『猿の惑星・新三部作』について
21世紀版『猿の惑星・新三部作』は、1968年にチャールトン・ヘストン主演で制作されたSF名作『猿の惑星』をベースに、いわゆる「ビギニングもの」としてリブートされた新シリーズだ。
構成は次の通りである。
2011年 『猿の惑星・創世記』(猿人のリーダーとなるシーザーが誕生するまで)
2014年 『猿の惑星・新世紀』(勢力を拡げる猿人と地上を追われる人類の生き残りの葛藤)
2017年 『猿の惑星・聖戦記』(人類との最終決戦を経て、地球が猿人に支配されるまで)
21世紀の新シリーズは、「なぜ地球は猿人(Ape)に支配されるに至ったのか」「そもそも人間を超える知能をもつ猿人はどのように誕生したのか」「人類と猿人の間で何が起きたのか」等々、チャールトン・ヘストン版では明確に描かれなかった「ビギニング」にフォーカスして、地球が猿人に支配されるまでの経緯をダイナミックに描いている。
この記事は、シリーズ第二作にあたる『猿の惑星・新世紀』を通して、政治とリーダーシップについて考察している。
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第一作の『創世記』も悪くはないが、第二作の『新世紀』でぐっと深みが増し、第三部の『聖戦記』で上手にまとめた印象。
聖戦記のネタバレになるが、霊長類が著しく進化した理由は、「木の上に暮らしていたから」という説がある。
それを示唆するようなエピソードがあり、その後を想像すると興味深い。Apesがさらに進化すると、結局、人類になるという――。
『エイリアン』といい、『ブレードランナー』といい、21世紀になって作られた続編は、どうにも切れ味が悪く、オリジナルの神秘性を著しく損なっただけ、という印象が強いが、『猿の惑星・新三部作』は、近年もっとも成功した続編の一つ。
オリジナルの世界観を生かし、人類社会の滅亡と、サル社会の台頭を深遠に描いている。
『猿の惑星 : 新世紀(ライジング)』のあらすじと見どころ
猿の惑星 : 新世紀(ライジング) 2014年 - Dawn of the Planet of the Apes
監督 : マット・リーヴス
主演 : アンディ・サーキス(猿のシーザー)、ジェイソン・クラーク(マルコム)、ゲイリー・オールドマン(ドレイファス)
あらすじ
遺伝子変異によって高い知能を持つにいたったシーザーは、霊鳥保護施設で虐待されていた猿(Apes)の仲間を引き連れて、一斉に蜂起。
「エイプ(猿)はエイプを殺さない」というルールのもと、ミュアウッズの森の中で平和に暮らしていた。
一方、人類は、謎の感染症『猿インフルエンザ』によって壊滅的な打撃を受け、限られたリソースをめぐって、殺戮を繰り返していた。
ある時、技師のマルコムは、ミュアウッズの森を訪れ、猿たちに捕らえられる。
猿たちの暮らす集落に水力発電装置があり、マルコムは人間社会を維持するために、それを再起動する必要があった。
シーザーは人類との共存に理解を示し、マルコムの一行を招き入れるが、過激な思想をもつコパは、これを機会に人類を殲滅しようと考える。
やがて、シーザーに反発したコパは、人間社会に近付き、銃器を手に入れ、人間と猿社会の両方に反乱を起こす。
マルコムとシーザーは力を合わせて、人間と猿仲間を救出し、壊滅は回避されるが、最後にシーザーがコパに対して取った態度は意外なものだった……。
見どころ
新三部作の全てに共通することだが、本作も「共存共栄」をテーマにした重厚なアクションドラマであり、とりわけ、猿仲間を率いるシーザーのリーダーシップには圧倒される。
また、過激な思想をもつコパと同様、猿社会の壊滅を企てる武闘派ドレイファスをゲイリー・オールドマンが演じ、異様な緊張感を醸し出している。
主演のマルコムが平和主義の善人なせいか、今一つ、印象に残らないのが惜しいが、本作の主役はあくまで猿のシーザーなので、出しゃばらないくらいで丁度いいのかも。
全編、確固たる思想に貫かれ、ロード・オブ・ザ・リング系の三部作より、はるかに上質だ。(こちらは大人向け)
どこかの政府も見習って下さい、と言いたくなるような、見応えのある政治ドラマである。
『猿の惑星・創世記』 Rise of the Planet of the Apes
『猿の惑星・新世紀』 Dawn of the Planet of the Apes
『猿の惑星・聖戦記』 War for the Planet of the Apes
邦題は、創世記が「ジェネシス」、新世紀が「ライジング」、聖戦記が「グレート・ウォー」となっており、意味が妙に違っているので、注意されたい。
【コラム】 リーダーシップとは何か
政治とは取捨選択のプロセス
政治とは取捨選択のプロセスである。
一つを選んで、一つは切り捨てる。
それが正解であろうと、間違いであろうと、多くの意見の中から一つを選び取り、国家の舵取りを行う。
学生時代から、班長やら、学級委員長やら、何度も務めてきた人なら分かると思うが、メンバー全員の言い分に一つ一つ頷いていては、プログラム一つ決めることはできない。
たとえば、生徒の八割が毎年楽しみにしているダンス大会を「今年もやろう」と決めたら、「私はダンスが苦手」「得意でない人が傷つく」「三年生には負担が大きすぎる」という声が必ず出てくる。
その一つ一つはもっともだし、ダンスが苦手な人には非常に苦痛なのも理解できるが、だからといって、ダンス大会を中止すれば、毎年楽しみにしている八割の生徒が落胆するし、それから以後も、一つ一つの文句に抗えなくなる。
政治というのは、反対意見も考慮しつつ、それでも大局的に『利』となる道を選択することだ。
ダンス大会がが学園祭にとって無くてはならない花形イベントであり、地域住民も楽しみにしているならば、例年に倣って催行するのが大きな利であろう。
だが、一方、ダンスを苦痛になる人の存在も忘れてはならない。
ダンスが苦手な人も一緒に楽しむにはどうすればいいか、「一人一人に見せ場を作る」「お互いに褒めて、励まし、失敗しても絶対に笑わない」「初心者でも踊りやすいBGMを選曲する」、いろいろ方策はある。
そうした『万人の幸福』について慮るのが『人道』であり、政治とは似て非なるものだ。
そのあたりをごっちゃにするから、まともに議論も進まず、デマ、扇状、大衆感情に訴えかけるものが主権に取って代わるようになる。
現代のように、情報を制するものが世界を制する時代においては、『人道』と『政治』について分けて考えねば、現実と迎合の狭間で必ず道を見誤るだろう。
リーダーに求められる決断力と統率力
そのあたり、現代に求められるリーダーシップをクールに描いたのが『猿の惑星・新三部作』の第二弾となる『新世紀(ジェネシス)』だ。
第一弾の『創世記』が公開された時、「今更、猿の惑星のリメイクもなかろう」と否定的だった私も、『新世紀』を観て、ずいぶん印象が変わった。
これはエイリアン新三部作やスターウォーズ新三部作みたいな、取って付けたような前日譚ではない。『猿の惑星』という古典の名作を舞台に借りながらも、作り手の創意や哲学を前面に押し出した、野心的な作品だと直感した。
その通り、これに続く第三作『聖戦』も納得いく締め方だったし、この後、第四作、第五作と続いても、このスタッフなら上手くやってくれるのではないかという期待もある。
それくらい完成度の高い三部作だった。
第一作『創世記』では、アルツハイマーの遺伝子治療薬として開発中の薬物を実験用のサルに投与するうち、一匹のサルがめざましい知能の発達を示す。
だが、不幸にも、このサルは途中で凶暴性を示し、職員に射殺されてしまう。
だが、サルが凶暴化した原因は、密かに出産した子猿を守る為であった。サルの悲運を哀れんだ研究者のウィルは、子猿を『シーザー』と名付けて自宅に引き取り、我が子のように可愛がる。
母親の優良な遺伝子を受け継ぎ、シーザーの能力も人間の子供に匹敵するものであったが、ある日、ウィルの祖父と隣人の諍いに巻き込まれ、隣人に牙を剥いたが為に、霊長類専門の保護施設に収容されてしまう。そこでも高い知能を発揮し、チンパンジーやオランウータンの群れを統率するようになったシーザーは、ついに保護施設を脱出し、サルの仲間と共に森に逃げ込む。
そして、『新世紀』。
サルから人間へと伝播した変異遺伝子は、人間にとっては致死のウイルスだった。大半の人類が死滅し、かろうじて生き残った者は、廃墟と化した町に逃れ、復興の道を模索する。一方、サルの群れとは敵対関係にあり、緊張が高まっていたが、シーザーはあくまで人類との共存を望み、仲間にも武力抗争の愚かさを説いて、決して闘いを仕掛けることはなかった。
だが、それを不満に思うコバと武闘派の一党は、町に潜り込み、人間に闘いを仕掛ける。
シーザーも、一度はコパの過ちを許し、再び仲間に迎えるが、人類の殲滅と権力奪取を企てるコパが、人間のみならず、仲間のサルまで虐殺するようになった事実を知ったシーザーは、最後の最後に、決然と制裁を加える。
クライマックス。
シーザー VS コバ の一騎打ちとなり、コバは施設の爆発に巻き込まれ、鉄筋から墜落する。
シーザーはとっさに手を差し伸べ、コバは「エイプ(猿)は決してエイプを殺さない」という仲間の掟を口にして、シーザーに命乞いをする。
一瞬、シーザーの胸に人道の思いが去来し、同情と慈しみに決心が揺らぐ。
そんなリーダーの判断をじっと見守る大勢の仲間。このあたりの描写が素晴らしい。
だが、シ―ザーは、コバに無残に殺された仲間たちの無念と、無益な争いに深く傷ついた個々の胸の内を汲み、組織のリーダーとして決然たる行動に出る。
「お前はエイプではない(=我々の仲間ではない)」とその手を離すのだ。
仲間の信頼を揺るぎないものにしたシーザーは、次代のリーダーとして迎えられ、猿の結束をいっそう強固なものにする。
某国のリーダーも、いっそ、シーザー様にやって頂いてはどうかと思うほどの統率力だ。
なぜシーザーはコバの手を離したのか
もし、ここでシーザーがコバに同情し、コバを助けていたなら、シーザーの権威は失墜し、もう誰もシーザーの言うことに耳を傾けなくなるだろう。
コバは長年の連れ合いとはいえ、仲間を虐殺した裏切り者でもある。
コバを助けるということは、死んでいった仲間やそれを目の当たりにした者たちの感情を蔑ろにすることであり、この場合、厳しく制裁するのが筋というものであろう。
もちろん、人道にもとるかもしれないが、こと組織の統率においては『けじめ』と『しめし』が何よりも重要だ。
誰に対しても同情的であることは、公平という名の不公平に他ならない。
飲酒運転で歩行者を轢き殺した者が、日頃安全運転を心がけている者と同等に扱われ、「それはいくらなんでも可哀想じゃないか」という理由で罰則を免除されたらどうなるか。
10億の脱税をした者が、「業界でこれだけ功績があるのだから、そんなに厳しく処罰しなくてもいいじゃないか」と無罪放免にされたら、真面目に確定申告している中小の経営者はどう思うか。
一見、人道的に見えて、この社会には法も平等もない、と痛感するだろう。
それは、真の意味で社会の礎となる人々の信頼を損ない、組織運営の要である法規遵守の精神を狂わせる。
相手が親戚であろうが、功績があろうが、法を破り、社会に危機をもたらした者に対しては厳然と対処する。その賞罰があればこそ、組織も正常に機能するのであり、同情は時として不平等をもたらすことを夢忘れてはならない。
もちろん、この事実は、長年、シーザーの良心を苦しめることになる。それを第三作の『聖戦』で描いていたのが非常に印象的だ。
リーダーは時に憎まれ、誤解もされる。にもかかわらず、最大数の福利の為に決然と一つを選択するのが、リーダーの務めであり、宿命だ。
もちろん、リーダーには信頼や尊敬といった要素も欠かせないが、それと大衆への媚びは別である。
時に大衆の反発を招いても、その方策が、五年後、十年後には、大きな実りになってかえってくると確信するならば、決然と選択し、丁寧に説明する。
その上で、網からこぼれたものへの配慮も欠かさず、最低限、誰もが人間らしく生活できるよう制度を整える。それが人道的政治であって、支持を取り付ける為に、大衆の好みに迎合するのは本末転倒だろう。
いつの時代も、弱者の味方や自由平等を謳えば大衆の受けはいいし、問答無用で正義の側に立てる。痛みを伴う改革よりは、万人に優しい方が好まれるし、自分から猫の首に鈴を付けるような勇気は、今の時代、敵に反撃の材料を与えるだけである。
だが、それも元を辿れば、大衆が「平等」と「ことなかれ主義」を勘違いしている点にあり、真の平等は区別を伴うものだということを、もっと認識すべきではないだろうか。
ここでいう『区別』とは、仲間を虐殺するようなコバが、法を遵守するその他大勢と同等に扱われるべきではない、という態度である。
リーダーシップといえば、有無を言わせぬ強引さや商業的な個性、誰よりも秀でた能力、大胆、奇抜といった要素が強調されるが、真のリーダーシップとは、将来を見据えた取捨選択ができることであり、その為に必要な見識や思慮は、受け狙いの迎合主義では決して育たない。
大衆が大衆の好みにあったリーダーを選ぶ時、それは理性より扇情が影響力をもつ現れでもある。理性を欠き、何でも同情や慈悲で判断するようになれば、それは組織の瓦解と無気力を招き、いずれは体制そのものを滅ぼすだろう。
政治的に何かを切り捨てることは、人道にもとるかもしれないが、その切っ先が鈍っても、いずれ大多数の福利を損なう。困難と混乱の時代だからこそ、私たちは一層、何を選び、何を諦めるのか、理性で考えるべきではないだろうか。
新三部作の走りとなった2001年公開のティム・バートン版『猿の惑星』。バートン監督らしいビジュアル重視の続編は賛否両論となり、後の重厚な新三部作に繋がった。しかしながらカラフルで独創的な世界観は一見の価値あり。一人で映画館に通っていた思い出話と併せて。
初稿 2014年9月29日