イソップ寓話集の『狐と鶴』といえば、「他人に意地悪をした者は、同じように意地悪をされる」という寓意で知られているけども、全文読めば、決してそれが主旨でないことが解る。
今度は鶴が狐に案内を出し、首の細長い瓶に食物を入れて供したので、鶴は易々と嘴を差し入れて味わったが、狐はそれも叶わず、相応のもてなしを受けることになった。
同じように、哲学者が酒の席で細かい理詰めの問題に深入りすると、ついて行けない大勢の人が迷惑して、今度はその連中が、歌や馬鹿話や野卑低俗な話題に走るので、一緒に飲むというつきあいの目的はどこへやら、酒神ディオニュソスの功徳も踏みつけにされるのだ。
意地悪というよりは、価値観の違う者同士で同じ価値を味わうことはできない、といったところ。
狐には狐の好みがあり、流儀がある。
鶴にも鶴の好みがあり、流儀がある。
狐の世界では豆のスープが最高のご馳走なんですよ、こうやって平らなスープ皿にたっぷり注いで、ペロペロやるのが、最高に美味い食べ方なんです――といったところで、鶴にはまったく合わない。
鶴にとっての肉団子も同様だ。
その価値の解らぬ者に、自分の価値を押しつけたところで、相手は困惑するだけだし、かえって、双方に不快な気分を残すだけになる。
これは意地悪というより、流儀の違いであり、狐も鶴も自分の流儀を信じて疑わず、それが正義と信じて相手をもてなすところに大きな間違いがある。
鶴の形態を見れば、あるいは狐の習性を見れば、相手にとって何がご馳走か、解りそうなものなのに、そうした違いにまったく想像力が働かない点に、不和の根源があるのだな。
私も外国人家庭にお呼ばれに行く時、いつもこの寓話を思い出す。
確かに、もてなされるのは嬉しい。
一つ一つの料理が丹念に手作りされ、その心づくしは一流旅館にも匹敵するほどだ。
でも、どう頑張っても、ウサギの肉は食べられない。
鹿やイノシシも同様。
頭では十分に理解できる。
その家のご主人が森で狩った鹿の肉は、一族にとって最高のご馳走だということが。
でも、食べられない。
ウサギも同様。
どれほど身体によいと言われても、ぴょんぴょん跳ねるウサギの姿を想像すると、やはり食べられない。
二口が精一杯。
すいません!
森で鹿を狩るのが、どれほど大事か、十分に推察します。
これらを自身の手で屠り、何日も特製ソースに漬け込んで、柔らかく煮込むのは大変だったでしょう。
でも、食べられません。
どうしても、食べられないのです。
狐の家で出された豆のスープみたいに。
それよりお茶漬けが食べたい。
コンビニの梅むすびが懐かしい。
たこ焼きが恋しいと言う。
「えええっ、タコが好きなの?」と驚かれるけども、私にとっては、それが鶴の肉団子なのです。
狐とは違うのです。
以下、斉唱……。
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このように、当人は最高のもてなしと思っていても、相手にしてみたら、そうじゃないことも多い。
どこの世界でも、良識ある人間は、何を出されても、たとえ自分の好みや主義と違っても、まずはもてなしてくれた相手に対して礼を言うし、どこか一つは褒めるところを探す。テーブルクロスが綺麗とか、サラダは美味しいです、とか。そうした気遣いで異文化交流は成り立っており、水面下の事情は決して表に出さないし、また互いに詮索しないのが礼儀というものだ。
ところが、相手に対して傲慢になると、「なぜ豆のスープを食べないのか。町で一番上等な豆を十時間かけて煮込んだのに」とか、「肉団子の価値の解らんやつだ。あいつは無粋だ、失礼だ」と不満を感じ、喜ばない相手を責めるようになる。
自分にとって最高のものを出せば、それが最高のもてなしになると信じて疑わない人たちだ。
狐には飲みやすいスープを、鶴には食べやすい肉団子を、相手の嗜好や習慣に合わせて出すのが、本当のもてなしなのに。
しかし、相手への想像力を欠くと、自分にとっての最高が、相手にとっての最高になる。
相手の、苦し紛れの褒め言葉を真に受けて、自分のもてなしを一切顧みなくなる。
これが二度三度と重なれば、火花が散るのは容易に想像がつくだろう。
大袈裟と思うかもしれないが、異文化間の悪感情というのは、本当にこんな些細な、嗜好や習慣の違いから火を噴くのだ。
イソップの『狐と鶴』の寓話は、意地悪の応酬として語られることが多いが、私はこれほど「もてなし」の本質を突いたエピソードもないと思う。原典の結論を除けば、だ。
もてなしについて考えるということは、とことん、相手の立場に立つ、ということだ。
こちらの魅力をアピールするのも大切だが、それと同じくらい、相手のニーズを満たすことも重要である。
観光ならば、ときめき、安らぎ、笑い、感動、いつもと違う日常を求めてやって来るわけだから、たとえそこに最高とされるものがあったとしても、相手の期待から著しく外れるものがあっては話にならない。
狐には狐の、鶴には鶴の、喜ぶものを提供する。
文化における”自分らしさ”というのは、相手が喜んで初めて理解されるものではないだろうか。
相手の顔を見ないもてなしは、遅かれ早かれ、飽きられる。
そこに(自分にとっての)最高のものが並んでいたとしてもだ。
この広い世界において、私たちはそれぞれが狐と鶴の違いほどある。
もてなしとは、相手の好みや習慣について想像を巡らすことである。
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嫌いな人にはとことん嫌われている印象のデービッド・アトキンソン氏だが、この方の言説は鋭いところを突いている。
京都の嵐山も美しいし、嵯峨野界隈も非常に頑張っていると思うけど、一度、プラハのカレル橋を訪れれば、旧市街全体が巨大な観光アトラクションのようで圧倒される。
京都という箱の中で個々が魅力をPRするのではなく、旧市街全体を一つの資産と考え、一丸となって売り出している印象だ。
だが、それは観光業に携わる人の落ち度ではなく、全体の設計の問題だ。
いいものはたくさんあるのに、それを生かしきれていないというか、そもそも外国人観光客が何を求めてやって来るのか、いまひとつ解ってないというか――アトキンソン氏のもどかしさは私にも理解できる。
たとえば、致命的と感じるのは、ベンチの少なさだ。
セキュリティの為か、美観の為か知らないが、観光地にも公共施設にも、腰をかける設備が全くといっていいほど置かれていない。
海外の観光地に行けば、至るところに、ベンチやソファ、もしくは人が休むことを想定して設置したアーティスティックな置物がある。それもUSB接続+無料Wifi付き
というのも珍しくない。観光客はそこに腰をかけ、Google Mapで検索したり、チケットを購入したり、子どもにスナックを食べさせたり。スマホも体力も充電したら、さあ、次は何所に行こうか、元気を取り戻して、遠方の観光スポットまで足を伸ばす。そして、延々と金を使い続ける。交通費、飲食代、土産物、入場料、etc。
対して、京都の観光地も公共施設も、呆れるほどベンチが少ない。「道行く人に休んでもらおう」という観念も感じない。
管理が大変だから、美観が損なわれるから、いろいろ理由はあるだろうが、一日中、重いバッグパックを背負って町中を歩き回る旅行者にとって、あのベンチの少なさは拷問レベルに感じる。そこで道ばたに座り込むと、行儀が悪いと非難されるわけだが、幼児を連れて歩き回る旅行者など、どこに腰をかけて身体を休めればいいのか。
ベンチがあれば、旅行者は気軽に腰掛け、休むついでに、みたらし団子だの、抹茶シェイクだの、必ず飲食物に手を伸ばす。食べる気がなくても、休む場所があり、目の前に美味しそうな屋台があれば、ついつい買ってしまうのが旅行者の性であり、子連れの宿命だからだ。
にもかかわらず、ベンチは要らない、立ち食いお断り、ゴミ箱を捨てるボックスさえ無い、となれば、目の前に美味しい屋台が建ち並んでも、誰も買わないだろう。ゆっくり座って、食べる場所がないのだから。だから、素通り。欲しいなと思っても、周りを見回して、腰掛けて食べる場所がなければ、もういいや、と通り過ぎる。たとえ買ったとしても、ゴミ箱がなければ、ゴミを持ち歩くのも面倒だから、必要最小限しか買わない。いくら美味しいたこ焼きを売っていても、ソースでベトベトになった紙プレートを持ち歩いてまで買おうという観光客がどれほどいるだろう? それより、さっさと宿に戻って、TVでも見てた方がまし……という気分になる。旅行者が宿に引きこもれば、それだけ儲けのチャンスも減るし、業者はますますお金が回らなくなって、設備投資ができなくなる、という悪循環ではなかろうか。
それに比して、海外の国際観光都市の、マネートラップの凄いこと。至る所に観光客に金を使わせる仕掛けが張り巡らされて、ついつい長居させられる。日当たりのいいベンチの前でレモネードを売っていたり、子連れの集まる場所でパフォーマンスをしつつ駄菓子を売っていたり。そして、観光客が集まる場所には、必ずベンチがあり、オープンカフェがある。居心地よくて、人が長居するから、ジュースもアイスクリームもよく売れるし、一雨降れば、皆がカフェに飛び込んで、コーヒー一杯注文せざるを得なくなる。日本では長居は嫌われるが、国際観光都市のコンセプトは、滞在時間=金であり、プラハでも、ウィーンでも、深夜まで観光客を回してナンボのものなのだ。(もちろん、ここでいう長居とはカフェに居座る意味ではなく、観光エリアに留まる時間を指す)
恐らく、日本の観光業に携わる多くの人は、自分自身、何週間とかけて旅した経験が乏しいのだろうと思う。たった一日の有給休暇でさえ白い目で見られるお国柄だもの。一週間以上の旅行など夢のまた夢、が実状だろう。
しかし、旅行者のニーズや不満は、自分が経験しない限り、実感をもって見えてこない。いくら気働きしても、人間の想像力には限界があるし、まして異文化のことなど、どうやって理解し得るだろう。それこそ『狐と鶴のおもてなし』みたいに、永遠に噛み合わない気遣いで終わってしまうのではないだろうか。
本当に日本の観光業を盛り上げたいなら、その最前線で頑張っている若い人たちに、十分な休暇と支度金を与え、一ヶ月ほど異国に放り出すのが得策と思う。
海外の国際観光都市が痒いところに手が届くニーズで成功するのは、そこで働く人自身が、長期旅行者であり、異国の体験者であり、厳しいレビュアーだからだ。
現場の方々、老いも若きも外国語を学んで、一所懸命に頑張っておられるので、自治体をあげて報いて欲しい。
英国人アナリストの辛口提言──「なぜ日本人は『日本が最高』だと勘違いしてしまうのか」
本当にクールジャパンは残念です。アニメやアイドルが好きな人ばかりを日本に集めていいのですか? 自動販売機や四角いスイカを目当てに世界から観光客が来ると、本気で思っているんですか? もちろん、本当にクールなものが日本にあることはわかっています。でも現在のところは、単に日本人がクールだと考えているものを外国にむかって押しつけているだけです。
こうした思考法に日本の「弱み」が表れています。すなわち、真剣に分析しないで、一方的な思い込みだけで戦略を立てる、というところです。
最近の日本人を見ていて不思議なのは、外国から批判されると「日本のことなんかわかってないくせに」と頭から否定するのに、褒められたら一転して、すべて真に受けるところです。
「外国人はお世辞を言わない」とでも思っているのでしょうか。どの国の人でも、社交辞令は言うし建て前でもしゃべります。たとえば米国人はプラス思考の国民性だし、相手を傷つけてはいけないと考える人たちだから、お世辞ばっかり言いますよ。
≪中略≫
実際、京都を世界一とした口コミにもいろいろな改善点があげられているのに、そこは見ないで「素晴らしい」と身内で言い合っている。一番だから改善する必要はないと思っているのでしょう。従ってホテルは増えないし渋滞もなくなりません。
イソップの寓話
たとえ話(擬人化)には罪がなく、するりと頭に入る。
一番無難な皮肉であり、ストレスのない教訓。