海洋小説 『MORGENROOD -曙光』ではビジネスの隠語としてラテン語が登場します。
「今は返事しない方がいい」とか「この件は疑わしい」とか、その場では口にできない事も、ラテン語なら暗号文のように相手に伝えることができるからです。
MIGの経営者であり、仲のいい姉弟でもあるダナとアルも、彼らにだけ理解できる暗号としてラテン語を駆使していました。そっとメモを手渡したり、会議の場で、独り言のように呟いたり。
似たような手法はスパイ映画にも登場します。若く美しい女性エージェントの活躍を描いた『チャーリーズ・エンジェルズ』では、不審な依頼人の前で、エンジェル達が外国語で会話します。相手には理解できない外国語を使うことは、何にもまさる情報伝達の手段なのかもしれません。
ラテン語の名句
Nunc aut numquam.
今行なうか、永遠に成さないか
本作では、海中技術の困難を知って、一度はひるんだアル・マクダエルが、必ずこの地に海底鉱物資源の採鉱システムを築き上げてみせる――と誓いながら、何もない砂浜に杭を打つ場面で使われます。
(参考記事 今行なうか、永遠に成さないか ~Nunc aut numquam)
野津 寛氏の『ラテン語名句小辞典』では、下記のように紹介されています。
「ヌンク・アウト・ヌンクゥァム」と読みます。
nunc は「今」を意味する副詞です。
aut は「あるいは、さもなければ」を意味する接続詞です。
numquam は「けっして~ない」という意味の副詞です。
英語で直訳すれば Now or never. です。
日本語に訳しにくいのですが、「今こそ、さもなくばありえず」となるでしょうか。
「このチャンスは今を逃せば二度とない」というのが意訳になります。
端的に言えば、「(いつやるの?」)今でしょ」ということです。山下太郎のラテン語入門
fortes fortuna adjuvat
運の女神は勇敢な者たちを助ける
フォルトゥナ号の機体に刻まれた文言。マクダエル家の家訓でもあります。
悪徳な鉱山会社ファルコン・マイニング社と火花を散らしながらも、強靱な意思と高度な技術で業界一の特殊鋼メーカーに育て上げたMIGの創業者らしい教訓です。
対照的な句として『fortuna favet fatuis (運は愚か者たちを助ける)= 運の女神が甘やかす者は愚行をなす』が挙げられます。宝くじを当てた人があっという間に財産を使い果たしたり、一躍スターダムにのし上がった歌手があっという間に落ちぶれたり。幸運の上に胡座をかくと、身を滅ぼす喩えです。
fata viam invenient
運命が道を見出す
意味としては、こちらがより本作に近いのですが、ここでは運命はFataになっており(運命の女=Amor fatiなどに使われる)、こちらを引用するのは断念しました。
FataはFortunaとはまた少し異なり、「宿命」のニュアンスに近いでしょうか。
Fotrunaはまさに運命のルーレットで、当たり外れがありますが、ここで語られる運命=fataは各々の人生に課せられた使命のような意味が感じられます。
ウェルギリウス『アエネーイス』第10歌、ユピテルが召集した神々の、アエネアスとその宿敵トゥルヌスを巡ってウェヌスとユノの間に口論が起こるが、ユピテルはあえて自らこの論争に決着をつけることをせず、「ユピテルは万人に対して公平である。運命が道を見出すのだ」と言って、自分はどちらにも加担しないことを宣言する。
ラテン語名句小辞典 野津 寛 (著)
ad astra per aspera
苦難を経て栄光へ
アルが長年理事長を務めた産業振興会のアライアンスセンターの入り口に掲げられています。
同様の名句『PER ARDUA AD ASTRA』(艱難を経て星へ)は、英国空軍のモットーです。
人生の多くの困難を克服し、大きな名誉を獲得し、神々の側に列せられること。セネカ『来る得るヘラクレス』では、ヘラクレスの妻メガラからヘラクレスについて non est ad astra mollis e terris via 「大地から点への道は緩やかではない(険しい)」と言っている。なお見出し句は、米国カンザス市のモットーとなっている。
ラテン語名句小辞典 野津 寛 (著)
traicit et fati litora magnus amor
偉大な愛は運命の岸をも越える
作中で、アルがヴァルターを冷やかす場面で使う予定でしたが、最終的には削除。
運命の岸は『死』と解釈されていますが、『困難』や『障壁』でも繋がります。
プロペルティウス『詩集』第一巻・第十九歌から採られた言葉。ここで「運命の岸」と呼ばれているのは、死のことである。偉大な愛は死をも超えて続くという意味。
ラテン語名句小辞典 野津 寛 (著)
dum spiro, spero
命あるかぎり希望あり
アルが設立に尽力したローレンシア島の総合病院のエクステリアのオブジェに刻まれた言葉。生まれつき病弱だったアンナへの思いも込めて、この句をすべての病者に捧げます。
『アッティクス宛書簡集』でキケロは「命ある限り病人は希望を持つと言われるように、そのように私はポンペイウスがイタリアにいる間は希望を捨てなかった。まさにこのことが私の判断を誤らせたのだ」と言っている。古代では「希望」という言葉がこのように「空しい希望」というネガティブな意味で用いられることが多い。見出し句はポジティブな意味で、米国サウスカロライナ州のモットーの一つとなっている。
ラテン語名句小辞典 野津 寛 (著)
nihil agendo homines male agere discunt
何もしないことによって、人間は悪事をなすことを学ぶ
ダナがオリアナに最後に放つ言葉。ラテン語なので、オリアナには意味が分からないが、「人間、暇を弄ぶと、ろくなことを考えない」という揶揄。
オリアナも父の財産を当てにしてぶらぶら遊ぶのではなく、ヴァルターに助言されたように、仕事や事業に打ち込めばよかったのだ。つまらぬ嫉妬心から、最後は虚栄心に取り憑かれ、道を見誤る。
コルメラは『農業論』第11巻で脳お嬢管理人の義務を列挙しているが、その中で、農業管理人は勤勉な労働者(奴隷)を常に大切にすると共に、そうではない労働者に対しても、彼らが農場管理人の残酷さよりむしろ厳格さを尊敬するよう節度を弁えるべきであり、彼らの非行を処罰するより、毎日の労働を厳しく要求することで非行を未然に防ぐことが重要であると説いている。見出し句は、その理由として述べられたものである。この諺の背景には性悪説的な人間観がある。人間は何もしない無為の状態にあれば、自然に悪を成すというこの考え方は、黄金時代や楽園の人間をモデルとする人間観とは反対の立場である。日本の諺では『小人閑居として不善をなす』
ラテン語名句小辞典 野津 寛 (著)
fluctuat nec mergitur
たゆたえども沈まず
パリ市のモットー。
ゆらゆらと水に揺られ、不安定だが、決して沈むことのない芯の強さと神の加護を感じさせる名句です。
ヴァルター・フォーゲルの生き様を象徴する言葉として。
パリ市のモットー
ラテン語名句小辞典 野津
参考文献
近年、創作やゲームのアカウントでラテン語のネーミングをする人が増えたせいか、にわかにラテン語の辞書や入門書が増えました。
野津氏の本は、初心者向けに作られているので、内容も簡潔で、分かりやすいです。
文法の勉強などをするのには向いていませんが、教養として身に付けたい方におすすめです。
電子版が無いので、紙本だけになりますが、名句もテーマごとに分類されて、一覧性に優れる入門書です。
【小説】 今行うか、永遠に成さないか
ファルコン・マイニング社の寡占に苦しむ特殊鋼メーカーの雄、アル・マクダエルは、市場に自由公正をもたらす為、海台クラストの採掘を決意します。何も無い砂浜に杭を打ちながら、決意を固める場面です。
Kindleストア
上記のパートは、『第1章 運命と意思』に掲載されています。
ストアで立ち読みもできますので、興味のある方はお気軽に覗いてみて下さい。