男は死んでも櫻色 (三島由紀夫) / 武士道とは、死ぬ事と見付けたり

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三島由紀夫の『男は死んでも櫻色』

三島由紀夫の名文。

男は死んでも櫻色。
切腹の前には 死んでも生気を失わない様に
頬に紅をひき、唇に紅をひく作法があった。

そのように敵に封じて恥じない道徳は
死の後までも自分を美しく装い
自分を生気あるように見せるたしなみを必要とする。

まして生きているうちには、
先ほどからたびたび言った 外面の哲学の常然の結果として、
二日酔いの青ざめた武士としての
くたびれた有り様を示すものであるから
たとえ上に紅の粉をひいても、
それを隠しおおさなければならない。

美しいものは 強く生き生きと
エネルギーにあふれていなければならない。
それがまづ第一の前提であるから、
道徳的であることは美しくなければならないことである。
しかし それは衣装を吟味したり 女風になることではなくて
美と倫理的目的とを最高の緊張において結合することである。

葉隠入門 (新潮文庫):うつし紅粉 より」

武士道とは、死ぬ事と見付けたり(葉隠入門より)

武士道とは、死ぬ事と見付けたり」で名高い「葉隠」は、自由と情熱を説いた書である。

私にとってただ一冊の本、と心酔し、実践することに情熱を注いだ三島由紀夫が、現代に生きる「葉隠」を説く──。

当然のことながら、武士の時代と現代では、死の形も重さも違う。

今は「生きる」ことに重点を置く時代。

それも、1日も長く、健康に、豊かに生きることがよしとされる。

そんな現代の「潔さ」は、どこに見出せばいいのか。

というより、その潔さを評価する精神的土壌があるのか。

もし、この現代にイエスが生きて、十字架にかけられ、幾千万の見物人の前で「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです」と言ったら、それは伝説を超えて、神の言葉となるだろうか。

(´・ω・`)知らんがな という人もあるかもしれない。

もう、そういうことで感動する時代じゃないのだ、多分。

母親の悲しみだけは、今も変わらないけれど。

参考 新約聖書と西洋絵画で読み解く「ゲッセマネの祈り」

誰かにこっそり教えたい 👂
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