私が野村監督を知ったのは、水島新司の漫画『あぶさん』と『野球狂の詩』がきっかけだ。
子ども心にも、ノムさんが「味のある人」というのは分かったし、TVのインタビューも印象的だった。
漫画においても、ノムさんは、あぶさんの育ての親であり、水原勇気の第二の生みの親でもある。(水原勇気とセクハラと現代のドリームボール)
先日、訃報を聞いて、淋しい思いをしているのは、野球選手だけではないだろう。
今もあぶさんが現役なら、きっと升酒を傾けただろうと思う。
また一人、惜しい人を亡くしたと思ったら、我が家の本棚から、えらく懐かしい本が出てきたので、ここに記しておく。
元気が出る言葉 渡る世間の裏話2 (集英社文庫) 数々の修羅場をくぐってきた著者と、内海好江・日下公人・童門冬二・山藤章二など各界の第一人者たちとの対談を収録。終章では、田中角栄の秘められたエピソードを紹介。(解説・久世光彦) |
この本は、1998年10月、東洋新聞経済社より刊行された『新・渡る世間の裏話』を改題し、2001年に『元気が出る言葉 -渡る世間の裏話2-』として再編集したもの。
早坂茂三の対談集。『第三章 組織 名将に学ぶ人の動かし方』より。
指導者に必要な感・勘・観
早坂
野村さんは今年早々に「弱者が強者になるために」という本を出版された。大変広く世間で読まれている。僕も拝見したんですけど、文字通り本のタイトル、題名のように弱者を強者に導いた野村哲学の集大成だな、と改めて感服したんです。本の中身について、いくつか聞かせて下さい。≪中略≫
野村
簡単に言えば、今を大事に全力投球する、という意味なんです。前後ですから、未来、過去を断ち切っちゃって、今日この試合を大事に行こうという、つまり、積み重ね主義といいますか、そういう意味なんですけど。去年はヤクルトは弱いという下馬評が普通だった。評論家の人たちの評価も悪かったですからね。選手達も非常に不安な気持ちで開幕を迎えたと思うんです。自分たちの浅緑を見ても、それから巨人を中心とした相手のチームを相対的に見ても、どうしても勝てる要素が少ない。弱いということを素直に認めざるを得ない。そんなことで、とにかく一試合、一試合、一球一球、一打一打を積み重ねていこう。未来のことは神様にしかわからないんだから、結果はすべて神に委ねて、今日の試合を全力で行こうと。
早坂
監督の本の中に、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とありますが、いい言葉ですね。野村
勝負事は、終わってみまして敗因とか、勝因とかを考えてみると、勝つときというのは不思議に勝つ場合が当然、あるんですね。負けたときは、負けるべくして負けていることが多いんですけど……。そういう野球という一つの勝負事として感じたわけじゃないんですけれども、実感として、どうして勝てるのかなと不思議に思った時期がありましてね。まず、十何年という長い間、ヤクルトはずっとBクラスを低迷していまして、私が監督に就任したときに、負け犬根性がはこびっていたわけですね。親会社もフロントも現場も、そういうものがしみついちゃって、本当にこのチームは勝つ気があるのか。つまり、われわれが長い間、野球をやっていまして、こわいのは相手の力じゃないんですよ。味方というか、自分たちが勝てない、勝てそうにもないと思ってしまうことが一番こわいんです。
≪中略≫
ですから、人間というのは“感情の動物”の動物と言われるように感情があるし、また、考えるという思考能力がある。そうした感じる力、考える力があるわけえですから……
自然の理に基づいて、人間の心理をくすぐるといいますか、そういうことが基本になって、選手達を刺激しています。“寸鉄、人を刺す”と言いますけど、僕はそんなにくどくど言わないんですよ。
≪中略≫
あまり高いレベルで褒めると、褒める行為は効果が無いと言いますかね。
ですから、選手は自分自身の能力をこの辺に持っているとすれば、ちょっと上のところをくすぐるのが一番いいそうですね。
それが感受性を一番強く刺激するらしいんです。
結局は、愛情の問題なのだろうと思う。
相手の一挙手一投足を注意深く見ていれば、今、言うべき事、言うべきでない事は分かるし、キャパシティを超えたことは要求しないものだ。
どんな才能豊かな選手も、一朝一夕にスーパースターになりたいわけじゃない。
昨日よりは今日、今日よりは明日、日々、成長を実感できて、次の一歩が適切かどうか、道筋を示してもらえば、後は流れに乗って、精進できるものだから。
選手に規律を求める理由
早坂
あなたはルールに従わせながら、選手を育てるんだ、ということを言っている。ヤクルト球団は茶髪だとか、髭だとか、長髪を禁止しているそうですが、去年、日本一を争ったどこかの球団は何をやってもよろしい。オール許可の自由放任です。ヤクルトの若い選手たちは、この三禁主義についてブツクサ言いませんか。
野村
いや、うちの選手は一切言いませんですね。そこはやっぱり組織というか、組織論をテーマにして、お互いにきっちり勉強すれば納得しますよ。やはり、チーム全体として戦うわけですから、まとまりとか、一丸性ということになると、秩序感覚や、ルール感覚を持ってもらわないと……。
つまり、自由というのは一人歩きできないそうですね。
自由ということについては、自由と平等があって、何かに支えられていないと、自由というのは独立しておれないものだそうで……。
早坂
くるくる回って倒れちゃいますよね。責任の裏付けがない自由では、糸の切れた凧になる。野村
ですから、個人が自由奔放にやると、誰かが迷惑する。必ず迷惑する人が出てくるわけですね。
そういうことを具体的な例を挙げて選手たちによく話してやれば、秩序が乱れると組織としてうまく機能しないか、ということは誰だってわかりますよ。
突き詰めれば、チームワークって、皆で仲よく協力することではなく、一つの指針に従って、それぞれのポジションで花開くことなんだよね。
でないと、表面上、上手く行っても、心の中では反目しあってる、なんていうのは、よくあります。
選手に必要な礼・義・恥
野村
たとえば、監督という座につくと、それだけで権力とか権威、威厳というのがあるにもかかわらず、自信がないのか、それをさらに部下に強く……。早坂
押しつける。逆にまた腰を引くという人もいるんじゃありませんか。野村
そういうことは必要ないわけですよ。父親で、あるいは監督でいれば、もう自然に、そこには権威、権力という、つまり、下の人はそれを十分に認めているわけですから、改めてこうだと強く見せる必要もないですしね。
それから、確かに母親が父親としての尊厳といいますか、そういうものを家庭の中で見せない、駄目な父親というような風潮があるじゃないですか。それを子供が横目で見て、感じていますから……。
早坂
これが今、日本の一番大きな問題ですね。野村
今は親が子供を叱れない。学校の先生も同じです。ですから、躾ということができないんですね。私ら監督をやっていて、若い選手が毎年、入ってくる。彼等を見ていると、まず、家庭とか学校では、そういう躾なんかが一切されていない。二千年も前の呉子という人が、国を治めるには礼と義を教え込んで、さらに恥の意識を持たさなければ駄目だ、と言っている。どこかと戦う以前にね。こういうのは「よき古きものに常に新しい」で感銘を受けますし、なるほど、そのとおりだと思う。
今の選手たちには礼と義がないんですよ。
しかも、プロでありながら恥の意識がない。
人間としての恥とか、とくにプロ野球、プロフェッショナルとしての恥というのを持っていない。
それで私は「お前ら、それで恥ずかしくないのか」と言うわけです。
ここに登場する「今の若い選手たち」というのは、年齢的に、1970年代生まれ、今の小泉ジュニアの兄貴ぐらい。
そんな頃から、礼儀知らずの恥知らずと言われてきたのが、親になり、その子たちが成長すれば、どうなるか。
もっとも、今は、若者だけの問題ではなく、親も一緒になってモンスター化するのが定番だけれども。
ちなみに、その前のバブル世代も、口を開けば「ウッソー」「ホントー」「カワイー」の三語しか発しないバカと言われてたし。
その前の学生運動世代も、明治生まれのお祖父さん達には煙たがられていたのだから、世代の性みたいなもの。
ところで、この本の前書きでは、早坂のおとーさんが、非常に興味深いことを書いておられる。
平成十三年(2001年)の夏、日本政治に前代未聞の珍事が出来した。
小泉ライオン宰相とじゃじゃ馬外相の一座が表舞台に登場して(小泉純一郎氏と田中真紀子氏のこと)、花道で大見得を切る度に、超満員の客席が沸き、おびただしいおひねりが、大名題の役者に向けて乱れ飛んだ。
芝居小屋の外は不景気風で土ぼこりを上げているのに、木戸口に長蛇の列が並んで、途切れる気配がいっこうに見えない。小泉政権の登場風景を江戸期の戯作者が筆にすれば、こうなる。
同年六月の東京都選挙と、七月の参院選挙で、政権党=自民党が圧勝した。
最大の勝因は、首相、外相が、政治のワイドショー化にうってつけの役者だったからである。
彼と彼女がイメージの時代を劇的に増幅させた。
テレビの市庁舎は指導者の中身よりも見てくれの格好よさ、面白さに惹きつけられる。
アイドル人気と本質的に変わらない。
この時期、小泉シンドローム、真紀子人気が日本全国を席捲した。
政治を茶の間に結びつけた効能である。
前首相の森喜朗に比べて小泉は、芸術家肌の感性がシャープなだけに、マスメディア、とくにテレビの伝播能力を心得て、利用の仕方がうまい。
自民党内の政権基盤が脆弱な宰相の命綱は内閣支持率の高さである。
大衆は気まぐれで付和雷同に走り、一過性テンションの属性が強い。
日本経済が底割れしてパニックになれば、アイドルは途端に追放される。
剣の刃渡りに汗を流す小泉は、改革を連呼して、大衆のご機嫌を取り結ぶだけである。
大衆は指導者の断言に弱い。
断定的な語り口に手もなくいかれる。
デマゴーグと紙一重の首相が、テレビ時代のかりそめの英雄となった。
日本政治はテレビの映像を起爆力とするアメリカンスタイルと同じ範疇に移行した。
真紀子人気の高さも、野村サッチー、デヴィ夫人に女性が騒いだ往来の現象と変わらない。
政権最大のアキレス腱が自己破綻すれば、彼女に対する女性軍の熱狂が瞬時に切れて、マスメディアを先頭に石つぶてが容赦なく飛んでくる。
それにしても政治の大衆化現象は、すさまじく、空恐ろしい。
小泉改革の整合性や政策のプリオリティ、景気対策の欠落を指摘し、外相の破天荒な言動を精神病理学の分析対象にすれば、発言者の電話、ファクス、Eメールが抗議、非難の嵐でたちまち機能不全に陥る例が後を絶たない。
戦時中の売国奴、非国民呼ばわりを想起させる。
テレビ時代の爛熟は、衆愚政治を拡大生産して、国民の喉首を締める傾向が一段と加速してきた。
そして今、その息子の進次郎が、ポエムのような答弁で世間の注目を集め、、政策よりパフォーマンス、善性よりパフォーマンスがネットで取り沙汰される現状を目にしたら、早坂のおとーさんは、何とコメントされるだろうか。
思えば、私が日本を出る決心をしたのも、「労働者派遣法」と「職業安定法」の改正法が国会で成立したのがきっかけだった。
バブル崩壊後の不景気、1995年の阪神大震災でトドメを刺され、1997年のオウム真理教による一連の事件で、日本の心臓も止まったかに見えたが、それでも、それでも、社会にはまだ底力が残っていて、「どこへでも続く道がある」と歌う安室奈美恵ちゃんや華原朋美嬢の歌声が明るく響く日もあったもの。
Don’t wanna cry。
21世紀には、必ず幸せになる。
そんな意気込みで、ミレニアムを迎え、今度こそ、今度こそ、このドン底から立ち直ってみせると、新世紀への一歩を踏み出したのも束の間。
労働者の足元をすくうような労働法改正がなされて、「ああ、日本の経済もこれでトドメを刺されたな」と痛感したのが、TVの小泉ショーの最中だった。
当時、東欧に移住すると言ったら、誰もが経済格差を心配し、実際、日本から海外青年協力隊が派遣されるほど貧弱だったけれど、EU加入後は、あれよあれよという間に経済発展を遂げて、いつの間にか、穴の空いた靴下や、きょうだいのお下がりを着ていた子供たちは、スマホやX-BOXを手にするようになり、一般事務職の給料も、日本の平均的な“派遣さん”と肩を並べるほどになっている。先進国の下請けで大儲けしたミリオネアも多い。中韓・東南アジアのヨーロッパ版と言えば、大方、想像がつくだろう。
いつの時代もそうだけれど、崩壊の足音は、もう何十年も前から誰かの耳には聞こえているものだ。
私の周りでも、労働環境の悪化をきっかけに、失業、家計破綻、人口減少、医療福祉の崩壊などを危ぶむ声は少なからずあった。
だが、その渦中で、それを口にしても、多くの人は信じないし、想像だにしない。
そんな事があるわけないと、自信満々に否定するのは、いつだって、その時々の専門家だ。
だが、彼等が本当に専門家で、他の誰よりもその分野に長けているというのなら、何故、物事は一向に良くならないのだろう?
あの頃は、ミレニアムの盛り上がりもあって、大勢が「改革」という言葉に胸を躍らせたけれど、20年を経て、どうなったか。
それは今も理不尽な派遣労働や孤独に苛まれる人々が、一番よく知っているのではなかろうか。
早坂のおとーさんや、野村監督の主張を「古臭い」と切って捨てるのは容易いことだ。
いつの時代も、「新しいもの」が善であり、「古いもの」は嫌われる。
慣習を破壊すれば英雄視され、守ろうとすれば、時代遅れと揶揄される。
だが、その後に何が起きるか、リアルに思い描ける人が、どれくらいいるだろう?
この本に記された野村監督の言葉も、「今、こういう事言っても、若い人には通用しないだろうな」と感じる部分は多々ある。
三禁のヤクルトと、自由にしていいチームと、どちらが好いかと問われたら、後者を取る方が圧倒多数だろう。
だが、チームとして機能するのは、「自由」が正しく理解された上での話。
皆が好き勝手しだしたら、和も乱れて、勝てる試合も勝てなくなる。
また、そうした様を見て、日頃、規律とか、指示とか、嫌っている人たちが、リーダーシップの不在を理由に批判するのもおかしな話だ。
リーダーシップなんて、規律と指示の最たるものなのに。
それでも、いつか再び、若い世代が戦いの必要性を実感した時(武力ではなく、市場や主権争い)、昭和のおとーさん達の硬派な言葉が心に響くかもしれない。
柔な、行き当たりばったりの理想では、到底、この世は渡れぬと。
その時には、ノムさんも、早坂のとーちゃんも、若い人たちの問いかけに正面から答えてくれるだろう。
ある意味、現代には顧みられぬこれらの本は、未来の悩める若者の為に書かれたのかもしれない。
悪党の時代の終焉
戦後の日本政治に一時期を画した田中誠二については、大将が亡くなって、論評が洪水のように流れました。
功績四分、罪六分、これが一般的な受け止め方だろうと思います。
それはそれでいい。
政治家の評価というのは、死後三十年、四十年、五十年もたって、後の世の歴史科が過不足のない、きちんとした、客観的な評価を下すものでしょう。
それでいい。
ただ私は今、改めて思っている。
角栄さんが死んで戦後日本は終わった。
上り列車の英雄の時代に幕が下りた。
行儀は悪いけど、ここ一番というとき、頼りになる隣のオジさんがいなくなりました。
全軍の先頭に立って、さあ、前進しよう、それでみんながワクワクして、一緒に動き出す、そういう時代は、田中が去って終わったと思います。
悪党と言えば、悪党。
それがいなくなりました。
これからは真面目で善意だけど、気が小さくて度胸なし、小理屈は達者でも決断、実行、情熱の乏しい人たちが溢れるだろう。
早坂茂三
- 早坂茂三の言葉 ~田中角栄と共に闘ったオヤジの遺言~
- 早坂茂三の言葉「鈍牛にも角がある」「オヤジとわたし」
早坂氏の著書『捨てる神あれば、拾う神あり』より現代にも通じる人生訓を紹介しています。
政治の鬼才・田中角栄の回想録から印象に残った箇所を紹介しています。