農園管理人 アドナ
そんな中、人類の未来に思いを馳せ、市民の食を繋ごうと献身する者がいた。『エデンの庭師』で知られる農業研究員のアドナだ。
年齢は二十四歳。少年のように華奢な体躯に、透けるような金髪をなびかせ、屋内農園においては智天使( ケルビム )のように光り輝いて見える。知的でシャープな顔立ちながら、表情は春の女神のように優しく、一見、男か女か分からないほどだ。
だが、彼がれっきとした男性であることは直線的な体付きから分かる。服装も、右肩に三つボタンが並んだケーシー白衣を愛用し、決して女性のように品を作ったりしない。名前もＤＮＡをもじった『ＡＤＯＮＡ( アドナ )』といい、生涯を作物開発に捧げる覚悟だ。
タワーの最上階に作られた屋内農園は、垂直タワー型水耕を主とする植物工場だ。散乱性に優れたフッ素樹脂でコーティングされた天窓からは燦々と光が降り注ぎ、わずかな水と養分液で作物を実らせる。
高さ５メートルの縦型パイプ式水耕タワーと多段式栽培シャフトには、トマト、レタス、キュウリ、ほうれん草といった緑黄色野菜をはじめ、イチゴ、アボカド、レモン、キウィ等の果物が所狭しと栽培され、芳醇な香りを漂わせている。
また屋外から持ち込まれた土壌エリアでは、果樹や根菜、薬草も育てられ、酒類や発酵食品の製造も可能だ。
中２階の加工エリアでは、ウサギ、ニワトリ、七面鳥の他、ゲノム編集された小型ブタや小型ヒツジも飼育され、主にＶＩＰの食用だが、誕生日や冠婚葬祭には下階の住民にも本物のグリルチキンが振る舞われ、庶民のささやかな楽しみとなっている。
年々、食糧危機の不安が高まる中、アドナが心血を注いでいるのは大豆の開発だ。大型家畜の飼育が困難な《天都》において、大豆は重要なタンパク源であり、収穫された大豆は豆腐や豆乳、調味油や粉末に加工される。一部は医薬品にも使われ、栄養補給に有効だ。人体に有害なアレルゲンはゲノム編集によって取り除かれ、乳幼児でも安心して口にすることができる。
アドナが大豆の作物開発に興味をもったのは、ＶＩＰと庶民の食生活の違いにショックを受けたのがきっかけだ。
彼は幼少時よりＶＩＰフロアの一角で暮らし、プロの料理人がこしらえたグリルチキンやラムステーキに舌鼓を打ってきた。しかし、十二歳になり、上級管理職(クラシファイド)の子弟と机を並べて学ぶようになってから、庶民は公共食堂でビュッフェ形式の給食を口にし、その内容も、ビーガンパテ、雑穀粥、生野菜といった質素なもので、本物の肉料理は誕生日と結婚式ぐらいしか口に入らないと知って愕然とした。試しにビーガンパテを口にしてみると、豆粉と水を練ったような味がして、本物のグリルチキンには遠く及ばない。下階の住人はこんな不味いものを口にしているのかと思うと、ひどく気の毒に感じ、ならば自分で作物開発しようと思い立った次第である。
それから必死に研鑽を積み、十代半ばには大人の研究者に交じって農作物のゲノム編集に携わるようになった。いくつかの試作を経て、ようやく実用化に漕ぎ着けたのが、自身で『ＳＯＹＭＥＬＩＵＳ』と名付けた大粒種だ。ＳＯＹＭＥＬＩＵＳは一本の主茎から無数の株をつけ、病気に強い上、従来の水耕大豆に比べてはるかに糖度も高い。次の検査に合格すれば、年内にも庶民の食卓に並ぶだろう。試しに一つ手に取って、さやを開いて見ると、三つ子のきょうだいみたいな緑色の豆が元気に顔を出す。主茎の上から下まで、黒く変色したものは皆無で、どのさやもはちきれんばかりに膨らんでいる。
アドナの出生の秘密
そんな彼の傍らで助手を務めるのは、学生時代から親しくしている後輩のセスだ。金色の巻き毛が愛らしい二十一歳の医学生で、屋内農園には気分転換に訪れている。今日も午後から学科試験にもかかわらず、午前中の手伝いを申し出たのは、セスなりの能率化だろう。
セスは上階の子弟が学ぶ特進クラスで五年間、机を並べて学んだ。
授業は個々の習熟度に応じてカリキュラムを進める自律型教育で、ＡＩを駆使したインタラクティブな学習プログラムが提供されている。
それでも生徒の指導監督にあたる教官が席を離れた隙に、セスは隣の学習ブースから分子生物学の難問についてアドナにヒントを求め、アドナはノートの切れ端に解答の一部を記してセスのブースに投げ込む。宿題の答え合わせに付き合うこともあれば、自由研究のテーマについてディスカッションすることもあり、知的に刺激し合う仲だ。
また学校が休みの日には、トロピカルパークのデッキでくつろいだり、上階のカフェでアフタヌーンティーを楽しんだり。時にはアドナが手作りのパウンドケーキを携えて、９階に住むセスの家族を訪ねることもある。適性が異なる為、共に分子生物学の分野に進むことはなかったが、家族のないアドナにとって、セスは世話のし甲斐がある弟であり、心の癒やしでもあった。
だが、いつもは陽気なセスも今日は沈んで見える。時々、放心したように空を見上げては、軽く溜め息をつき、クピドのように丸い薄茶色の瞳を瞬いている。それもそうだろう。真摯に医学を学んでも、それを実践する機会はなく、もはやこの《天都》に十分な医薬品も、それを作る材料も、ほとんど残されていないからだ。
アドナはハンディタイプの計測器で子実の大きさや形状を計測し、セスがその数値をタブレット端末の専用アプリに入力していたが、一時間もするとさすがに疲れたのか、セスがふーっと深い溜め息をついた。
「少し休もうか？」
アドナが声をかけると、セスは軽く頭を振った。
「いえ、ちょっと日の光が目に染みただけです。エデン屋内農園の愛称に来たのも久しぶりなので」
「だが、無理は禁物だよ。ここでは心身の健康が何よりも大事だからね」
「でも、始めたばかりですし、ご一緒するのも久しぶりなので、もう少し続けさせてください」
「それより東屋で一休みしないか。君にとっておきの飲み物があるんだ」
アドナが『東屋』と読んでいるのは、水耕栽培エリアに設置された作業小屋だ。プレハブ造りの屋内には、農具、検査器具、種苗を保管する冷蔵庫などが揃っている。
アドナは冷蔵庫から絞りたてのイチゴ果汁を取り出すと、豆乳で半分に割り、ステビアシロップで味付けした。セスは軒下のベンチに腰を下ろし、イチゴジュースで喉を潤すと、「こんな甘味は久しぶりです」と顔をほころばせた。
セスの頬にみるみる赤みが差すと、アドナも澄んだ水色の目を細め、
「もうひと月もすれば、もっとたくさんのイチゴが収穫できる。市民にも十分に行き渡り、シャーベットやタルトも楽しめる。まだ終わりじゃない。終わってはいけないんだ。ここに植えた種苗が一つでも実を結ぶ限り」
青々と輝く農作物を見渡しながら、アドナは自らを励ますように言った。
エデンの農作物に大いなる恵みをもたらしているのは、水や太陽光だけでなく、ゲノム編集に依るところも大きい。上質な農作物を大量に収穫するには、開花時期や栄養分に関与する遺伝子を操作し、人為的に機能や形質を変える以外、方法はないからだ。
魚類が進化して肺呼吸を獲得し、陸上生活が可能となったように、人もゲノム編集によって農作物を改良し、飢饉や病害から人類を救ってきた。開花促進、栄養強化、アレルゲン性や有害物質の除去。自然が何千年、何万年とかけて個体を変化させるところを、人類はほんの数秒で遺伝子を操作し、狙いの形質を発現させることができる。《隔壁》を締め切る以前は安全性や倫理性が取り沙汰されることも多かったが、極限状態においては決して堕罪ではなく、生物的危機に打ち克つ為の一種の変異に思える。
アドナがそう考えるのは、自身が最先端のゲノム編集によって生み出されたデザイナーベビーだからだ。
《天都》では、特別な資格を有する遺伝子技士によって、受精卵のヒトゲノム編集が当たり前のように行われている。遺伝的な潜在リスクを取り除き、アレルギーや病原体に強い体質に作り変えるためだ。遺伝子操作すれば、アポロンやヴィーナスのような美男美女に生まれてくるわけではないが、両親から受け継ぐネガティブな体質を改善し、先天性異常や遺伝病の予防には絶大な効果があった。
しかし、《天都》のキャパシティが限界に達し、人類社会の存続も危ぶまれる中、ゲノム編集の目的も、体質改善から完全設計へと舵を切ろうとしている。即ち『新人類の創生』だ。
近い将来、タワーの外に出ることが叶っても、待ち受けるのは原始の大地だ。病院もなく、工場もなく、現代文明から切り離された中で、自らの肉体だけを頼りに生きていかなければならない。飢え、傷病、獣害など、これまで当たり前のように克服できた危機も、未曾有の脅威となって人類に遅いかかる。
そこで身体能力を強化し、新たな機能を獲得しようというのが、新ヒトゲノム計画の趣旨だ。
アドナもまた新ヒトゲノム計画の実験体としてデザインされ、代理母の胎内から生まれた。他の実験体は大半が胎内で絶命したが、アドナだけは健やかに成長し、デザイン通りに育った。容姿端麗、成績優秀、温厚篤実、加えて創造的で、人の持ちうる様々な美徳を一身に備えている。二十四歳になった今も健康状態は良好で、年下のセスより集中力や持久力に長けているのもゲノム編集の賜だろう。今はまだ観察中であることから、セスにも事実は伏せているが、いつの日か、胸を張って告げることができたら、これほど嬉しいことはない。その為にも社会に尽くし、人々の希望となるような存在になりたいと心から願う。
セスの苦悩とアドナの希望
だが、セスは再び溜め息をつくと、「先輩は強いですね」とこぼした。
「何を学ぼうと、子供の頭に氷枕をあてるような手当しかできないのに、何の為の医学なのか。強心剤も、ステロイド剤も、ＶＩＰの為に確保され、そうでない者は合成ガスをかがせて苦しみを紛らわせるのが精一杯。これが本当に高度に発達した人類の末路なのかと思うとやりきれません。指導医のジュール先生にも、家族にも申し訳ないけど、時々、何もかも投げ出して、夢の世界に逃避したいと思うこともあります」
セスが巷で流行っている《コクーン》と呼ばれるフローティング・タンク無重力スパ の快楽をほのめかすように言うと、アドナも「気持ちは分かるよ」といたわった。
「今のわたしたちには先細りの未来しかない。こうしている間にも物資は失われ、明るい展望も日に日に失われていく。学術に携わる者なら、誰もが一度は体験する虚しさだ」
「僕も最初は学びによって人類の未来が開けると信じていました。僕たち若い世代が努力すれば、きっと事態は好転すると。しかし、現実を知れば知るほど、自分たちの置かれている状況がいかに絶望的か、思い知らされるばかりです。消毒液さえ尽きかけている社会に、一体どんな未来があるというのでしょう」
「それでも誰も学ばなかったら、わたしたちはどうやって先人が培った知識や技術を次代に継承するんだ。たとえ男女ひと組でも生き延びれば、人類はやり直せる。いよいよ最後の一人が地上から姿を消すまで、わたしたちは未来の為に研鑽すべきだ。それに君は何も出来ないというが、投薬だけが医療じゃない。君が側に居るだけで、心を慰められる人もあるだろう。そして、そのことが君にとっても救いになる。諦めるにはまだ早すぎるよ」
「そうですね……」
「今のわたしたちには発展は難しい。だが、技術の継承なら出来る。デジタルアーカイブを残すこと。人類の歴史を語り継ぐこと。家族や隣人に愛を実践すること。今は無意味に感じることも、人類がいよいよ滅亡に瀕すれば、その有り難みに気が付く。わたしたちは厳しい時代に生を受けたが、最後まで希望を失わずにいよう。いつの日か、大地に降り立つと信じて。そういえば、わたしも時々、夢を見るよ。風の音を聞き、土の匂いを嗅ぐ夢だ。生まれてから一度も風を感じたこともなければ、地面を歩いたこともないのに」
「そういう夢なら、僕も見たことがあります。白い雲間を鳥のように飛翔し、広大な山々や川の流れを足元に見下ろすんです。山のうねりも、大河も、本物は一度も目にしたことがないのに、僕にはその広がりが実体験のように感じられるんです。これもゲノムの夢でしょうか」
「君みたいにスマートな学生でもゲノムの夢を信じるのかい？」
《ゲノムの夢》とは、コクーンでしばしば体験される幻影だ。高濃度の塩水で満たされたフローティング・タンクに深く身を沈め、カプセルを締め切ると、音や光から完全に遮断され、宇宙空間を漂うような無重力感を体験することができる。さらに自律神経訓練法を取り入れることで、いっそう深い瞑想状態になり、心身のストレスから解放される。リラクゼーションを究めると、大海原や大峡谷の映像が意識化に鮮明に現れ、あたかも大地と一体になったような錯覚に陥るという。
一部のユーザーは、それをＤＮＡに刻まれた先祖の記憶と考え、神聖視している。深い瞑想状態が細胞の機能を極限まで高め、ＤＮＡの真の力を解き放つと。中には夢を分析するドリーム・セラピストなる者も現れ、悩める人々のカウンセラー的存在になっている。彼らは独自のリラクゼーション法を開発し、「先祖の記憶と一体になることで不滅の自我を得、肉体が滅びた後も、思念に満たされた五次元の世界で永遠の命を得る」と固く信じていた。
「コクーンが一時的に心身のストレスを和らげ、新たな活力を呼び覚ますのは本当だが、あまり依存してはいけないよ。近頃ではコクーンに入り浸り、現実の人生から逃避する人も少なくない。辛い気持ちは分かるが、一度コクーンを心の拠り所にすれば、もう二度と現実に戻れなくなる。中には精神に異常をきたして、自死する人もあるほどだ」
「分かっています」
「最後まで希望を捨てずにいよう。わたしは種を蒔く仕事をしているから、余計でそう思わずにいられない。希望こそ命の糧だ。生きる原動力だよ」
「希望……ですか」
「そう。わたしの一番好きな言葉だ。希望なんか持つだけ無駄という人もあるけれど、希望がなかったら、わたしたちは今日一日だって生きていかれない。昨日より今日、今日よりは明日。今日は叶わぬ夢も明日には叶うという希望があるから、人はどんな時も前向きに生きていける。それは、さながらＤＮＡに組み込まれた本能のようなものだ。あの美しい二重螺旋を見ていると、ひたすら高みを目指す、力強いエナジーを感じる。極限状態でも生き延びようとする塩基の意思だ。わたしたちのＤＮＡは、全球凍結(スノーボールアース)や天体衝突のような惑星規模の危機を乗り越えて、二十億年の歳月を生き抜いてきたんだよ」
「僕にとっても先輩は希望です」
セスが瞳を瞬くと、アドナも深く頷き、もう一杯、飲み物をすすめた。