植村直己 ~国民に愛された昭和の冒険家
植村直己氏は、日本人で初めてエベレスト登頂に成功し、世界で初めて五大陸の最高峰(モンブラン、キリマンジャロ、アコンカグア、エベレスト、マッキンリー)を制覇した冒険家だ。(氏を登山家と呼ばず、冒険家と呼ぶのは、登山の枠組みを超えているから)
しかも、最高峰にとどまらず、北極点到達・グリーンランド縦断犬ぞり単独行を成し遂げ、世界初のマッキンリー陶器単独登頂も果たしたが、不運にも、下山途中に消息不明となり、ヘリや飛行機など、総動員で捜索も行われたが、ついに救出するは叶わず、1984年2月13日の最後の無線交信をもって、その日が命日とされている。(Wikiの倍グラフィーはこちら)
私は氏の冒険をリアルタイムに体験した世代なので、毎回、新聞やTVニュースでも大きく取り上げられたのを鮮明に覚えている。
またインタビューの度、人なつこい笑顔を浮かべて、照れくさそうに自身の冒険譚を語っておられたのも印象深い。
あれほどの冒険を成し遂げたにもかかわらず、氏はいつもニコニコと笑顔を絶やさず、自らの成功をひけらかす人ではなかった。
莫大な費用を工面するのも必死で、「あんな寒い所に行くのが、それほどやり甲斐のあることなのだろうか」と子ども心に不思議に感じたものだ。
普通に考えれば、なかなか、はた迷惑な話である。
オリンピックでもなければ、学術調査でもない。誰に「行け」と命じられたわけでもなければ、会社や国の名誉を背負って、というわけでもない。
ただ「あの山の天辺に立ちたい」という個人的な理由から、周りを巻き込んで、次々に願いを叶えていく。
海外渡航や長期滞在の煩わしさを知っている者から見れば、日本国内の関係者はもちろん、相手国の省庁、地元の関連機関など、どれほど多くの手を要したか、想像するに余りある。
にもかかわらず、氏の冒険を正面から批判する人もなければ、妬む人もなかった。(チクチク嫌みを言う人はあったが)
旅費を稼ぐために、単身米国に渡って、ぶどう園で必死に働き、一つ目標を達成したら、またアルバイトに従事して、必死にトレーニングに励む。
そんな一途な姿を見せられて、コネだ、まぐれだと言えるはずもない。
国民栄誉賞を授与されるほど、日本国民に愛されたのも、一途で、努力家で、「なんとかあいつの夢を叶えてやろうじゃないか」と周りに思わせるような人間的魅力に溢れていたからだろう。
それだけに、冬のマッキンリーで消息を絶ったと第一報を耳にした時は、信じられない気持ちでいっぱいだった。
植村さんのことだから、どこからともなく、ひょっこり現れ、「お騒がせしました」と頭をかきながらインタビューに答えると思っていた。
だが、TVの特番で、この道の第一人者とされる方々が、深刻な面持ちで生存の可能性について話し合っておられる姿を見た時、これは冗談でも、悪夢でもなく、本当に損案したんだ――過酷な冬山で、とてつもなく恐ろしい事が植村さんの身に起きたのだと、震えるような思いがした。
それから、いくら待っても『生還』の知らせはなく、『捜索打ち切り』の一報で、一縷の望みも潰えた。
その時の喪失感は計り知れない。
今でこそ海外で活躍する日本人など珍しくも何ともないが、インターネットもない時代、外国そのものが未知の世界であったし、得られる情報も限られていた。そんな中、お金もコネもない若者が単身海外に渡航すること自体驚きだったし、まして、エベレスト登頂など、雲を掴むような話であった。日本国内では、前例もなければ、詳しい現地情報もなく、現代みたいに高機能シューズや防寒ウェアが充実しているわけではなかったからだ。(携帯電話すらない)
エベレスト登頂も一般的になってきた現代、「日本人初登頂」と聞いても、「へー」ぐらいにしか思わないかもしれない。
だが、少し想像して欲しい。
もし、インターネットや携帯電話がなかったら、あなたは高い山に登るだろうか。
外国に行くことさえ躊躇するのではないだろうか。
植村さんは、携帯電話も持たずに山に登った人である。
そう考えれば、氏の勇気と努力が少しでも伝わってくるのではないだろうか。
自伝『青春を山に賭けて』
そんな植村さんの自伝『青春を山に賭けて』が非常に面白いので、一部を紹介する。
なお、本作が刊行されたのは1971年、マッキンリーで消息を絶つ13年前なので、文章も若々しく、未来への希望が溢れている。
幾度となく危機を乗り越え、好天に恵まれ、「わたしは何と幸運な男なのか」の言葉が胸に染みる。
なんとなく地球の上をウロウロしているうちに、モン・ブラン、キリマンジャロ、アコンカグアと三大陸の最高峰に登ってしまった。
ウロウロしている……というのは、本当にその通りなのだと思う。「適当に登ったら、登れた」という意味ではなく、「あの山に登ろう」と決めて、あっちでバイト、こっちで下準備、夢中で動き回っているうちに夢が叶った……という感覚だろう。それを植村流に「ウロウロ」と謙遜しているだけで、実際には相当に汗を流しているはず。
この山岳部に入ってきた新人はだれでも、経験によって差別されることなく、山の基本の歩き方から教わってゆく。かえって君のような初心者の方が上達がずっと早い」
これは明治大学の山岳部に入部した時、上級生から言われた言葉。
『経験によって差別されることなく』というのは、初心者に優しくという意味もあるが、経験者であっても奢るべからずの戒めもある。経験豊かだと「今更指導など必要ない」と助言を甘く見たりしがちだ。そういう過信が山の難所で命取りになる。上級生は謙虚に学ぶことの大切さを説いているのである。
「そうだ、ヨーロッパ・アルプスに行こう。そして、日本にない氷河をこの目で見よう」と私は決心した。
資金のない私は、とうぜん現地でアルバイトをしてかせがなければならない。とはいったものの、フランス語もドイツ語も、イタリア語もできない。そんな私にヨーロッパでアルバイトの口があるだろうか。
そこで考えついたのは、生活水準の高いアメリカで高い賃金を稼ぎ、パンとキュウリを食べて支出を減らせば、ヨーロッパ・アルプス山行の金がたまるのではないかということだった。
ヨーロッパ山行まで、何年かかるかしれないが、とにかく日本を出ることだ。英語ができない、フランス語ができないなどといっていたら、一生外国など行けないのだ。男は、一度は体をはって冒険をやるべきだ。
ここで既にその他大勢と生き方が分かれる。外国に行くとなれば、まず語学力を身につけてから……と考える人の多いこと。どれくらい話せるようになれば、現地で生活できるようになりますか、どんな単語を覚えたら役に立ちますか、etc。万事、安全パイを積み上げてからでないと動けない、だが、そんな事をやっていたら、永久に行動に移せない。
もちろん、準備は必要。今の時代、植村さんの時代のように、のんびりともしていない。
かといって、装備が揃うのを待っていては何もできないし、最悪の事態ばかり考えても仕方ない。物事には勢いも肝心。
1964年5月2日午後4時、横浜の桟橋から移民船「アルゼンチナ丸」に乗り込んで、私はアメリカ合衆国に向かったのだ。四、五日間、北アルプスの山旅に出かけるような汚い登山靴をはき、手にはピッケルを持ち、先輩、仲間の使い古しの山の装備をつめたザックを背負っていた。4万円をドルに替えた110ドル、それが私の持参する金のすべてだった。
1964年、4万円=110ドル。 時代だね。今なら400ドルは固い。まだ海外に向けて移民船が運航していたのも印象的。スマホもパソコンも無い時代、海外に出掛けるということ自体、凄い。今は昔から想像つかないほどハードルが下がっているけれど。
最初に口をきいた相手はイミグレーション(移民局)の入国管理官であった。
「How long ・・ stay here」
そんな言葉がポツポツ聞こえた。
「Six months」
とっさに答えた。船の中で六ヶ月という言葉を覚えていたので躊躇なく答えた。入国管理局に所持金はいくらかと聞かれたら大変だ。110ドルでは1ヶ月の滞在許可さえくれまい。所持金を見せろといわれはしないかとアブラ汗をかいた。他のことは何をいわれているのかわからない。なんだかしらん、YESを連発していたら無事パスして下船できた。
今なら即行で移民局にしょっぴかれる。こんなので入国できたんだね、昔は……。ゆえに、現在のアメリカがある。
その後、カリフォルニア・レーズンで知られるブドウもぎ、移民調査官の校則、アメリカ→フランス行き、モンブラン単独登山→クレバス転落→登頂断念、と冒険。
まったくフランス語ができない中、スキー場のディレクターの前でスキーヤーの振りをして、パトロールの仕事をゲット。
そこまでやるか? やるんだよ。やりたい人は、やるんだ。
そして、1965年、ヒマラヤ遠征隊に参加。
ここで植村さんの目は、現地のネパール人の暮らしに注がれる。
三十キロに梱包した荷物は150個以上もあった。われわれの隊が荷物をベースに上げるというので、近所からフンドシスタイルに素足のターマン族のポーターが集まってきた。彼らにとってはやせた田畑で穀物を作るよりも、遠征隊の荷物をかつぐ方が実入りがあるのだ。それにプレ・モンスーン(季節風の前)の農閑期だからみんな暇でもあったのだ。
一日に何時間も歩き続ける彼らは、一線の利益にもならないわれわれの登山をどう思っているのだろう。もしかしたら、彼らは荷物をかつぎながら、われわれ(遠征隊)が登山をするのは山に宝石でもさがしに入るのではないかと思っているかもしれない。
*
出発のときは、現地民シェルパとポーター頭が、現地語で威勢のよい声をあげる。そんなときはわれわれ隊員の出る幕ではない。150個以上もあった梱包が、ポーターたちに次々にわたされ、たちまちなくなってしまうのだ。荷物を取ったシェルパは喜んで歩き出し、仕事にあぶれたポーターは、大声でグチをこぼす。穀物を売って得る収入の少ない彼らは、この仕事にあぶれると、まるで一番違いの宝クジを買ったときのように泣きを入れるのだった。
*
他の社会を知らず、ほかの国の人の登山という遊びのために奉仕しなければならぬネパールの人を、わたしはひどく気の毒に思った。子供が大人と同じほど働き、まだ小学生にもならない子供が20キロも30キロも背負って歩く姿は見るに耐えなかった。意志ころの道を素足で歩く姿のなんとみずぼらしいことか。それでも彼らの顔に何一つ不満の表情はみられなかった。
最後の一節は難しい問題。もちろん、現地民の人権、とりわけ子供の権利は保障されなければならない。教育の機会も与えられず、重労働に酷使されるなら、たとえ彼らに給金が支払われるとしても、これは改善すべきと思う。
が、現実問題、外国からやってくる(おそらくは裕福な)遠征団は、山奥の人々にとって有り難い存在に違いない。日本の過疎地に定期的にAppleの開発チームがやって来て、現地で物資を大量に調達したり、時給2000円の短期アルバイトを雇ったり、派手に飲み食いしてくれたら、けっこうな稼ぎになるだろう。
何の経済支援もないまま、人権優先で地元民から仕事を取り上げ、遠征団は悪と決めつけてしまったら死活に関わる。
地元民は仕方なく従事しているのか、金づると割り切って危険な遠征に手を貸すのか、意見は分かれるところだが、少なくとも子供の福祉や地元民の安全に関しては厳しいルールが必要だろう。
大事なのは、遠征の成否だけでなく、地元民の状況にも心を配ることだ。目の前の問題に気づいても、何も出来ないかもしれない。だが、こうして現状を伝えることはできるし、広く知られることによって、次の動きが生まれるかもしれない。「登頂が成功すれば、他はどうなってもかまわない」という態度では、山も地元民も誰も救われないだろう。
ちなみにこのパートでは、ほとんど風呂にも入らず、洗濯もせず、トイレすらなく、家屋の一階で牛を飼いながら、糞を燃やして調理するシェルパの暮らしが紹介される(1960年代の話)。コップの汚れを家の前の土でこすって落とし、自分の着物のソデで拭き……こういう状況でも振る舞い酒を口にできる度胸がなければ、五大陸最高峰登頂など、とてもとても・・。植村さんのニコニコは、ここで酒が飲める度量の大きさからきているのだなと、つくづく。私には到底ムリ(^◇^;)
そんでもって、隊員の一人が氷のブロックにやられると、みなが一斉に「オンマニペメフム」とラマのお経を唱え出すくだり。「ドルジェが目の上に氷のブロックをうけ、それが肩にあたった。まぶたの上がすっぽり切れて目が飛び出し……」とか、ああ、もうやめて~。なぜ、そんなにしてまで山に登るのか。「そこに山があるから」。ワタシ的には答えになってない。で、その目玉、どうなったんですか……(°°;)(°°;)(°°;)
初のゴジュンバ・カン登頂に成功するものの、植村さんの気持ちは晴れない。
私だけはこだわりがあって、どうしても心から同じように喜びにひたる気持ちになれなかった。私が頂上へ登ったといっても、この遠征隊が自分のものでなかったこと、それに他の隊員のようにこの遠征に出るため、骨身を削ったわけではなかったからだ。会社の仕事のあと、徹夜で計画し、準備をした人たちと私とは遠くへだたっていた。
そして、私自身は他の隊員よりすべての面で劣っていると思う。自分はもっと自分をみがき上げ、自分という人間を作らねばならないことを、この遠征でさとった。私がこのあと、強く単独遠征にひかれたのはまさにそのためだった。どんな小さな登山でも、自分で計画し、準備し、ひとりで行動する。これこそ本当に満足のいく登山ではないかと思ったのだ。
これは植村さんの性格や信念に基づく部分が大きい。世の中には、チームを組んで、神輿に担がれた方が実力を発揮できるタイプもいるし、そこは人それぞれ。
ただ、何事につけ、自助の精神は大切だし、自ら手足を動かさねば創意は生まれない。
そんでもって、世界の最高峰に登頂したところで、誰かにお金がもらえるわけでもなければ、スポンサーが付くわけでもない。「カトマンズから陸路ボンベイ(ムンバイ)にでたとき、私のポケットにはほとんど金はなかった。ボンベイからマルセイユにわたる船賃すらなかった」という状況で、モン・ブランへと渡る。その間、どうやって食いつないだかというと、日本山妙法寺という仏教寺の本堂の裏に泊めてもらったり、ボンベイ郊外の「ジャパン・インド・デモンストレーション・ファーム」という農業試験場の日本の方々にお世話になったり……と、猿岩石も真っ青の遍歴が続く。見方を変えれば、それだけ人間的魅力があったということだろう。嫌な人間には誰も手を貸さない。ちなみにフランスへは長距離船ラオス号の乗員となって渡航している。そこまでして……なのだ。普通は、ゴジュンバ・カンで止める。
そして、マルセイユで船を下りたら、今度は400キロの道のりをヒッチハイク。
パンをためこむのが人目につくのは恥ずかしかったが、自分の生活のためだ。恥ずかしいなどとはいっておれない。コジキも恥ずかしがっていてはできない。
他にも日本からやってきた、たくさんのザック組がいた。彼らは三度の食事も満足にとらず、フランス料理はまずいとか、何は口に合わないとかゼイタクをいっていたが、彼らには、私の十分の一も旅ができまい。
「金のない旅だから、どこかアルバイトがないか」
と、私に聞いてきたが、
「日本食しか食べられない旅人にアルバイトはないぜ」
といってやりたい。
まったくだ (・・)(。。)
その後、モン・ブラン、マッターホルンと単独登頂。
セルビニア近辺を散歩する中、道からはずれた手の届かない岩棚の上に、エーデルワイスの姿を見つける。
人の目につくような登山より、このエーデルワイスのように誰にも気づかれず、自然の冒険を自分のものとして登山をする。これこそ単独で登っている自分があこがれていたものではないかと思った。
それから今度はアフリカ。キリマンジャロ。また長距離船に乗り込み、一文無しで登山準備。「ホテルに泊まらなくても、背中には野営する道具は全部そろっている」。
そしてケニヤ山の手前まで来るが、地元の警察署長に、ジャングルを通過中、豹に食い殺された登山者の無残な写真を見せられ、さすがの植村さんも言葉に詰まる。
「ケニヤ山の登山が、意外に恐ろしいことを私ははじめて知った」って、おいおい、私は「山」というだけで危険と思ってるゾ(^◇^;)
で、何度も中止するよう説得され、複数のポーターを雇うことも勧められるが、金銭的問題から、ひとりだけ黒人のポーターを雇うことにする。
ここでも署長に派出所への手紙を書いてもらったりするのだが、とにかく熱意が凄いのだろうと思う。やるといったら、やる。登ると言ったら登る。一歩も引かない。その気迫に圧倒されて、周りも心配したり、便宜を図ったりせずにいないのだろう。必死に周りに訴えかける情景が目に浮かぶ。
ちなみに、アフリカの地元民との交流エピソードもすごい。焼き鳥の話とか、マサイ族の若者たちがバスに乗り込んでくる話とか。ちなみに当時のマサイ族に国境はないらしい。バスも乗り捨てごめんで、村の酋長が乗り込むと、バスの車掌は運転助手席にすわらせる特別待遇らしい。植村さんいわく「金がなくて貧乏だからよけいにおもしろかった」。若者よ、これが≪若者≫だ。ちょっとばかりラブ・アフェアもあって……ささやかながらドキドキした♪
1968年元旦の日記。(26歳)
この最後の旅が終わった後、オレは日本でどのような生活の道を選ぶか。これこそわが生涯を決める大きな年だ。今のオレにこれといって自分に自信を持って働ける能力はなく、日本帰国を前にした今、自分の進路に堅固な意志さえ持っていない。南米の旅を終えた後のオレの生活こそ本当の生活だ。アコンカグアがいかに苦しい登攀になろうと、単独登攀が冒険であろうと、それはわが人生の一つの遊びにすぎないのだ。どんな仕事であれ、自分に定職を持つことこそ、真の人間として生きる価値があるように思われる。自分のやっている、何かわからない放浪の生活と登山は、自分の職業ではない。オレの山行は主義があって登っているのではなく、心の勇んだときに登るだけだと思われる。
卒業前にこんな事を言ってたらトホホな印象だが、ひたすら働き、貧乏に耐え、自分が登ろうと決めた山にすべて登った後の感想だもの。「自分に定職を持つことこそ、真の人間として生きる価値がある」のくだりは非常によく分かる。
そして、この日記を書いた後、植村さんは南米ブエノスアイレスへと赴く。次の目標、アンデス山脈の主峰アコンカグアを登攀する為だ。
ところが、思いがけない問題が持ち上がる。なんと入山するのに軍隊と警察の許可が必要なのだ。
そこでも植村さんは周りを説得し、どうにか手続きを進めるが、今度は日本大使館に行って、大使館の添え書きを持って来いという。大使館に拒否されるのは火を見るより明らかという中、地元のメンドサ山岳会のメンバーの一人が保証人に名乗りをあげる。それから毎日警察に通い、取り調べを受け、登山許可が下りるのを待つが、やはり結果は変わらない。そこで、植村さんは、己の実力を示すため、6000メートル級の山に単独登山することを思い付く。
しかし、そこでもテントと食料を牛に食い散らかされ、悲惨な事になるが、気の毒に思った軍隊の監視所が寝所と食料を提供してくれるという僥倖。どこまでも人徳に救われる。
そして、ついに地方の軍最高司令官に直談判することになる。
おまけに私の装備ときたら、フランスの登山以来のものだから、ひとさまにお目にかけるしろものではない。毛の手袋はやぶれて三本の指が頭を出し、毛の下着も破れてボロボロだ。司令官は「よくない装備だな」とかいって、しだいに表情が険悪になった。
私は「これはいけない」とあわてて、いそいで弁解をはじめなければならなかった。
私は穴のあいた靴下に手をつっこんでみせ、
「靴下は足にはくばかりでなく、寒いときはこうすれば手袋のかわりになります」とやった。黒山の人だかりがドッと笑った。
私はついでに司令官の前でズボンをぬぎ、セーターを取り出して、「セーターはこうすればズボンにもなります」とさかさまにはいて見せた。黒山の人はこんどはギャーギャーと腹を抱えて笑いころげた。しかし私は真剣そのものだった。汗をとばしながら必死に説明を続けていくと、どよめきはやみ、みな催眠術にかかったように静まりかえった。
登山に、ここまでやる人は希有だろう。でも、やるんだ。やった人だけが登頂できる。装備と技術があれば、どんな山も制覇できるわけではない。
*
20代半ばから後半にかけて、五大陸の最高峰、アマゾン単独川下り、冬期のアルプス北壁の登攀をやってのけた植村さんは、決して金持ちではないし(所持金100ドルで五大陸を歩き回った究極の赤貧バックパッカー)、超人的な能力の持ち主でもない。各国政府に強力なコネを持つ有力者でもなければ、方々に顔が利くセレブでもない。
ただ、「登る」という事に関しては人並み以上の情熱を持ち、垢まじりの地酒を飲まされようが、ピラニアにお尻を突かれようが、決してへこたれることなく、むしろ困難の中にすべり込んで、やると決めたことを確実にやり遂げる、不屈のチャレンジャーである。
他人の武勇伝を聞いて、「オレにも出来る」とうそぶく人は少なくないが、植村さんに関しては、技術以前に、ここまでして登山許可を取り付け、旅費を捻り出す人も希有と思う。登攀も偉大だが、むしろ、その為に凄まじい努力――本人にとっては冒険の一環に過ぎないが――ができる点にあるのではないだろうか。
もっとも、1960年代は現代のように諸機関がピリピリしておらず、YESだけで米国に入国できるなど、明治時代の話に感じるが、それでも一歩間違えば逮捕、罰金、強制送還、パスポートも抑えられ、国際的な前科者として海外旅行もままならない危険を孕んでいるにもかかわらず、捨て身の覚悟で軍隊や警察を説得し、周囲の嘲笑も恐れずジェスチャートークをやってのけるガッツは感嘆するばかりだ。1960年代だからこそ許された無謀もあるが、それでも同じ状況に置かれたら、大抵の人間は逃げだし、自分が何を志していたかも忘れてしまうに違いない。
そんでもって、何が狙いかと問われたら、何も無いのだ。こんな大業を成したところで、大金が転がり込むわけでもなければ、権威の勲章がもらえるわけでもない(後に表彰されたが)。現代なら、上手く立ち回れば、社会活動家になったり、登山ライターになったり、第二第三の栄誉を得ることも可能だが、植村さんは、どうもそんな感じではない。好きだから登る、それが全てである。そして、好きなことにそこまで費やせるかといえば、常人にはムリだろう。学生時代、モン・ブランに登って、「ああ、次はエベレストに行ってみたい」と思っても、99パーセントの人は普通に就職し、普通の暮らしを選んで、ただ一度、モン・ブランに登った思い出だけを胸に、残りの人生を無難に生きていくはずだ。
天才となんとかは紙一重というが、植村さんの場合、登攀への執念は狂気に近いものがあり、彼の真の才能はまさにこの一点に尽きるのではないかと思う。
だからといって、万国の青年に「お前も植村さんに倣えよ」とは思わないが、ただ一つ、これだけは言い切れる。いくら装備や資金や技術があっても、これほどの執念がなければ、何事も成せないと。さて、あなたは、自分のやりたいこと、好きなことに、ここまで自分を懸けられるますか。即答できぬなら、それは永遠に叶うことはないだろう。
あとがき。
今日まで、私は二十五、六カ国かけめぐったが、誰ひとりとして悪人はいなかった。ドウモウだから注意せよと警告されていたインディオ、ヒマラヤの山岳地帯に住むシェルパ族、また、アフリカのヤリを持つマサイ族にも、言葉は通じなくても心がかよった。
単独登山とは、確かに自分ひとりでやるものであるが、周囲のたくさんの人々の協力をあおがなければ絶対にできないことだ。*
南極大陸の単独横断。南極大陸を、たったひとりでイヌとソリでやってのけるのが、私の最後の夢である。私は地理学者でも、物理学者でもない。南極に入っても科学調査をする知識も持っていない。ただ、いまの私にとって、自分の限界を求め、何かを見出したい。人のやった後をやるのは意味はない。それも人のためにではなく、自分のためにやるのだ。南極横断はいまから二年後を目標にしている。極寒の中、三千キロの氷の上を単独横断するのだから、自殺行為だと誰もいう。しかし、私はきょうまで、ひとつひとつ強い決意のもとに全精神力を集中してやりぬいてきたのだ。必ずやりぬける自信がある。ただ、思うだけではない。南極横断に出発する前、体力をつけ、精神力のトレーニングにより、精神を強靱にすれば、道は必ず開けると私は思う。
1971年2月。植村直己、30歳の記録。
エベレストの頂上の様子を撮影した4K動画です。
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山に関する記事は下記URLにもあります。興味のある方は、ぜひご覧下さい。
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エベレストにおける史上最悪の遭難事故(1996年)をベースにした山岳映画。この時、登頂と同時に犠牲にもなった難波康子さんの姿も描かれています。
無理に登頂を試みたクライマーには批判の声もあるだろうが、登山大好きな私にはその気持ちも分かる……という話。
初稿: 2017年11月23日