スティンの違和感と神さまの手違い
「おい、待てよ、キューピット!」
外周回廊でスティンがセスを呼び止めた。セスはゆっくり振り向くと、「少し話しませんか?」と窓際のベンチを指差した。
ほのかなLEDライトが照らす中、スティンはセスの隣にぎこちなく腰を下ろすと、「お前、どういうつもりだ」と問い質した。
「あなたも気付いておられるんでしょう」
「何のこと」
「DNA先生です。普通の男性とはちょっと違ってる」
「お前、あいつの何だ? いきなりやって来て、天使がどうとか、事故がどうとか! いいか、俺はれっきとした理由があって、あいつと距離を置いてるんだ。泣き落としで俺の気が変わると思ったら大間違いだぞ」
「僕にはあなたの戸惑いが手に取るように分かります。僕も同じ戸惑いを経験しましたから」
「戸惑い?」
「僕が初めて先輩に出会ったのは十一歳の時です。いつも白百合みたいに凜々しく、笑顔も優しくて、遠くに姿を見かけるだけで胸がときめいたものです。本人は『男性』と言い張るけど、僕には到底信じられなくて、僕の気持ちをはぐらかす為に冗談を言っているのではないかと疑ったほどです。だけど、一年経ち、二年経ち、三年経っても先輩の体付きがまったく変わらないのを見て、本当に男性なのだと悟りました。今も慕う気持ちに変わりはないですが、時々、永遠の片想いみたいに感じます」
「それで、実際はどうなんだ? 男なのか、女なのか」
「生物学的には男性だと思います。でも、神さまの手違いで、女性の心が入ってしまった」
「神さまの……手違い」
「だって、そうとしか言いようがないでしょう。先輩は性的に倒錯しているわけでもなければ、人格障害でもありません。あれが普通なんです。持って生まれた身体の性と心の性が違っているだけで、人間としては立派な方です。だけど訳あって、女性でいることを止めてしまったのだと思います」
女性として生きるのは辛いこと
「俺にはさっぱり分からない。『女性でいることを止める』って、どういう意味だよ」
「女性だと生き辛い、という意味です。僕が思うに、かなり早い時期に性的に辛い体験をされたのではないでしょうか。普通の女の子でも、性的に嫌な経験をすると、女性性を拒否して、髪をショートにしたり、少年みたいな恰好をしたり、女性を想起させるものは一切排除することがあります。先輩もそれと同じです。心のどこかでは、自分が女性だと認識されているはずです。でも、女性だと都合が悪いから、自分は男だと言い聞かせているのです」
「証拠でもあるのか」
「証拠が有るとか無いとかの話ではなく、想像力の問題です。あなたも初めて会った時、違和感を覚えたでしょう。体付きは男性で、本人も男性と言い張るけど、どこか物の感じ方や仕草が女性的で、自分と同じ男性とは到底思えない。それで時々、レディのように扱うと、本当の先輩が顔を出すんです。それがまた妙に色っぽい」
「だったら、お前が彼氏になってやれよ!!」
「ダメですよ。先輩、僕なんか眼中にないですから」
「聞いているこっちが倒錯しそうだ。それで俺にどうしろと?」
「先輩のこと、気持ち悪いなんて言わないで欲しいんです。先輩だって、決して趣味で男になったり、女になったりしているわけではありません。心の葛藤や性的トラウマなど、いろんな理由があって、本当の自分を出せないんだと思います。あるいは自覚したくないのかもしれません。でも、あなたに出会って、心のバランスが崩れてしまった」
「でも、生物学的には男だろ? だったら男だ。それ以上のものでも、それ以下のものでもない」
「だから、中身は女性なんですって」
「女、女と言うなよ! 俺が混乱するだろうが!」
「あー、本気で好きになるのが怖いんですね。分かります」
「おい、お前! いい加減にしろ! 俺が言いたいのはな……」
「どうか理解してあげて下さい。違和感を覚えているのは、僕やあなただけではありません。先輩の周りの人もみな同じです。でも、何かに気付いても、気付かぬ振りをするのが優しさでしょう。あなただって、そういう優しさに救われて、今まで生きてきたはずですよ。気持ち悪いとか、男同士では付き合えないとか、そんな風に切り捨てないで欲しいんです」
「確かに『気持ち悪い』は言い過ぎた。俺も頭に血が上ってた」
「僕も詳しいことは分かりませんが、先輩が医学で言うところの正常と大きく違っているのは確かです。今は健康でも、将来、深刻な問題を引き起こすかもしれません。だからといって、いきなり本人の肩を掴まえて、ああしろ、こうしろと、指図するわけにもいきません。こういう問題は、本人が自覚して、積極的に治療する意思を固める過程が非常に重要です」
大切なのは愛を返すこと
「あいつ……死ぬのか?」
「僕には何とも言えません。ただ一つ確かなのは、先輩は限られた命を精一杯生きようと努力されていることです。あなたはお節介に感じるかもしれませんが、先輩は一人の人間として、あなたに手を差し伸べ、不運な境遇から救い出したいと願っておられます。先輩にとって、天上から見えるものは、みな慈愛の対象なんですよ」
「知ってるよ。エデンの庭師だ。自宅でも、花やら草やら、いっぱい育ててる」
「なぜ、あなたが知ってるんですか?」
「それは、まあ……面を見れば分かるじゃないか。コラムの後半はまるでポエムだし、瞳もきらきらして、頭の中までお花畑って感じだぞ」
「でも、頭の中までお花畑の人がいるから、この世に美しいものが存在するんでしょう。そうでなければ、今頃、グリーンエリアも荒れ果てて、外周水路も腐敗してますよ」
「だからといって、男女のようには付き合えない。いい人だとは思うが、好きだの何だの言われても、俺には答えようがない」
「そんなこと、あなたに言われるまでもなく、本人が一番よく分かっていると思います。それでもあなたを助けたいんですよ。自分がそうであるように、あなたも不遇に喘いでいるのが分かるから」
「あいつに同情される覚えはないよ」
「同情ではありません。現実社会の理不尽に対する悔しさです。先輩は、あなたがビリヤード大会に出場して、堂々と優勝カップを手にする姿が見たいと仰ってました。そして、それが理不尽に対する勝利でもある。上階のエリートだからといって、皆が皆、グリルチキンに舌鼓を打ち、満足しているわけではありません。僕だって、日に日に医療資源が失われ、検査も投薬も満足にできない実状に怒りと悔しさを噛みしめています。僕に執政府を動かすほどの力があれば、今すぐ《隔壁》を蹴破って、市民全員をタワーの外に連れ出していますよ」
「……」
「別に男女の間柄でなくても、愛を返す方法はいくらでもあるでしょう。先輩も今は動揺されていますが、元々、聡明な方ですから、気持ちが落ち着いたら、あなたとも上手に距離が取れるような気がします。また気が向いたら、連絡してあげて下さい。先輩に直接連絡するのは気が引けるなら、僕を通してでも。何もかも落ち着いたら、また一緒にプレーしましょう。元チャンピオンが、もう一度、あなたと対戦したいと言ってましたよ」
スティンの顔がにわかにほころぶと、セスは改めてゲームの御礼を言い、足早に立ち去った。