森村誠一の『人間の証明』について
森村誠一の小説『人間の証明』は、1975年に刊行された長編推理小説だ。
貧しい黒人青年ジョニー・ヘイワードが何者かに胸を刺され、高級ホテルの最上階に向かうエレベーターの中で死亡する。
事件の唯一の手がかりは、ジョニーが後生大事に持っていた西条八十の詩集と、「キスミーに行く」という言葉だ。
捜査を担当する棟居刑事は、キスミー=霧積=西条八十の詩から、ジョニー・ヘイワードと犯人の意外な接点を知る・・。
角川映画の大ヒット作『犬神家の一族』に続いて映画化され、「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」という西条八十の詩も一大ブームとなった。
「彼女に人間の心があるならば、必ず自首するはずだ」
単なるミステリーにとどまらず、「母とは」「親子とは」を問いかける、感動的な人間ドラマである。
多種多様な職歴を経て、推理作家の第一人者となった、森村誠一。
「推理」そのものを楽しませるエンターテイメント作家とは一線を画し、人間の本性や社会の深層が描ける実力派作家だ。
「人間の証明」と「野生の証明」はいずれも角川映画で有名になったが、映画にならなくとも、氏の代表作として、いつまでも語り継がれる傑作だと思う。
森村氏の著作はたくさんあるが、まずは入門編として、『人間の証明』をお薦めしたい。
主演の松田優作は、心に深い傷をもつ棟居刑事のイメージそのもの。
犯人の八杉恭子を追い詰めるために、西条八十の詩を語る場面が非常に印象的だ。
また伊丹十三映画では、とぼけたインストラクター役(『お葬式』や『タンポポ』)を演じていた岡田茉莉子も、この作品では、暗い過去をもつファッション・デザイナー、八杉恭子役をクールに演じている。
ジョー山中の主題歌も非常に効果的に使われ、国民的ヒットとなった。
『Mama, Do you remember, The old strawhat you gave to me …』は、西条八十の詩をそのまま英訳したもの。
山中氏の哀しい歌声が、哀れなジョニーと母の心情を物語るようだ。
劇中のファッションショーは山本寛斎が手がけており、無駄に長いのは仕方ない。
amazonプライムビデオでも視聴できます。
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松田優作の代表作、大藪春彦・原作のハードボイルド映画。現代に松田氏が生きていたら、果たして大衆受けしただろうか、という昭和コラムと併せて。
戦争ジャーナリスト・伊達邦彦は人間性を喪失し、野獣のように銀行を襲撃する。刑事にロシアン・ルーレットを仕掛ける場面が有名なハードボイルド。
リドリー・スコット監督が日米文化の違いをベースにスタイリッシュに描く。松田氏の演技は「10年に一度の悪役」と絶賛された。スコット監督の映す大阪の町並みも美しい。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」西条八十の詩をテーマに母子の愛と戦後の混乱を描くサスペンスドラマの傑作。松田氏は刑事役を好演。
なぜ『人間の証明』は森村誠一氏の代表作となり得たのか
「人間の証明」には熱がある。
作家自身の見栄や欲、「こうすればギャラリーが喜ぶだろう」みたいな手練手管とは無縁の、人間としての気迫である。
この作品の後書きで、氏は次のように述べている。
今から20数年前、大学の3年の終わり頃、私は一人で霧積温泉から浅間高原の方へ歩いたことがある。
なにげなく弁当を開いた私は、その包み紙に刷られていた「麦わら帽子」の詩を見つけた。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」
という問いかけで始まるこの詩に私は激しく感動した。
≪中略≫
もともと私は読書少年ではあったが、文学少年ではなかった。それが奇しき人生の転機から小説を書くようになり、そしてある日作家としての精進を重ねる登城、角川春樹氏にめぐり逢ったのである。
氏は私に当時創刊されたばかりの雑誌「野生時代」への執筆を熱っぽく依頼した。
一介のかけだし作家にすぎない私のもとに老舗出版社のリーダーが直接足を運んで執筆を依頼するというようなことは、めったにない。
まだ海のものとも山のものともわからぬ私の可能性に角川氏は賭けてくれたのである。
私は氏の熱意に感激し、なんとかその期待に応えられるような作品を書きたいと思った。
その時ふと心の深奥にゆらりとゆれたのが20数年前の麦わら帽子の詩であった。
霧積でその詩を知り、そのままうち忘れていたものが二十数年して浮かび上がったのである。
≪中略≫
『人間の証明』が一冊の本となって私の手許に届けられた時、その厚表紙で装丁された重みのある手応えを私の心の重さだと思った。
作者がそのようなことを言うのは、おこがましいが、やはりこの作品は20数年の沈着がなければ書けなかったと思う」
誰にでも「運命の一作」があるとすれば、森村氏にとっては『人間の証明』に他ならない。
大学時代から胸に温めてきた一篇の詩が、20数年後、見えない手に導かれるように新たな形を成し、『作家・森村誠一』はもちろん、『詩人・西条八十』の存在も一躍有名になったからだ。
麦わら帽子が森村氏を選んだのか、森村氏によって麦わら帽子が新しい命を得たのかは分からない。
ただ一つ、確かなのは、どちらも母の愛をテーマとし、時を超えて、人の心に訴えかける点である。
『人間の証明』を単なる推理小説にカテゴライズするのは間違いだし、「どうせ犯人は最初から分かっている」と食わず嫌いするのも誤りだ。
これほど一人一人のキャラクターが鮮明に描かれ、なおかつ推理の点と線がドラマティックに結ばれた作品も稀である。
人間文学の中に、殺人というイベントがあり、刑事コロンボのように追い詰める面白さがある。
喩えるなら、ドストフスキーの『罪と罰』といったところ。
最初から犯人がラスコーリニコフと分かっていても、そちらに興味をもつ人は少数だろう。
それよりも、揺れ動くラスコーリニコフの心理や、刑事ポルフィーリィとの駆け引きを楽しみたい。
『人間の証明』もそれと同じだ。
この作品だけは、映画のことも、最近リメイクされたドラマのことも忘れて、白紙の気持ちで読んで欲しい。
そうすれば、作家・森村誠一と詩人・西条八十の運命の絆から生まれた名作ということが、きっと分かるはずだ。
小説で読み解く『人間の証明』
刑事・棟居弘一郎の怨念と敗戦の記憶
『人間の証明』の核は、何と言っても「刑事・棟居弘一郎」というキャラクターにあると思う。
後に、「棟居刑事シリーズ」という連作が何本か発表されている点からも、森村氏の思い入れの深さがうかがい知れる。
この作品は、「棟居」の心の変遷だけに的を絞っても十分面白く、犯人追及において「人間としての良心に賭ける」という、『罪と罰』的な展開に読み手が感動するのも、棟居という刑事の人間性が非常に丁寧に描かれているからだろう。
棟居弘一郎は、戦後の混乱の中、小学校教員である父の手一つで育てられた。
母は、早くに父を見捨てて若い将校と駆け落ちし、棟居は顔すら覚えていない。
にもかかわらず、父は愛情をもって棟居を大切に育て、棟居もそんな父に唯一の安らぎを見出していた。
だが、4歳の時、父は棟居の目の前で駐留の米兵によってなぶり殺しにされ、返らぬ人となってしまう。
荒くれの米兵たちに暴行されかかった若い日本女性を救おうとしたのが原因だった。
父が瀕死の重傷を負っても、周りに居た人々は巻き添えを恐れて手一本出さず、警察も力にはなってくれなかった。
そして、暴行から救われた若い女性は、父に礼を言うことも、助けを求めることさえせず、我先にその場から逃げだしてしまう。
敵の顔と名前を一人一人おぼえているわけではない。母の顔すら知らない。
だから彼の怨敵は、あのとき居合わせた米兵、群衆、若い女、警官、そして医師と母に代表される人間のすべてであった。
彼は、相手が人間ならだれでもいい、一人一人ゆっくり復讐してやるつもりだった。
刑事は国家権力を背負って犯人を追うことができる。
社会正義のためではなく、人間をもはやどう逃れようもない窮地に追い込んで、その絶望やあがき苦しむ様をじっくりと見つめてやりたい。
復讐だから、要は、追いつめた相手をできるだけ苦しませればよいのだ。
セレブ妻・八杉恭子の素顔と屈折した息子の心理
そんな棟居が担当することになった、ハーレム出身の黒人、ジョニー・ヘイワード殺人事件。
「ストウハ」という言葉を残して異国で息を引き取ったジョニーの足跡を追ううちに、捜査線上に一人の女が浮かび上がる。
女の名は、八杉恭子。
「家庭問題評論家」として、テレビや雑誌に引っ張りだこの売れっ子で、自分の二人の子供たちとの「母子通信」という手紙形式で、青春期の微妙な年頃にさしかかった子供への母親の対応のしかたを書いた一種の育児日記を著して、一躍、マスコミの寵児となった人物である。
夫君は、次期政権リーダーを狙う辣腕代議士・郡陽平であり、いわばセレブリティの妻である。
だが、それは表向きの顔であり、実際は、家庭のことなどまるで省みない身勝手な母親であることを大学生の息子・恭平は知っている。
そのかたわらにひかえて、もっともらしく相槌を打つのが、恭平の役目だった。
恭平には母がありながら、もの心つくころから母との記憶はない。
彼に乳をあたえ、おむつを取り替え、そして幼稚園に通い出すようになってからの送迎、遠足の弁当づくりなど、すべて老いたお手伝いがやってくれた。
母が母親らしい顔をして現れるのは、PTAの会や授業参観日など大勢が集まる晴れがましい席だけである。
その日だけ美しく着飾ってやって来た。
母は、恭平のために遠足の弁当をつくってくれるでもなく、千円札を一枚よこした。
彼はその札一枚もっただけで遠足に行った。
リュックサックの中が空っぽでは格好がつかないので、入園時に幼稚園から贈られた気に入りの熊の縫いぐるみを入れていった。
よその子の付き添いの親が見るに見かねて、おにぎりとお茶を分けてくれたが、彼はそのときリュックの中身を見られるのが恥ずかしくて、もらったにぎりめしを独り離れた沼の畔で食った。
にぎりめしを頬張りながら、涙が頬を伝ってしかたがなかった。
息子のひき逃げ事故と不倫の恋
そんな恭平は、母から買い与えられたマンションで乱交パーティーに耽る中、朝枝路子という若い娘と知り合う。
そして、彼女と連れだってドライブに出かけた際、恭平は、通りがかりの女性を轢き殺してしまう。
轢き殺されたのは、クラブ帰りの美しいホステス、小山田文枝。
彼女は、病気療養中の夫に代わって家計を支える為にクラブに勤めていた。
いつまでも帰宅しない妻に不審を抱いた小山田は、その足取りを追ううちに、新見という男の存在を突き止める。
新見は妻の文枝と不倫の関係にあり、これまでに何度も逢い引きを重ねていた。
しかし、新見は妻の失踪に関してはまったく無関係であり、ただならぬ事件の臭いを感じ取った小山田と新見は、一旦協力して、犯人を探し出すことを誓う。
彼らの唯一の手掛かりは、失踪現場に落ちていた「熊の縫いぐるみ」だった。
そこから割り出されたのは、幼稚園の頃から縫いぐるみを肌身離さず持ち歩いていた八杉恭平だった。
轢き逃げの後、恭平は朝枝路子とともにニューヨークに身を隠していたが、彼を直に問いつめるべく、新見もニューヨークに飛ぶ。
中流の上の部類に属する家庭に生まれて、エリートコースに乗せられてから、なにか自分というものを見失ってしまったような生き方であった。
その自信を揺るがしたのが、小山田文枝であった。
だが、文枝とともにあるときの心身の打ち震える喜びと、別れている間の空白感は、四十過ぎた分別をも狂わせそうであった。
これまで他人のためばかりに生きてきたので、生まれて初めて、自分のために生きているような気がした。
元アメリカ兵のケン・シュフタンとスラム街のジョニー父子
一方、ニューヨークでは、市警のケン・シュフタン刑事が、日本で殺害されたジョニー・ヘイワードとその父ウィルシャーの身上調査に当たっている。
貧しいハーレムの出身で、日稼ぎのトラック運転手に過ぎなかったウィルシャーが、自分の身を犠牲にしてまで金持ちの車に飛び込み、日本行きの旅費を工面した動機に、シュフタン刑事は惹きつけられた。
ケンはふと遠い目をした。
それは彼にとってまんざらかかわりのない国ではない。
いや、かかわりがないどころか、野放途な青春の足跡を残した所である。
ケンの知っている日本は、戦いに敗れた直後の荒廃した焦土であったが、あの国の風土には、いまのアメリカがとうに失ってしまった「人間の心」のようなものが残っていたような気がする。
母さん、僕のあの麦わら帽子どうしたでせうね
そんなシュフタン刑事が得た情報が、ジョニーが日本に発つ前、ハーレムの住人に言い残した言葉、「キスミーに行く」だった。
情報を得た棟居刑事は、ジョニーの遺品である古い麦わら帽子と、最後に乗ったタクシーの中に置き忘れた西条八十の詩集から、「霧積」という地名を割り出す。
そして、その「霧積」と深い関わりがあったのが、八杉恭子だった。
八杉恭子は、夫の郡陽平と結婚する前、日本に駐留していたウィルシャー・ヘイワードと結ばれ、息子ジョニーを産んでいた。
だが、ウィルシャーに帰国命令が出た為、家族は離散前の最後の思い出として霧積を訪れたのだ。
ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、
渓谷へ落としたあの麦わら帽子ですよ――
西条八十の詩と、恭子が買い与えた麦わら帽子こそ、ジョニーにとって「瞼の母」の象徴だった。
日本に居る母に、もう一度、会いたい。
その思いを叶えるために、ウィルシャーは金持ちの車に体当たりし、金を工面して、ジョニーを日本に行かせたのである。
暗い過去を背負った黒い肌の子供
だが、有名人である八杉恭子にとって、突然目の前に表れた黒い肌の息子は、名声を脅かす邪魔者でしかなかった。
その事実を知った棟居は、
もの心ついたかつかないころ、父親と母親に連れられて行った霧積は、ジョニーの記憶に焼き付けられた。
おそらく彼の想い出の中で最も貴重で美しいものだったでしょう。
実の母によって胸に刺し込まれたナイフ。
これがはるばる日本へ母をたずねて来て得たものか。
ジョニーはどんなに絶望的なおもいでナイフを受けとめたことだろう。
それを八杉恭子は保身のために虫のように殺してしまったのだ。
自分の腹を痛めた子供を殺したんだ。
私はあの女が憎い。彼女は人間じゃない。母親の仮面を着た獣なんだ。
あの女には、人間の心なんかないんだ
もし八杉恭子に人間の良心が残っているならば
棟居の胸に、父と自分を見捨てた生みの母への憎しみが交錯する。
そんな棟居は、捜査部長に申し出る。
「人間を賭ける?」
「八杉恭子にもし人間の心が残っていれば、必ず自供せずにはいられないように追い込んでみるのです」
「どういう風にするつもりだ?」
「麦わら帽子を彼女にぶつけてみたいのです。
私も、幼いころに母親から捨てられたのです。私は、自分を捨てた母が憎い。でもその憎しみの底に、母を信じようとする心があるのです。いや、母を信じたい。八杉恭子の中にも、きっと母親の心があるはずです。私はそこに賭けたいのです。人の子の母ならば、きっと自供するはずです。私は、自分を捨てた母親と対決するような気持ちで、八杉恭子と対決してみたいのです」
棟居は、「麦わら帽子」の詩をもって八杉恭子に迫り、それまでシラをきり続けた恭子も「麦わら帽子」の前についに崩れ落ちる。
同時に、息子・恭平は轢き逃げ犯として逮捕され、もう一人の娘・陽子も、シンナー遊びの乱交パーティーに加わっていたところを補導された。
夫・郡陽平からは離婚の申し出を受け、ジョニーを殺しても守ろうとしたものはすべて喪われてしまった。
八杉恭子は、自分の中に人間の心が残っていることを証明するために、すべてを喪ったのである。
棟居は恭子が自供した後、棟居自身の心の矛盾を知って、愕然となった。
彼は人間を信じていなかった。
そのようにおもいこんでいた。
だが決め手をつかめないまま恭子に対決したとき、彼は彼女の人間の心に賭けたのである。
心の片隅で、やはり人間を信じていたのだ。
人生の怨みと戦争
日本の警察から、ジョニー・ヘイワード殺しの犯人を検挙した報せを受けた時、ケン・シュユタン刑事はほっとした気分になった。
そうして、いつものようにハーレムにパトロールに出掛けた時、行きずりの男にナイフで腹を刺されてしまう。
ケンはつぶやきながらも、その理由を知っていた。
自分を刺した犯人には理由なんかないのだ。
あるとすれば、人生に対する怨みであろう。
遠い日、兵役で日本へ行ったとき、無抵抗の日本人に小便をかけたのにも、明らかな理由はなかった。混血というだけでつねに前線に駆り出された怨みを、日本人へ八つ当たりしたにすぎない。
日本人のそばでその男の子らしい幼児が、自分に燃えるような目をしてにらんでいた。
あの目が、それ以後、日本に対して負ったケンの債務になったのである。
死ねば、あの借りも帳消しになるだろう――とおもったとき、ケンの最後の意識が切れた。
ケン・シュフタンの息絶えたハーレムの一角は、ニューヨークの営みから切り放されたように信じられない静寂の底にいつまでも沈んでいた。
人と小説に刻まれる敗戦の記憶
ジョニー・ヘイワードの死と、八杉恭子。
息子・恭平の轢き逃げ事件と、それを追う小山田と新見。
そして、幼い頃、父を米兵になぶり殺しにされた棟居と、それに加担していたケン・シュフタン刑事、父を見殺しにして暴行の現場から逃げだした若い女=八杉恭子。
一見、何の繋がりもないこれらの登場人物が、見えざる糸で繋がれていく様は非常に流暢で、説得力がある。
普通に考えれば、これだけの符号が偶然に揃うわけがないのだが、それを読み手に納得させるだけの人物設定や心理描写の巧みさがこの作品にはあるのだ。
クライマックスに近づくにつれ、なぜこの作品のタイトルが『人間の証明』であり、棟居という刑事が状況証拠ではなく自供によって犯人を追い詰めようとするのか、読み手は自ずと理解する。
そして、人殺しの母=八杉恭子が、棟居にとって憎しみの対象であると同時に救いの主でもあるパラドックスに心打たれる時、森村氏が描きたかったのが単なるサスペンスではなく、人間にとって根源的、かつ普遍的なテーマであることに共感するだろう。
西条八十の「麦わら帽子」の詩は、この作品の根底に流れる、母の深い愛、そして少年の憧憬を見事に言い表し、不滅の輝きを添えている。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね」――というフレーズは、ジョニーでなくても、優しい母の面影を呼び覚まさずにいないのである。
画像で紹介 映画『人間の証明』の見所
原作では、母の八杉恭子は教育評論家だが、映画ではファッションデザイナーの設定だ。
カラフルな衣装は山本寛斎のデザイン。
よく見ると、モデルの多くはアフリカン系。
八杉恭子のこだわりが垣間見える。
同じ時刻、ファッションショーが開催されているビルのエレベーターでは、ナイフで胸を刺された黒人男性が突然倒れ込んで、絶命する。
唯一の手がかりは、黒人男性の胸元からこぼれ落ちた、西条八十の詩集だ。
なぜ日本語も分からない黒人男性=ジョニー・ヘイワードが、ぼろぼろの詩集を大事に抱え持っていたのか。
捜査を担当した棟居刑事は、ジョニーと西条八十の接点を求めて、行動を開始する。
一方、やり手のビジネスマン・新見隆と、人妻ホステス・なおみは、ホテルで情事を楽しんでいたが、家への帰り道、なおみは八杉恭子のドラ息子・郡恭平が運転するバイクにはねられ、絶命する。恐れおののいた恭平はなおみを雑木林に遺棄し、その場から逃げ出す。
八杉恭子の夫で、郡恭平の父親でもある、郡陽平は厳格な国会議員だ。
ドラ息子の素行に頭を痛め、恭平をきつく叱責する。
ワンシーンの登場だが、三船敏郎の存在感はさすが。
表舞台の華やかさとは裏腹に、家庭内は崩壊。
小説でも、恭平の遠足に、お金だけ渡して、弁当も作らない母親の姿が描かれている。
恭平はリュックサックに熊のぬいぐるみを詰め、それを哀れんだ同級生の親から弁当を分けてもらう、という悲しいエピソードが綴られている。
原作は、家庭崩壊の描写がもっと生々しく、恭平も、薬物を使用し、乱交パーティーに耽るなど、相当に壊れている。
一方、なおみの夫、小山田(長門裕之)は、消息を絶った妻の身を案じ、なおみの勤務先であるクラブのママから事情を聞く。
そこから、常連客・新見の存在が浮上し、小山田は会社に押し掛けて、新見に詰め寄る。
作中に登場する「クラブ順子」は、多分、有名な”クラブ順子”、そのものだと思われ。
寝取った男と寝取られた男の攻防だが、同じ女を愛する共感から二人は力を合わせ、なおみの捜索に全力を尽くすことを約束する。
小説の方は、なおみと小山田の夫婦生活が、生々しく描写されている。
『もっと性のうま酒を呑ませて』とか『スタミナを打ち込む』とか。中学生の私には、口ぽかんな描写が多かった。
本作の興味深いところは、戦後日本がベースになっている点だ。
『人間の証明』が制作されたのは、1976年だが、当時の日本は欧米に追いつけ、追い越せで、政治でも経済でも決して対等ではなかった。
小説でも、米国の階層格差や人種差別、進駐軍の暴力が生々しく描かれ、戦後の混乱や貧困がひしひしと伝わってくる。
森村氏が戦後の体験者であるゆえ、思い入れもひとしおだろう。
日本の警察から捜査局力を依頼されたNY市警も、「ハーレムの住人の為に、なぜそこまでしなければならないのか」とやる気なしだ。
しかし、捜査を引き受けたケン・シュフタン刑事には、日本に対する負い目がある。
彼自身、米軍兵士として日本に駐在し、日本人を蔑んできた過去があるからだ。
ケン・シュフタンは駐在時代、一人の日本人男性を集団リンチにして、死に追いやった過去があった。
その男性こそ、棟居刑事の父親だ。衆目の中、駐兵に暴行されかけた女性を救おうとして、逆に袋叩きにあった。
そして、その女性こそ、八杉恭子であった。
このあたりは、あまりに出来過ぎの感があるが、創作と思えば、ほとんど気にならない。
目の前で駐兵に父を殺された棟居の恨みは、ジョニー・ヘイワード殺しの犯人検挙に向けられる。
小説にも「彼の人間に向ける不信と憎悪は、そのとき以来、培われたものである。彼は、相手が人間ならだれでもいい、一人一人ゆっくり復讐してやるつもりだった」とあるように、棟居が刑事になった動機は、正義感よりも、社会的怨恨による理由が大きい。
このあたりの心理描写は、ぜひ小説で味わって欲しい。
ケン・シュフタン刑事の聞き込み調査により、ジョニー・ヘイワードの父はかつて米軍兵士として日本に駐在していたことが判明した。
また、ジョニーもアパートの住人に「日本のKiss Meに行く」と言い残している。
Kiss Me=キスミーとは、西条八十の詩集に登場する「霧積(キリズミ)」のことではないか。
そして、八杉恭子は、かつて霧積で働いていた過去があった。
もし、ジョニーが母の手によって殺されたのだとしたら、そいつに人間の心はない
怒りに燃える棟居刑事は、ジョニーの仇、そして父を見捨てた女に対する復讐心から、八杉恭子を追い詰めていく。
「もし、彼女に母の愛が残っているなら、必ず自白するはずだ」。
それが『人間の証明』というタイトルの所以である。
本作の傑出した点は、一見、何の関わりもない「ジョニー・ヘイワード殺し」と「なおみ失踪事件」が、二つのプロットで同時進行しながら、最後にちゃんと辻褄が合う点だ。
また、八杉恭子、棟居刑事、ヘイワード父子、ケン・シュフタン刑事、それぞれに動機と背景があり、一つの物語を織り上げている。
小説の方は、夫婦生活や当時の若者のヒッピーな生態がリアルに描かれている為、映画は若干、設定を改め、マイルドな仕上がりになっているが、そんな違いも気にならないほど説得力がある。
特に、森村誠一の原作は、”小説らしさ”をぎゅっと凝縮したような傑作で、人間ドラマとしても上々だ。
筆運びも巧みなので、映画に興味をもったら、ぜひ原作も手に取って頂きたい。
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世間の思い込みによる冤罪の恐ろしさを描いた秀作。二流ホステス・桃井かおりとキャリアウーマン・岩下志麻が火花を散らす映画も見応えがあります。
三人の子どもを死に追いやった優柔不断な父親と、実子を捨てた母親の心理描写が胸に迫る。緒形拳と岩下志麻が鬼畜夫婦を演じる映画も、二度と見たくないほど素晴らしい(良い意味で)。