池田理代子の短編『ウェディングドレス』
あらすじ
キャリア一筋の冴えない30代シングル徳子は、銀座のオートクチュールに勤める一番の腕利き。
しかし、長年一緒に暮らした後輩・宮子の結婚が決まり、口では「おめでとう」を言いながらも、動揺を隠しきれない。
そんな折り、徳子は宮子の兄に呼び出され、期待に胸を膨らませて出掛けてみれば、「近々、恋人と結婚するから、彼女の為にウェディングドレスを縫って欲しい」との依頼だった。
プロに徹して仕事に取りかかるものの、男の人から「愛している」と言われたこともなく、ミシンだけ踏んで生きる自分自身に悲しみの涙を流す。
思い詰めた徳子は、ウェディングドレスに仕掛けをし、花嫁に恥をかかせようとするが、オートクチュールの先生に言われた、「あなたのキャリアはなににもかえがたいわ。あなたの腕は、ただもうだまって信頼できるのよね」の一言に目を覚まし、美しいドレスを仕上げるのだった――。
男の人から愛しているといわれたこともなくて
シンプルなストーリーながら、30代独女にとっては、臓腑をえぐるような台詞が満載の短編。
後輩の結婚が決まって、内心動揺する場面や、「私はキャリア一筋なんだから!」といきがって見せる場面、「悪気のない無邪気な笑顔をして他人を鋭い刃で傷つける人たち」と毒づく場面など、30代シングルで突っ走ってきた女性は平静な気持ちで読めなくなってくる。
なにより、胸に突き刺さるのが、
ミシンだけふんで……男の人から愛しているといわれたこともなくて……
みじめったらしい、つまんない人生……
なんで、あたしが、こんなことしなきゃなんないの!
ばかばかしい30年!
むごいよぉ……」
徳子は、宮子の兄にほのかに憧れていただけに、花嫁のウェディングドレスを縫うなど、地獄のような仕打ちだ。
ミシン箱をひっくり返し、号泣する徳子の姿は、まるで昔の自分自身のようでもある。
本作の素晴らしい点は、結婚礼賛でもなく、キャリア至上主義でもなく、30代独女の焦りや淋しさ、不安といったものを素直に描いていることだ。
また、徳子という女性も、額に青筋を立てて、キーキーわめくタイプではなく、最後には職人の良心に立ち返り、自分なりに懸命に生きていこうとする。
物語の最後に、「キャリアか……」と淋しくつぶやく徳子に、「大丈夫、次はあなたの番よ」と、エールを送ることができるし、またそれが信じられる優しい物語なのだ。
結婚か、キャリアか。
これから、自分はどんな風に生きていけばいいのか。
徳子の葛藤は、恋に、仕事に、突っ走るようにして生きてきた30代独女なら、誰もが一度は経験するものだ。
それを恥と感じるか、人生のターニングポイントと捉えて、正面から向き合うかで、その後の人生も大きく変わってくる。
年齢的な「焦り」と向き合う ~大切なのは本音を知ることにも書いているように、問題は、既婚か独身か、彼氏ありか無しかという話ではなく、心が苦しくなった時、どこまで自分の本音に素直になれるかだ。
徳子も、衝動的に意地悪を仕掛けたけれど、途中で自分の過ちを認め、愛を求める自分自身と向き合っていく。
人生は理屈ではなく、迷ったり、落ち込んだりする自分自身の歴史に他ならないからだ。
物語の最後に、「キャリアか……」と淋しくつぶやく徳子に、「大丈夫、次はあなたの番よ」とエールを送ることができるし、またそれが信じられる。
本当のひたむきさは、「結婚とはー」「人生とはー」みたいな自説に凝り固まることではなく、時に泣き、時に叫びながらも、自分がこれと選んだ道をひたすら歩いていくことだろう。
誰もが思うような愛を手に入れられるわけではないが、プロフェッショナルに徹することはできる。
仕事とは、本来、そういうものではないだろうか。――己を誇示する為のものではなく。
現代女性の揺れる心の内を、ウェディングドレスという、シンボリックなものに託して綴る本作は、池田理代子の作品の中でも別格だ。
この作品をどう読むかで、その後の人生も大きく変わっていくのではないだろうか。
コミックの紹介
私が購入したのは、こちらの単行本です。
『ウェディングドレス』の他、トランスジェンダーの愛と苦悩を描く『クロディーヌ』、結婚を前に揺れ動く女性の気持ちをテーマにした『セイリング』、漫画家志望の少女の家に住み込みのお手伝いとしてやって来た老女との触れ合いを描いた『雨上がり』が収録されています。
どれもみな、傑作です。
初稿 2007年3月29日