作品の概要
ステージ・マザー(2020年) ー Stage Mother
監督 : トム・フィッツジェラルド
主演 : ジャッキー・ウィーヴァー(母メイベリン)、ルーシー・リュー(シングルマザーのシエナ)、エイドリアン・グレニア(息子のパートナー・ネイサン)
あらすじ
聖歌隊の指揮を務めるメイベリンは、何年も前に家出した息子リッキーの訃報を受け取る。
息子の葬儀に参列する為に教会に足を運んだメイベリンが目にしたのは、息子を追悼して歌うドラァグクイーンの姿だった。
息子リッキーと、パートナーのネイサンが経営するゲイバーは赤字で、後見人がなければ、人手に渡ってしまう。
息子の夢を叶えたいメイベリンは、ドラァグクイーンらに歌を指導し、新しい舞台は大評判となる。
果たしてメイベリンは店の再建を果たし、それぞれに問題を抱えるドラァグクイーン達は幸せを手に入れるのか……
見どころ
話題の感動作だが、意外と淡々と話は進み、人によっては、「えっ、もうこれで終わり?」と思うかもしれない。
ハリウッド大作なら、このまま順調と思われたところに、あくどい投資家が現れ、店の権利を強引に奪い取るが、地味な常連客のトミーが実はやり手の弁護士で、絶体絶命の状ピンチを救う……という展開になるのだが、映画『ステージ・マザー』は、そのようなドンデン返しは一切なく、全てが順調に進んで、大団円の中に終わる。
『物足りない』というほどでもないが、本作と同様、マイノリティと社会の偏見を主題にしたヒュー・ジャックマンのミュージカル『グレイテスト・ショーマン』のように、一度は深刻な危機に陥るハリウッド的展開を期待した人は肩透かしをくらうのではないだろうか。
だとしても、演出は上品だし、ドラァグクイーンもチャーミングで、一度はこんな店でショーを楽しむのも悪くない。
若者メインの物語ながら、中高年の恋も盛り込まれ、人が人と愛し合うのに、何の制約もないことを考えさせられる。
昨今、メッセージ性がゴリゴリに押し出されたLGBTものが多い中、本作は、個々のエピソードがさらりと描かれて、鑑賞後の印象も好い。
ミュージカルが好きな人も気軽に楽しめる、恋と生き方のファミリードラマである。
LGBTの差別感情とどう向き合うか ~ヒステリックに責めても齟齬を広げるだけ
エルトン・ジョンのベッドシーンまで見たくない
世界的なLGBT運動の高まりもあり、昨今、同性愛やトランスセクシャルをテーマにした作品が増えている。
創作のみならず、QUEENの伝説的ヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーの光と影を描いた『ボヘミアン・ラプソディー』、同性婚で世間を驚かせたエルトン・ジョンの伝記映画『ロケット・マン』など、実在の人物にフォーカスした作品も注目を集め、世間の見方もずいぶん変わったと実感する。
映画『ステージ・マザー』も、主人公の息子リッキーはドラァグクイーンで、同性愛者。
その友人たちも、それぞれに問題を抱え、どうにかステージでアイデンティティを保っている状態である。
これがゴリゴリのハリウッド映画なら、登場人物は世間に徹底的に痛めつけられ、ドラァグクイーンに暴言を吐いたり、息子を勘当する親は極悪人のように描かれるところだが、本作に押しつけがましさを感じないのは、一貫して、『ドラァグクイーンの息子を持ってしまった、普通の母親』の視点で描いているからだろう。
責める人間と、傷ついた当事者の、「い・か・にも」な展開もなければ、政治的な主張もなく、違和感の解決策をさらりと描いている。
何もかもが自然で、「そうなるよね」と頷けるエピソードも多い。
でも、映画としては、これぐらいで良いのではないか。
『ロケット・マン』みたいに、事情は分かるが、あまりに事実を見せつけられると、かえって苦しくなるし、エルトン・ジョンに対する見方も変わる。
それが良いという人もあるだろうが、単純にエルトン・ジョンのヒット曲に親しみ、「凄い人だなぁ」ぐらいにしか思わなかった視聴者にとって、同性愛うんぬんのエピソードを延々と見せつけられるのは、正直キツイい。
それならそれで、さらっと描いてくれたらいいのに、男同士のベッドシーンまで盛り込んで、「そこまで必要か?」と違和感を覚えた人も少なくないのではないだろうか。
もちろん、エルトン・ジョンの同性愛を否定しているわけではなく、映画の演出の話である。
人によっては男同士のベッドシーンに嫌悪感を覚えることもあるので、「続きは、ご想像におまかせします」ぐらいでよかったのではないかと。ちなみに筆者は、竹宮恵子的なJUNEの世界、大好きです。
問題提起にヒステリックになり過ぎではないか?
『問題提起』という視点で言わせてもらえば、昨今のLGBTものは、少々、ヒステリックになり過ぎではないだろうか。
ソドムの男が問答無用で火あぶりにされた時代ならともかく、現代は、芸能人がカミングアウトしても、仕事を失うどころか、賞讃の嵐で、かえって評価が高まるご時世である。
よほど偏った宗教・思想の持主でもない限り、映画『ボヘミアン・ラプソディー』を見て感銘を受けるような層は、同性愛も、女装趣味も、普通に受け容れているし、身近に実例を知っても、「ああ、そうなの」ぐらいにしか思わない。
少なくとも、私の周囲では、同性愛がばれて、退学や解雇になったという話は聞かないし、住民に嫌がらせをされたという話もない。
当方の子供の学校にも、同性愛カップルが存在するそうだが、みな、普通に受け容れているし、クラスの人気者と聞いている。
多くの人は、普通の夫婦のように仲睦まじく暮らす同性カップルが、法的なパートナーシップを認められない為に、財産共有や遺産相続が叶わなかったり、不動産の購入や保健契約で難儀するのは気の毒だと思っているし、彼らが社会人としての務めを果たす限り、政治的に考慮すべきではないかと考えている。
メイベリンと息子リッキーの故郷のように、非常に保守的で、住民の信仰心も篤く、女性がタンクトップで出歩くだけで、ヒソヒソ噂されるような地域においては、生きづらい面もあるかもしれないが、時代は確実に変わってきており、暗黒時代のように、性的マイノリティが世間からつまはじきにされ、あからさまに差別されるような事にはならないと思う(これだけキャペーンを展開すれば、そうなる)
一方で、リッキーの父親みたいに、どうしても受け付けない人もある。
それはもう、人間性がどうとか、社会意識がどうこうの問題ではなく、個々の感性の問題だ。
同性愛のみならず、「アニメのバッグをさげた男が苦手」「刺青した人が怖い」と感じる人もあるように、人の感じ方は千差万別だし、他人が外からコントロールすることはできない。
全身タトゥーの男が温泉に入ってきて、「うわぁ・・・」と感じる人の気持ちを、「思いやりがない」とか「差別だ」とか断罪しても、怖いものは怖いし、理屈で変えられるものでもない。
周囲にできるのは、せいぜい、「全身タトゥーの人が必ずしも反社というわけではないし、ファッションとして入れてる人もあるので、そこは理解して下さい」と訴えかけるぐらい。
違和感を口にすることさえ断じてしまったら、それこそ逆差別だろう。
その点、本作は、どちらにも寄りすぎず、一つの解決策を提示している。
最も印象的なのは、ダンサーのエリックとその母親の関係だ。
エリックがドラァグクイーンの恰好で立ち話をしていると、一人の中年女性が通りかかる。
女性は、忌み嫌うようにエリックの顔を睨み付け、エリックも挑戦的な態度を取る。
何も知らないメイベリンが「じろじろ見るなんて、失礼な人ね」と女性を咎めると、「うちの母親だ」とエリック。
ドラァグクイーンになった息子に幻滅し、罵詈雑言を浴びせる親の気持ちもよく分かる。
よほど奇特な人でもない限り、息子には、将来、立派な社会人になって欲しいと願うもの。
社長とまではいかなくても、職場に頼りにされるような人材になって、10年後には可愛いお嫁さんをもらって、郊外に一戸建てを購入して、孫は二人か、三人か……といった夢があるからこそ、つらい育児を乗り切れるのだ。
ところが、その結果が、ゲイバーのドラァグクイーンとなれば、自分の人生にもNoを突きつけられたような気分になる。
よほど奇特な人でもない限り、孫も、老後も断念して、オカマメイクで踊る息子に心からエールを送れる人など、少数だろう。
また、そんな母親の幻滅を感じ取り、エリックも孤独に苛まれる。
舞台で楽しく踊っても、アパートに帰れば、一人ぼっち。
慰めてくれる恋人もなく、ドラッグにすがるようになる。
このままでは、エリックもリッキーと同じ運命を辿ってしまう。
事情を知ったメイベリンは、母親の職場を訪ね、「私もあなたの気持ちは分かる。自分の息子もドラァグクイーンだった」と打ち明け、「エリックは素晴らしい青年だ。どうか舞台を見に来て欲しい」と懇願する。
ドラァグクイーンの息子でも、死んでしまえば、二度と会えない。
そんな風になる前に、息子の晴れ姿を見て欲しい、と。
ドラァグクイーンの息子に衝撃を受け、断絶した母親を責めても何の解決にもならない。
エリックが親の無理解に苦しんでいるように、母親だって、自分の育児の結果に戸惑っている。
ところが過激なLGBT運動は、そうした戸惑いを一方的に断罪し、理屈で変えようとするから、余計で齟齬をきたすのだと思う。
そのあたり、本作は、くどくど主張するのではなく、母と息子エリックの笑顔で締めくくっている。
いきなり抱擁とまではいかなくても、舞台袖で応援することは出来るはずだ。
そして、それぐらいの距離感がちょうどいい。
どうしても受け容れられない人間に「考えを変えろ」と迫ったところで、感情は変えられないし、無理なものは無理だからだ。
そのように互いに認識した上で、少しずつ歩み寄る。
その上で、法的整備も進め、罵倒や解雇など、反社会的な行動にも罰則を設けるぐらいで、ちょうどいいのではないだろうか。
世間はLGBTの当事者ではなく、活動家が苦手
多くの一般人は、戸惑いを覚えながらも、どうにか受け容れ、理解する方に向かっていると感じる。
世間が難色を示すとしたら、LGBTの当事者ではなく、ヒステリックに断罪する活動家の方だろう。
ノーマライゼーション(等生化)の本質は、「お互いに意識しないほど普通になってしまうこと」であり、その好例が、ハリウッド映画におけるアフリカ系役者の活躍だ。
2000年代ぐらいまでは、アフリカ系役者がメジャー作の主役になることはおろか、脇役として登場することも珍しかった。
今人気の『トップガン マーヴェリック』でさえ、初代『トップガン』に登場するアフリカ系役者は一人だけである。それも画面の隅っこ、台詞も一つだけ。
それが今では、上官やチームメイトとして、堂々と出演し、そのことに違和感を覚える人も皆無なはずだ。
それが『ノーマライゼーション』であり、活動家がうるさく言わなくても、性的マイノリティが普通に社会に溶け込んで、仲好くマンションに暮らしたり、病院にお見舞いに来たり、甥っこや姪っ子の運動会に参加するような姿がゴールである。
それもまた時間をかければ、すっかり『当たり前』となり、一部が心配するような暗黒時代にはならないはずだ。
ドラァグクイーンが不安や孤独を感じるように、その身内も同じように戸惑いや不安を感じている。
メイベリンとエリックの母親みたいに、それを口にできる環境も大事であり、心に感じる事まで「差別だ」と否定してしまったら、ますます救いがなくなるだろう。
我々、一般人は、もう十分、彼らのような存在を知っているし、差別や疎外が間違いであることも認識している。
法的な整備は政治家に任せるとして、もうそろそろ、ヒステリックに叫ぶのはやめ、『ステージ・マザー』のように、優しくアプローチして頂けたら、と願う。
挿入歌『Everything’s beautiful to me』
本作は、ショーで歌われる曲やコスチュームも可愛くて、こんな舞台なら見てみたいな、という気持ちになる。
こちらはネタバレになりますが、最後にメイベリンを中心に繰り広げられる、ドラマティックなショーです。
歌曲は、1983年のボニー・タイラーのヒット曲、『Total Eclipse of the Heart』(邦題:愛のかげり)。
ネタバレになってもいい方だけ、視聴して下さい。(Amazonプライムの字幕を見ると、なるほど納得です)
STAGE MOTHER 2020 Lucy Liu, Adrian Grenier, Comedy Movie last perfomance
ボニー・タイラーのオフィシャル・ビデオはこちら。
この曲も大人気でした。