東向きの部屋に移り住み、昼夜逆転の生活をするようになってから、夜明けを目にすることが多くなりました。
私はそれまで『日の出』というものを見たことがなく、いつも頭上で燦燦と輝く太陽しか知らなかったのですが、初めて曙光を見た時、胸にしみいるような感動を覚えたものです。
山間を薄紫に染めながら、ゆっくり昇ってくる、生まれたての光は、弱々しいながらも希望にあふれ、無垢なまでに透き通って見えました。
それは微かだけれど、確かに新しい日の始まりを告げる光だったのです。
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私に『曙光』という言葉を教えてくれたのは、ニーチェです。
ドイツ語で、Morgenröte( rote のOはウムラウトします)
それまで攻撃的で、批判的な論調の多かったニーチェの思潮が、新たな境地に立った時、ニーチェは書き上げた本のタイトルにこの名をつけました。
彼ももがき苦しんだ末、真に創造的な自己の哲学を見出した時、『曙光』を見たような心境だったのでしょう。
それまで怨念に取り付かれたような彼の著書も、この一冊でかなり雰囲気が変わり、『曙光』の名にふさわしい自由で嬉々とした内容になっています。
やがてその光は『ツァラトゥストラはかく語りき』に結晶します。
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そして、この『曙光』と対になるのが『落日』です。
今にも落ちそうな陽に、哀愁を感じたことはありませんか?
西日の強さにうんざりさせられたことはないでしょうか。
私はどうしても『沈む陽』の気持ちが分からなくて、西の空を燃えるような赤や黄金に染める太陽に、何度も問いかけたものでした。
もう落ちると分かって、どうしてそれほど強い光を放つのか。
まるで落ちたくないと叫ぶように、あるいは、もう一度あの高みに昇りたいと焦がれるように。
以前、それは生への執着であり、最後の悪あがきのようにも見えました。
昇ことも沈むこともできずに、地平線の上で彷徨っている……それが私にとっての『沈む陽』のイメージだったのです。
でも、ある時、気付きました。
あれは嘆きの光ではなく、最後の瞬間まで精一杯輝こうとする、尊い命のきらめきなのだと。
だから見る者の心を強烈に射るのです。最後の最後まで世界を照らそうとして。
私の好きな有吉京子のバレエ漫画『SWAN』で、主人公の女性ダンサーが失恋した時、沈む陽を見ながら、こう心でつぶやく場面があります。
『 陽が落ちる――だけど またすぐ 陽は昇るわ―― 』
何にでも終わりがあるように、昇った陽もいつかは沈むのが定めです。
その定めは誰にも変えられないし、時が来れば、この世界に別れを告げなければなりません。
だけど陽はまた昇るように、その光は受け継がれ、再び世界を照らします。
それを知っているからこそ、陽は最後の瞬間まで力強く輝き、安らかな気持ちで水平線の彼方に落ちてゆくことができるのでしょう。
陽が廻るように、光もまた永遠に受け継がれてゆく。
その命の連なりを、曙光と落日が教えてくれているような気がします。
皆様の Blue Horizon にも新しい太陽が輝きますように。
初稿:2000年1月1日