角川映画『復活の日』 あらすじと見どころ
復活の日 (1980年) - Virus
監督 : 深作欣二
主演 : 草刈正雄(南極観測隊員・吉住周三)、多岐川裕美(吉住の恋人・浅見則子)、オリヴィア・ハッセー(マリト ノルウェー隊の生き残り)、ジョージ・ケネディ(コンウェイ提督)
原作は、SF作家の小松左京。
あらすじ
激しい毒性をもつウイルス『MMー88』がマフィアによって盗み出された。だが、ウイルスを搭載した飛行機はアルプス上空で墜落事故を起こし、雪解けと共に、生物の大量死し、致死的な「イタリア風邪」が猛威を振るうようになる。
やがて人類の大半が死滅すると、米国大統領リチャードソンは南極観測基地の隊員らに人類存続の希望を託すが、米ソ冷戦の脅威に取り憑かれたガーランド将軍は自動報復システム(ASR)を起動し、ソ連からの報復ミサイルの一つは南極をターゲットにしていた。
システム停止する為、吉住(草刈正雄)と一部の有志がワシントンDCのホワイトハウスに向かうが、途中で大地震が発生し、システムも制御不能に陥る。
果たして、南極の人々は生き残り、吉住は人類救済することができるのか――。
見どころ
映画『復活の日』は、同名の小松左京のSF小説をベースに、1980年に製作されました。
殺人ウイルスと南極観測基地に取り残された人々の愛と勇気を描く本作は、『人間の証明』や『野生の証明』で立て続けに大成功を収め、飛ぶ鳥の勢いだった角川が、破格の予算を組み、外国海軍の協力を得てまで取り組んだにもかかわらず、興行的には今ひとつ振るわず、(私が聞いた話では、の強気な角川春樹に「もう二度とこんな映画は作らない」と言わしめた)、一種の失敗作でもあります。
最大の敗因は、80年代アイドル全盛期に、角川の看板である薬師丸ひろ子も原田知世も出演せず、ランボーみたいな派手なアクションもなく、人生に疲れたような中年俳優が人類滅亡だの、人生はスバラシイだの、暗い顔で語り合う話など、若者の心にまったく響かなかったからでしょう。
また好景気に沸く、イケイケの時代に、『人類滅亡』というテーマはあまりに重すぎた、という理由もあると思います。
それでも、コロナウイルスで世界が騒然とするずっと以前に、感染症による人類滅亡の恐怖をリアルに描き、隠蔽工作を図る軍部や責任逃れする政府、医薬品も手に入らず、家族や知人がバタバタと病に倒れ、パニックに陥る人々の姿を浮き彫りにした本作は、現代でも十分に通用する社会ドラマであり、若かりし頃の草刈正雄と、ヒロインを演じたオリヴィア・ハッセーの神秘的な美しさを堪能するだけでも一見の価値があります。
今となっては技術的に古い部分もありますが(スマホもインターネットもない時代)、一つの事例として鑑賞することをおすすめします。
ちなみに、現代との決定的な相違点は、インターネットの有無だと思います。
「復活の日」の時代は、全ての情報は、電話か電報、書類も郵送がメインでしたから(ファックスが一般に普及したのは1990年代)、海の向こうで何が起こっているかなど、庶民にはほとんど知るよしもないし、各国の医療機関とリアルタイムに連携することもできません。
遺伝子ベースの解析や治療法の確立が本格化したのも21世紀になってからですし、「未知のウイルスがあっという間に広がって、正体も分からぬまま、人がバタバタ死ぬ」という設定は、原作と映画が作られた1960年代から1970年代にかけては納得の展開です。
現代の脅威は、むしろ経済活動の麻痺や政情不安、ネット上のデマや相互不信の方が深刻で、もし、今後、似たような話が作られるとしたら、そちらに重点を置いた社会ドラマになるのではないでしょうか。
しかし、現実がフィクションを遙かに上回った感がありますので、今後の創作は難しいかもしれませんね。
なお、パンデミックを描いた作品は、『エボラ熱とパンデミックの恐怖を描く映画『アウトブレイク』 ダスティン・ホフマン主演』が面白いです。こちらも医療技術や軍事作戦において忠実に作られ、サスペンスの要素も満載。ハリウッドらしい陰謀劇も盛り込まれ、見応えのある医療アクションに仕上がっています。
また、南極ロケの撮影に挑んだのは、「天は我々を見放した」の決め台詞で有名な映画『八甲田山』の木村大作氏で、冬の八甲田山で培った撮影技術が本作にも活かされたという印象です。よく機材が凍結しなかったこと。当時は非常に困難な撮影だったと思います。
『復活の日』が予言するパンデミックと医療崩壊
コロナ禍で医療崩壊が危ぶまれた時、『復活の日』を思い浮かべた人も多いのではないでしょうか。
私が戦慄したのはこの場面。
最初は気丈に対応していた医師や看護師も、ついには力尽き、バタバタと倒れていく。
医師と看護師が医局に折り重なるようにして絶命する場面が衝撃でした。
まるで緊急手術と術後出血と通常オペ4件をどうにかやり遂げた後の医局みたい。
悲壮感漂う、多岐川裕美の看護婦姿。中学生の時、自分の未来図を見るようだった。
最後には医師も看護師も全滅、みな死に絶えた医局に、突然、リーンと電話が鳴り響く場面が恐怖でした^^;
何が怖いって、自分も死にかけてるのに、患者さんからコールがあると、身体を起こして、仕事してしまう看護婦の性なんですよね・・
最後は友人の子を連れて、ボートで睡眠薬を飲んで、自死する。
「これを飲むと身体が楽になるから……大きな声でパパ と呼んでごらんなさい……」
最後まで仕事してるのが、とにかく怖かったのです。
人類滅亡と昭和の男社会 ~女性の皆さん、子供を産んで下さい
女性の拒否により人類は滅ぶ
女性にとって一番衝撃的なのは、南極で生き残った女性八名に対し、複数の男性と性行為をしてでも、「人類復活の為に、どんどん子供を産んでくれ」と迫られる場面でしょう。
私がこの作品を初めて見たのは中学生の時ですが(映画、原作とも)、極限下における女性の宿命(あるいは社会的位置付け)、そして男たちの一方的な主張と欲望に身震いがしたものです。
もちろん、「複数の男性と性行為」というのは、レイプや強制ではなく、女性にも選ぶ権利はあって、男性が気に入った女性と性交渉をもつには(自分の子孫を残すには)、まずカードなどで交際を申し込み、女性がOKしてくれたら性交渉、という手順が義務づけられています。
だからといって、女性の全てが、進んでこうした状況を受け入れるとは到底思えません。
なぜなら、女性の心も、身体も、複数の異性と交わって、複数の父親の子供を産むようには出来ていないからです。 (抵抗のない人もあるけど少数派です)
また、申し込んだ男性の中には、お断りされる人もあるわけで、「自分の子孫を残したくても残せない」というシビアなシチュエーションは、人類滅亡の極限下であろうが、男余りの現代であろうが、大差はないような気がします。
しかし、いよいよ人口が減少して、種の存続も危うくなると、男性の態度がたちまち軟化し、「女性の皆さん、お願いですから、産んで下さい」と懇願するのも、身勝手な話ですよね。
人類滅亡の原因を作ったのは、お前ら、男だろうに。
そんな男が相手だから、女性の生き残りは、無理してまで産もうなんて思わないんだよ。
そんな身勝手な男社会なら、滅んでもいいんじゃね?
……というのが、当時から変わらぬ私の思いであり、この作品とは決して相容れない点です。
救いは、ヒロインのオリビア/ハッセーと、主人公の草刈正雄が、心の底から愛し合い、結ばれるという設定ですが、それも取って付けたようなロマンスですよね。
他の生き残りの女性らが、さして抵抗することもなく、また懊悩することもなく、男らの申し出をあっさり受け入れて、「みんな、ママになって、ハッピー」という設定も、私には到底受け入れられません。
こんな物語があっさり書けるのは、映画と小説の作り手が男性だからで、裏を返せば、女性の気持ちも、本能も、何一つ分かってない証しでしょう。
現実を申せば、「女性側の拒否により、人類社会は滅亡する」というのが、リアルな筋書きだと思います。
女は、妥協できずに、人類を滅ぼす
まだ渡辺淳一の方が、女性というものをよく理解していたように思います。
女性の視点から見た違和感
私が戦慄したのはこの場面。
生き残った女性八名を取り囲み、「人類が滅亡するか否かは、あなた達にかかっている」と、男たちが迫る。
なぜかこの協議で決定権を持つのは男性の代表者ばかり。
日本の政治機関や経営陣とまったく同じ。
自らの運命を嘆いて、ワアッと泣き崩れる女性隊員。分かります、分かります。
高い学問を修めて、南極まで研究に来たのに、要求されることは「複数の男性と性交渉してでも、子供を産んで下さい」。
こんなの社会的レイプですよね。
私が一番許せないのは、「みな、最初はイヤだったけど、ママになって幸せそうでしょう」という女性の描き方です。
母親になれば、みな、納得して、幸福になれると思ってる。たとえ心や身体を踏みにじられて、心底望まぬ性行為と妊娠・出産を求められたとしてもです。
ここに男の本音が透けて見えるというか、社会における男性の女性に対する見方がよく分かります。
そんでもって、ヒロインは、心密かに草刈正雄を慕いながらも、人類存続の為に、若い水夫とセックスするんですね。
南極慰安婦か、ってーの。
こういうシチュエーションを、オペラ『蝶々夫人』みたいに、「大義のために身を差し出す女性は美しい」と描く感性が許せないのです。
まさに80年代、昭和の感性です。
ジャニス・イアンの主題歌 『You are Love』
それでも、ジャニス・イアンの主題歌『You are Love』は非常に良かったです。
とりわけ、サビの部分、It’s not too late to start again(再び始めるのに、遅すぎるということはない)は、当時、中学生だった私にとって、『too ~ to・・構文』の良き例文となりました。
また、突如として現れる、「トゥージュルゲ・モンシェ~ル」というフランス語の歌詞も印象的でしたね。
Toujours gai, mon cher は、自動翻訳で、Always cheerful, my dear = 無事でいて、愛しい人よ
といったところでしょうか。
草刈正雄の無事を祈る、ヒロインの心情を謳った歌詞です。
日本の人口問題に関しては、It’s not too late というより、already end という感じですね。情けない。
初稿: 2009年12月12日