映画『復活』(RISEN) 復活とは何か ~12人の弟子と信仰の奇跡

イエスが磔刑に処されると、ピラト総督は『復活』を恐れて、百人隊長クラヴィウスに遺体を見張るよう命じます。しかし遺体は忽然と姿を消し、イエスが復活したという噂が広まります。クラヴィウスは12人の弟子の後を追い、信じられない光景を目にします。『復活』とは何を意味するのか、12人の弟子の内面に着目した良質な宗教ドラマです。

目次 🏃

作品の概要

復活(RISEN) 2016年 

監督 : ケヴィン・レイノルズ
主演 : ジョゼフ・ファインズ(百人隊長クラヴィウス)、ピーター・ファース(ピラト総督)、トム・フェルトン(部下ルシウス)

あらすじ

イエス(ナザレの人)の磔刑後、ローマの百人隊長クラヴィウス(ジョセフ・ファインズ)は、イエスの復活を恐れるピラト総督から墓所の監視を命じられる。墓の扉は厳重に封印し、二名のローマ兵が寝ずの番をしていたにもかかわらず、イエスの遺体は忽然と消えてしまう。調査を命じられたクラヴィウスは、処刑場の墓を掘り起こし、多数の遺体を調べるが、イエスの亡骸は何所にも見つからない。関係者の証言から、クラヴィウスは十二人の弟子がイエスの遺体を持ち去ったと疑い、行方を追うが、彼らの隠れ家で目にしたものは、信じられない光景だった...。

映画 復活
復活(RISEN) 字幕版

見どころ

通常、キリスト教の映画といえば、イエス・キリスト、もしくは、聖母マリアやマグダラのマリアを主人公に据えた作品が多いが、本作は、イエスの弟子であり、実質、伝道に尽力した「12人の使徒(エヴァンジェリスト)」の視点に沿った、新感覚の物語。

出来事ではなく、12人の使徒やクラヴィウスの内面にフォーカスした作品なので、『ベン・ハー』や『パッション』みたいな、ダイナミックな伝記物語を期待して見ると肩透かしを食う。

一方、聖書やキリスト教文化の素養があり、キリスト教徒でなくても、イエス・キリストの教えや信仰心の何たるかに理解のある人が見れば、じ~んとくるはずだ。

amazonレビューでも、何人かの方が同じ意見を書き込みされているが、本作は、イエス復活の謎を追うミステリーでもなければ、ローマ兵の残虐非道に信徒らが立ち向かう戦闘ドラマでもない。

「多分、復活とは、こういう気持ちを指すのだろう」という、心象風景を描いた描いた作品である。

万人向けのエンターテイメントではないが、脚本も演出も良心的なので、ほっこりしたい時におすすめ(吹替え版も良し)

レイフ・ファインズのファンも十分に楽しめる、穏やかな宗教ドラマ。

【解説】 復活とは、再び信じること

12人の弟子(使徒)とイエスの死

キリスト教といえば、イエスの磔刑までは知っているが、その後、十二人の弟子(使徒)がどうなったか、細かに知る人は少数ではないでしょうか。

凄まじい迫害の中、人々にイエスの教え(福音)を伝え、実質、キリスト教の基礎を築いたのは、この12人です。

12人が途中で投げだしていたら、イエスの教えも、磔刑に処されたところで終わっていたでしょう。

ちなみに、『12人の使徒』に、イエスを裏切った「イスカリオテのユダ」は含まれません。ユダは30枚の銀貨と引き換えに、イエスの居場所をローマ兵に密告しますが、イエスが有罪判決を下されると、良心の呵責に耐えられず、首を吊って死んでしまいます。その後、ユダの代わりに、マティアが加わり、この12人が『12人の使徒(エヴァンジェリスト)』として伝えられています。

『12人の使徒』と言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画『最後の晩餐』が有名ですね。この絵は、イエスが「お前たちのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(マタイオスによる福音書)と告げた瞬間の、弟子たちの動揺をドラマティックに描いたものです。

イエスの左から3人目、銀貨30枚(報奨金)の入った袋を手にしているのが「イスカリオテのユダ」です。

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それぞれの名前と役割に興味のある方は、こちらを参照のこと。

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映画『復活』では、「イエスの復活の瞬間」を描くのではなく、イエスの死と予言された復活を、弟子たちどう受け止めたかにフォーカスしています。

思えば、その点に言及している映画は皆無で、たとえば、2018年の伝記映画『パウロ 愛と赦しの物語』のように、使徒の一人が主人公でも、その強い信仰心と迫害の日々をドラマティックに描く作品が圧倒多数でしょう。

しかし、彼らの中にも、イエスの死に対する、動揺、悲嘆、疑念、焦りなど、様々な思いがあったはずで、最初から最後まで、一貫して、理想的な信徒だったわけではありません。

たとえば、『トマスの疑い』で知られるバルトロマイは、イエスの復活を信じることができず、「その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、またわたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」などと言っています。

こちらはカラバッジョの名画『トマスの疑い』
Caravaggio - The Incredulity of Saint Thomas.jpg

そんな彼らが、実際は、イエスの死と復活をどう受け止めていたのか。

『ルカスによる福音』(ルカによる福音書)には、次のような記述があります。

墓に葬られた後、婦人たちが香油を携えて墓所を訪れると、すでにイエスの遺体はなく、輝く衣を着た二人の人が現れて、「あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガラリヤにおられたころ、お話しになったことを思い出してみなさい。(人の子)は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、とおっしゃっていただろう。」と告げます。

婦人たち(マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコボスの母マリア)は、このことを使徒に話しますが、誰も信じようとしません。しかし、弟子の一人、ペトロスが走って墓所に行ってみると、婦人たちの言うように、すでに遺体はなく、イエスの亡骸をくるんだ亜麻布だけが残されていました。

同じ日、二人の弟子が、エルサレムから遠く離れた、エンマウスという村へ向かって歩いていると、イエス自身が近づいてきて、一緒に歩き始めます。最初、二人は、イエスに気付きませんでしたが、夕方、ある家に宿泊し、一緒にパンを手に取り、讃美の祈りを唱えるうちに、目が開けて、それがイエスだと理解します。しかし、その姿はすぐに見えなくなりました。

二人の弟子は、エルサレムに戻ると「11人(ユダを除く弟子)」にそのことを告げます。すると、またそこにイエス自身が現れ、弟子たちに語りかけます。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。確かにわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、お前たちが見ているように、わたしにはそれがあるのだ」

イエスが手と足を見せると、弟子たちは喜びますが、まだ信じられず、不思議がっています。

イエスは、弟子たちが焼いた魚を一切れ差し出すと、それを食べて言います。

「わたしについてモーシェの律法と預言者の書と詩編(旧約聖書のこと)とに書いてあることは、すべて実現しなければならないということ、これこそ、まだお前たちといっしょにいたころ、言っておいたことである。聖書に次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によって――エルサレムから始まって――あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。お前たちは、これらのことの証人である」

それからイエスは弟子たちをペタニアの近くまで連れて行き、手をあげて祝福します。そして、祝福しながら、天に上がられます。彼らはイエスを伏して拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、いつも神殿の境内に居て、神をほめたたえていた――という話です。

イエスは本当に復活したのか?

現代人が知りたいのは、この一点でしょう。

科学的に考えれば、生物学的に死亡した人が三日目に蘇生するなど、有り得ない話です。

稀に死亡確認された人が、棺桶の中で息を吹き返す例もありますが、通常、心肺停止すれば、数分で脳死に至りますし、運よく生き延びたとしても、意識を回復する可能性は限りなくゼロに近いです。古代ローマ時代は、そうでもなかった……などということは絶対にありません。

ゆえに、現代人はこう考えます。

聖書には『復活した』とあるけど、イエスに神性を持たせるために、誰かが創作したんじゃないの?

実際、弟子が遺体を隠して、イエスが復活したように見せかけたんじゃないの?

それは、ピラト総督や百人隊長のクラヴィウスも同様です。とりわけ、ローマ皇帝の代理人であるピラト総督は、イエスの神性が証明され、ローマ帝国を揺るがすような一大勢力になることを恐れています。たとえそれが「真実であったとしても」、イエスの復活は絶対にあってはなりません。ゆえに、クラヴィウスに命じて、イエスの遺骸をさらし者にし、『イエスもただの人間』ということを民衆に知らしめたいわけですね。

しかし、復活の真偽を、映画の中で描くことはできません。

「イエスも普通の人でした。(医学的に)復活はありません」と言いきってしまえば、バチカンと世界数億のクリスチャンの気持ちを傷つけることになります。

かといって、「イエスはやはり神の子でした。こんな風に復活しました」とやってしまったら、ただのファンタジーだし、現代人には違和感満載です。かえって安っぽい話になり、映画としての評価もだだ下がりでしょう。

本作が上手いのは、「医学的な復活」=「墓から死体が起きあがる」ではなく、弟子たちの心の復活と、信仰の再出発にフォーカスしている点です。

本当にイエスの亡骸が墓の中から起き上がったか否かは、大した問題ではない。

それよりも、最愛の師の磔刑の後、彼らが再び信仰心に目覚め、伝道を始める過程の方がうんと重要だからです。

そして、それこそが、映画の伝えたい『信仰』であり、『復活』ではないでしょうか。

ゆえに、観客が期待する「復活の場面」――イエスの遺体がゾンビのように起きあがるシーンを描かなかったのは正解だし、有名な『ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)』、マグダラのマリアと復活したイエスが再会する場面も省略したのは、大正解です。

これを映像化していたら、この作品は、たちまちプロパガンダ+宗教ファンタジーと化し、百人隊長クラヴィウスも存在意義がなくなってしまうからです。

それよりも、『イエスの復活』という一つのイベントを通して、ちりぢり、ばらばらになった弟子たちが再び集結し、伝道の誓いを新たにする過程に意味があります。

『奇跡』というなら、死んだ人が生き返ることよりも、2000年以上も前、一人の男が語った言葉が、今も世界中に伝えられ、大勢の心の支えになっていることこそ、奇跡だからです。

信仰とは何か ~口述と手紙の奇跡

思えば、ビデオも、パソコンも、ボールペンさえない時代、一人の男が語った言葉が今に伝えられるなど、本当に奇跡としか言いようがありません。

SNSでも、半年ほどで忘れ去られます。瞬間、世界中で、100万のイイネを集めたとしてもです。

その点、イエスの言葉は、2000年以上です。その多くは、口述と手紙に支えられてきました。印刷技術もなかったので、すべて僧侶らが手動で書き写しています。字が読めない人も大勢いました。それでもイエスの言葉を求めて、人々は教会に足を運び、神父や牧師の言葉に耳を傾けてきました。

いったい、それほどの熱意はどこから湧いてくるのか。

元を辿れば、12人の弟子たちです。

彼らが命がけで伝えたからこそ、現代にまで受け継がれました。

彼らは、歴史に名を残したかったのでしょうか。

ローマを見返すために、やったのでしょうか。

そうじゃないですね。

彼らは心底信じたのです。イエスの教えこそ、人々を救うと。

そうでなければ、逆張り付けにされてまで、教えを伝えようなどと思いません。

見方を変えれば、それだけイエスという師が素晴らしかった証しでしょう。

現代人は、すでに、いろんなノウハウを知っているので、聖書の言葉に改めて感動することもありません。

SNSでも、似たようなことをつぶやいている人はたくさんいますし、神を語ったような書物も巷に溢れかえっています。

自由、平等、人権の観念も、すでに知っているから、何とも思わないだけで、病人や貧者が虫ケラのように虐げられていた時代の人からすれば、イエスのひと言ひと言が、神のように優しく、慈愛に満ちて、心に響いたはずです。

つまり、イエスの奇跡、弟子の信仰とは、そういうこと。

墓の中からゾンビのように蘇ったか否かは、この際、問題ではありません。

何を信じ、いかに行動するか

それこそが、この人生と社会において、最重要のテーマなんですね。

弟子たちは、イエスの処刑に動揺しながらも、「復活」を信じて、再び結集しました。

ある意味、彼らにとっては、信仰と伝道の再開こそが復活だったのかもしれません。

誓いを新たにした弟子たちが、それぞれの使命(ミッション)を携えて、各方面に旅立っていく場面も印象的です。

イエスも立派な人でしたが、たくましく育った12人の使徒も立派です。

そして、つくづく思うのは、それほどまでに12人の気持ちを捉えたイエスは、本当にスゴイ人だった、という事です。

現代でもインフルエンサーみたいな人は数多く存在しますが、その人の意見を伝えるために、命がけで伝道する人など皆無でしょう  陰謀論に扇動されて、議事堂を襲うような群衆もいますが、その人たちにとっては、「教えを伝えること」よりも、自分の正当性を証明する方が100倍大事そうですし。そう考えると、12人の弟子の超人的な働きこそが奇跡かもしれませんね。

【動画】 奇跡のハグと癒やし

本作では、復活したイエスが醜い病人を抱きしめ、病気を癒やす場面があります。

これを見て、「そんなわけ、なかろう 」と思う人もあるかもしれませんが、当時は人権の概念はおろか、医療福祉制度もなかった時代。醜い病人は、周囲から無視され、蔑まれ、石を投げられることもありました。家族からも見放され、食べものも、着るものもなく、野垂れ死にする他ありませんでした。

しかし、イエスだけが、醜い病人を抱擁し、力づけました。

それを「神の手」「神の声」と感じる人があっても不思議ではありません。

現代でも、医療者の優しい声かけや、家族の励ましによって、病人もみるみる元気を取り戻すように、当時も、生き返ったように見えたはずです。

実際、病状の如何によらず、心もちが上向きになれば、青白い顔にも血の気が差し、どろんと曇った瞳にも明るい輝きが戻ってくるものです。

薬も治療法もないイエスの時代なら、尚更でしょう。

醜い病人に限らず、貧者、娼婦、犯罪者など、社会から見放され、孤独と絶望に苛まれる人はたくさんいました。

そうした人々にも、優しい言葉をかけ、愛と平等を説いたイエスを「神の子」「救世主」と仰ぎ見ることに、何の不思議もありません。

何度も繰り返しますが、福祉も、人権も、何もなかった時代です。

それがいかに驚異的で、革新的であったか、現代人でも容易に想像がつくのではないでしょうか。

通常、イエスの役はスウィート系イケメンが演じるのですが、本作は『リアル・ナザレの人』で、実際はこういう容貌だったんだろうな・・という印象です。

現代の教養と参考にどうぞ。

誰かにこっそり教えたい 👂
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