アイスランド映画『殺意の誓約』
作品の概要
監督 : バルタザール・コルマウクル
主演 : バルタザール・コルマウクル(外科医・フィンヌル)、ヘラ・ヒルマー(娘・アンナ)、イングヴァール・エッゲルト・シーグルソン(娘の恋人・オッター)
が、上の娘アンナ(前妻の子)は家を出たきり、帰ろうとしない。ドラッグの売人であるオッターと同棲し、自らも薬物依存症になっていた。
娘を想うフィンヌルは、オッターに別れるよう求めるが、オッターは聞く耳を持たず、逆にフィンヌルに手切れ金を払えと脅迫する。
切羽詰まったフィンヌルはオッターを拉致し、薬物を使って殺害を試みるが、意外なところからアリバイが綻びる。
果たしてフィンヌルはオッターと決着をつけ、娘アンナを取り戻すことができるのか――。
映画とは無関係に、雄大で美しいアイスランドの冬景色を堪能することができます。
ヒポクラテスの誓いと良心の呵責 #1000文字 映画評
まず、本作の肝となっているのは、現代の医学教育においても必須の『ヒポクラテスの誓い』である。
ヒポクラテスは古代ギリシャの医者であり、呪術や迷信の類いではなく、科学として理解しようとした、偉大な祖師である。
看護学校で『ナイチンゲール誓詞』が詠み上げられるように、日本の医学部でも、(多分)、『ヒポクラテスの誓い(Hippocratic Oath)』は必須であると思う、
そしてその『誓い(Hippocratic Oath)』が映画のタイトルにも使われている。
それを奪うことのできる力も授けられた
私は謙虚さと自覚を持って 与えられた責任と対峙し
決して神を試してはならない
- ヒポクラテスの誓い(映画冒頭で紹介される文言)
全文はこちら。ヒポクラテスの誓い(日本語訳) Wikiより
本作は、ハリウッド映画と異なり、アイスランドらしい、陰鬱とした雰囲気が漂っている。
季節も冬であり、あの雪と氷に閉ざされた大地を、自転車で疾走し、冷たい海で泳いだりもするフィンヌルの姿に、少し取り憑かれたようなものを感じる人も少なくないのではないだろうか。
そこから感じられるのは、上昇志向で、完璧主義の性格であり、上の娘アンナとは上手くいかなかった所以でもある。娘の生い立ちは、本作に詳しく描かれていないが、前妻は外国に居ることから、厳しい性格が災いして、家庭内は険悪なものだったのだろう。そして、それがアンナの深い心の傷になっている。
後妻の娘は清楚で愛らしいのとは対照的に、アンナはいわゆるマイルドヤンキーで、フィンヌル夫妻にとっては頭痛の種だ。
オットーがヤクの売人で、ろくでもない連中と繋がっていることも、高名な外科医であるフィンヌルの心を苛立たせる。
そして、とうとう、怒りも極まり、医師として、あってはならない行為に及ぶのだが、それもどこか物悲しく感じるのは、バルタザール・コルマウクルの卓越した演技力ゆえだろう。
最愛の妻子を殺されたスティーブン・セガールのように、一直線に復讐に燃えるわけではなく、堪えて、堪えて、ついには医師としての良心に背く過程をリアルに描いており、ハリウッドのリベンジものとは一線を画している。
また、オッターを監禁してからも、怒りと罪悪感がせめぎ合う様が感じられ、これはハッピーエンドにはならないことが誰の目にも明らかだ。(特に、オッターが自らの生い立ちを語る場面は印象的である)
そうして、オッターと共に、フィンヌル自身も窮地に立たされ、かなり絶望的な状況になるのだが、警察の側にも「立派な医師」という先入観があるからだろう。
それ以上は追及しない。
そして、妻や娘も、何かを感じ取りながらも、見て見ぬ振りで通り過ぎようとする。
しかし、一度でもヒポクラテスの誓いに身を捧げた者は、一生、良心の叫びを聞くことになり、そこから先の道は生き地獄だ。
良心の呵責はもちろん、いつ、また、犯行を裏付けるような証拠が飛び出すか知れず、二重の意味で、正義の裁きに怯えながら生きていくことになる。
これはアイスランド版『罪と罰』であり、その哲学性が海外で高く評価された所以だろう。
この後、フィンヌルと妻子がどのように生きていくのか、観客には知るよしもないが、もう二度と、愛と信頼に満ちた幸せな日々は帰ってこない。
「あの男は有害だ」というフィンヌルの言葉に対し、「でも、私を愛してくれた」というアンナの言葉があまりに重い。