神への回帰と殺してもいい権利 映画『セブン』と七つの大罪 

この記事はネタバレを含みます。未見の方はご注意下さい。

目次 🏃

映画『セブン』と七つの大罪

作品の概要

セブン(1995年) - SE7EN

監督 : デヴィッド・フィンチャー
主演 : モーガン・フリーマン(サマセット刑事)、ブラッド・ピット(ミルズ刑事)、グウィネス・パルトロー(ミルズの妻・トレイシー)、ケヴィン・スペイシー(ジョン・ドウ)

セブン (字幕版)
 セブン (字幕版)

あらすじ
退職まであと一週間のサマセット刑事(モーガン・フリーマン)は、大男が両手両足を縛られ、パスタの皿に顔を突っ込んだまま絶命する奇怪な殺人事件に遭遇する。サマセット刑事は、赴任したばかりの新人、ミルズ刑事(ブラッド・ピット)と組んで捜査に当たるが、今度は著名な弁護士が腹の肉をえぐられ、天秤に肉片をのせて死亡する猟奇事件が起きる。
現場に残された『GLUTTONY(大食)』『GREED(強欲)』という言葉から、サマセット刑事はカトリック教会における「七つの大罪」を模した連続殺人と推理。図書館の貸し出し記録から、それらしき人物を割り出すが、すんでのところで犯人を取り逃がしてしまう。
そうこうする間にも、第四、第五の殺人が起き、もうすぐ七つの犯罪が完結するという時、犯人の方から警察に出頭する。ジョン・ドウを名乗る男は、残り二つの死体の在りかを教えるから、サマセット刑事とミルズ刑事に同行して欲しいと要求する。全容解明の為に、サマセットとミルズはジョン・ドウに言われた通りにするが、そこで待ち受けていたのは、衝撃的な事実だった。

本作は、オープニングも素晴らしい。『ドラゴン・タトゥーの女』もそうだが、デヴィッド・フィンチャーは前衛的なヴィジュアルを撮らせると抜群に上手い。

ガラスをかきむしったような不快な金属音と、ピンぼけしたフォトグラフをつなぎ合わせたような独特の映像。
時折、差し込まれる残虐なショットが強烈な印象を醸し出す。
手がけたのは、モーション・グラフィック・デザイナーのカイル・クーパー。
モーション・グラフィック・デザイナーとは、映画の冒頭に必ずある、映画の題名、主なスタッフ・キャストの名前、映画会社の名前などが流れるオープニング・クレジットの映像を制作する仕事で、カイルの作り出す映像はスタイリッシュと定評がある。それだけではなく、彼の作り出すタイトルムービーはその映画の趣旨や雰囲気をよく考えており、その映画にぴったりな映像であると評価されている。タイトルムービーを芸術にまで高めた人物とも言える。

神への回帰と殺してもいい権利

メールマガジン『eclipse』(2000年)を加筆修正

1995年、世界的なスマッシュヒットとなったブラッド・ピット主演の映画『セブン』をご存じだろうか。

若き天才、デヴィッド・フィンチャーが監督したこの作品は、『七つの大罪』にヒントを得た猟奇的殺人で話題となり、ベテラン黒人俳優モーガン・フリーマンの渋い存在感と、ブラッド・ピットのみずみずしい魅力が相成って、予想外の興行成績をあげた。

後味の悪い幕切れで、観客の反応は二分したが、映画としての評価は上々。

私にとっても、非常に印象深い作品の一つである。

犯人のジョン・ドウは、現代のラスコーリニコフ(ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公)、少年漫画なら、『DEATH NOTE』の夜神ライトと同じく、性根の悪い人間は生きていても仕方ないから、殺しても構わない。いや、むしろ抹殺した方が世のため、人のため――という超法規的思想の持ち主だ。

「天才はこの世の法則を超えて、無益な人間を殺すことさえ許される、特別な権利を持つ」と自負している。

自ら神の死刑執行人となり、カトリック教の『七つの大罪』―― 大食・強欲・怠惰・高慢・肉欲・憤怒・嫉妬 ―― に則って、次々に殺人を犯す。

被害者は、見るも不快な大食漢であり、強欲な悪徳弁護士であり、高慢ちきな美人モデルであり、性病持ちの娼婦であり、怠惰な独り者であり、、いろいろだ。

ジョン・ドウは、若いミルズ刑事に言う。

人に物を教えるには、今の時代、ちょっと肩を叩いたぐらいではダメだ。ハンマーで殴りつけなきゃならない。そうすれば、人は本気で話を聞く

ジョンに言わせれば、自分は神に選ばれた特別な人間であり、罪人に罪を贖わせるのが仕事だという。

たとえば、肥満の大食漢は椅子にくくり付け、死ぬまでパスタを食べさせる。

すると、大食漢の男は、嘔吐し、窒息し、悶絶するような苦痛の中で、初めて神の名を呼び、大食の罪を悔い改める――というわけだ。

「罪なき人々を、お前は殺した」と詰るミルズ刑事に、ジョン・ドウは言う。

「罪が無いだって? あの太った男は、一人でろくに立つ事も出来ず、人がその姿を見れば嘲笑い、食欲も消えうせるだろう。あの強欲な弁護士を殺害した事については、感謝してもらいたいほどだ。あの弁護士は、自分の名誉のために、どれほど多くの人殺しを無罪にしてきたことか。それにあの売春婦は町じゅうに性病をばらまいてきた。──こんな腐った世の中で、罪が無いなんて平気で言える奴の気が知れない。平凡な人間の、平凡な日常における大きな罪が、それが誰にでもあるという、ありふれた理由から、見逃されている。しかし、もう許さない。私が手本を示した。私がやったことを人は考え、意味を知り、それに従うだろう。永遠に」

生きていても仕方のないような悪人は、殺したところで罪にはならない。むしろ、この世から抹殺されて然るべき、というジョンの論法でいけば、誰でも自分の正義で人を裁き、殺してもいいことになってしまう。まさにDEATH NOTEの世界だ。

だが、それが許されるなら、罪も、罰も、相対的なものになってしまう。

DEATH NOTEによる大量殺人を正当化した夜神ライトと同じ、人は理性も罪悪感も失って、好き放題の世の中になってしまうだろう。

社会に法律があり、人の心に神が存在するのは、絶対的な規範でもって人を律するためである。

いかなる理由があろうと、悪いことは悪い。

その軸がぶれれば、世の中はめちゃくちゃになってしまう。

ジョン・ドウの殺人も正当化され、罪の概念も失われるだろう。

たとえ仇討ちでも、殺人は許されない。

法律においても、宗教的感情においても、罪の概念が徹底しているからこそ、人は過つことなく、社会の秩序も保たれるのである。

にもかかわらず、ジョン・ドウの主張が、不思議な説得力をもつのが、本作の醍醐味だ。

DEATH NOTEでも、「みな、表だって口にすることはないが、心の底では、『こんなヤツは死んだ方がいい』と思っている」という夜神ライトの台詞がある。

これほどの凶悪犯にもかかわらず、ライトを神と崇め、支持する層も現れたように、ジョン・ドウも生きていたら、一定数の支持を集めただろう。

「殺人が悪いのは認める。だが、堂々と罪を犯す者は誰が裁いてくれるのか?」という問いかけは、一方で我々の本音でもあるからだ。

本作では、『罪』だけが残り、ジョン・ドウが裁かれることもなかった。(何もかもジョン・ドウの筋書き通りという意味で)

それをどう償い、乗り越えていくのか、映画は何も教えてくれない。

ラスト、「ヘミングウェイは言った。“人生は素晴らしい。戦うに値する”。 後者には賛成だ」というサマセット刑事の言葉が重く心にのしかかる。

戦う相手は、己の中の悪魔。全人類の罪。

その救い主は、多分、地上には存在しない。

モーガン・フリーマンはこちらの作品にも出演しています
アラン・リックマン 魅惑の悪役『ロビンフッド』と『ダイ・ハード』より
ケヴィン・コスナー主演の『ロビン・フッド』で逞しいムーア人のパートナーを好演。
誰かにこっそり教えたい 👂
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