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医療と呪術 ~ジュール医師とエルメイン

第一章 GEN MATRIX ~最高評議会(2)
STORY
最高評議会の後、アドナはジュール医師の心中を思いやり、少女の死因が未知の微生物による感染症と推測する根拠を問う。水循環システムの老朽化が原因なら、直ちに対処しなければ、市民全員が命の危険に晒されるが、設計図はいまだ復元できず、評議員も当てにはならない。アドナは何故エルメインのような人間がVIPの支持を得るのか訝るが、ジュールは「医療も突き詰めれば呪術だよ」とエルメインの不思議なカリスマ性について説く。

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目次 🏃

水循環システムの汚染と原虫

最高評議会のメンバーが退室し、後にはアドナとジュールだけが残ると、「わたしが女の子でも、同じことを願ったと思います」とアドナはジュールをいたわった。

「先生は何も悪くない。あの場に十分な医薬品があれば、医師の良心に基づいて全力を尽くされたはず。あの人たちは自らの無能無策を棚に上げ、先生一人に責任を押しつけようとしているだけです。あの晩、若い医師に代わって、最後まで診療に当たられたのは先生だ。他の人は後から何とでも言えます」

だが、ジュールは軽く頭を振り、

「彼らの言い分にも一理ある。どんな状況であれ、医師が根負けすれば終わりだ」

と苦渋の色を浮かべた。

「では、先生、女の子の死因について、細菌やウイルスではなく、原虫だと推考される論拠は何ですか?」

「簡単なことだよ。全身状態と血液検査の結果を見れば、おおよその見当はつく。この場合、第一の指標は白血球数だ。細菌感染なら、一般に白血球数は上昇する。体内に入り込んだ細菌を貪食する為、白血球、特に好中球が増加するからだ。その点、ウイルスは健康な細胞に入り込み、内側から破壊して増殖する。自然免疫の担い手である好中球やマクロファージでさえ、自己の細胞と非自己の区別がつかず、食作用が上手く機能しないからだ。結果として、細菌感染のように著しく白血球数が上昇することはない。むしろ機能が低下して、減少傾向となる。あの女の子の場合、前から好中球減少症が見られたが、ここに運び込まれた時は、白血球数よりも、血小板の減少が著しかった。白血球の成分も、寄生虫感染の指標となる好酸球数に増加は見られず、肝吸虫症7や住血吸虫症8といった、いわゆる寄生虫感染症には否定的だ。さらに気になったのが、重度の溶血性貧血だ。赤血球数、ヘモグロビン、ヘマトクリットなど、赤血球に関する数値が著しく低下し、肝脾腫、ビリルビン尿、γグロブリン、LDH9の上昇といった肝機能障害を伴っていた。もしこれがウイルス感染による劇症肝炎なら、抗原・抗体検査で陽性反応を示すはずだが、少なくとも既知のウイルスに関しては、彼女は陰性だし、急性肝不全を引き起こす原疾患もない。それに、もし彼女が造血機能障害による免疫不全としたら、あそこまで重篤な肝障害をきたす以前に、帯状疱疹や細菌性肺炎といった日和見感染を併発していただろう。だが、一週間前の外来受診では、そこまで目立った所見はなかったし、亡くなる前々日まで、友人とオンラインゲームに興じるだけの体力はあった。そして、彼女の母親、クラスメート、教員、誰一人として彼女と同じ症状を呈した者はない。ということは、非常に短時間のうちに微小な病原体が赤血球内に寄生して、爆発的に増殖し、溶血性貧血と肝障害を引き起こし、播種性血管内凝固症候群から多臓器不全に陥ったとしか考えられない。相手は細菌やウイルスより複雑な構造をもち、宿主の体内環境に合わせて、休眠したり、分裂生殖したり、生活環をコントロールすることができる。長い時間をかけて、様々な生物種に寄生しながら、ヒトの体内で生き延びる術を学んだのだ」

「となれば、単細胞生物ですね。自律移動が可能で、無性、もしくは有性の生殖機能を有する微生物です」

「喩えるなら、マラリア原虫みたいなものだ。他の生物を利用して巧みに生殖し、吸血や排泄を通して個体を拡散する。おそらくは未知の微生物だ。少なくとも我々の医学データベースには存在しない。それも、わりと最近、圏内に入り込み、病原性をもつに至ったのではないか。もしかしたら、地下から何かを汲み上げた可能性もある」

「つまり『水』ですね」

「わたしが気になったのは、少女のライフスタイルが極めてシンプルな点だよ。まだ小学生で、学校と自宅と下階の公共場所を往復するだけの生活だった。それも行き先は限られていて、プール、噴水広場、友達の家ぐらいだ。もしこれが専門職の成人で、家畜の飼育や特殊清掃に従事する人なら、別の可能性を疑っただろう。だが、彼女は至って普通の子供で、寝て、食べて、学校に行くだけの生活だった。その中で、彼女だけが非常に短時間のうちに劇症を引き起こすとしたら、感染症しか考えられない。また、周囲の人の健康状態を鑑みるに、飛沫感染や接触感染、飲食物を介した感染は考えにくい。となると、彼女が日常的に接するもの、なおかつ微生物にとっても生活しやすい環境といえば『水』だろう。実際、河川、湖沼、温泉、噴水、飲料水に至るまで、水は有害な微生物の温床となっている。衛生状態のいい都市部も決して例外ではない」

「つまり、公共場所の水ですか」

「その通り。半閉鎖型生命圏とはいえ、揚水管だけは《隔壁》を突き抜けて地中深く到達している。中には数百メートル先の河川から直接水を汲み上げている水道管もある。メカニカルフロアの浄水設備である程度リサイクルできても、飲料水や実験用浄水など、極めて高い純度が求められる水は、河川や地下水から汲み上げる必要があるからだ。水循環システムも、地下に最初の揚水管を打ち込んでから、ゆうに百年以上経つ。その先端がどうなっているのか、《隔壁》を締め切ってからは誰にも分からない。ちなみに微生物の大きさは、チリダニを1ミリメートルとするなら、原虫はダニの100分の1で、1マイクロメートルから10マイクロメートル。細菌はダニの1000分の1、ウイルスに至ってはダニの10000分の1以下だ。たとえ1ミリの亀裂でも、原虫や細菌にはトンネルのように大きい。それに高性能の中空糸膜フィルターといえど、経年劣化には抗えない。たとえデータ上、水質に問題はなくても、未知の微生物が繁殖している可能性はある。水道局の定期検査は、大腸菌やコレラ菌、クリプトスポリジウム原虫といった一般的な病原微生物を対象としていて、それ以外の微生物が入り込んでもすぐには分からないからだ。実際、《隔壁》を締め切る以前、隣国の貯水タンクで病原菌が繁殖し、数十名が急性腸炎を起こす騒ぎがあった。それも貧困地域のバラックではなく、衛生基準の高い先進国の公共施設だ。メカニカルフロアの浄水設備でどれほど清浄化しても、ミクロの病原体はどこからでも入り込む」

「その可能性はありますね。この一帯はタワーが建設されるまで未開地でした。そんな所に、突然、何千もの人間がやって来て、巨大な高層ビルを建てれば、自然環境も大きく変わるし、病原体も持ち込まれます。それにこの一帯は亜寒帯で、土壌も溶けたり凍ったりと流動的です。地球規模においては氷期と温暖期を繰り返し、多種多様な生物が棲息した時期もあったでしょう。古生代に繁殖した微生物が凍土から溶け出して、地下水脈に入り込むことも有り得ます。それでなくても、地中深く埋設された揚水管や汲み上げポンプが周囲の土壌の温度を上昇させ、以前とはまったく異なる環境に変質させています。地下固有の微生物が中空糸膜フィルターの僅かな亀裂から侵入し、圏内に到達することも有り得ます」

「衛生学的には施設全体が危機的状況なんだよ。《十二の頭脳》が弾き出した『四十年』という歳月は決して概算じゃない。様々な条件を鑑みればそれが限界なんだ。だが、我々は、それをはるかに超える長い時間を圏内で過ごしている。普通に考えれば、今に電気や空調が止まってもおかしくないレベルだ」

「どうやっても設計図は復元できないのですか」

「この七十年、その分野の専門家が脳を擦り合わせるるようにしても解決できなかった。そう簡単にはゆくまいよ」

「病原体の検出はどうです」

「既知の病原体ならともかく、未知の微生物となれば時間がかかるだろうね。下手すれば、何年も分からない可能性もある。ここには十分な設備もないし、使用できる検査試薬や寒天培地も限られている。高性能な光学顕微鏡や電子顕微鏡を揃えたところで、観察に適した塗抹標本(プレパラート)を作製できなければ、酵母菌すら視認できない」

「遺伝子検査は役に立ちませんか」

「水中の微生物について詳しく解析すれば、何かを検出する可能性はあるだろう。だが、それはあくまで生物に特異な遺伝子の存在を証明するだけで、形態までは分からない。治療法を確立するには、微生物検査を通して、実際に病原体をこの目で捉え、生物としての形態、病理、薬剤感受性など、あらゆる角度から人体に及ぼす影響を理解する必要がある。DNAはあくまで生命情報の一つであって、医学はまた別だからね」

医療も突き詰めれば呪術

「でも、バラスやワシリィは、そうは思ってないですよね」

「彼らはエルメインの遺伝子療法で救われている実感があるからだ。人間というのは、誰が何と言おうと、自分が治ったと実感するものしか信じない。たとえそれが非科学的で、紙人形や湧き水の類いでも、自分が治ったと思えば、それが『神』なんだ。それはそれで一つの治療効果に違いないし、その全てを否定する気にはならないよ。実際にエルメインの遺伝子療法が造血障害や悪性腫瘍に功を奏しているのは事実だからね。ただ、わたしが疑問に感じるのは、科学的に何の根拠もない施術まで不老不死の霊薬のように謳い、人心掌握に利用している点だ。老いと病に苦しむ者は、それこそ藁にもすがるような思いで不安な日々を過ごしている。そうした人々に甘言をささやき、自分の体質に合った奇跡のような治療法が存在すると期待を抱かせ、自身が生き延びる為なら、他人の生き肝を抜いても構わないという気持ちにさせるのがエルメインだ。それについて、VIPフロアの住人は少しも罪悪感を抱いてない。何故なら彼らは特別で、庶民とは桁違いの治療を施されるのが当たり前と思っているからだ。そして、最下階の少女が医薬品不足で死んでも、気にも留めない。そういう感性であり、倫理観なんだよ。だからエルメインのような人間を信奉できる」

「あれはもはや宗教か呪術の類いであって、真の医療とはかけ離れてますよね。でも、誰も逆らえない。エルメインを追放すれば、生命の樹が断たれると本気で思い込んでいる人もいる。一体、何がそこまであの人を権威付けするのか、わたしには計り知れません」

「それはね、あの人が実際に人を救っているからだよ。シャルロット室長がいい例だ。たとえ見た目は変わらなくても、彼女はエルメインの注射で日々若返りを実感している。そして、それが仕事や私生活の自信に繋がっている。そのように患者に信じ込ませるのも一つの才能だ。実際、心理的効果で、腰痛やパニック障害が治ってしまう例もある。かえって、わたしのように現実をありのままに口にする医者は嫌われることがあるよ」

「呪術が医療に優るのですか?」

「医療も突き詰めれば呪術だよ。祈祷や迷信から始まって、十九世紀にようやく近代医学が花開いた。ペストや結核が細菌学に基づいて治療されるようになったのも、ほんの二世紀ほど前だ。それまでは水銀を飲んだり、大量に瀉血したり、信じられないような治療が行われてきた。そんな時代にも、ルルドの泉のような奇跡が存在したということは、人間の身体というのは、どこか科学で説明のつかないものがあるからだろう。エルメインは遺伝子療法の知識も豊富だが、それと同じくらい患者心理にも通じている。あの人が治るといえば、その通りなんだよ。信者にとってはね」

「ラスプーチンみたいな人間でも?」

「だが、皇帝一家には救い主だったろう」

「わたしが病気になったら、一も二もなく、先生に相談しますよ」

「それは有り難いことだ。だが、今はまだ必要としないでくれ給えよ。わたしのような医者が、君やセスのような若い人に頼りにされるようになったら、いよいよ世も末だ」

ジュールが苦笑しながら席を立つと、

「先生。死とは、いつか受け入れられるものでしょうか」

アドナがとっさに口にした。

「おいおい、わたしよりうんと若い君がもう死の準備かい?」

「あの少女の死に顔が忘れらません……」

「気持ちは分かるが、今の君に必要なのは甘い飲み物と馬鹿げた娯楽だ。他人の衝撃的な死は一日も早く忘れた方がいい。まして君は医療従事者ではないのだから」

「でも……」

「死が恐ろしいのは君だけじゃない。わたしだって、この年になれば、毎日のように考える。だが、こんな問いにすらすら答えられる人間がいたとしたら、それこそいんちきだよ。仮に答えられたとしても、自分が明日死ぬと分かれば、考えもころりと変わるだろう。あえて言うなら、死を受け入れる気持ちは、今日を真剣に生きた者だけが辿り着ける境地だ。金銀財宝では得られない、魂の充足感だよ」

「痛みも感じます?」

「痛苦とまったく無縁の死もないよ。誰もが一度は味わう試練だ。だが、神さまも上手くしたもので、多くは息を引き取る前に意識を失う。傍で見ていると呼吸も苦しそうだが、最後は何も分からなくなる」

「そうですか……」

「そんなことより、もっと青春時代を謳歌してはどうかね。君もセスも生真面目というか、未来ばかり憂いて、まるで旧約聖書の預言者の如くだ。我々が時限爆弾を抱えているのは本当だが、若い人がそうも悲観的ではますます未来も先細る。それこそ若いパワーで《隔壁》を蹴破るくらいの気概を持ってはどうかね。我々が壁の前で立ちすくむ時も、怒りと希望のハンマーで壁を叩き割るのが若者の特権じゃないか」

「そうできればと願っています……」

「是非、そうしてくれたまえ。何かあっても、わたしは君やセスの味方だ。大したことはできないが、悩みを聞くぐらいはできるよ」

ジュールが励ますと、アドナも頷き、二人揃って会議室を出た。

誰かにこっそり教えたい 👂
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