映画『八甲田山』について
野村芳太郎監督の映画『八甲田山』は、実際に起きた『八甲田雪中行軍遭難事件(詳細はWikiにもあります)』と、これを題材にした新田次郎の小説『八甲田死の彷徨』をベースに、高倉健、北大路欣也、三國連太郎、加山雄三など、日本映画界の実力派を揃えて制作された、歴史大作です。
撮影は、実際に冬の八甲田山で行われ、あまりの厳しい寒さにエキストラが脱走するなど(書籍『誰かが行かねば、道はできない -木村大作と映画の映像-』を参照)、非常に過酷なものであったことが知られています。
(南極ロケで有名な映画『復活の日』の撮影も木村大作氏によるものです)
それだけに、遭難の場面は、筆舌に尽くしがたい壮絶さで、役者や制作スタッフが全員生きて帰ったのが不思議なくらい。
また、神田大尉(北大路欣也)の「天は我々を見放した・・ッ」という無念の叫びは社会現象ともなり、小学生も何かと真似していたのを思い出します。
(この台詞は、実際に、行軍を指揮した神成大尉が口にした言葉で知られています。後述・『八甲田山 生かされなかった教訓』(伊藤薫)を参照のこと)
猛烈な吹雪の中で、兵士がばたばたと倒れ、発狂した兵士が「ワハハハハハ」と笑いながら服を脱ぎ、全裸で雪の中に突っ伏す場面も、日本国民のトラウマになりました。
もう二度とこんな邦画は作られないし、演じる役者も、撮れるスタッフも現れないでしょう。
日本国民なら、一度は観賞したい名作中の名作。
そして、見終わった後、あなたはきっと痛感するはずです。
『日本社会は、この頃から、ちっとも変わってない』。
作品情報
日露開戦を目前にした明治34年末。寒地装備、寒地訓練が不足していた帝国陸軍は、ロシア軍と戦うために厳冬期の八甲田を踏破し、寒さとは何か、雪とは何かを
調査・研究する必要があると考えていた。その命を下された青森第5連隊の神田と弘前第31連隊の徳島は、責任の重さに慄然とする。冬の八甲田は生きて帰れぬ白い地獄と
呼ばれているからだ。雪中行軍は双方が青森と弘前から出発し、八甲田ですれ違うという大筋のみが決定し、細部は各連隊独自の編成、方法で行う事になった。
「この次お逢いするのは雪の八甲田で」二人はそう再会を約束して別れたのだったが…。
正直、この悲劇を4Kで見るのはキツイですね(^_^;
吹雪や滑落の場面は大変な迫力だと思いますが。
映画『八甲田山』の物語
時は、明治。
ロシアとの不穏な空気を前に、軍の上層部は、来るべきシベリアでの決戦と青森湾の封鎖を想定して、青森第五連隊と弘前第三十一連隊に八甲田山での雪中行軍を提案する。
実質的に指揮を執ることになる神田大尉と徳島大尉が断れるはずもなく、二人は、「今度会う時は、八甲田のどこかで」を合い言葉に、それぞれ行軍の準備にとりかかる。
士官を主力とした少数精鋭の編隊である徳島大尉の弘前第三十一連隊とは対照的に、神田大尉の青森第五連隊は、大隊本部の随行を伴う、210名にものぼる大掛かりなものであった。
そこには、神田大尉の上官で、弘前第三十一連隊との競争を意識した山田少佐の意向が強く働いていた。
大きな不安の中、神田大尉率いる青森第五連隊は、徳島大尉の弘前第三十一連隊に遅れる形で出発するが、山田少佐が村人の案内を断ったこともあって、隊はたちまち雪の中に立ち往生してしまう。
観測史上最悪の大暴風雪が接近しつつあったのだ。
ここでも、神田大尉と山田少佐の間で指揮権をめぐる確執があり、神田大尉の申し出をまったく聞き入れない山田少佐は、兵士達が疲労と空腹で朦朧としているにもかかわらず、真夜中に雪壕を出て出発することを命じる。
そして、最初の犠牲者が出た。
一人の兵士が突然奇声を上げて衣服を脱ぎ、雪の中に倒れ込んだのだ。
汗で濡れた衣服が寒さで凍りつき、そのショックで発狂したことが原因であった。
退路を見出すこともままならず、行軍はますます深い雪の沢に迷い込み、凍傷者や死亡者が続出する。
もはや行軍は全滅にも等しかった。
そうして、ようやく八甲田入りした徳島大尉ら弘前第三十一連隊が、大荒れの雪原に見たものは、過酷な行軍を物語る累々たる屍であった……。
本作は、雪山ロケもさることながら、脚本も素晴らしく、多数の兵士を死に追いやった背景が手に取るように分かる。
自身の栄誉の為に、行軍を成功させたい、上役。
疑問を感じても、言い出せない、中間管理職。
黙々と付いて行くしかない、平社員。
その姿は、現代の日本社会と何ら変わりなく、失敗を失敗と認めず、学びもしないお役所体質ゆえに、日露大戦でも多数の犠牲者を出し、第二次世界大戦の悲劇、そして現代はグローバル経済戦争での劣位に繋がっていった。
行軍を指揮する上官、山田少佐。映画では、冬の八甲田を甘く見て、準備不足のまま強行する姿が描かれている。
上官の姿勢に疑問を感じながらも、ジロリと睨まれると、何も言えなくなってしまう神田大尉。気持ちは分かる。
かくして、青森第五連隊は、準備不足のまま雪山に入り、暴風雪に見舞われる。
兵士達が携帯した握り飯は、あまりの寒さに凍結し、竹の皮にくるんで、肌身に触れるようにして持ち歩いていた者だけが、凍結をまぬがれた。
後述、伊藤薫氏の著書にもあるが、雪中行軍の失敗は、「観測史上に残る大暴風雪」という不運もあるが、雪山に関する圧倒的な情報不足と経験不足が決定的な要因とみられている。まともな装備もなく、雪濠の掘り方も知らず、地形すら詳しく知らない中で、彼らは右往左往し、あっという間に体力と判断力をなくして、遭難してしまったのだ。
それでも神田大尉は、持てる知識を総動員して、第五連隊の指揮に当たろうとする。
だが、神田大尉の撤退要請や荷物放棄は、山田少佐によってことごとく覆され、ついには「田代へ行く道を知っている」という上官の当てずっぽうに振り回されて、峡谷に迷い込んでしまう。
あと2キロで、宿営予定地の田代温泉――という所まで来ていたにもかかわらず、彼らはついにその道を見出すことが出来ず、厳しい寒さの中、命を落とす兵士が続出する。
極限の寒さは、兵士らから正常な判断力を奪い、生きる気力を奪い、ひとたび眠りに落ちれば、そのまま死に至るのだ。
一方、徳島大尉(高倉健)と弘前第三十一連隊は、案内人を得て、着実に行路を進んでいく。
映画では、この女案内人(秋吉久美子)に捧げ筒をして敬礼する場面が織り込まれているが、新田次郎の原作では、小銭を渡して、冷たくあしらう展開になっている。
映画の方は、社会性を考慮して、感動ドラマの仕上がりになっている。
そうして、第五連隊は全滅し、無事に行軍を終えた徳島大尉は、約束通り、雪の中で神田大尉と再会することになる。
この場面は涙なくして見られません。
新田次郎の原作『八甲田山 死の彷徨』について
新田次郎氏の原作の興味深い点は、映画では描かれなかった、女案内人への冷遇をはじめ、決死の覚悟で八甲田を案内した村人に対する非情な仕打ち、軍や世論の反応、雪地獄を生き抜いた者たちのその後を、リアルな筆致で綴っていることだ。
彼らの犠牲は、軍の宣伝に良いように利用され、生き残った者も結局はシベリアの戦地に駆り出され、二年後には命を落とすことになる。
原作の巻末に、
寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。
第八師団長をはじめとして、この事件の関係者は一人として責任を問われる者もなく、転任させられる者もなかった。
すべては、そのままの体制としで日露戦争へと進軍して行ったのである。
とあるように、新田氏の文章からは、戦争、そして、国民を過った方に導いた軍上層部に対する、深く静かな怒りが感じられる。そして、それらの誤りは、第一次大戦、第二次大戦へと繋がっていく。
「怖い」というなら、雪山もそうだが、一切の反論を赦さず、上から下に命令するだけで、何千、何万という国民を道連れにする日本社会の体質そのものだろう。
命令されたら、下の者は黙って従わざるを得ず、たとえ上が道を誤っても、運命を共にするしかない。
それは戦前・戦中に限らず、現代社会においても同様だ。
中間管理職のセミナーでは、リーダーシップの何たるかを学ぶために、この作品を読むことが推奨されているそうだが、リーダーのみならず、末端の社員らも心しておくべきである。組織の慣れと無力感がいかに社会を滅ぼすかを。
ともあれ、神田大尉をはじめ、道連れになった兵士らの無念は察するに余りある。
せめて、こうして後世に語り継ぐことで、魂の慰めにならないか。
映画のラスト、美しい夏の八甲田山から、荒れ狂う雪の八甲田山に移り変わる場面で幕を閉じるが、彼の地に眠る英霊たちは、今も情けない思いで現代の日本社会を見守っているような気がする。
初稿 2009年9月19日
『生かされなかった八甲田山の悲劇』 伊藤薫の著書より
八甲田山に興味を持ったら、ぜひ読んでもらいたいのが、元自衛官で、自身も現代の八甲田演習を経験した伊藤薫氏による『生かされなかった八甲田山の悲劇』と『八甲田山 消された真実』だ。(Kindle Unlimited 読み放題の対象作品)
本書は、第五連隊の生き残りである小原忠三郎・伍長の証言と、当時の軍部資料や報告書、新田次郎の『八甲田山 死の彷徨』のきっかけとなる、小笠原弧酒の『吹雪の惨劇』をベースに構成されている。(作品URL→ 八甲田連峰吹雪の惨劇〈第1部〉前夜編・行軍編―悲劇の歴史を再現する (1971年) 小笠原孤酒に関するエピソードは MOUNT HAKKOUDA『史実と映画「八甲田山」』にもあります)
伊東氏曰く、
明治に起こったこの遭難事故が昭和になって再び脚光を浴びたのは、新田次郎著『八甲田山 死の彷徨』と、それを原作とした映画『八甲田山』の影響によるものだった。師団または旅団命令による八甲田山への行軍、指揮が乱れ猛吹雪のなか山中をさまよう歩兵第五連隊、雪中裸になって斃れる(たおれる)兵士、「天はわれ等を見放した」と神田大尉の悲壮な叫び、田代越えを成功させた三十一連隊、救助された山田少佐のピストルによる自決など、小説や映画は軍隊の愚かさを訴えていた。そして多くの人々は、それら作品に描かれた出来事がまことの事実であると錯覚をしてしまう。また、この頃から遭難事故に関する本がさまざま発行され、巷間に諸説が飛び交うことにもなった。
しかし、この小原証言の詳細が明らかになることによって、これまで遭難事故の真実とされていたことや、さまざまな俗説が覆されていく。小原証言以外にも、伊藤格明中尉、長谷川貞三特務曹長、後藤房行助伍長、阿部卯吉一等卒、後藤惣介二等卒ら生存者の証言、新聞記事等から真実が浮かび上がる。さらには陸軍省の文書から事実を知らされる。
『八甲田山 消された真実』
新田次郎氏の小説も、あくまで「味付けされた情報」であり、実際は想像を絶するものだったことが窺える。
また、新田次郎の小説、および映画の経緯として、
青森県十和田町の小笠原弧酒さんが、この遭難事件のことを本に書いたということを聞いたので、小笠原さんに手紙を出した。小笠原さんと初めて会ったのは、四十五年七月頃であった。彼はその時既に『吹雪の惨劇』第一部「前夜編」を書いて発表していた。
小笠原は最後の生き証人だった小原さんを取材している。新田にしたら喉から手が出るほどの情報だった。それだけではない。小笠原が血のにじむ取材と言っていた、述べ一万キロ余りを踏破して集めた古老たちの証言や資料もあった。
読売新聞社発行の『私の創作ノート』の中で、遭難事件を小説に書きたいことや援助してほしいことを小笠原に話した、と新田は書いている。小笠原は快諾し、自ら苦労して集めたその特ダネを新田に無償で与えた。小笠原がそうしたのは、自らの原稿に小原証言などの特ダネを載せるのはまだ先のことだったからなのかもしれない。
映画のキャッチコピーにもなった「天はわれ等を見放した……」のように、小原証言の数々が小説に使われていた。小原証言は舞台が彷徨し、将兵が次々と斃れていく凄まじいありさまを今に伝えた。
『八甲田山 死の彷徨』がベストセラーとなり、これを原作とした映画もヒットした。そして小説や映画が遭難事故の事実となってしまった。
小笠原も新田に三年遅れて『吹雪の惨劇』第二部を出したが、ほとんど話題にもならなかった。小笠原がいくらノンフィクションだと言っても、その目玉となる材料はすでに出尽くしていたのだ。それに小笠原の事件解明はまだ途中で、続きはいつ出るのかわからない。そのようなものに読者がついて来るはずがない。
<後世なに人も書き得ない立派なものを作って世に問おう>と決意し、自らのライフワークとしてやってきた小笠原だったが、その意義を見失ってしまう。また、所詮『八甲田山 死の彷徨』にはかなわないと悟ったのかもしれない。次第に執筆意欲もなくなり、第三部以降の出版は幻となってしまった。
その後、小笠原は悲運の晩年を送り、六十三年の生涯を閉じた。そんな小笠原の心情は、小原さんを思って書いた次の文で表現されよう。
<凍傷に依って四肢の自由を失ってはいたが、ベッドに正座する小原さんの顔には、不平らしいかげりはみじんもなかった。だが、この腐敗堕落した現代社会の実情を目の当たりに見ながら、心の奥底で、どんなにか絶望されておられたかは、私にはその心中がよく読み取ることが出来た『吹雪の惨劇』第二部>
考えようによっては、小笠原も八甲田山雪中行軍遭難事故の被害者なのかもしれない。
八甲田山 『消された真実』
ここまでの経緯を知っている人も少数ではないか。
私も伊藤氏の著作を読むまで、まったく知らなかった。
また有名なキャッチコピーも次のように説明されている。
衝撃的なそのときの状況を先頭付近にいた小原元伍長が話す。
「そのときあの神成大尉は、……八甲田に登ったんですね……ますます吹雪が激しいために、神成大尉が怒ってしまったんですね。『これはだめだ、これは天が我ら軍隊の試練のために死ねというのが天の命令である。みんな露営地に戻って枕を並べて死のう』とこういうわけなんでしょう。それでみんな士気阻喪したんですよ。帰るときはあっちでパタリ、こっちでパタリ、もう足の踏み場もないほど斃れたんです。……帰って朝明るくなってから夜も明けてから調べたところが210人のうちわずか60人……八甲田山に登って変えるとき、猛吹雪のため神成大尉も落胆しているような……精神的なんですね、あっちでコロリこっちで斃れる、悲惨なものですな。自分の目の前でみんなかたまってバタバタ斃れたり、それが見えるんですからね。今度私か、今度私かと思いますね」
神成大尉の悲愴に満ちた怒号は、隊員の士気を著しく低下させ、今まで耐えてきた隊員の気力を一気に失わせてしまった。神成大尉は、指揮官として言ってはならないことを言ってしまったのである。
『八甲田山 消された真実』
映画とはまったく異なる情景に衝撃を受ける人も少なくないだろう。
しかし、伊藤氏は、神成大尉をはじめ、指揮官らの意味不明な行動について、低体温症を指摘している。
その一例として、2009年に発生した「トムラウシ山遭難事故」を挙げ、遭難したツアー客らの証言によると、「奇声を発していた」「意味不明の言葉をしゃべりだした」「何も反応がなかった」「平らな場所でもしゃがみ込んで立ち上がれない」「まっすぐ歩けない」など、心身共に深刻な症状を呈したそうだ。
また低体温症が重くなると、錯乱状態になり、悪化すると意識を失い、心臓が停止するという。
八甲田山の演習部隊も、奇声を発する者、動けなくなる者が続出し、多くが低体温症に陥っていた。
正しい状況判断ができなかったのも当然で、これ以上の咎は酷というものだろう。
その他、壮絶な現場を紹介したい。
その夜の食事は各人に餅一個だったが、阿部一等卒は疲労が激しかったので餅二個を食べさせた。炭が熾ると、兵卒は暖まろうとして手や足を炭火の近くであぶろうとしたので、長谷川特務曹長は凍えた手足を急に暖めるのはよくないと何度も諭したものの、兵卒は言うことを聞かなかった。そのため、彼らの手は火傷をしたように腫れ上がってしまい、そしてそのまま寝てしまった、と。
凍傷に対する衛生教育がほとんど行われていないため、凍傷の怖さを知らない兵卒は凍傷を悪化させることになる。生かされなかった 八甲田山の悲劇
「急激に暖めると、かえって悪化する」というのは、一般人でもなかなか知られてないと思う。
私も、雪原で遊んだ後、ぽかぽかに温かい室内に戻ったところ、顔と手が化け物みたいにパンパンに腫れ上がり、死ぬかと思ったことがある。
しもやけ(凍瘡)のことも、知識としては知っていたが、あんな恐ろしいものとは夢にも思わなかったからだ。(参考URL: しもやけについて 第一三共ヘルスケア)
凍えきった兵士が、忠告も聞かずに、火で直に暖を取ろうとした気持ちも分かる。
その後、猛烈な腫れと痛みに苦しんだことも。
伊藤氏も、一貫して主張しておられるが、とにかく皆が雪山に無知で、経験不足だった。
雪景色の綺麗な山に遠足に行くような気分だったのだろう。
雪濠を地面まで掘らずに、雪の上で炭火をおこして、炭火が雪の中に埋没し、米も上手に炊けなかったエピソードも紹介されている。
神成大尉が第二露営地に残っていたのは、死のうとしていたが、倉石大尉らと行動するのを嫌ったか、倉石大尉に見捨てられたかのいずれかだろう。前日、帰路を誤ったことに端を発した神成大尉の怒りや無念な思いが爆発していた。演習中隊長である神成大尉の指揮権をないがしろにした山口少佐や倉石大尉が原因だった。そして、「露営地に戻って枕を並べて死のう」と叫んだことが、隊員の信望をなくしていた。
『生かされなかった 八甲田山の悲劇』
あのような状況で、最後まで正気を保てる方が奇特だろう。
傍の者は、温かい場所から何とでも言えるし、これに関しては、大尉を責めることはできない。
神成大尉と後藤伍長は歩みを進めたが、すぐに動けなくなってしまっう。二人とも疲労と凍傷で精根尽き果てていた。特に神成大尉が体力を著しく消耗していて、そのまま眠ってしまった。
翌二十七日八時頃、神成大尉が目を覚まし、二人で田茂木野方向へ歩き出したものの、少しすると神成大尉はその場に倒れてしまう。
神成大尉は、
「自分はすでに歩行することはできない、お前はこれから田茂木野に行って村民に伝えよ」
と、後藤伍長に命じた。そして、
「兵隊を凍死させたのは、自分の責任であるから舌を噛んで自決する」
と言った。
後藤伍長は神成大尉の自決という言葉に戸惑いながらも、二十五日に神成大尉が大声で叫んで、下士卒を励ましていたのを思い出す。≪中略≫
神成大尉の覚悟を知り、後藤伍長は立ち上がり、凍傷で自由のきかない足を前に出してどうにかこうにか歩いた。だが、100メートルほど進むのに三時間ばかりかかっていた。そこで力尽き、一歩も進めなくなってしまった。意識はもうろうとしながらもしばらくそこに立っていると、遠くに人が近づいてくるのを見つける。声を限りに叫んだけれども、弱った声は吹雪に消されて捜索隊には聞こえなかったようだった。
十一時頃、三神少尉率いる捜索隊(食糧運搬)は、大滝平で雪中に起立する人影を認めた。半身は雪中埋没し、辛うじて直立している。捜索隊は後藤伍長と認め、「他に誰かいるか」と問うと、「神成大尉、神成大尉」とほとんど聞き取れないような小声を発した。捜索隊が付近を捜索すると、後藤伍長から100メートル離れた場所で神成大尉を探し当てたが、すでに亡くなっていた。
『生かされなかった 八甲田山の悲劇』
後藤伍長は、映画では、「江藤伍長」と称し、新克利が演じていたが、雪の中に直立不動で立っている場面は子ども心にも戦慄した。
最後に、伊藤氏は、次のように締めくくっている。
ところで馬立場の記念碑は、鎮魂のほかに後世に何を伝えるのか。
碑文には、大風雪が三昼夜続いたために、道を失い飢え凍え斃れた(たおれた)、というようなことが刻まれ、五連隊の遭難事故は天候による災害としていた。
だが、それは違う。
「無能な指揮官の命令によって、登山経験のない素人が準備不足のまま知らない山に登山をした」
ということなのだ。
事実を隠し偽った報告に教訓はない。
だが、もしかするとこうもいえるのかもしれない。真実を伝えたところで、その教訓は生かされることはなく、悲劇は繰り返されるのだと――。『八甲田山 消された真実』
身も蓋もない言い方だが、その通りだろう。
いつも、毎回、大事件、大災害が起きる度、「この悲劇を繰り返してはならない」と声高く叫ぶが、本気で反省することなどないし、何かが根本から改められることもない。
で、また同じことが起きれば、「前回の教訓が生かされなかった」と項垂れ、しばらくすると、もう忘れて、別のことに夢中になっている。
まったく、日本人は賢いのか、バカなのか、私にもよく分からない。
別の見方をすれば、この飄々たる無責任、どんな悲劇も「なかったことにしちゃう」、お気楽で小狡い体質が、日本という国を支えてきたとも取れる。
諸外国のように、ことあるごとに、国民が怒り、集い、改革を求めて、時には暴動を起こすようなお国柄だと、平たく収まることなどないからだ。
その点、日本は、「なかったことにしちゃう」ので、一時期、国の施策や経営者の怠慢に怒り狂っても、翌日には芸能スキャンダルに夢中になって、何もかも忘れてしまうので、表面的にはいつも平和で穏やかだ。次にまた誰かが死んでも、所詮、他人事なので、自分たちの暮らしが脅かされることもない。そして、その現状に、なんとなく満足している。
日本国民は、取り立てて賢いわけでもなければ、根っから善良というわけでもなく、とにかく、波風が苦手なのだ。
波風を立てると、「お前が悪い」と責められるので、波風そのものを覆い隠してしまう。
その結果、いつまでも波風を越えることができずに、同じ波止場に押し戻されてしまう。
そして、同じことの繰り返し。
それでも、いつもの風景に満足している。
たとえ、目の前で、またしても子どもが溺れても、それはあくまで他人の身に起きた不幸なので、自分は関係ない。
見慣れた風景が永遠に続けばいい。
まあ、そんな感じだ。
それゆえに、激しく分裂することもなく、何百年という歳月を、なあなあでやり過ごすことができたのだけど、その見た目平和もいつまで続くことやら。
ともあれ、八甲田雪中行軍遭難事件には、良い所も悪い所も、日本社会の全てが詰まっている。
映画も、演出と分かっても、何度見ても感動するのは、我々の多くは、道連れにされる兵士の側だからだろう。
公開されてから随分経つが、毎年冬になると、無性に見たくなる。
吹雪の中、上官命令で、右に左に連れ回される兵士の姿に、長時間労働や重税に喘ぐ現代の若人の姿を重ね見ずにいられないのである。
八甲田山に関する書籍
八甲田山死の彷徨(新田次郎)
まずは新田次郎の原作を読むべし。
映画を観てから原作を読んだので、衝撃も薄まってしまったが、映画を観ずに原作を読めば、あまりの酷さに言葉を失うと思う。
兵士達の置かれた状況が非常にリアルに描かれており、「酒も凍る寒さ」に胸を衝かれるはずだ。
また、映画では描かれなかった、事件後の軍や世論の反応、生き残った兵士達のその後、命を懸けて道案内した村人7名の境遇も細かく記述されており、犠牲となった人々の無念さがいっそう強く伝わってくる。
自然を舐めた人間への警告、「軍隊」という硬直した組織への怒りと、それに振り回された人々に対する哀れみの気持ちが深く静かに込められた名作。
小笠原弧酒氏の経緯を知ると複雑な気持ちになるが、小説としての完成度は高く、企業小説としても楽しめる。
*
露戦争前夜、厳寒の八甲田山中で過酷な人体実験が強いられた。神田大尉が率いる青森5聯隊は雪中で進退を協議しているとき、大隊長が突然“前進”の命令を下し、指揮系統の混乱から、ついには199名の死者を出す。少数精鋭の徳島大尉が率いる弘前31聯隊は210余キロ、11日間にわたる全行程を完全に踏破する。両隊を対比して、自然と人間の闘いを迫真の筆で描く長編小説。Kindle版もあります。
生かされなかった八甲田山の悲劇(伊藤薫)
伊藤薫氏の著作は、次の二作があり、どちらを読めばいいのか悩むが、「生かされなかった 八甲田山の悲劇」が、雪中行軍の詳細とその後の日露戦争の悲劇をメインにしているのに対し、「八甲田山 消された真実」は、遭難事故に至るまでの経緯と事故処理の実態にフォーカスされている。(雪中行軍は、それ以前から実施されており、なぜ青森・第五連隊だけが遭難するに至ったのかという歴史的な解釈)
伊藤氏自身、元自衛官であり、冬の八甲田も経験しておられるので、軍の内実にも詳しく、一言一言に説得力があります。
文章としては、「生かされなかった」の方が読みやすいので、映画ファンは、とりあえず、こちらを先に読んで、もう少し詳しく知りたければ、「消された真実」に進まれると良いと思う。
*
雪中行軍とその2年後に勃発した日露戦争悲惨な「冬の戦争」の実態が暴かれる。
・目的地、目標など計画立案の杜撰さ
・凍傷予防の衛生教育の不備と不徹底
・糧食の凍結への対処法の欠如
・兵站支援の不備と欠如
・指揮命令系統の不統一と混乱
「冬の戦争」に、生かされなかった教訓の数々。
Kindle版もあります。
八甲田山 消された真実
著者は、小原元伍長の録音を入手し、新田小説とのあまりの乖離に驚き、調査を始める。
神成大尉の準備不足と指導力の欠如、山口少佐の独断専行と拳銃自殺の謎、福島大尉のたかりの構造、
そして遭難事故を矮小化しようとした津川中佐の報告など疑問点はふくらむばかりで、さらに生存者の証言、
当時の新聞、関連書籍や資料をもとに、現場にも足を運び事実の解明に努めようと試みる。
新発見の事実をひとつひとつ積み上げながら、「八甲田山雪中行軍」とは何だったのか、その真相に迫る。
Kindle版もあります。
誰かが行かねば、道はできない -木村大作と映画の映像
八甲田山のロケに関する記述はそれほど多くないけれど、「八甲田山」「復活の日」と聞けば、ああ、寒冷地のロケ、とピンと来る人は楽しめると思う。
どちらかといえば、映画専門家向け。
一般の映画ファンが読んでも、今ひとつ、理解できないこともあります(実際にロケとか経験したことがないので、大変と言われても、どれくらい大変か、実感が湧かない)
*
映画を作るとは、こういうことだ!これは、「八甲田山」「復活の日」「鉄道員」のキャメラマン、そして、「劔岳 点の記」の監督、木村大作が“ただ映画を作るためだけに”誰も歩まない道を切り拓き、駆け抜けて来た映画人生51年間の記録である。
指揮官の決断―八甲田山死の雪中行軍に学ぶ極限のリーダーシップ
八甲田山の出来事は、現代のビジネスにおいても、マネジメントの教科書として通用します。
部外者があれこれ言うのは簡単ですが、その場に居れば、正常な判断力は失うのではないでしょうか。
本当に気の毒としか言いようがないです。
*
明治三十五年一月、青森隊と弘前隊の二つの部隊はそれぞれ逆コースをとって八甲田山雪中行軍に挑んだ。青森隊二百十名はほぼ全滅という未曾有の遭難に見舞われ、一方の弘前隊三十八名はみごとに八甲田山踏破をやり遂げた。二つの行軍隊を企業に見立てれば、青森隊は安定を誇る伝統の大企業、弘前隊は新進の中小企業である。二つの企業はともに空前の「大寒気団」という危機に見舞われながら、なぜこうも大きく運命の明暗を分けてしまったのだろうか。
指揮官の決断: 八甲田山死の雪中行軍に学ぶ極限のリーダーシップ
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植村直己の自伝は感動しますよ。
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日本人初のエベレスト登頂をはじめ、北極点到達、グリーンランド縦断犬ぞり単独走行など、世界初の五大陸最高峰登頂を達成した植村氏の青春時代を綴った自伝を紹介。
欧州アルプスでの住み込みアルバイトと冬山訓練、なけなしの貯金をはたいて海外渡航、情熱の塊みたいな植村氏の奮闘が伝わってきます。
特に入国審査のエピソードなどは、こんなことが許された時代だったのだと、ほのぼのします。
エベレストにおける史上最悪の遭難事故(1996年)をベースにした山岳映画。この時、登頂と同時に犠牲にもなった難波康子さんの姿も描かれています。
無理に登頂を試みたクライマーには批判の声もあるだろうが、登山大好きな私にはその気持ちも分かる……という話。
2009年12月12日