新たな感染者と血の償い
午前中の業務が一段落すると、アドナはセスに胸部のガーゼを交換してもらう為、40階の総合病院を訪れた。マネキンみたいな胸元を見られるのは辛いが、隠し通したところで、自然に良くなるわけでもない。スティンと同じで、いっそ何もかも打ち明け、助けを求めた方が、自分にとっても周りにとっても、救いになるのではないか……。
そうして主塔のメインエレベーターを降り、総合病院の一般受付に向かったところ、外来の奥が妙に騒がしい。複数のメディカルスタッフが救急カートを押して、ばたばたと処置室に駆け込み、廊下で順番待ちしている患者も不安そうな表情で顔を見合わせている。
もしや第三の患者が発生したのではないかと胸騒ぎがした時、セスから電話がかかってきた。
「今度は妊婦です」とセスが言った。「今朝早く、『お腹が痛い』と産科外来を受診されたのですが、切迫早産ではなさそうなので、準備室で様子を見ていました。ところが半時間前、激しい便意をもよおし、トイレに駆け込んだら、血液の混じった下痢便が大量に出たそうです。妊婦は流産と勘違いして、トイレの個室でパニックを起こし、今、処置室に運び込んで、ショック症状の応急手当をしているところです。命に別状はなさそうですが、先日より微熱が続いて、消化器官に異常があるのは本当です。もう少し落ち着いたら、病棟に移して、本格的に検査を始める予定です」
「妊婦も紅疹病疑い?」
「ジュール先生は女の子と同じ感染症を疑っておられます。肝障害や脾腫を引き起こす、正体不明の方です」
「感染経路は?」
「夫の話では、140階から最下階にかけての外周水路の清掃を担当していたそうです」
「また『水』か」
「そうです。ともかく、後でゆっくり話しましょう。手が空いたら、僕の方から電話します」
こうなるとアドナもガーゼ交換どころではなく、妊婦の容態が気にかかる。もし妊婦があの少女のように悪化したら、お腹の子も絶命するのではないか。
その時、処置室の扉が大きく開き、妊婦の移動寝台が運び出された。妊婦は酸素マスクを付けているが、「お願い、赤ちゃんを助けて」と泣き叫んでいる。一瞬、アドナと目が合い、アドナは胸を突かれたように壁にもたれかかった。
『神の遺伝子』が思い出され、目のない少女や四肢欠損した仲間の姿が悪夢のように脳裏に浮かぶ。
彼らも実験動物と同じ、皮を剥がれ、薬液を注射されて、肉の塊みたいに死んでいった。そして、自分も同じことをウサギやマウスにしなかったか。自分だけは罪を犯さなかったと言い切れるだろうか。
今こそ、その血で償えと、冥府の底から無数の実験動物が叫ぶ。
エルメインが彼のDNAに手を伸ばし、玩具のように弄ぶ姿が脳裏に浮かぶと、アドナは気を失い、その場に倒れた。
他人の為に自分を犠牲にしてはいけない
ふと気が付くと、診察台に寝かされていた。傍らには診療用エプロンを着けたセスが居て、ワーキングデスクではジュール医師がカタカタと電子カルテを作成している。
慌てて身体を起こそうとすると、セスがそっと肩を押さえ、「もう少し横になっていた方がいいですよ」と彼の動きを制した。
胸元を探ると、ケーシー白衣のボタンが外され、ファスナーも全開になっている。呼吸音を聴くために大きく前開きにしたのだろう。
アドナが身をよじり、苦しそうに溜め息をつくと、ジュールが椅子から立ちあがり、「一時的な脳貧血だよ。バイタルサインに異常はないから、少し休めば気分も落ち着く」と説明した。
そろそろと胸元を探り、ガーゼの代わりに新しい大型絆創膏が貼られているのに気付くと、「出血などしていませんでしたか?」と不安そうに訊いた。
「いや、穿刺したところは大丈夫だよ。まだ軽く発赤しているが、炎症というほどではない。しかし、何の為に胸腺の生検など……これもエルメインの指示かね?」
「わたしには分かりません。でも、突然呼び出されて検査をされるのはいつものことです」
「呆れたものだ。患者に何の説明もなく生検とは。前時代なら訴訟ものだぞ」
ジュールは冗談ぽく言ったが、アドナは笑う気力もなく、「訳の分からないことばかりです……」と目を伏せた。
「よかったら、話を聞くよ」
ジュールが促すと、セスも察したように診察用のエプロンを外し、「それじゃあ、僕は教室に戻ります。また後日、ゆっくり話しましょう」とすみやかに退室した。
セスが行ってしまうと、アドナは寝台に横になったまま、ジュール医師に向き直り、「三人目の感染者はどうですか?」と尋ねた。
「やれやれ。自分も具合が悪い時に、まだ他人の心配かね? セスが案じていたよ。そんなに気を張らなくても、君の努力はみな理解していると。もっと気楽に生きればどうかね。君一人が世界を背負っているわけじゃないんだよ」
「だとしても、この問題に無関心ではいられません。いずれ我々はここを出て行くことになる。その時、医薬品不足と感染症が最大の脅威になることは先生も御存知でしょう。今はそれぞれが自分の役割について考える時です」
「そんなことを意識しなくても、皆、存在するだけで、何かしら役に立っているものだよ。赤ん坊なんて、そこに寝ているだけで周りを幸せにしてるじゃないか。現に君は農業研究所で立派な仕事をしている。それには何の意味もないのかね?」
「しかし……」
「他人の為に命を懸けようなどと思ってはいけないよ。自分自身を慈しむことは、他人を愛するのと同じくらい大事だ。本当に人々を幸せにしたいと願うなら、まずは君自身が幸せにならないと」
「では、せめて何が起きているのか教えて下さい。わたしにも出来ることがあるかもしれません」
≪中略≫
ジュールの診察と幸せな記憶
「感染者から血清を作ることはできませんか?」
「血清療法のことかね。確かに破傷風やジフテリア、エボラ出血熱等で抗血清製剤が作られた歴史はあるが、このケースにも通用するかどうか」
「でも、可能性はありますね」
「可能性はあったとしても、ヒトの血清を使って抗血清剤を作るのは、ヤギやウサギで実験するような訳にいかないよ」
アドナはしばし口を閉ざしていたが、妊婦の必死の眼差しを脳裏に浮かべると、「神の遺伝子というものがあるそうです……」と切り出した。
「神の遺伝子だって?」
ジュール医師が驚いたように聞き返すと、アドナは自分がエルメインのゲノム編集によって生を受けたこと、多くの仲間が実験用シャーレや代理母の胎内で失われたこと、彼は生き延びたが、生まれた時から性器が存在しないことを、ぽつりぽつりと口にした。
ジュールはじっと彼の話に耳を傾けていたが、
「恐ろしいことだ。実に恐ろしい。まだヒトの遺伝子の全てが解明されたわけでもないのに、受精卵のヒトゲノムを一からデザインするとは……」
と怒りに身を震わせた。
「先生。わたしは大丈夫ですか?」
「今ここで精密検査はできないが、触診や聴診である程度のことは分かるよ。臓器のしこり、リンパ節の腫れ、脈拍の乱れや下肢のむくみ。呪術と馬鹿にする者もあるが、医学の基本中の基本だ。目の前で呼吸困難で苦しむ患者に、断層撮影の準備が整うまで待てというのかね。動脈に触れれば、少なくとも脈拍の異常は分かるし、採血などしなくても、目に見えて分かる異常もある」
アドナが寝台に横になったまま、そろそろとケーシー白衣の裾をたくし上げると、「上は脱いだ方がいい。君が嫌でなければ」とジュールが促した。
アドナは上半身を起こすと、恥に震えるような思いで上着とノースリーブのアンダーシャツを取った。
マネキンみたいな無乳頭の胸板を目にすると、微かにジュールの表情が動いたが、「それじゃあ、眼瞼の色から診てみようね」と声をかけると、アドナの両頬に手を伸ばし、軽く下の瞼を開いた。
「眼瞼の貧血はないし、黄疸も見られない。健康な人の眼そのものだよ」
それから首筋のリンパ節、肋骨の打診、呼吸音の聴診。
次は寝台に横になって、みぞおちの触診、右上膊部から左下腹部にかけての触診――。
熟練の医師らしい、温かな手で診察されるうち、アドナの脳裏に診察室での忌まわしい出来事がよみがえった。
あれは十二歳の誕生日。
ゲルダ先生の留守中、ちょっとした出来心でワードローブを覗くと、色とりどりのドレスやワンピースが目に入った。試しに一着、花柄のワンピースを胸に当ててみると、可愛い女の子が鏡に映っている。
これぞ本当の自分のように感じ、次から次に試してみると、不思議なほど心と身体にフィットする。
その後、衣装を取っ替えひっかえ、時の経つのも忘れてファッションショーを楽しんでいると、思いのほか早くゲルダ先生が帰宅し、ドレッサーの前で口紅を引く彼の姿に茫然とした。だが、ゲルダ先生はきつく叱ることもなく、黙って彼の身体を抱きしめてくれた。
だが、その話は矢よりも早くエルメインに伝わり、翌日、エルメインの診察室に呼び出された。それも通常の診察室ではなく、婦人用の診察台がある部屋だ。
エルメインは彼に衣類を脱ぎ、診察台に上がるよう指示すると、彼の両足を大きく広げて、足台パッドに固定した。それから胸や太腿を撫で回し、直腸に指を挿入したり、恥骨の上をこりこり揉んだり。それは診察というより、ただの性癖としか思えず、あまりの恥辱にたまりかねて「やめろ!」と叫ぶと、「やっぱり男なのか」とエルメインは素っ頓狂な声を出し、ようやく彼を診察台から解放した。
だが、その後も、「女性の裸に興味はないのか」「自慰をしたことがあるか」等々、思い出すのも汚らわしい質問を浴びせ、挙げ句に彼を精神科医に診せようとしたので、彼は診療を拒否して、何日も自室に閉じこもった。
心配したゲルダ先生がベルベットのワンピースをプレゼントしてくれたが、彼はそれを突き返すと、もう二度と女の子の服に憧れたりしないと心から誓った。
それでもあの日、鏡の中に見た女の子の姿が忘れられない。バラ色の頬に、さくらんぼのような唇をして、幸せそうに笑っていた――。
一通り診察が終わると、アドナは着衣を整え、ワーキングデスクの前でジュールと向かい合った。
恋の行方と心の性
ジュールはかたかたとキーボードを打ちながら、
「一通り診察してみたが、内臓にもどこにも異常は見られない。脈拍や血圧も正常だし、今のところ大きな問題はなさそうだよ」
とやさしい口調で言った。
「そうですか……」
「エルメインがどんなゲノム編集を施したのかは知らないが、君は立派な大人だし、一人の市民として生きていく権利もある。恐らく、君のもっとも大事な部分は身体の奥深くに潜んでいるのだろう。上手く発現しなかっただけで、適切なホルモン療法を施せば快方に向かう可能性はあるし、形成手術をすれば、見た目と自我を近づけることはできる。だが一番肝腎なのは、君がどう生きたいかだよ。それはホルモン療法や形成手術以前の問題だ」
「先生……」
「セスも心配していたよ。君に必要なのは仕事ではなく、心のケアだと。十代二十代は若さで誤魔化せても、四十にもなれば体力も落ちるし、外見も変わる。まして君に親きょうだいは無く、エルメインの寵愛もいつまで続くか分からない。いつか孤独と寂寥に苛まれるぐらいなら、今のうちにしっかり問題と向き合い、自分を大切にした方がいい。君の若さなら叶う夢もたくさんあるはずだ」
「他人に『気持ち悪い』と言われてもですか?」
「そんな意地の悪いことを言う人があるのかね」
ジュールが目を剥くと、アドナは最下階で出会ったハスラーのことを話し、あれからずっと胸が苦しいのだと打ち明けた。
「これまで男でもなく、女でもなく、性を超越するようにして生きてきました。だけど、彼に出会ってから、何もかも虚しく感じられ、仕事をしていても溜め息しか出ません。自分がひどく無意味に感じられ、生きているのが苦しいくらいです。――ねえ、先生。心だけでは駄目なんですか? 男同士だと、優しさや思いやりなど、何の意味もないのでしょうか? もう男として生きていく自信もなくなりました。毎朝、鏡で自分の姿を見る度に悲しい気持ちがして、いっそ死んでしまいたいぐらいです……」
ジュールはふむふむとアドナの告白に耳を傾けていたが、静かにペンを置くと、「それは重症だな」と呟いた。
「人類がかかる最も深刻にして厄介な病だ。治療法もなければワクチンもない。現代の医学ではどうすることもできない熱病の一種だよ」
「先生、それは何という病気ですか? 隠さずに教えて下さい!!」
「恋煩いだよ」
アドナがどーんと椅子から転げ落ちそうになると、ジュールは「ははは」と明るく笑った。
「好きなら好きでいいじゃないか。若い人が恋をして、その人と一緒に生きたいと願う。それこそ社会にとって最大の希望だよ」
「でも、彼は同性で、何の発展もないんですよ? 男同士で恋をして、どんな希望があるというんです?」
「《スネーク》は男同士で恋をしてるよ。今日も知り合いの男性が見舞いに来てた。それはそれで幸せそうだがね」
「……」
「では、逆に聞くが、君が女性ではないと否定する根拠は何だね? 誰かにそう言われた? それとも、自分は絶対女性ではないと言い切れる何かがあるのかね」
「男として生きるのに、根拠が必要なんですか?」
「だから、そう考えること自体に無理があるんだよ。わたしは男性だが、朝目覚める度に、『よし、今日も男として生きるぞ』なんて自分に言い聞かせたりしないよ。だが、君は『男として生きる』と自分に言い聞かせなければ男になれないのだろう。それは演技の人生だよ」
「でも、わたしは女性ではありません。女性になりたいと思ったこともない。男性の方が幸せなんです。彼に対しても、いい男友達でいたい。この気持ちは友情です」
「君の言い分はもっともだ。男同士の友情に失恋は存在しないからね」
アドナははっと胸をつかれ、決まり悪そうに俯いた。
ジュールはそんなアドナの顔を優しく見つめ、
「心身の問題と恋の行方をごっちゃにしてはいけないよ。友達でいたいから男でいる、彼が望むなら女になる、そういう問題ではないだろう?」
「じゃあ、どうすればいいんです?」
「相手の人柄にもよりけりだが、まずは自分に正直になることだ。自分で自分を偽りながら、どうして他人と信頼関係が築けるかね? 舞台の演技がどれほど美しくても、人が恋するのは素顔の方だ。どうせ愛されるなら、本当の自分の方がいいだろう? まずは自分を知らないと。恋も、治療も、それからだよ」
アドナの目に涙が浮かんだ。
「長い間、自分を抑圧してきたのだろう。今度のことはショックだろうが、長い目で見れば、より大きな幸せを掴むチャンスでもある。この際、何としても彼の愛を得ようとする気持ちは忘れなさい。それより自分がどう生きたいか、その一点に集中するんだ。今は彼に夢中だが、いざ付き合ってみたら、人の痛みも苦しみもまるで理解しない、子供みたいな人間だと分かるかもしれない。そんな男の為に一世一代の形成手術に踏み切って、何の幸せも感じないようでは本末転倒だろう。それより本当の自分を知って、この先、どう生きたいか、しっかりイメージすることだ。その過程で彼ともじっくり話し合い、愛が芽生えれば万々歳。そうでなければ諦める。だとしても、君が魅力的な人なら、次から次に求愛者が現れるのではないかな」
「皆に気持ち悪いと思われませんか?」
「どう心を尽くしても、言う人は言うさ。だが、君の願いは大勢にちやほやされることではなく、一人の人に深く愛されることだろう。周りが君をどう思うか、わたしにも分からないが、少なくともセスとわたしは君の味方だし、他の医療者に聞いても、きっと同じことを言うだろう。君が心の底から助けを求めれば、手を差し伸べてくれる人はあちこちにいるはずだ」
ジュールがペーパーを差し出すと、アドナは子供みたいに洟をかんだ。
「遺伝子治療も、ホルモン療法も、本来、君のような人を手助けする為に開発されたものだ。だが、一部の虚栄心が本質を歪め、過った形で世間に伝わってしまった。今、手元にある医薬品や医療器具も限られているが、君が本当にそれを望むなら、全力を尽くすよ」
ジュールが励ますと、アドナは礼を言って席を立った。診察室を出る頃には、雲間に一条の光が差すように感じ、なぜこの人が『診察室のキリスト』『神の手(ゴツドハンド)』と慕われるのか、分かるような気がした。