは最初だけ。

そんな自分勝手な世界は、いつか飽きるし、虚しくもなります。

この社会に身を置いて生きる限り、己のことだけ考えて生きていくことなど不可能だからです。

社会と断絶している人でさえ、ネットなどを通して、常に他者を意識しています。

他者の存在を意識するから、孤独に感じるし、落伍感もひとしおなのです。

本当に幸せに生きていくなら、他者と関わりながら、共に幸せを築き上げるしかありません。

一見、面倒で、煩わしいことが、実は幸福への最短切符なのです。

蠍は井戸の中で息を引き取る前、こうつぶやきます。

「どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらんください、こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください」

蠍と同じ気持ちを、私たちは本能的にもっています。

そうでなければ、社会も、人類という種も、戦争や飢饉によって、とっくの昔に滅びています。

人は人を助け、愛そうとする本能があるから、自分一人で生きていると、胸が苦しくなって、不幸に感じてしまうのです。

この世に生まれて、誰も愛さず、誰の役にも立たなかった、という思い出ほど虚しいものはありません。

私たちは、心の奥底では、いつだって、誰かの役に立ちたい、自分自身を他の何かに捧げたいと願っているものです。

後悔という業火で焼かれた蠍の魂は、神に赦されて、赤々と輝く星座になりました。

蠍の願いは、夜を彷徨う旅人たちの灯火となり、世界で最も美しい南の空へと誘っています。

Sarımsaklı'dan Akrep Takımyıldızı. Karşıdaki ışıklar Midilli Adası'ndan

ブルカニロ博士はなぜ削除されたのか

広く知られたように、宮沢賢治は数回にわたって大きな手を加え、初稿には詳しく記述されていた『ブルカニロ博士』のエピソードも最終敲ではごっそり消えています。

なぜ宮沢賢治はブルカニロ博士のエピソードを削除したのか、様々な説がありますが、作家の視点で考えれば、「作家自身がテーマについて語るものではない」という原理原則に立ち返ったからではないでしょうか。

恐らく、宮澤賢治も、最初のうちはブルカニロ博士について、気合いを入れて描写し、自分でもその出来映えに満足していたと思います。

しかし、時が経ち、初期の熱狂も冷めて、一人の読者として自作を見直した時、「サブキャラに、本作の心髄を直球で語らせていいのか」と違和感を覚えたのでしょう。

私も、初期のブルカニロ博士編と、ブルカニロ博士が削除された最終稿を見比べた時、「くどい」と感じました。

ブルカニロ博士は登場せず、全ての出来事がジョバンニとカムパネルラの中で完結する最終稿の方がはるかにドラマチックで、分かりやすいです。

ブルカニロ博士が表に出て、教え諭さなくても、彼らに何が起こったのか、読者には一目瞭然だからです。(カムパネルラの学びも含めて)

たとえば、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、カンダタが「降りろ、降りろ。この蜘蛛の糸はオレのものだ」と叫んだ途端、糸はぷつりと切れて、地獄に真っ逆さまに落ちてしまいます。

なぜ、蜘蛛の糸が切れたのか、文中にはいっさい説明はありませんが、お釈迦さまが前に出て解説しなくても、読者には理解できます。

極楽の池の水面を悲しそうに見詰めて、黙って立ち去るからこそ、文学としての余韻もひとしおではないでしょうか。

悲しい別れの後、ブルカニロ博士はジョバンニに言います。

「おまえはいったい何を泣いているの。ちょっとこっちをごらん」

いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。

≪中略≫

「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」

「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」

「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょにリンゴを食べたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」

1987年改版50版 角川文庫

こうした描写は、最終稿には存在しません。

カムパネルラと別れたジョバンニが泣き叫び、はたと気付くと、草むらに横たわっていて、夢でも見ていたみたいに、現実に戻って来ます。

そして、牛乳屋さんに立ち寄り、家に帰ろうとした時、町が大騒ぎになっていて、カムパネルラがザネリを助けようとして川で溺れたことを知るわけですね。

その後、カムパネルラのお父さんと幾つか言葉を交わしますが、彼らの身に何が起きたのか、言わずもがなです。

ジョバンニが何を感じ、銀河鉄道の出来事をどのように受け止めたのか、詳しい説明もありません。

しかし、読者には分かります。

あの旅が何を意味して、カムパネルラが何所へ行ったのか。

そして、それがジョバンニの学びであり、作者が第三者的なキャラを通して、くどくど説明しないからこそ、ファンタジーとしての醍醐味が際立つんですね。

現代小説に馴れた人には、それぞれのエピソードが何を意味するのか分からず、「銀河鉄道の夜 ネタバレ」「銀河鉄道の夜 解説 分かりやすく」で検索して、やっと納得するのかもしれませんが、少なくとも、宮澤賢治の時代は、個々の中でイメージを膨らませるものであったし、真っ当な読者感覚があればこそ、くどくど余計なブルカニロ博士の解説をごっそり削除したのだと思います。

それはそれで、美しいエピソードではありますが、物語の主人公はあくまでジョバンニであり、ジョバンニ以外のキャラが、ジョバンニの学びを代弁するものではありません。

また、ジョバンニの学び(解釈)が未熟であったとしても、それはそれ。

少年ジョバンニもいずれ大きくなり、自分の身に起きた事の意味を理解するでしょう。

そのように、若い読者も、

銀河鉄道とは何なのか。

カムパネルラは何所へ行ったのか。

最初は分からなくていいのです。

ジョバンニがそうであるように、大人になるにつれ、「こうかな?」と解釈を広げていけばいい。

それが宮沢文学の本質であり、主人公が少年である所以でしょう。

ゆえに、物語の終盤に、知の巨人みたいなキャラが出てきて、ああだこうだと教え諭すのは余計なお世話だし、たとえそのキャラに強い思い入れがあったとしても、ばっさり削るのが天才作家というものです。

校了の熱から冷めて、次第に理性を取り戻した宮沢賢治が、ブルカニロ博士をばっさり削除したのは英断です。

誰かにこっそり教えたい 👂
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