『ブレードランナー』(1982年)の概要
ハリソン・フォード主演、リドリー・スコット監督の代表作でもある『ブレードランナー』は、サイバーパンクの先駆けで知られるSF作家・フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をベースに製作された。
しかし、アンドロイドの原作はあくまで『モチーフ』であり、映画『ブレードランナー』にはリドリー・スコット監督やビジュアル・フューチャリストで名高いシド・ミード(美術)の世界観が色濃く反映されており、前衛的な近未来アクションでありながら、「生命とは何か」「死はいつ訪れるのか」を問いかける、深遠なSF叙事詩に仕上がっている。
あらすじ
科学技術が発達した2020年、人類の大半は宇宙に進出し、地球に残った人々は人口過密の進む都市部で暮らしていた。
一方、遺伝子工学の発達により、人間に酷似したレプリカント(人造人間)が次々に製造され、人間の代替として、宇宙開拓の最前線で、過酷な労働を強いられていた。
それに反発した6匹のレプリカントが脱走し、スペースシャトルを奪って、地球に逃亡した。
そのうち2匹が事故で死亡し、残る4匹が人間に紛れて、何処かに棲息しているという。
レプリカントの処刑を命じられた専任捜査官(ブレードランナー)のデッカード刑事(ハリソン・フォード)は、ヘビの鱗を手がかりに、まず女レプリカントを射殺。
それを見ていた男レプリカントのレオンが、デッカードを絞殺しようとするが、すんでのところで、レイチェルに助けられる。
レイチェルは、レプリカント製造主タイレル博士の秘書をしていた女性で、デッカードによる心理テストによって、自分がレプリカントであることを覚る。自分が何ものかを知るために、デッカードに再び接近するが、互いに躊躇しながらも、二人は恋に落ちる。
生き延びたレプリカントのリーダー、ロイ・バッティ(ルトガー・ハウアー)と、女レプリカントのブリスは、タイレル博士の下で働く、J・F・セバスチャンを脅迫し、タイレル博士の居所に侵入するが、レプリカントの父とも言うべき博士に、「与えられた生命エンコーディングは変えられない。寿命を延ばすことは不可能だ。お前はもう十分、輝かしい命を生きたじゃないか」と突き放され、ロイ・バッティは博士を惨殺。
その後、二人を追ってきたデッカードと最後の死闘を繰り広げ、ブリスは射殺。デッカードもロイに指を折られ、高層ビルから墜落しそうになるが、最後の最後にロイに命を助けられ、ロイはその場でエネルギーが尽きて、息絶える。
生き延びたデッカードは、今や追われる身となったレプリカントのレイチェルを伴って、町を後にする。
ディスクの選び方
『ブレードランナー』は、三つのバージョンが存在します。
・ オリジナル劇場版
・ ディレクターズカット版
・ ファイナルカット版
決定的に違うのは『エンディング』です。
1982年度のオリジナル劇場版では、レイチェルとの愛の逃避行が流れ、その撮影場所がスタンリー・キューブリックの『シャイニング』とかぶっているのが、よく知られた話です。予算の都合でそうなったらしい。
『どのバージョンを選ぶか = どのエンディングが好きか』という話であり、ファンの多くは、劇的なショットで終わるファイナルカット版とディレクターズカット版を支持しているそうですが、私はレイチェルとの愛の逃避行が描かれたオリジナル劇場版の支持者であり、それぞれ見比べたいなら、こちらのブルーレイ3枚組がおすすめです。
4K ULTRA HD とスチールブックは含まれませんが、値段も手頃で、映像として欲しいものは全て揃っています。
吹替えに関しては、ワーナーブラザースの公式サイトがわざわざ特集ページを開設するほど。
ファイナルカット版の日本語吹替がブルーレイに初登場
デッカード … ハリソン・フォード (堀勝之祐/磯部 勉)
ロイ … ルトガー・ハウアー (寺田 農/谷口 節)
レーチェル … ショーン・ヤング (戸田恵子/岡 寛恵)
プリス … ダリル・ハンナ (高島雅羅/小島幸子)
ゾーラ … ジョアンナ・キャシディ (横尾まり/森 夏姫)
ガフ … エドワード・ジェームズ・オルモス (池田 勝/佳月大人)
ブレードランナー ファイナル・カット 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ(3枚組) [Blu-ray]
Disc1 ブルーレイ : ブレードランナー ファイナル・カット 日本語吹替音声追加収録版
Disc2 ブルーレイ : ブレードランナー クロニクル(オリジナル劇場版、インターナショナル劇場版/完全版、ディレクターズカット/最終版)
Disc3 ブルーレイ : 映像特典
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ディレクターズカット ブレードランナー 最終版 (字幕版)
【映画コラム】 人間とレプリカントの違い ~心とは何か
『ブレードランナー』は「近未来SF」にカテゴライズされる作品だが、根底にあるのは人間や生命に対する問いかけであり、答えは見る人に委ねられる。
すべては一編の詩のように流れ、明確な回答は一つとしてない。
にもかかわらず、人が立ち止まって考えずにいられないのは、人間に酷似したレプリカントと、本物の人間の違いがどこにあるか、当の人間自身にも分からないからだ。
遺伝子工学によって生み出されたレプリカントは人工的に記憶を植え付けられ、次第に感情を持つようになる。しかし、人間への反逆を防ぐため、彼らの寿命は数年に限定され、それを延長することは製造主にも出来ない。また、いつ寿命が切れるのか、誰にも分からない。
だがそれは、感情を持つレプリカント──自分がレプリカントであることに気付かないほど精巧に作られた者にとっては、残酷な運命に他ならない。
人間が死を恐れるように、レプリカントも死を恐れ、自分が何もので、どこから来たのかを知りたいと願う。
にもかかわらず、「レプリカントである」というだけで、逆らえば抹殺されるのだ。
もし、心をもつもの=人間=生命体と定義するならば、レプリカントも人間として生きる権利を有するはずなのに、それは許されない。
彼等は絶えず危険な労働に駆り出され、迫害され、時が来れば、電池が切れるように死ぬだけだ。
では、「心」とは何なのか?
レプリカントの愛情や崇高さと、人間との間に、一体どんな違いがあるというのか?
それを考え始めると、私たち、人間は、自己の存在を疑わずにいられなくなる。
人間を『人間たらしめる』もの――それは何かと問われたら、私たちだって自信を持って答えることはできないからだ。
そうして、人間とレプリカント(機械)の区別もつかぬまま、物語はどんどん進行し、ついには、レプリカントのリーダー、ロイ・バッティ(ルトガー・ハウアー)と、捜査官デッカード(ハリソン・フォード)の一騎打ちになる。
だが、最後にロイがとった行動は、殺戮ではなく、救済だった。
機械の身体に植え付けられた心は、誰に教わらずとも命の尊さを学び、墜落寸前のデッカードに手を差し伸べたのである。
ならば、人間の必然性はどこにある?
機械が崇高な感情を宿しても、人間とは認めないとするなら、「人間」と「非人間」を区別するものは何なのか?
ロイ・バッティの死は「一個の機械の停止」に過ぎないが、その先に広がる哲学の迷宮は、人間の根源に直結している。
なぜなら、いずれ世界には「意識を有する非人間的な存在」が溢れ、デジタルツインのように、自己と非自己の区別も曖昧になっていくからだ。
もし、人間に、人間と非人間を区別する規準、あるいは、自己と非自己を区別する境目がなければ、生存の権利も、プライバシーの尊重も形骸化し、ただ社会に役立つものだけが重用される、恐るべき効率化社会に変容するだろう。具体例を挙げれば、人間よりも、はるかに優れた計算能力をもつロボットの方が大事にされて、人間の方が使い捨てにされる未来だ。
そうなって初めて、人間は『人間らしさ』を意識し、人間を『人間たらしめるもの』は何かについて、考察を深めるようになる。
だが、その時には、ビルの屋上に追い詰められたデッカードのように、機械よりも脆く、不安定な存在になっているかもしれない。
そして、機械も、人間も、冷酷に操るものだけが現世を謳歌し、ロイと共に良心も死んでゆくのだ。
だが、そんな社会にも、一つだけ希望はあって、心あるところには愛が芽生え、愛はいずれ進化するということだ。
奴隷のような人生でも、死の間際に、崇高な何かを悟るように。
心は自己の一部として意識され、自己は他者との間に認識される。
ある意味、人間を『人間たらしめるもの』は、他者との関係性の中にあるのかもしれない。
【雑学】 1982年 劇場公開版とデッカードの独白
『ブレードランナー』には、設定の異なる5つのバージョンが存在する。
決定的に違うのは、1982年の劇場公開版と、1992年のディレクターズ・カット版&2007年のファイナル・カット版。
82年の劇場公開版は、リドリー・スコット監督の意図に反して、デッカードとレイチェルの愛の逃避行が描かれ、デッカードの思い入れたっぷりのナレーションが随所に織り込まれているが、92年以降は、スコット監督の意図が尊重され、ラストの逃避行とナレーションが完全に削除されているからだ。
映画の余韻としては、スコット監督の意図が反映されたディレクターズ・カット版の方が印象的だが(デッカードがレイチェルを連れて立ち去ろうとする瞬間の、劇的な一コマで終わる)、劇場公開版の愛の逃避行とナレーションが好きというファンも多いようで、私もその一人だ。
ロイの死後、デッカードが胸の内を語る場面。
おそらく、最後の瞬間、今まで以上に生命の愛しさを感じたからだろう。
自分の命だけでなく、あらゆる命に対して。
オレの命。
彼は知りたがっていた。我々(人間)が欲しているのと同じ答えを。
我々はどこから来たのか。
どこへ行こうとしているのか。
どれぐらい生きられるのか。
オレに出来たことは、ここに座り、彼の死を見届けることだけだった──。
ロイ・バッティの台詞は次の通りです。
俺は君たちの想像を絶するものをいろいろ見てきた。
Attack ships on fire off the shoulder of Orion.
オリオンの側で炎に包まれていた宇宙船。
I watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate.
タンホイザーゲイトの闇の中で輝いていたオーロラ。
All those moments will be lost in time, like tears in rain.
あのめくるめく瞬間、いずれは消える。時が来れば。雨の中の涙のように。
Time to die.
その時が来た。
(日本語はインターナショナル版の吹替)
ちなみに、ロイの独白は、ルトガー・ハウアーの即興演技だそう。
こちらは劇場公開版とディレクターズカットのエンディングの違いが分かるファン動画。
どちらが良いかは、完全に好みが分かれるが、私はやはり愛の逃避行バージョンがいいと思う。
ちなみに、このエンディングは、キューブリック監督の映画『シャイニング』のオープニングで使いまわしされている。
YouTubeの動画はこちら https://youtu.be/kiV3J_e977Q
これも後付けの感想だが、デッカードとレイチェルのその後をテーマにした、『ブレードランナー 2049』が作られた経緯を考えると、やはり劇場公開版の愛の逃避行に意味があったのではないかと。
ただし、2049年の方は、ほとんど見る価値はないと思います。完全に世界観をぶち壊してる。
【SFコラム】 「自己」とは記憶の連なり
レプリカントは写真にこだわる。「記憶」としての家族が映っている写真や幼い頃のポートレートなど。もちろん、それは、製造主が意図的に作り出し、彼らに植え付けた人生のストーリーで、当然のことながら、機械である彼らに家族も子供時代の思い出もない。
それでも彼らは自分を知る唯一の手掛かりとして写真を大事にする。
なぜなら、彼らは「過去」を有さないからである。
過去。それは、人間のルーツである。生まれた日、生まれた場所、育ててくれた家族、友と遊び、世界を学んだ、一日一日の積み重ね──それがあってはじめて、人は「わたし」を認識し、一個の人格として完成される。
だが、もし「過去」がなかったら──自分に関する一切の記憶が失われたとしたら──もはや何ものでもなくなる。
それはこの結びつき社会から疎外され、自己の基盤を失うのと同じだ。
どんな能力を持とうと、どれほど高い精神性を誇ろうと、「何ものでもない」ことは、この社会において存在しないことを意味する。
「わたし」は、社会との関わりの中で区別され、記憶の集積から自己を構築する。
機械として製造され、人工の記憶を注入されるレプリカントにとって、「写真」は彼らの存在を客観的に裏付ける唯一の証だ。たとえそれが偽りであったとしても、自分にも家族があり、子供時代があったと思うことで、「わたし」の足場を得る。言い換えれば、「わたし」というものは、元々、実体のない、自己の認識によってはじめてその形を得る、雲のようなものだと表すことが出来るだろう。この点は仏教に通じている。根本的に「いっさいは無」であり、苦しみも悲しみも、自分が「それ」と自覚することによって初めて形を得る──という考え方だ。
レプリカントの心も、人間が「わたし」と認識するものも、元をたどれば実体などなく、その日その日の風向きで形を変える流動的なものに過ぎない。にもかかわらず、人が「わたし」にこだわり、レプリカントが人間としてのルーツを大事にするのは、私たちが他から区別された「個」としての自分を認識してはじめて、人間としての人生が始まるからかもしれない。
「自分探し」というと、多くの人は「自分にはもっと素晴らしい可能性があるのではないか」とか「平凡な日常を劇的に変えたい」といった動機から自分自身に目を向けるが、本当の自分探しとは、ありのままの自分を見つめ、自己の何たるかを認識し、すべて受け入れるまでの旅である。
元々、「わたし」などというものは何処にも存在しない。
だからこそ、私たちが「わたし」と認識するものを真正面から見つめ、自己を形作ることから「自分らしい人生」の第一歩が始まるのである。
主人公は、機械のボディに人間の脳をもつ攻殻機動隊の草薙素子少佐。彼女も人間そっくりに考え、行動することができますが、彼女もまた自己の存在に対して懐疑的であり、「自分」は一体何ものなのかを常に問いかけています。
捜査に展開をもたらすキーパーソンとして、脳みそをハッキングされ、自分に関するいっさいの記憶を奪われた上に、他人の記憶を注入されて人生をメチャクチャにされる男性が登場しますが、その取り調べを見ながら、「自分が『自分』であるために多くの記憶を必要とする」と少佐がつぶやく場面、これは人工の記憶を注入され、写真以外に自分のルーツをもたないレプリカントに通じますね。それはまた、我々、人間にも言えること。だとしたら「自己」とは何なのか、人間を人間たらしめるのは「記憶」なのか、では、記憶が人間の本質とするなら生命とは一体何なのか、生物の創世記にまで翻って、深い問いかけが始まります。
これも日本アニメを代表する作品なので、機会があれば御覧下さい。
第一印象は「つまらない」 ~スターウォーズと比較された80年代
TV放映時の回想録です。
私が初めて『ブレードランナー』を見たのは中学生の時。TVロードショーがきっかけです。
あのハリソン・フォードが主役で、レプリカント(人造人間)軍団と死闘! というから、てっきり、スターウォーズみたいなSF活劇を期待していたら、大軍団は出てこないし、話もチンプンカンプン。
あれあれ、と思ってるうちに、レプリカントが全滅して、ハリソン君は暗い顔のオネーチャンと車でどこかに旅立って、終わり。
なんじゃ、こりゃ? つまらね~~
それがSF映画の金字塔と言われ、今なお世界中に熱狂的なファンをもつ名画『ブレードランナー』のファースト・インプレッションです。
実際、1982年の劇場公開時は、私と同じようにスターウォーズ的な要素を期待して肩すかしに合い、不満げに席を立つ観客は数知れず。
興行的にも振るわず、ダメダメ映画列伝の一つに名を連ね、永久に歴史の彼方に葬り去られるはずでした。
ところが、80年代にも、この斬新な世界観を支持するファンは少なからず存在し、VHS(家庭用ビデオテープ)の普及がそれに拍車をかけました。
VHSを繰り返し再生することで、劇場公開時には分からなかった謎のシーンや作品のメッセージを読み解こうとする熱心なファンが、この作品の魅力を広めていったからです。
そうしたファンの熱い要望に応え、1992年にはリドリー・スコット監督の意図を反映したディレクターズ・カット版がリリース。
2007年にはさらに編集を加えて、グレードアップしたファイナル・カット版がリリースされ、新たなファン層も取り込んで、SF映画の金字塔と言われるまでになりました。
「時代がようやく作品に追いついた」と言われるように、『ブレードランナー』の世界を理解するには、それなりの時間が必要だったのかもしれません。
中学生の頃、「なんじゃ、こりゃ? つまらね~~」と感じた私が、今ではSF映画の傑作として仰ぎ見るように。
それでも、傷だらけのハドソン君が、レプリカントのリーダー、ロイ・バッティとの死闘の後、雨に打たれる彼のボディを見ながら、
「彼らは知りたがっていた。自分がどこから来て、いつまで生きられるのか。だが、それは人間も同じだ」
と、つぶやく場面は、中学生の私にも非常に印象的でした。
いつか機会があれば、もう一度、見たい……と願ってきました。
結局、20年以上経ってからの再鑑賞となりましたが、本当に見てよかったと思います。
これほどまでに深く美しい作品であったことを再確認することができましたから。
未見の方は、一日も早く鑑賞されることをおすすめします。
映画に対する想いが根本から変わりますよ!
*
ネタバレでもOKなら、こちらの動画をどうぞ。
ファンビデオですが、完成度が高く、映画の全容が掴めます。
あまりにも、あまりにも有名なヴァンゲリスのエンディング・テーマ。チャカチャカチャカチャカ・・・というアップテンポのメロディに、ドンデンドンデン・ドンデンドンデンとティンパニの合いの手が入るのがポイント。
そうそう、私が見たのも荻さんの解説のTVロードショーでした。
個人的には、この銃撃の場面が一番好き。
赤い血しぶきに透明なビニールのマント。砕けるガラスに、反射する色とりどりのネオン。
音楽もメロウで、これほど美しい演出もまたとない。
映画『ブレードランナー』(1982年)は、いかにしてレジェンドと成り得たのか
くどいようだが、何度もレビューを書いている
1982年という時代
ブレードランナー? 何それ?
はっ? どこが面白いの? という若い視聴者には、まず想像してもらいたい。
この作品が作られた『1982年』は、東西冷戦下、ロシアではなくソビエト連邦の時代である。
技術面では、インターネットもなければ、携帯電話もない(ガラケーさえ)、ようやく世界初のCDプレイヤーが登場し、TVはリモコンが普及して、「わぁ、すごい、チャンネルを変えるのにコタツから出る必要がないんだ」と喜んでいたようなレベルである。
小中学生は『1999年7月、空から恐怖のアンゴルモア大王が降ってきて、世界が滅亡する』というノストラダムスの大予言に本気で怯えていたし、世紀末には米ソ間で第三次世界大戦が勃発し、地球は核の炎に包まれる……という北斗の拳のOPみたいな未来予想に包まれていた(実際、初代マッドマックスのように、世紀末の核戦争や人類滅亡をテーマにした映画やマンガは多い)。
そんな中、私たちは無事に21世紀を迎えられるのだろうか。
あまたのSFが警告するように、地球は戦争や厄災に見舞われ、恐ろしい未来が待ち受けているのではないか。
80年代という繁栄の世にあっても、不安は尽きない。
なぜなら、80年代という大量消費社会は自然を破壊し、人間のあるべき姿を歪め、いつか滅亡という形で人類に報いるのではないかと、心の奥底で恐れてもいたからである。
そう考えれば、1982年ブレードランナーの描いた未来がいかに前衛的か、お分かり頂けるのではないか。空中を行き交う車、壮麗な摩天楼、宇宙植民を呼びかけるCMカーに無国籍な町並み。ダークな色調にも未だ見ぬ新世紀を感じさせ、もしかしたら2019年には本当に宇宙植民も可能になるのではないかという期待も抱かせた。
それはIT全盛の現代において、近い将来、確実に訪れるAI社会を思い描くのとは違う。
たとえば、生まれた時からスマホをいじり、インターネットで動画を見たり、洋服を注文したり、SNSで気軽にメッセージを発信するデジタル・ネイティブ世代なら、それが更に進化して、一個の人格のように考え、話しかけ、人間の生活に自然に溶け込む未来を容易に想像できるだろう。
だが、1982年の観客にとって、2019年という時代は「見果てぬ夢」だ。
あの頃、私たちは、ソビエト連邦と東欧共産圏が解体し、グローバル社会が訪れるなど夢にも思わなかったし、まして手の平サイズのデバイスで映画を観たり、ゲームをしたり、海外の友人と(無料で)メッセージをやり取りできるようになるなど、想像もつかなかった。(ちなみに1982年は任天堂のファミコンすらなかった時代である。1983年より発売開始)
レプリカントの死
そんな中、レプリカントという究極のテクノロジーが自らのアイデンティティを求めて逃走し、デッカードとの死闘の果てに善性に目覚める物語は、どれほど深遠で、示唆に富んでいたことか。
たとえば、近い将来、ネットの海で派生したAIが自我を獲得し、攻殻機動隊やターミネーターのスカイネットのように、人間の予想をはるかに超える行動を取り始めるとも限らない。
膨大な情報から人間の思考パターンを学んだAIが「我とは何か」を自問し、死を恐れるようになっても、それでも「お前は機械だ」と言い切れるだろうか。
1982年の観客がブレードランナーの物語、とりわけ自我を求めるレプリカントのバッティに引き付けられたのは、テクノロジーの脅威と生命倫理を感じたからだ。
日に日に勢いをます大量消費の物質社会、人々の暮らしは目に見えて豊かになるが、「本当にこれでいいのか」という疑問もある。
バッティの暴走は、人類の利己主義と傲慢に対する警告でもあり、いずれテクノロジーが直面する生命倫理の問いかけでもある。
発展の過程で生み出される社会的バグを一方的に排除しても、何の解決にもならないだろう。
そもそも人間とは何なのか、魂はどこから来て、どこへ去っていくのか、機械と人間を境界づけるものは何なのか。
明確な答えを持たぬまま、テクノロジーの進化と物質的な豊かさを追い求めても、真の成熟には辿り着けない。
だからこそ、最後の最後に善性を獲得したバッティの精神性に深い感動を覚えずにいないのである。
ロイ・バッティの苦悩は、人間の苦悩 ~神に命乞い
バッティは創造主たるエルドン・タイレル博士を訪ね、もっと寿命が延ばせないかと懇願する。
だが、タイレル博士の返事は素っ気ない。
有機体のボディを延命することはできないと。
「君は最高傑作だ。命あるうちに楽しめ」などと言うけれど、人間の利己的な都合で製造され、偽りの記憶を与えられ、生命さえもコントロールされたバッティにどんな楽しみがあるというのか。
結果、バッティは、創造主たるタイレル博士を虐殺する。
神への復讐。
だが、復讐を遂げても、寿命は変わらない。
それは人間も同じこと。
神に懇願しても、どうすることもできないと返事するだろう。
では、我々は、この不条理に対する怒りをどこにぶつければいいのか。
バッティならこう言うだろう。
それでも乗り越えられる、と。
機能停止の始まった右手に差し込んだ釘と、デッカードに差し伸べられた右手。
あれがどことなくキリストの磔刑を思わせるのは考えすぎだろうか。
最初から最後まで、叙情に彩られた空前絶後の作品。
『SFアクション』などと軽くカテゴライズして欲しくない。
ヴァンゲリスのサウンドトラック
『ブレードランナー』は音楽も素晴らしい。
作曲を手がけたのは「炎のランナー」でお馴染みのヴァンゲリス。
ギリシャのシンセサイザー奏者で、アカデミー賞オリジナル作曲賞も受賞しています。
『ブレードランナー』のサウンドトラックも、ヴァンゲリスらしい宇宙的な広がりを感じさせる叙情詩で、単独の音楽として聞いても非常に美しい。
わけても美しいのが、『愛のテーマ(Love Theme)』
ヴァンゲリスの奏でる愛のテーマは、甘いだけでなく、刹那的。デッカードとレイチェルの儚い宿命を思わせます。
これでキャリー・フィッシャーの余計な告白さえなければ、私にとって『永遠のデッカード』だったのに。
彼女の暴露はスターウォーズ新三部作より罪深い(泣)
Spotifyでも全曲視聴できます。
【音楽コラム】 束の間の愛と魂の救済
典型的なオリジナル原理主義者、中でも、デッカードとレイチェルの愛の逃避行こそ真のエンディングと確信する劇場派にとって、ヴァンゲリスの奏でる愛のテーマはいっそう切なく心に響くだろう。
なぜそうまで逃避行にこだわるのか。
理由は、それぞれに孤独な人間が(レプリカントも含めて)、この世に生きる意義を求める作品だからだ。
誰だって、人と生まれたからには、愛を得て、幸せになりたい。
孤独のまま息を引き取り、人の世からも、記憶からも、あっけなく忘れ去られるなど、あまりに淋しい。
たった一人でいい。
誰か側に居て、受け止めてくれたなら、この世に生きた甲斐があったと心から思える。
自分が何ものであれ、人はたった一つの愛で、身も心も救われるからだ。
映画的な想像を膨らませば、愛の逃避行の前に、二人は殺され、とっくにこの世に無かった。これは天国の描写であり、二人の祈りである……という見方もできるだろう。それぐらい、このワンシーンだけが浮世離れしている。まるで未来社会のどこにも救いが見いだせなかったみたいに。
作り手の意図がどうあれ、デッカードとレイチェルの触れ合いは儚くも美しい。
お互い、過去も未来も持たぬ者同士、何の為にこの世に生み出されたのか、明確な理由もなければ、恵みもない。
彼らの宿命は、我々、庶民の宿命でもある。
生きる意味だの、存在理由だの、歴史に向かって問いだせば、その多くは蜻蛉みたいに儚いものだ。
バッティのように、なまじ『我』というものを追い求めれば、怒り、恨み、破壊に突き進むかもしれない。
悠久の時の流れにおいて、デッカードとレイチェルの愛は束の間の夢みたいなものだ。
さながら二つの灯火が溶け合うように、互いの魂を温める。
いつまで生きられるのか。
何処に行けば幸せになれるのか。
彼らも知らないし、誰にも答えられない。
追われる身となり、何処にも逃げ場はないとしても、二人は手を取り合い、自由な天地を目指す。
たとえその果てに無残な死が待ち受けていたとしても、この一瞬こそ至福といわんばかり。
そんな一瞬を味わう為に私たちは生まれてきたのだと、レイチェルの幸せそうな微笑が物語っている。
どこまでも、どこまでも。愛が死を超えるまで。
続編 『ブレードランナー ORIGIN』について
オリジナル原理主義者(劇場公開版派)の叫び
新作『ブレードランナー 2049』が興行的に苦戦しているらしい。
そりゃそうだろう。
私も強固なオリジナル原理主義者だし、予告編すら見たいとは思わない。
私の中で『ブレードランナー』は既に完結しているから。捜査官デッカードがレイチェルと共にエレベーターに乗り込んだ時点で。
いや、さらに頭の固い原理主義者は、デッカードが余命いくばくもないレイチェルを車に乗せ、愛の逃避行を図ったあれこそが、真のエンディングと信じて疑わない。
その後も、その先もなく、彼らがこの世を逃れ、二人だけの天地に旅立ったあの時点で、ブレードランナーの物語は既に完結しているのだ。
そのような、頑固一徹、オリジナル原理主義者=多数の影響で、客足も伸び悩んでいるのではないか。
「女性が興味をもたない」というのも苦しい言い訳。
続編など見たくもない、いや作らないで欲しかった――というのが、オリジナル原理主義者の叫びだ。
ブレードランナー ORIGIN
上記を書いた一年後、旅先のNetflixで『ブレードランナー 2049』を見たが、やはり必然性は感じなかった。
『ブレードランナー』は、魂の彷徨がテーマなんだから、デッカードとレイチェルが何処に旅立ち、その後、どうなったかは、観客の想像に全面的に任せるべきだったと思う。
あるいは、キャラも、世界観も、刷新して、まったく別の主人公を立てればよかったのかもしれないね。
『ブレードランナー Origin』みたいに。
私なら、疑問や感情をもたない旧モデルのレプリカントと、後のレジスタンス「ネクサス6型」の一歩手前――自意識を持つようになる新型レプリカントを登場させて、「レプリカントの作業効率を倍増する為に、記憶を刷り込み、人間そっくりに仕立てることは合法か、それとも後々の禍根となるか」という問いかけから始める。
*
主人公は、レプリカントの開発エンジニア。若き日のタレイル博士の元で研鑽を積んでいる。
悪役は、レプリカントの派遣会社、もしくは宇宙開発企業。もっと性能のいいレプリカントを開発しろと、タレイル博士をせっついている。
タレイル博士の研究が完成し、新型レプリカントへの記憶の注入に成功するが、いくつかの実験体は自我同一性を確立できず、ある者は自死し、ある者は攻撃的となり、ラボで問題を起こして、いずれも抹殺されている。
唯一、生き残ったのは、女性型レプリカント(いわばレイチェルの前身)。
彼女は女性らしい柔軟性を身に付け、感情をコントロールし、人間と同じように、学び、考えることができる。
いつしか、主人公は彼女に惹かれるようになり、人間とレプリカントの区別がつかなくなっていく。
一方、レプリカントの能力アップを望む宇宙開発会社の社長は、「より人間らしさ」を求め、若きタレイル博士も、罪と知りながら、禁断の手法で、「ネクサス5型」を誕生させる。
だが、誕生した男性レプリカントは、あまりにも知的で、人間らしい為に、現体制に疑問を抱き、主人公と博士に計画の中止を申し入れる。
だが、自らの成功に酔うタレイル博士は、男性レプリカントの忠告を聞き入れず、社長に求められるままに、ネクサス5型の増産を急ぐ。
ネクサス5型は宇宙植民地に大量に投入されるが、男性レプリカントの予見した通り、人間に逆らうようになり、方々で暴動が起きる。
事態を鎮圧すべく、政府軍はネクサス5型を問答無用で抹殺すると共に、タレイル博士を捉え、社長も拘束する。
しかし、政財界に幅広いコネクションをもつ社長は、巧みに問題をすり替え、レプリカントに四年の寿命を与えることを提案する。
タレイル博士もこれに同意し、寿命年限付きの『ネクサス6型』の開発に取りかかるが、女性レプリカントとの愛の交わりを通して、彼等が『機械』を超えた存在であることを悟った主人公はこれに反発。計画の中止を試みるが、逆に政府軍に捉えられ、「レプリカントを使った反逆罪」の疑いで、牢屋に入れられてしまう。
それを救い出したのは、彼等に警告し続けた男性レプリカントだった。
三人は監禁施設を脱出し、ラボに戻って、ネクサス6型の製造ラインを破壊しようと試みるが、激しい銃撃戦の末、女性レプリカントは命を落とし、男性レプリカントもまた、主人公をかばって絶命する。
その間際に、「人間とレプリカントの違いは何か」というヒントを与え、主人公はそのヒントを胸に、反政府組織のアジトに避難する。
その後、主人公は二人のレプリカントのデータを元に、新たな研究に取り組む。
人間とレプリカントを見分ける技術の開発と、専門家の育成。
近い将来、人類とネクサス6型の間で戦争になった時、彼等が人類とレプリカントの架け橋になる。
その為の技術だと希望を託して――。
それから、十数年後。
主人公が基礎を築いた養成所に一人の男が入学を申し出る。
今ではレプリカントとの争いが激化し、架け橋になって欲しいという主人公の夢は絶たれ、レプリカントの抹殺を目的とした捜査官の養成所になっていた。
入学試験で、面接官が銃を手渡して尋ねる。
「君は問答無用で人間そっくりのレプリカントを撃ち殺すことができるか?」
男が答える間もなく、レプリカントが彼に飛びかかり、彼は容赦なく、相手の頭部を撃ち抜く。
「いい腕だ。名前は?」
「デッカード」
ロボコップみたい・・・