『猿の惑星・新三部作』について
21世紀版『猿の惑星・新三部作』は、1968年にチャールトン・ヘストン主演で制作されたSF名作『猿の惑星』をベースにリブートされた。
構成は次の通り。
2011年『猿の惑星・創世記』(猿人のリーダーとなるシーザーが誕生するまで)
2014年『猿の惑星・新世紀』(勢力を拡げる猿人と地上を追われる人類の生き残りの葛藤)
2017年『猿の惑星・聖戦記』(人類との最終決戦を経て、地球が猿人に支配されるまで)
21世紀の新シリーズは、「なぜ地球は猿人(Ape)に支配されるに至ったのか」「そもそも人間を超える知能をもつ猿人はどのように誕生したのか」「人類と猿人の間で何が起きたのか」等々、チャールトン・ヘストン版では明確に描かれなかった「ビギニング」にフォーカスして、地球が猿人に支配されるまでの経緯をダイナミックに描いている。
この記事は、シリーズ第一作にあたる『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』から、人間とサルの違いについて考察する。
猿の惑星:創世記(ジェネシス) あらすじと見どころ
猿の惑星:創世記(ジェネシス) 2011年 -Rise of the Planet of the Apes
監督 : ルパート・ワイアット
主演 : ジェームズ・フランコ(ウィル・ロッドマン)、ジョン・リスゴー(ウィルの父チャールズ)、アンディ・サーキス(猿人シーザー)
あらすじ
製薬会社ジェネシス社に勤務する神経学者のウィル・ロッドマンは、アルツハイマー治療薬を開発。実験台としてチンパンジーのブライトアイズに投与する。
だが、社内プレゼンテーションを前に、ブライトアイズが突如、凶暴化し、射殺されてしまう。ブライトアイズは秘かに子供を産んでいたのだ。
ウィルはブライトアイズの遺児をシーザーと名付け、我が子のように育て始めた。
シーザーは著しい知能の発達を見せ、手話でのコミュニケーションも可能になる。
しかし、アルツハイマー症を患う父が隣人と揉め事を起こし、止めに入ったシーザーは隣人を傷つけてしまう。
シーザーは凶暴の烙印を押され、ランドン親子が経営する霊長類保護施設に送られる。
だが、そこでは虐待が日常化し、シーザーも例外ではなかった。
そんな中、手話を使えるオランウータンのモーリスと親しくなり、シーザーは猿たちの信望を得て、施設からの脱走する。
彼らはジェネシス社に忍び込み、知能を著しく高める開発中の治療薬を服用すると、警察隊の攻撃をかわし、ミュアウッズ国立公園に逃げ込んだ。
ウィルは、シーザーに町に帰るよう説得するが、自我に目覚めたシーザーはウィルに別れを告げ、仲間らと森に去って行く……。
見どころ
2001年に公開されたティム・バートン監督の『PLANET OF THE APES/猿の惑星』にずっこけた(?)映画人が、総力をあげて完成した新・三部作のビギニング。
→ ティム・バートンの『PLANET OF THE APES/猿の惑星』 / コラム『おひとり様の映画列伝』
ティム・バートン版は、自身の世界観を前面に押し出し、1968年の名作『猿の惑星』(チャールトン・ヘストン主演)における最大の謎――なぜ人類が滅び、猿人(Apes)が高度な知能を持つに至ったか――には一切言及しなかった。
その点、新・三部作は前作の世界観を踏襲し、「なるほど」と納得のいく回答を示した。
それが、「アルツハイマー治療薬と遺伝子操作」である。
『遺伝子工学による突然変異』は、ありふれた手法で、いささか新鮮味に欠けるが、ウィル・ロッドマンの家族的な飼育を通して、子猿のシーザーがに知徳に優れた猿人(Ape)に成長する過程は非常に説得力がある。
また、遺伝子操作の影響が猿人の知能にとどまらず、『猿インフルエンザ』という致死的な感染症を生み出し、世界的なパンデミックによって人類滅亡の危機に瀕する展開もだ。
小猿のシーザーが、意思もった猿人に進化する分かれ目となるのが、霊長類保護施設の飼育係ランドンに向かって叫ぶ、『No』である。
以下、シーザーの『No』をテーマにしたコラム。
【ラム】 人間とサルの違いは『No』と言えること
『No』とは最大の意思表示 ~知能の発達と自我の発露
卓越した知能をもつシーザーは、心優しい研究者ウィル・ロッドマンの家に引き取られ、家族同然に育てられる。
しかし、アルツハイマー病のウィルの父親を隣人の暴力から守ろうとした為に、「危険な動物」とみなされ、霊長類保護施設に隔離されてしまう。
だが、そこでは粗末な餌を与えられ、虐待は日常茶飯事だった。
シーザーはついに決起し、猿の仲間を率いて、施設を脱走する。
その時、シーザーを痛めつけ、檻に戻そうとする飼育係のランドンにシーザーが言い放つ言葉が、『No』だ。
日本語吹き替えでは「やめろ!」になっているが、オリジナルでは全身全霊をこめて「No」と叫ぶ。
「No」が、猿人シーザーの『最初の言葉』なのだ。
*
これは幼児も同様である。
知能が発達し、自我が芽生えると、何かにつけ『イヤ』と言うようになる。
いわゆる『魔の二歳児=イヤイヤ期』だ。
「シンちゃん、ごはん食べる?」
「イヤ」
「お着替えする?」
「イヤ」
何を言っても、「イヤ(No)」としか応えないので、「自分の育て方が間違っていたのではないか」と頭を抱える親も少なくないが、幼児にとっては、「イヤ(No)」という言葉こそ、最大の意思表示であり、自我の発露だ。
知能が発達して、お猿さんみたいな赤ちゃんから、人間に進化した、立派な証しである。
そういう意味でも、シーザーが最初に発する言葉を『No』にしたのは非常に説得力がある。
Noと叫んだ瞬間、シーザーはペットから猿人へと進化したのだから。
※ Noと叫ぶ場面は1分30秒あたりから
『No』は一つの意思であって、全人格ではない
Noを言うのも、言われるのも苦手な人は、『No』を全人格と結びつけるからではないだろうか。
『No』は一つの意思であって、その人の全存在を裏付けるものではない。
パーティーに行ける人もあれば、都合で行けない人もいて、パーティーに行かない(No, I don’t go to party.)からといって、その人の全てが悪いわけではないだろう。
Noを言うのが怖い人、あるいは他人のNoが許せない人は、『No』を全人格と結びつけ、それが全てと思ってしまうからだろう。
たとえば、誰かが気乗りしなくてパーティーに来なかったとしても、それはその人の自由であって、パーティー不参加によって友情まで損なわれるわけではない。
ところが、『No』という言葉に過剰に反応する人は、パーティーに来ない = 自分の全存在を拒否されたと思い込み、「あんな人は、もう友だちじゃない」「私は愛されない」と極端な受け止め方をする。
そして、他人のNoが許せないように、自分もNoと言うことができず、「私は無理して付き合ってあげてるのに」と、ますます不満をつのらせるのだ。
人間関係の基本は、
あなたがNoを言うように、私もNoと言っていい。
他人の意思を尊重できない人は、自分の意思も尊重できないし、自分からチャンスの門戸を閉ざしてしまう。
これでは、どれほど能力がっても、人生は生きづらいものになる。
こうした心理的な罠から抜け出すには、『No』は『No』、人格は人格と、分けて考えることだ。
SF映画が好きな人もいれば、苦手な人もいるように、他人が操作できるものではないし、何を鑑賞しようと、その人の自由である。
同じように、あなたも何を好きになってもいいし、無理なものは無理でいい。
自分のNoを尊重すれば、他人のNoも尊重できるし、意思と人格は別だということが理解できるようになるだろう。
国によっては、周りに合わせるより、「No」と言える教育を重視するが、人間が一つの共同体で個を確立するには、お互いに『No』と言える精神土壌が不可欠なのだ。
『No』は自立した人間の証
『No』はまた自立した人間の証しでもある。
自分が生きていく上で、他者に依存しないから、いつでも、誰に対しても、「No」と言うことができる。
『No』が言えないのは奴隷に他ならず、自分で自分の意思を放棄して、どんな豊かな人生があるだろう。
猿人のシーザーも、人間に飼育され、檻の中でおとなしくしていれば、食いっぱぐれることはなかった。
だが、シーザーは『No』と叫んで意思表示し、仲間と共に決起する。
何故なら、彼は奴隷ではなく、意思をもった一人の猿人だからである。
人間とサルの違いは、『No』と言えるか、どうか。
Noと言うべき時に言わなければ、それこそ奴隷と同じ。
自尊心を踏みにじられ、またそんな自分を激しく嫌悪するようになるだろう。
『No』という言葉は、人間の尊厳に他ならず、そこから目を背けるのは、自分で自分を貶める媼ものである。
お互いに『No』を尊重すれば、かえって人は救われ、社会も円滑に運ぶのではなかろうか。
【余談】 なぜ猿山にはイノシシが居るのか ~サル社会とママ友軍団
昔、生物学科の知人が語って聞かせてくれました。
「なぜ猿山にはイノシシが居るのか」
猿の社会も、幼稚園ママ集団と同じく、階層社会です。
弱いサルは苛められ、強いサルに追い回される。
とりわけ、動物園の猿山のように、閉鎖された空間に置かれると、逃げ場を失い、ストレスから死んでしまうこともあるそうです。
ところが、猿山にイノシシが居ると、弱いサルはイノシシの背中に乗って遊んで、ストレスを発散することができます。
またイノシシも、「サルに遊んでもらっている」と感じるので、ストレスにはならないそうです。
猿山のイノシシは、弱いサルのストレス発散の受け皿になることで、階層社会の最下層にいる者たちの救いになっているわけですね。
ママ友集団で、サルに毛の生えたようなボスママや、サルが白粉を塗りたくったようなママ集団に苛められたら、こう考えましょう。
「私はイノシシ。あんたはサル。あんた達のストレスの遊び相手になってやってるんだ」と。
根本的に、生物種が異なるのです。
彼らはあなたを理解しないし、あなたも理解する必要はありません。
サルはサル同士、永久に苛め合い、競い合って、低レベルな争いを繰り返しておればいいのです。
ついでに、タワーマンションで、上だの、下だの、自慢話に疲れたら、心の中でこう唱えるといいですよ。
『バカと煙は高い所が好き』
元気出してね。