作品の概要と見どころ
白い巨塔 (1963年9月~1965年6月)『サンデー毎日』に連載。
続・白い巨塔 (1967年7月~1968年6月)
※ 現在は、本編・続編という区切りではなく、「上巻」「中巻」「下巻」のように、一つのストーリーとして編纂されている。
あらすじ
地方の貧しい出自である財前五郎は、持ち前の才覚と、義理の父であり、浪速の裕福な産婦人科医・財前又一の人脈をバックに、浪速大学医学部・教授の地位に上り詰める。
だが、己の技量に溺れ、早期胃がん患者の肺転移を見落とし、外科学会の海外出張中に、患者・佐々木庸平を死に至らしめる。
患者遺族は財前を告訴するが、財前は政治力を駆使して有利な証人を立て、第一審における原告の訴えを退ける。
だが、患者遺族の怒りは収まらず、人権派弁護士や、佐々木洋平の臨終に立ち会った内科医・里見らの助力を得て控訴審に持ち込み、財前の誤診を法的に認めさせる。
追い詰められた財前は、すぐさま上告の手続きを進めようとするが、心身ともに消耗しきっていた財前に苛酷な運命が訪れる……。
見どころ
骨太で知られる山崎豊子の作品の中でも群を抜いて面白く、完成度の高い医療小説の金字塔。
医学界のヒエラルキー、医師会と医学部、医療業者と医療系議員の癒着、教授選の裏工作や、無窮助手の実態など、昭和の医療現場の問題点を生々しく描き、世間に衝撃を与えた。
何度も映画やTVドラマ化されているように、本作は法廷劇のみならず、貧しい生い立ちから権威に固執する財前五郎、冷遇されても人間としての矜持を貫く内科医の里見、裏工作に敗れた前教授の東、見栄っ張りの教授夫人、里見を慕う教授令嬢の佐枝子、財前の誤診を知りながら嘘の証言をする部下の柳原医師、愛人ながらも誠実で、クールなリアリストのホステスのケイ子、主人を亡くして、たちまち困窮する浪速の商家の佐々木一家など、個々のキャラクターが際立つ、重厚な人間ドラマでもある。
長編でありながら、まったく中だるみせず、最後まで一気に読めるのは、本作が雑誌の連載小説だからだろう。
執筆中は、医療担当の編集者が傍について、徹底的に科学考証したとも聞く。
CTや抗がん剤が当たり前になった現代から見れば、医学的な古さは否めないが、医療界の構造や、その根っこに横たわる人事や給与に関する問題は今も変わらないし、医師の傲慢、患者の不安、見て見ぬ振りのスタッフなどは、共感する部分も多いのではないだろうか。
優しさや生きることをテーマにしたフィーリング小説ではなく、実存の医療技術をベースに構築された社会小説なので、読み応えも抜群。
医療人も、そうでない人も、一度は読んで欲しい名作。(週刊文春系が好きな人に特におすすめ)
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作家の社会的使命とは
素人には専門家の言うことが分からない
本作に関しては、すでにTVドラマや漫画本を通して、広く知られているし、小説自体も完成度が高いので、当方から特にコメントすることもない。
ともかく、読んでくれ。
それが全てだ。
それより、作家・山崎豊子に興味があるので、氏の信念がひしひしと伝わってくる『あとがき』を紹介する。
『白い巨塔』は、取材に膨大な時間とエネルギーを費やした。
医学に全く素人である私は、取材の前にまず予習が必要であって、がん手術の取材一つにしても、あらかじめ専門書によって、その順序、周辺の臓器などを頭に入れておかなければ、到底、解るものではない。したがって、予習段階の資料読みから悪戦苦闘しなければならない。
例えば用語一つにしても素人の私には難解を極めた。「外科的侵襲」(手術すること)「剖検」(病理解剖のこと)など、数え挙げれば限りがない。医学専門用語は、おそらく明治時代にドイツ語を直訳した言葉が、そのまま踏襲されているためだからと思われるが、執筆の前段階からこのようなエネルギーを割かねばならないことはこたえた。
私が初めて『白い巨頭』を読んだのは、看護学生の時だったので、「え? 外科的侵襲の意味が分からないのか」と逆に驚いたものだ。
だが、よく考えれば、業界人と一般人の違いはそういうものなのだ。
医師や看護師は、相手も当然知っている、言えば分かるを前提に、どんどん話を推し進めるが、素人の患者には何が何だがよく分からない。
ああだ、こうだと、押し切られ、手術が終ってから、「こんなはずじゃなかった」と、安易に同意したことを悔やむ。
医療者の側で、どれほど気遣っても、私が「外科的侵襲なんて、ちょっと考えれば分かりそうなこと」と思うように、患者には想像すらつかないことの方が圧倒的に多い。
その齟齬が、佐々木庸平のような誤診や不満を生むのだろう。
とりわけ、現代は「何でもネットで検索」で、有名メディアにさえ、怪しげな健康情報が溢れかえっている。
「がんに効く」と言われたら、ツバメの巣でも煮込んで食べるような切羽詰まっている人も多い中、わずかな診療時間で、全てを説明し、なおかつ納得してもらうのは、至難の業である。
だからといって、「勝手にすれば」と突き放すわけにもいかず、医療者としては、できるだけ話し合いを重ね、現代的な患者の不安や不満とじっくり向き合っていく他ない。
そういう意味で、学生時代に山崎氏の『あとがき』に出会えたことは良い教訓になったし、これはどんな専門分野にも当てはまると思う。
どの業界も最新の知識や技術を身に付けるのは大変だが、素人目線や感性を失わずにいるのも、同じくらい、難しいのである。
物語の社会的責任
また本作の社会的影響について、最初の設定では、「財前先生、勝訴」で終るはずだったのだが、社会的責任を考慮して、続編となる控訴審のエピソードを書いた経緯も『あとがき』に記されている。
ところが、この小説の判決について(第一審の財前先生の勝訴)多くの読者の方々から「小説といえでおも、社会的反響を考えて、作者はもっと社会的責任をもった結末にすべきであった」という声が寄せられた。作家としては既に完結した小説の続きを書くことは、考えられないことであった。しかし、生々しく、強い読者の方々の声に直面し、社会的素材を扱った場合の作家の社会的責任と小説的生命の在り方について、深く考えさせられた。
現代はどうだろう。
表現の自由と社会的責任がセットで語られることはあるだろうか。
世の中には、『作者の自由』で済まないこともあり、ある程度、名の通った人については、社会的使命や社会的責任が伴うものと思う。
『白い巨塔』については、「財前勝訴」でも、それなりに読者は納得するかもしれないが、やはり人の命に関わることだけに、「作者の勝手」では済まされなかったのだろう。
山崎氏に関するエピソードを見る限り、そこまで激しいパッシングがあったとは思えないが、作家としての社会的責任を痛感し、筆を執られたのは確かだと思う。
それにしても、第一審で、ぎりぎり勝訴した内容を、控訴審では法的に覆し、なおかつ万人が納得するようなドラマに仕上げるのは並大抵の努力ではなかっただろう。
それもこれも、理不尽な医療業界に対する義憤があればこそ。
作家の功名心だけでは、到底、成し得ぬ偉業である。
最後に、当方が所有する『続・白い巨塔』の解説を紹介したい。
山崎豊子は昭和33年に『花のれん』で第39回直木賞を受賞したおり、つぎのように述べた。
「私は盆栽作りのような枝ぶりのよい小説は書けそうもないし、また書きたいとも思わないのです。禿山に木を一本、一本、植林して行くような、いわば “植林小説” を書いて行きたい。素材としては、大阪の空と川と人間を書き続けたいのです。私にとっては、自分の育った風土の中から人間を見詰めて行くのが、最も確実な把握の方法だと思うのです」
≪中略≫
(毎日新聞社・大阪本社に勤務時代)あるとき彼女は徳川夢声を取材するため大阪中央放送局へ行ったところ、夢声は泥酔していて、二度面会をことわられ、三度目にはたいへんつらくあつかわれ、憤然として社へもどった。すると学芸部長から、「新聞記者は、どんなことがあっても目的を達するまで取材を放棄してはいけない、もう一度取材に行くように」と命じられたため、彼女は社を辞めるといって泣き出したという。
そのやりとりをそばで黙ってみていた井上靖が、「個人山崎豊子が取材していると思うからいけない。新聞社の塩とをしている間は、新聞社の機構の中の一単位だと割り切って仕事をしなさい。そうすれば、自分に傷がつかないし、汚れなくてすむ」とさとしてくれた。
以後彼女はこの言葉をひとつのささえとして、来ちゃとしてのはげしい仕事をやってのけたそうである。
彼女は井上靖から文章の書きかたについてきびしい指導をうけ、文章というものを本気で考えるようになり、さらに仕事を通じて取材のしかたを身につけたが、同時に新聞社の塩とをきちんと果たしながら、小説を書く井上靖の存在に接して、小説家志望の気持をかきたてられるところがあったに違いない。
≪中略≫
山崎豊子はこのテーマ(白い巨塔)に挑んだ慰留をつぎのように述べている。
「私がこの小説を書いたのは、医学界の良心を問おうとか、医学界の前近代的な封建制に挑もうとかいうような勇ましい気持からではなく、そこに何よりも強烈な人間ドラマがあると感じたからである。例えれば、“山がどんな山であるか”ではなく、“そこに山があるから”というあの登山家の気持に通じたものである。
したがって、小説の中の大学は、小説というフィクションの世界で、作者が強烈な人間ドラマを描き出すために設定した大学であって、強いていえば、日本全国のどの大学にも大なり、小なり残っている封建的な機構と人間関係を、小説の中の一つの大学に集約したのである」
尾崎秀樹(昭和53年5月)
田宮二郎・主演のTVドラマ
『白い巨塔』も何度かTVドラマ化されているが、やはりぶっちぎりで完成度が高いのは、田宮二郎・主演、山本學、島田陽子、太地喜和子、中村玉緒、中村伸郎、児玉清といった、昭和の名優が総出演した1978年版であろう。キャストなどはWikiを参照のこと。 https://w.wiki/589a
まるで本人が乗り移ったような田宮二郎の財前教授をはじめ、養命酒のCMがお似合いの山本學(里見助教授)、深窓の令嬢を絵に描いたような島田陽子(佐枝子さん)、バーのホステスながら切れるような知性を感じさせる太地喜和子(ケイコ)、私生活を地で行くような中村玉緒(佐々木庸平の妻)、噺家のイメージがぴったりの曽我廼家明蝶(財前又一)など、これ以上、完璧な配役もなく、よくこれだけ奇跡のようなメンバーが揃ったものだと嘆息する。
やたら料亭の場面が登場するのは気になるが(医者も議員も、そんなに会合する暇があるのか?)(鹿威しのカッコーンが笑える)、脚本も、OPも素晴らしく、文句のつけようのない名作である。あ、でも一点、佐枝子さんの「里見先生、抱いて下さい」はアカンやろ・・・。
控訴審で庶民派の熱血弁護士を演じる児玉清も、パネルクイズ・アタック25の司会がそのまま降臨したみたいで、「何ですって?」の台詞回しは一度聞いたら忘れられない。
審理の終盤、「医学に素人のあなたに、そんなことを言われる筋合いはない!」と反論する財前教授に対して、「素人とか、玄人とかの問題ではない! 人間の命の問題です」と切り返す場面も良かった。
本当にその通りで、今もTwitterで繰り広げられる、専門家 VS 素人の不毛な争いを見ていると、自分も児玉清になって降臨したくなるほどである。
もう二度と、こんな骨太なドラマは作られないし、演じる役者もいない。
本当に奇跡のような作品と思う。
これこそNetflixで配信すべき、最上級の医療ドラマである。(70年代のスターウォーズと同じで、医療技術の古さは気にならないと思う)
*
太地喜和子さんは決して絵に描いたような美女ではないが、何とも色気があり、演技力も抜群。
平成版で、黒木瞳が同じ役を演じていたが、黒木氏の場合、本当にバーのマダムみたいで、かなり白けた。
こういう役は、水商売から縁遠い、上品で知的な女性が演じるから、味がある。
渡辺淳一 VS 白い巨塔
医療小説といえば、整形外科医でもある渡辺淳一氏の作品も読み応えがある。
手術の順番で人生の明暗が分かれる『光と影』、ニヒルな外科医・直江と末期がん患者のやり取りが心に残る『無影灯』など、実際に臨床を経験した者にしか書けない描写が素晴らしい。
山崎氏の『白い巨塔』を社会派ドラマとするなら、渡辺氏の医療小説やエッセイは純文学といったところ。
文体も、テーマも、水と油ほど違うが、医療に寄せる想いは同じだ。
実際、医療ほど人間の素が現れる現場もなく、生死がかかっているだけに、そこで交わされる言葉や行動も一つ一つが真剣勝負である。
ゆえに、「そこに医療というテーマがあったから」と、前人未踏の社会派小説に挑まれた山崎氏の気持ちも分かるし、人気作家になり、医療の現場から離れても、それについて書かずにいられなかった渡辺氏の動機も理解できる。
他にも医療ドラマは数多く存在するが、世間で話題になるものは、大抵、不治の病の少女や難病に挑む凄腕外科医であり、実際を描いたものは少数派だ。(前者も実際を描いてはいるが、水戸黄門のようなノリで、パターンも決まっている)
それはやはり、「本当のこと」を言ってしまうと、あまりに生々しく、それこそ社会的影響が計り知れないからである。下手すれば医療不信を生む。
その点、臨床経験のある渡辺氏は、「本当のこと」を文学的に昇華する才覚があったし、山崎氏は新聞記者の経験から、「フィクションはここまで」という線引きをすることができた。
だから、医療者が読んでも唸るような、ぎりぎりの描写が出来たのだろう。
渡辺氏も、山崎氏にも、もっともっと医療ドラマを書いて欲しかったが、渡辺氏は性愛に走り、山崎氏はどんどん歩みを進めて、医療はこれが最初で最後になってしまった。
後に続くツワモノがなかなか現れないのが残念でならない。
あ、手塚治虫のブラックジャックは別格です(^_^;