イエスの言葉を聖なる教えとするなら、イソップ寓話は脈々と受け継がれてきた処世術のようなもの。
岩波文庫いわく『実は、歴史上の人物としてのイソップ(アイソーポス)が作ったと実証できる話はひとつもない、いわば「イソップ風」寓話集であるが、そこには、読み手の立場にょってさまざまな解釈が可能な、実に奥深い世界が展開されている』とあるように、表立っては言えない批判や不満を動物に擬人化し、この世を生き抜く知恵として語り伝えたのが始まりと思う。いわば、古代のけものフレンズ。暴君も、口うるさい隣人も、愚かな学者も、驢馬や狐に喩えておけば、罪はないから。
紀元前には文書化されたこれらの寓話が現代も色褪せず、様々な示唆を与えてくれるところを見ると、人間も社会も、年々進化しているようで、その実、まったく進化しておらず、同じ躓きの石の回りをぐるぐる廻っているだけという気がしないでもない。
そもそも、この社会を形作る最大の動機は利害であり、利害の尺度は永遠に変わることはない。なぜって、人は食べねばならないし、食べる為には、共同で作業し、均等に分かち合わねばならないからだ。それが数学的、あるいは良心的に淡々と遂行されればいいが、現実はそうはならない。欲の強い者はより多く欲しがるし、自分が生き残る為には他者を滅ぼしてでも生き残るからだ。
そうした動物的本性に対して、いなしたり、諭したり、理性ある者は様々な試みを繰り返すわけだが、いかんせん、動物的本能(欲望)の方がはるかに強いので、神童に物を言い聞かせるようなわけにいかない。
その結果、何所に行っても、誰と接しても、不満や誤解は免れず、一つの食べ物を前に、延々と譲る、譲らないの悶着を繰り返しているのが人の世といったところ。
これは科学や哲学の問題ではない。
わたしは空腹をどうすればいいのか、そして周りは何をしてくれるのか、という、実に単純な問いかけなのだ。
特に、強欲な者に対して、私たちはどのように共存すべきか、という問いかけが一番難しい。
イエス・キリストが口を酸っぱくしても、お釈迦さまが解りやすく説いても、自分だけは欲しい、もっと欲しいという、欲を鎮めるのは並々ならぬ困難で、なまじ善性に恵まれたら、「獣となるか、さもなくば潔い死か」みたいな究極の選択の狭間で生涯苦しむことになる。
そうした善き人々にとって、擬人化された驢馬や犬を揶揄するのは、ささやかな復讐であり、知恵の悦びだ。
なんせ相手は愚かな驢馬なので……誰のこと、とは言わないが……百回罵っても、罪にはならないだろう?
聖書や仏典を光の騎士とするならば、イソップ寓話は、さながらアングラといったところ。
愚かな驢馬の振る舞いを読みながら、決して口答えできない偉い人や、自分の知り合いの顔を思い浮かべ、「やっぱ、そうだよな」と溜飲を下げるのは、今に始まったことではないだろう。
イソップ寓話の『善と悪』にも、悪には毎日見舞われる悲劇が綴られているが、とかくこの世は難しく、残った一つのパンをどう分けるかという話になると、親兄弟でも諍うようになる。
それが生きていくこと――と言えば、まったくその通りだが、それだけで割り切れないのは、やはりすべての人は神の子(仏)であり、内に善性を秘めているからではなかろうか。――欲に押されて、めったに顔を出さないだけで。
善は急にはお目にかかれないが、悪には毎日見舞われるということ。
善は非力であったので、悪に追い立てられ、天に昇って行った。そしてゼウスに、人間のところに留まっているにはどうしたらよいかと尋ねたところ、皆一緒になって人間を訪ねるのではなく、一人一人で行くように、との答であった。
このため、悪は人間の近くにいて絶えず襲って来るが、善は天からゆっくりと降りて来るのだ。
これは人間の善性と獣性にも喩えることができる。
空腹の欲望は、時に、母の愛より強いのだ。
子どもと一緒に食べましょう♪ と取っておいた八つ橋を、一人でこっそり食べることもあるからね。