この世は辛い事ばかりだから、私なら最初から産まないわ ~ミケランジェロの『ピエタ』より

この記事は、海洋小説 MORGENROOD -曙光に基づく創作エッセイです。

目次 🏃

小説の抜粋

若き日の回想。

お堅いクリスチャンのハワードは、比類なき美貌の持ち主で、いかがわしいと噂される画家のアトリエでヌードモデルを務めるフローレスに恋をします。
しかし、高名な資産家の私生児で、母親は自殺、フローレスはハワードの親戚の家に養子として引き取られ、一族から疎まれます。

一方、ハワードの父親は、巨額収賄事件に関わり、一族の名誉を貶めたばかりか、愛人に入れ込んで、家庭内をメチャクチャにします。
それでも父親に溺愛されるハワードは強く咎めることができません。
ハワードは、父が密輸業者に欺されて購入した小動物が原因で、重篤な感染症にかかり、人工心臓を埋め込んで、どうにか助かった経緯がありました。
複雑な生い立ちから、ハワードはカトリック教の神父の導きで洗礼を受け、教会に通うようになります。

そんなハワードを、フローレスは「お目出度い人」と冷めた目で見詰め、彼の話などまともに聞こうとしません。
しかし、心優しいハワードに次第に心を開き、一緒に美術館に出掛けます。

以下は、美術館に展示された、『ピエタ』にまつわるエピソードです。

永遠に、この春の日が続けばいいのに……

この光の回廊を、どこまでも彼女と歩いて行けたらいいのに……

そう願いながら、ふと彼女の方を見ると、彼女は急に立ち止まり、ある一点に釘付けになった。

彼女の視線の先にあるのは、ミケランジェロの傑作『ピエタ』だ。

白いガゼボ(西洋風東屋)の中程にひっそりと佇み、得も言われぬ哀しみをたたえている。

彼が声をかける間もなく、彼女は彫像に向かってひた歩き、彼もその後を追った。

ピエタは、イタリア語で『敬虔な哀悼』を意味する。

磔刑に処されたイエスの亡骸を膝に抱く聖母マリアの姿は、ミケランジェロの名声を決定づけた『ダビデ像』に並ぶ傑作だ。

深い哀しみの中にも、己が運命に殉じる意思の強さを感じさせ、見る者の心を強く引き付けずにいない。

無限の霊感に突き動かされ、ミケランジェロが大理石から掘り出したのは、究極に高められた母の姿だった。

フローレスはしばし無言でピエタを見詰めていたが、

「このマリア像は、愛によって高められた女性の究極の姿だね」

と彼が言うと、

「あなたは男だから、この哀しみが分からないのよ。

フローレスは冷めた口調で言った。

「あなたは男性で、自分の血と肉を分けて生命を生み出すことがないから、ただ『美しい』としか感じないんだわ」

彼が言葉に詰まると、フローレスはピエタを見上げたまま、

「たとえ天から偉大な使命を授かって生まれたとしても、我が子は我が子よ。自分の血と肉を分けた息子に変わりはないわ。それが人類の罪を購う為に酷い目に遭い、自分よりも先に死んでゆくのよ。あなたが親なら、そんな運命に耐えられる?」

「……」

「何てことかしらね。イエス・キリストは人類の罪を購う為に命を懸けたのに、人はいまだに愚かで、地上には悪がはびこっている。何度生まれ変わっても、この世に救いなど有りはしない。それでもこの世に生きる価値があるとでも? こんな世の中、生まれても辛い事ばかりだから、私なら最初から産まないわ。たとえ天から偉大な使命を授かったとしても、私なら絶対に産んだりしない。

「フローレス……」

「あなただって、一度や二度は死にたいと思ったことがあるでしょう? あまりの辛さに、この世から消えてしまいたいと願ったことも数え切れないほどあるはずよ。もし、あなたの子供が、この現実に耐えられなくて、生を呪うようになっても、それでもあなたは産んで良かったと心の底から祝福できる? どんなに愛しても、子供の不幸まで肩代わりすることはできないのよ。だったら、最初から産まないことが愛の証と思わない?」

彼が口を閉ざしていると、フローレスは微苦笑を浮かべ、「あなたの神さまも、この問題までは答えてくれないのね」と軽く揶揄した。

「私、あなたが憎くて言ってるわけじゃないのよ。ただ、あまりにお目出度いから、つい反論したくなるの」

「僕がお目出度い?」

「ええ、そう。あなたったら、いまだにサンタクロースを信じて、クリスマスの夜に靴下をぶら下げる子供みたい。それがあなたの良い所でもあるし、周りから浮き立つ所以でもある。サンタクロースを信じない人にとって、あなたの信心はひどく滑稽よ」

「神を信じることが、それほど滑稽かい?

「滑稽よ。ありもしないサンタクロースがプレゼントを届けてくれると本気で信じてるんですもの。それとも、あなたには、あなたの眠っている間に、あなたの望むものを何でも靴下に入れてくれる、リッチな父親があるのかしらね」

「どうせ僕は甘やかされてるよ。何だかんだで、お父さんの力を当てにしているのも本当だ。だけどね、フローレス、世の中、すべての人が、口を揃えて、サンタクロースなどいやしない、奇跡なんて起こりっこないと言い出したら、僕たちは何所に救いを求めればいいんだ? それとも君は救いなど必要としないほど強い人間なのか?」

「救いですって! 在るのは自分自身だけじゃない。生きているのも”わたし”なら、考えるのも”わたし”よ。天を仰いで奇跡を待つなんて、知恵のある人間のすることじゃないわ」

「君も僕のお父さんと同じ事を言うんだね。救いなど求めて何になる、自分の頭で考えろ、恃みは己だけだと。でも、そういうのを原罪と言うんだよ。僕のお父さんも、誰の忠告も聞き入れず、自分の頭で考えた結果がアルバトロス事件だ(巨額収賄事件)。君だって、自分の頭で考えることが、いつもいつも正しいわけじゃないだろう。もし、君が過った時は、誰がそれを正してくれるんだ?」

「……」

「君はサンタクロースも子供だましみたいに馬鹿にするけど、神さまは違うよ。あえて言うなら、僕は永久不変の真理を重んじているんだ。その時々に応じて変わる価値観など、本当の意味で支えにはならないから。僕には君がどんな不幸に生まれ、心に深い傷を負っているかは分からない。でも、これだけは言える。過去がどうあれ、未来は帰られると。君の人生だって、これから素晴らしいことがたくさんあるかもしれない。だから全てを否定しないで、生きていて欲しい」

「そうかしら……」

「本当だよ。君が望むなら、神さまは何だって叶えて下さる」

「また夢みたいなことを言うのね」

「夢じゃないさ。君はこんなに綺麗だし、絵の才能もある。幸せを掴むチャンスはいくらでもあるはずだよ。それより、君は本気で画家を目指す気はないのかい? 画家のアトリエに好奇心で出入りして、暇つぶしにデッサンするだけで満足と?」

「だって、私には描きたいテーマがないからよ」

「テーマ?」

「そうよ。どんな画家にも生涯を貫くテーマがあるわ。愛、怒り、風刺、耽美。みなテーマを追う中で、素晴らしい作品を作り上げていくの。そのテーマは自分自身で見出すものだと思ってる。だけど、真に偉大なものを見ていると、その人たちは生涯のテーマを天から授かったような気がするわ。でも、私には何もない。手先で描いても、何の説得力もないでしょう」

「それも見つかるよ。君が生きさえすれば。聖書でも言うじゃないか。『求めよ、さらば与えられん』と。君は幸福になるのを恐れているだけだ。わざと光に背を向けて、現実を見ないようにしてる」

「恐れてなんかないわ……」

「だったら、どうして、一人で泣いたりするんだ? 本当に夢も希望も捨てたなら、泣くことなどないはずだ。でも、君は傷ついてる」

引用:Father’s Days

この話の続きが、人間はね、生のままの姿が一番美しいの ~『裸足のアフロディーテ』よりです。

哀れみのピエタについて

ピエタという美しい響きを持つこの言葉は、イタリア語で『敬虔』『慈悲』『哀れみ』の意味を持っています。

西洋絵画においては、イエスの亡骸を抱いて嘆き悲しむ聖母マリアの姿を特に『ピエタ』と呼んでいます。

ただ、このような情景は新約聖書には存在せず、アリマタヤのヨセフが、十字架から降ろしたイエスの遺体を亜麻布に包んで埋葬する『十字架降下』の場面から派生したと考えられています。

数あるピエタの中でも、最も有名なのが、ルネサンスの巨匠、ミケランジェロが手がけた『ピエタ』(大理石)で、フランス人の枢機卿の注文で制作されました。

ミケランジェロのピエタは乙女のように若々しく、理由は、ダンテの『神曲』の「処女なる母、汝の子の娘」というマリア観を表現したからと言われています。

初稿:1998年12月13日

誰かにこっそり教えたい 👂
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次 🏃