人間が大事なのか、商品が大事なのか ~ 共産主義思想が誕生した歴史的背景 人と思想『マルクス』小牧治

目次 🏃

『マルクス 人と思想』 小牧治・著について

本の概要

マルクス 人と思想』は、文学博士・小牧治氏によって著された詳伝です。

共産主義云々を語る思想書ではなく、20世紀最大の思想潮流となった労働者革命の思想はどのように生まれたのか、バイブルとなったカール・マルクスとはどのような人物なのか、生い立ちから時代背景まで、分かりやすく解説しています。

「前から名前は知っているが、どんな人物なのだろう」「なぜ世界は彼の思想に熱狂したのだろう」、、

知的好奇心をもって探求したい方には、うってつけの入門書です。

マルクスと言えば、どうしても共産党や共産主義のイメージが強いので、「読めば、思想が染まる」と敬遠する人も多いですが、伝記を読んだくらいで傾倒するほど単純でもありません。

一つの歴史、一人の生き様を知る上で、興味のある方は、ぜひ気軽に手に取ってみてください(Amazonで試し読みもできます)

■ マルクスは貧乏人どころか,豊かなインテリ市民の家庭に生まれ,妻のイェニーも名門貴族出の才女であった。その彼がなぜ貧しい労働者のために一生を捧げたのだろう。労働者の貧困は資本の支配に由来するという彼の共産主義思想とその行動は,資本主義社会を根底から揺さぶり,今もなお全世界に強烈な影響を与えている。

マルクス 人と思想新装版 Kindle版
マルクス 人と思想新装版 Kindle版

著作の背景

著者の小牧治氏は、大正生まれの文学博士です。

1913年(大正2)京都府に生まれる。東京文理科大学哲学科卒。フランクフルト大学に留学。東京教育大学名誉教授。文学博士。
主著=『人間形成の倫理学的基礎』『社会と倫理』『国家の近代化と哲学』『人と思想 カント』『人と思想 ルター』ほか。

初版年月は、1966年。

東京オリンピック、ビートルズ来日と、国際的なイベントが続き、「戦後は終わった」を合い言葉に、日本も欧米先進国の仲間入りを果たそうと、国民一丸となって学び、働いた時代です。

この三年後、全学共闘会議、および左翼の学生によって、東京大学の安田講堂占拠事件が起きることを考えれば、当時の社会の雰囲気も想像がつくのではないでしょうか。さらに、その三年後、連合赤軍によるあさま山荘事件よど号ハイジャック事件が起き、世界に大きな衝撃を与えています。

思想的にも右に左に揺れた時代なので、本書も思い入れたっぷり(ロマンチック)なところがあり、純粋に伝記とは言い難いですが、マルクスの生き様や、『共産主義宣言』『資本論』が著されるに至った経緯が丁寧に解説されており、入門編として最適です。内容も、決して「共産主義万歳!」ではなく、マルクスの心髄である労働哲学に徹しています。

私が一番共感したのは、冒頭のこの箇所。

かれの究極の念願、かれの究極の目的は、この人間――資本主義でゆがめられ、非人間化され、人間らしさを失ってしまっている人間――を解放して、ほんとうの人間らしい人間にすることであった。(20P)

マルクスは国家転覆を目論んだ危険人物でもなければ、何にでも反対屋のインフルエンサーでもない、19世紀の苛酷な現実を目の当たりにして、社会に対する疑問と労働者の救済を全力で訴えた、胸アツの社会活動家だった、ということです。

もし、マルクスが、産業革命下のロンドンを訪れ、街角にうずくまる乞食や、工場で働かされる子どもを目にして、「自己責任」のひと言で片付けていたら、政治信条としての『共産党宣言(マニフェスト)』も生まれなかったし、資本と労働について学んだ人々が立ちあがり、労働時間の制定や福利厚生の権利を勝ち取ることもなかったでしょう。

方策がどうあれ、社会に対する疑問を突き詰め、一つの回答を導き出すことは、誰にでも出来ることではありません。(現代もSNSで文句を垂れるだけ)

現代の私たちが、有給休暇を取得したり、失業保険を利用できるのも、マルクスが資本と労働の関係を解き明かし、「万国の労働者よ、団結せよ」と呼びかけたからです。

実際、現代においても、労働者が署名活動をしたり、ストライキして、給料アップや待遇改善を勝ち取っていますね。なぜなら、自分たちで団結して、経営者に訴えなければ、何一つ、改善されないからです。そして、労働者にも、交渉する権利はあるのだと、力強く訴えたのがマルクスです。給料をもらっているからといって、奴隷のように働かねばならない理由はどこにもないんですね。

マルクスの名言は、『人は労働を通して社会的存在になる ~カール・マルクスの哲学』でも紹介しているので、ぜひ参考にしてください。

マルクスの思想の時代背景

激動の19世紀ヨーロッパ

カール・マルクスはどんな時代に生まれたのでしょうか。

小牧氏の解説です(本文の一部を省略しています)

マルクスが生まれた1818年といえば、ヨーロッパを震がいさせたナポレオンが没落してから三年あとである(フランス革命=1789年)。フランス革命が種をまいた自由民権の思想は、ヨーロッパ各国はもちろんのこと、さらに遠くアメリカ、とくに南アメリカにもおよんでいた。君主の圧迫をうけて苦しんでいた国民は、あちこちで独立運動を起こすにいたった。

しかし、ウィーン会議(オーストリア首相メッテルニヒの主催)にあつまった列国は、革命思想の恐ろしいことを、身にしみて感じていた。同時にまた、列国が同盟するときは、あれほど強いナポレオンをも滅ぼす力になりうることを悟った。そこで、会議にきた代表者たちは、フランス革命的な思想や運動を鎮圧して、もとの保守専制にかえそうとの考えをもっていた。

……この後、メッテルニヒは外国にまで干渉して、ドイツ、イタリア、スペインなどに起こった革命運動を、武力で鎮圧した。メッテルニヒの反革命保守主義は、一時、ヨーロッパを風靡するにいたった。だが、メッテルニヒは、アメリカ諸国の独立をおさえようとしてモンロー主義(欧米間で互いに干渉しないことを主張する外交の原理)につきあたり、ギリシア独立運動にさいして、同盟諸国に裏切られてしまった。

自由民権と保守専制の衝突は、ふたたびフランスにおいて爆発し、ブルボン王朝を倒すにいたった(1830年7月革命)

勝利に帰したこの革命の波は、ただちにベルギー・ドイツ・イタリア・ポーランドなどへおよんでいった。

ことに、産業革命や資本主義の展開、それに呼応する深刻な労働問題や労賃の対立のなかにあったイギリスでは、いろいろな運動がはげしくなっていった。 ≪中略≫ 労働問題が深刻化する反面、労働者階級が台頭し、おいおいと強力となってきた。そうした情勢の反映として、資本主義を批判し、平等な社会を実現しようとする、社会主義があらわれてきた

イギリスのロバート=オーウェン、フランスのサン=シモン、フーリエなどの「空想的社会主義」とよばれるものは、その代表である。

そうした情勢のなかで、遅れて資本主義が発展し、ようやく労働運動が深刻化してきたフランスでも、社会主義者や急進的小市民に指導された革命が勃発するにいたった。1848年2月の『2月革命』がこれである。

マルクスは、こういう波多き時代のなかで生をうけたのである。

マルクスをはじめとする、共産主義思想は、生まれるべくして生まれたと言えます。

現代も、長時間労働や低賃金は問題視されていますが、19世紀、産業革命下のロンドンは、労働法も人権意識もなく、もっと悲惨でした。病者や子どもが路上に打ち捨てられている姿を見て、マルクスが心を痛め、仲間を集めて、労働者の権利を訴えたのももっともです。マルクスが現代に生きていたら、やはり同じように、ブラック企業の改善の為に活動したでしょう。たまたま19世紀に生まれたというだけで、人間の本質は、現代の社会派ブロガーやインフルエンサーと大して変わらないんですね。

思想家の生まれた時代と生い立ちを知る重要性

どんな思想家も、ある日、突然変異的に生まれてくるものではありません。科学者や政治家がそうであるように、幼い頃から、いろんな物事を見聞きして、「なぜだろう」「どうすればいいんだろう」と考え抜いた結果です。思想だけ、あるいは業績だけ切り取って、良いか悪いかを決めつけるものではありません。

その点について、小牧氏は次のように述べています。

わたしは舞台をえがくという名のもとに、ヨーロッパのこととか、フランスのこととか、ドイツのことを、あれこれしゃべりつづけた。わたしの問題は、マルクスの生涯や思想を話すことであったのに。だから読者のかたは、もううんざりして、しゃくにさわられたことと思う。辛抱づよくて好意のあるひとでも、一刻も早くマルクスの登場をお待ちになったことと思う。申し訳ない。だが、長すぎたと思われる舞台描写にも、大事なわけがあったのである。

じつは、「人とその思想」を語るばあい、しっかりと舞台を描写し、そのうえでその人に登場をねがうというのは、ほかならぬマルクス自身の念願であり、やりかたであり、理論であったのである。

≪中略≫

人・思想と歴史・社会(とき・ところ)との関係は、役者と舞台との関連のようにかんたんで単純なものではない。人・思想と歴史・社会との相互の関連は、瞬時もとどまることなく生成し、変遷し、運動し、流れていく。それはたえず変遷し運動していく、人間と自然との関係であり、また人間相互の関係である。人はある手奥体のとき・ところのなかに生まれ、そこで育てられ教育されて大きくなり、そこで社会や歴史をつくりかえていく。

≪中略≫

マルクスは、だから「人とその思想」をみるばあい、こういう関連のなかでみなくてはならないというのである。マルクスはいう。よく観念論者といわれる人がするごとく、ある人を神さまにしたり、ある思想を永遠絶対の真理として固定してはいけない。舞台から切り離された思想が思想だけで存在しているように考えたり、舞台から引きはなされた思想をつらねて思想史を書いてみたりしてはいけない。思想が世界をつくるかのごとく空想してはいけない、と。

≪中略≫

わたしは、これからも、こういう関連のなかで、マルクスの人と思想をあきらかにしていきたいと思う。そうでないと、ほんとうのマルクスにはならないし、墓場のなかのマルクス君は、「これは、おれとはちがう」とおこるであろう

「辛抱づよくて好意のあるひとでも、一刻も早くマルクスの登場をお待ちになったことと思う。申し訳ない」の一言に小牧氏の人柄が窺えます ’`,、’`,、ヾ(´∀`*)ノ ‘`,、’`

墓場のなかのマルクス君は、「これは、おれとはちがう」とおこるであろう・・味わいありすぎて、泣けます

このあたりの描写は、さすが文学博士です。

ともあれ、時代が作らぬ『人』はないし、人が作らぬ『時代』もありません。

平安時代の庶民と、昭和の庶民では、生き方も価値観も大きく異なるように、人間も時代に影響され、また時代に影響を与えながら、世界を形作っていくものです。

フィギュアスケートでも、浅田真央ちゃんの前には荒川静香さん、荒川静香さんの前には伊藤みどりさんが居たように、真央ちゃんだけが突然変異的に天才として生まれたわけではありません。真央ちゃんの演技は、伊藤さん、それ以前から続く日本フィギュアスケート界の伝統を脈々と受けついだ結果であり、真央ちゃんの演技だけを見て、「日本のフィギュアスケートはこうだ!」と決めつけることはできないでしょう。

マルクスの思想もそれと同じ、共産党宣言に至るまでの経緯は、10年、20年の長さで語り尽くせるものではありません。時代を遡れば、それこそフランス革命の頃から続く、市民運動の流れがあります。19世紀は、王侯貴族ではなく、生産手段をもつブルジョアジーが台頭した時代、王冠より金、宮殿より工場、そのしわ寄せとしての奴隷労働であり、その中で生まれた労働者救済の思想です。

ゆえに、時代背景を学ぶことが、マルクスの思想、しいては、世界を席巻した労働者革命の本質を理解することに繋がっていくんですね。

マルクスの名言に、「人間は労働を通して社会的存在になる」とありますが、その名言も、労働者の苛酷な現実を目の当たりにすればこそ。

ある日突然、閃いたわけではないんですね。

次のページでは、マルクスの思想の原点となった社会事件を紹介しています。『枯れ枝を拾っただけで窃盗なのか?』『人間が大事なのか、商品が大事なのか』

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人間が大事なのか、商品が大事なのか ~一つの社会事件を通して

枯れ枝を拾っただけで窃盗なのか?

日々、『ライン新聞』で議論を戦わせるマルクスの日常に、一つの社会事件が起きます。

ライン州の議会が、森で木材を採取した者に対する罰則や取り締まりを強化し、枯れ木や枯れ枝を拾った者まで「窃盗」として扱うことを決定したのです。

森の枯れ木や枯れ枝は、貧しい人々にとって、貴重なエネルギー源です。貧しい民家には電気もガスもありません。焚き木が使えなければ、スープを作ることもできず、飢えて死んでしまいます。

小牧氏は、日本の「小繋事件(明治時代、近代的な私有制が確立されたことにより、村民が共同で使用していた小繋山がある個人の私有地となり、村民の利用を制限して、この山を自分の為に自由に処分できる所有権を行使しようとする)」を引き合いに出し、州議会の利己性とマルクスの怒りを次のように解説しています。

いったい人間が大事なのか、木が大事なのか。人間の権利は、木の権利のまえに屈服してはならないし、人間が木という偶像のまえに敗れて、そのいけにえとなってはならない。

ところが、この法(木材窃盗取締法)においては、すべてがゆがめられ、さかさまになっている。人間の権利は若木の権利のまえに屈服している。

この法律のなかの原理は、森林所有者の指摘利益の保護いがいのなにものでもない。この私的利害こそが、究極の目的なのである。なにが善であり、なにが正義であり、なにが法であり、なにが裁判の公平であり、逆に、なにが悪であり、なにが不正であり、なにが犯罪であり、なにが不公平であるかは、すべてこの森林所有者という権力者の利害感によって決定されているのである。

そこでわれわれは要求する。政治的にも社会的にも何ものも持たぬ貧しい大衆のために、次のことを要求する。貧しい最下層の大衆の権利そのものである慣習法を、かれらの手にわたせ、と。

たとえが、村の共有地だった野生のイチゴ畑が、ある日、法改正によって、村長Aさんの私有地になったとしましょう。

当然、Aさんは自分のプロパティとして管理し、村人の立ち入りを制限して、イチゴも独占販売します。

その理屈は分かりますが、それまで村人の共有地であり、生活の糧であったものを、突然、法改正で「誰かのもの」にしていいのか、という問題ですね。

そのような私有化のために、村人が生活の手段を断たれ、飢えに苦しむなら、法こそおかしいではないか。法律と村人と、どちらが大事なのか……というのがマルクスの論点です。

そして、それをきっかけに、重要な疑問が湧いてきます。

経済がメインになれば、もの(木材)と、ものにまつわる所有者が「神」となり、下々の人間は、それに従事する奴隷となり、生産のための手段になり、次第に人間らしさを失っていくのです。

しかし、どうしてこういう矛盾が起こるのか、それが若き日のマルクスには分かりませんでした。

「村人が可哀相」「私有化したAさんはひどい」と非難したところで、物事は変わりません。

そうではなく、そもそも何が間違いなのか。どうすれば、生産に従事する人々を救済することができるのか、科学的に分析し、解決策を提示することが、マルクスのライフワークになります。

人間とは社会的存在である

上記のような疑問から出発したマルクスは、政治的解決による救済を真剣に考えるようになります。

その一つが、フォイエルバッハ批判です。

なぜ人間は、みずからの本質を失い、神とか、絶対精神とかいったものを夢みるのか。

そういう自己喪失、すなわち、いわゆる人間の自己疎外は、なぜおこり、どうすれば治癒できるのか。フォイエルバッハでは、それが明らかにされていない。

問題は、人間に夢をつくらせ、人間を疎外させている現実であり、政治であるのではなかろうか。

たとえば、ブラック企業において、悪質な経営者が「オレの言う通りにすれば、生産力も上がる」「お前たちは、給料をもらっている従業員なのだから、黙ってオレの言うことに従っておればいい」と主張し、また、それが当たり前という風潮があれば、従業員は「自分たちは給料をもらっているのだから、仕方が無い」「底辺の仕事しか出来ないのは、自己責任」と考えるようになりますね。長時間労働を強いられ、人間として虐げられる状態が続いたら、次第にものを考える力もなくし、ロボットのように言いなりになると思います。一方、経営者は、人件費を抑えて、大儲け。従業員が、満足に食べるお金もないのに、旅行だ、グルメだと豪遊し、幸せを見せつけます。そんな現実を目の当たりにすれば、従業員は、自分だけが幸せから疎外されていると感じるでしょう。そして、ますます自己無価値感に陥り、孤独感を深めてしまいます。

そうした問題を解決するには、二通りしかありません。

1) 従業員が自己研鑽を積み、各自で悩みを解決する。

2) 経営者に不満を申し入れ、会社の方針を見直す。

マルクスは後者の立場で、経営者の側に、「もっと給料を上げてはどうか」「有給休暇は権利として消化すべき」と改善を申し入れる派です。

従業員の努力も、創意工夫も、最低限の生活が保障されてこそ。

1日12時間も酷使されて、その上に、創意工夫の努力など、心身が働くわけがありません。

しかし、その為には、何が原因で、何が間違いなのか、明確にする必要があります。

そこで、マルクスは、社会における「人間」(労働者)を次のように定義します。

人間の本質は、実践的・主体的にかかわりあう社会的人間である。

だいじなことは、人間の社会的実践であり、現実を変革することである。

社会に生きる人は、たとえ「ぼっち」が好きでも、社会と何の関わりもなく生きていくことはできません。一人暮らしでも、市民税を納めたり、宅配にお米を届けてもらったり、あらゆる業種の、あらゆるサービスと繋がりながら暮らしています。

消費税が1%上がるだけで、家計が圧迫されるように、個人の努力よりも、社会が個人に与える影響の方が、はるかに申告で、甚大です。

社会という枠組みを無視して、人間の幸福はあり得ません。

節約に節約を重ねても、1万円が2万円にはならないように、社会に暮らす以上、個人の努力で変えられる部分には限界があります。

そこで、マルクスは、社会の仕組みを変えることを提案します。

経営者が一方的に解雇したり、またそれを政府が見て見ぬ振りするような、でたらめな社会ではなく、労働者の権利が保障され、病者も弱者も最低限の文化的な生活を送ることができる社会です。

これが、20世紀においては、革命や社会運動といった形で、現われたわけですね。

次のページでは、マルクスが提唱した解決策について解説しています。『人間の解放 ~真の自由と平等とは何か』『問題解決は「賃労働とは何か」の定義から始まる』など

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人間の解放 ~真の自由と平等とは何か

マルクスの目指す人間の解放”は、単なる政策や法律の変更にとどまりません。

小手先の方策を変えたところで、根本的な解決にはならないからです。

その点、小牧氏は次のように解説します。

政治的に解放されて、自由・平等の権利をあたえられたとて、それは、形式的、法律的な自由・平等であって、ほんとうの、具体的な自由や平等ではない。選挙権が平等にあたえられ、職業の自由があたえられたとて、それは形式的な平等や自由であって、現にいまおこっている不自由・不平等を解消することにはならない。

問題は、政治的な解放、つまり国家がひとしい政治的な権利や自由をあたえることでなく、人間の解放である。

人間が利己的で、みんなが個々バラバラに営利や金銭を追求してやまないかぎり、そこに対立や矛盾や闘争や不平等がおこるのはあたりまえである。だから問題は、こういう、いわば利己的・個人的な欲望そのものの争いともいうべき、この私有制にもとづく市民社会そのものにある。

だから、問題は、こういう市民社会から人間を解放することである。こういう私有制の上にたつ社会、対立、矛盾、闘争、利己の支配する市民社会から人間を解放することによってはじめて、人間の真の解放は実現するのである。

こうしてマルクスは、私有制にもとづく現実の市民社会の矛盾・対立・無秩序・悲惨・闘争を除去する道を、ばくぜんとはいえ、社会主義への方向においてとらえたのである。

この箇所は、現代においては、おおいにエクスキューズがああります。

ここまで物質的にも技術的にも爛熟した時代において、「私有を認めない」というのは無理があるからです。

それよりは、私有を認めつつ、格差の是正や富の偏在の解消に努めた方が現実的です。

確かに、全部一律、みな平等は理想ですが、欲望あっての進歩です。優れたアイデアを持ち、偉大な努力を重ねた人が、より多くを得るのは当然だし、その点は、誰もが理解していると思います。問題は、勝者総取りで、それ以外のものは一銭も手にすることができないシステムであり、そこさえ変えれば、多くの人が救われるはずです。適正な競争は、むしろ品質向上や技術開発に繋がり、良いこともあります。

だからといって、マルクスの主張がまったく無駄というわけではなく、19世紀、全力で労働環境の改善や労働者の開放を訴えたからこそ、現代の有給休暇や失業保険があります。あの時、誰も何も言わなかったら、労働法の制定も、もっと遅れていたかもしれません。

問題解決は「賃労働とは何か」の定義から始まる

小牧氏いわく、

では、この現実、この政治、この市民社会がはらんでいる矛盾は、どうすれば解決されるのか。だれがどうすればよいのか。そこでマルクスは、市民社会のなかにありながら市民として取り扱われず、人間らしい自由や平等や所有からまったく見放されているプロレタリアートに解決の力をみいだしたのである。市民社会のなかで生みだされ、しかも市民社会のなかで人間らしさをまったく喪失しているこの階級に、人間が人間らしさをとりもどし、人間が人間として解放されるための期待をよせたのである。

だが、プロレタリアートという力が、この革命をじっさいに実現するためには、武器を、頭脳を必要とする。それは、人間が、人間にとって最高であるという、新しい哲学である。この新しい哲学はその具体化のためには、この市民社会をじゅうぶんに分析し、解剖しなくてはならない。

ところで、この市民社会そのものが欲望を原理とするかぎり、それは、わけても経済的な社会であり組織である。市民社会のなかで産みだされたプロレタリアート自身が、実はこういう経済機構によって生みだされたものにほかならなかった。

したがって、そこはかつての国家や法や政治の分析をこととした法哲学ないし国家哲学に、市民社会の経済構造の分析・解剖の学、すなわち経済学がとってかわらなくてはならない。

いまやマルクスは、明確な自覚のもとに、経済学の勉強にとりくまなくてはならなくなったのである。人間の自己疎外の克服としての革命、人間の本質(類的存在)の奪回としての革命、人間の真の解放としての革命、そのような革命に、精神的武器をあたえるために。

どんな問題でも、社会の理解を得るためには、データを示し、理路整然と説明しなければなりません。お気持ちだけで、「差別された」「いじめられた」と騒いでも、証拠がないことには、説得のしようがないからです。

そこで、マルクスは、「賃労働とは何か」「資本主義とは何か」という定義から始めました。

今でこそ、工場や会社で働く人には、「従業員」「雇用者」「経営者」「投資家」といった認識があり、それぞれの権利と義務も理解していますが、19世紀、急速に工業化が進み、労働階級が大量に生み出された時代においては、女性も、子どもも、年寄りも、自分が何ものかの認識もなく、長時間、苛酷な労働に従事する以外、ありませんでした。「工場を持っている人」「給料を払ってくれる人」が一番偉くて、自分たちはお願いして給料をいただいているのだ、という感覚です。そして、長期間、そのような状況に置かれたら、自分が何ものか考える暇もなく、機械のように働き、機械のように扱われるでしょう。『権利』という概念すらなく、職場で酷い目にあっても、泣き寝入りするだけです。

そこで、マルクスは、それぞれの立場と役割、社会構造といったものを、理路整然と著し、一般の労働者にも分かりやすい形で解決策を説きました。

ゆえに、労働者も権利を主張することが叶い、労働環境の改善に結びつけることができたのです。

もし、マルクスが、「政府が悪い」と繰り返すだけの反対屋なら、労働者も自身の権利や解決策に気付くことなく、工場前でワッショイするだけの騒動で終わっていたかもしれません。

次のページでは、マルクスの初著、「経済学・哲学手稿」について紹介しています。『疎外された労働』『唯物史観 ~気持ちを変えるか、システムを変えるか』『労働者の値打ちとは何か』など。

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疎外された労働 『経済学・哲学草稿』の誕生

人が疎外される、ということ

プロレタリアートは市民社会のなかで産みだされながら、およそ市民らしい取りあつかい、およそ人間らしい取りあつかいから、まったく見はなされている。だから、かれらこそ立ちあがらなくてはならない(小牧氏)」

こうした義憤と使命感から、マルクスは国民経済学屋フランス革命について猛勉強をし、、最初の書『経済学・哲学草稿』を著します。(マルクスが書きためた原稿をモスクワの『マルクス=エンゲルス研究所』が実際に刊行したのはおよそ90年後の1932年)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)
経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

この本は、初期マルクスの人間観、人間解放論、ヒューマニズム、人間疎外(人間の本質を失うこと)論を表現するものとして注目されました。

小牧氏いわく、マルクスのノートには、次のように書かれています。

動物は、ただ欲望のままに生きているだけである。ところが人間は、意識的に、自覚的に生きている。人間とは、たったひとりであるのではなく、類的な存在(社会的なつながりのある存在)であった。<筆者注:”人間は労働を通して社会的存在になる”という言葉の核にあたる>

類的な生活とは、手をこまねいていることではない。自然にはたらきかけて、労働することである。自然に働きかけて、ものを生産し、それによって生きることである。労働し生産して、人間の類的本質(社会的共存)を実現する、それが人間のほんとうのありかたであり、それが人間の真の自由なのである。つまり、生産的労働こそ自己の実現であり、類をなしている人間のありかたであり、本質なのである。

たとえば、「マックジョブ」で知られる、ファストフードの場合。

従業員が働く動機は「収入」ですが、給料が全てではなく、「職場で認められたい」「お客さんに喜んで欲しい」という願いもあります。

なぜなら、人は社会の評価や関わりなくして、自己の存在価値を実感できない、社会的存在だからです。

時給1000円のパートタイムでも、職場で人として尊重されて働くのと、「マックジョブ」と見下されながら、機械のようにこき使われるのでは幸福度がまったく違います。

人間というのは、収入と同時に、自己肯定感や達成感を求めて仕事に就くものであり、サーカスの馬みたいに、「餌さえやれば、それでいい」というものではないんですね。

ところが現状はどうであろうか。市民社会のなかでは、逆になっている。労働の実現の成果、いいかえるならば、労働者が生産した生産物は、かれの本質の実現であるはずである。ところが、市民社会では、この生産物は、それをつくった労働者のものではなくなっている。

労働者のものではないどころか、労働者によそよそしい疎遠なものとして対抗し、労働者を隷従させ、労働者を苦しめている。

自己の実現が、非実現となっている。

自己の本質の獲得であるべきものが、ここでは喪失となっている。

つまり、労働もしなかった人、自己を実現しなかった人に、独占され私有されている。

生産物が肝心の実現者(生産者)によそよそしく対立し、かれを苦しめ、奴隷にしている。労働者はみずからの実現としての富を多く生産すればするほど、生産の力と量を増大すればするほど、ますます貧しくなる。

要するに、労働によって自分自身を、自分の本質を、人間という類いの本質を、実現していくことができなくなっている。労働によってものをつくり、もってみずからを豊かにしていくという人間らしさから、見はなされている。それが「疎外」といわれる現象である。

しかし、市民社会でのこの疎外は、たんに生産の結果(生産物)においてだけではない。生産活動そのもの、つまり人間が自己の本質を実現するプロセスそのものが、すでによそよそしいものとなり、他人のものとなり、かれじしんには属していない。だから労働者は、労働していることにみずからの創造の喜びや幸福を感じないで、苦痛や不幸を感じる。

自由な自己実現のはたらきは、肉体的・精神的エネルギーを発展させることなく、逆に肉体を辛苦させ、精神を荒廃させる。だから、労働者は、労働のなかで苦痛を感じ、労働しないときに自由やアットホームを感じる。市民社会での労働は、苦難であり、自己犠牲であり、他人のものとなっている。労働者の生活活動は、自己活動、自己実現ではなく、他人の所有に帰している。

労働者はみずからの実現としての富を多く生産すればするほど、生産の力と量を増大すればするほど、ますます貧しくなる」というのは、働いても、働いても、何の幸福感もなく、むしろ、市場が活況になるほど、そこで働く従業員は虚しくなっていく、という心理です。

時給1000円の従業員が、1時間にハンバーガーを100個も作るにしても、その一つ一つが感謝され、作業量に応じた給金なら、まあ納得もするでしょう。

しかし、人間として踏みにじられる中で、100個、200個とハンバーガーを作っても、本人は虚しいだけだし、それで企業が利益を上げて、10万個、100万個と生産するようになっても、従業員は幸福には鳴りません。むしろ、業界が潤えば潤うほど、「自分は何のために生きているんだろう」と虚しさもつのる一方です。

そうした心理を、「努力が足りない」「仕事を楽しむには、創意工夫が大切」という言葉で誤魔化したら、従業員も報われません。

労働時間や給金など、労働条件に無理があるなら、企業側も改善の努力が必要だし、心身の健康が保たれた上での創意工夫です。

唯物史観 ~気持ちを変えるか、システムを変えるか

現実的・具体的な改革が必要

こうした著作活動を通じて、マルクスの中で、社会科学としての協賛的な考えが育まれていくわけですが、誰もが同じ方向性で労働者の開放を目指していたわけではありません。

小牧氏いわく、

矛盾のない理想社会をつくるために、あるものは、資本家や中産層や政治家の理性に訴えた。あるものは、共産主義的規範を示そうとした。あるものは、理論だけを高くかかげた。あるものは、いきなり武装蜂起した。しかし、それらはマルクスによれば、空想的であり、非現実的であった。マルクスは、さきにみてきたごとく、プロレタリア階級による社会革命のなかに、真の自由と平等、真の人間解放への道をみいだしたのであった。

現代の主流は、「資本家や経営者、政治家の理性に訴える」ことです。適正な労働の在り方を説き、人権や福利厚生の重要性を強調する。また、それに準じた労働環境を整え、支援の輪を拡げる、といった形です。

しかし、社会の大本となる労働法や規制を見直さない限り、企業で出来ることにも限界があります。いくら企業が改善に努めても、法律で、「失業保険を受け取るために必要な保険料」や、「制度を利用するために必要な就労時間」など、事細かに取り決められていたら、支援の手も届きません。「かわいそう」なだけで傷病手当は出ないし、労災認定を得るにも、煩雑な手続きや証拠が必要となります。

また、経済システムが勝者総取りの仕組みになっていたら、個人や優良企業がどれほど頑張っても報われませんし、国が制定しないことには改善できない問題もたくさんあります。たとえば、A社は定時帰宅を実現しているのに、B社は何時間でもサービス残業をやらせて、国が黙認していたら、一向に問題は解決しないですね。こうした事は法律で厳しく取り締まらない限り、掛け声だけでは改善しませんし、悪習慣が長引いて、大勢が苦しむだけです。

それに対して、マルクスが提示したのが、「唯物史観(史的唯物論)」です。

観念的見解というのは、頭であれこれ考えめぐらし、頭でつくりあげた像が、ただちに現実に存在するかのごとくみなす、非現実的で、神がかった哲学のことである。それは、ものごとを眺めてあれこれ解釈しているだけで、実践や変革をめざさない。これに対立する見解(唯物論的見解)は、ものごとを、現実の自然的・政治的・経済的・社会的な関連ないし運動のなかで考える。それは、自然をもふくめた世界のいっさいを、運動し、変化し、関係するものとして把握する(「唯物弁証法」とよばている考えかた)。そして、この唯物弁証法が人間の世界ないし歴史に適用されたものが、「唯物史観(または史的唯物論)」とよばれるものである。

たとえば、違法な長時間労働を改善するのに、「許せない」「企業も理解すべき」と掛け声だけではどうにもならないし、実際に長時間労働を強いられている人に、「よく頑張ってるね」と励ましても、何の救いにもならないでしょう。

法律を変え、製造ラインを見直し、人員配置や業務内容も工夫して、現実的・具体的に物事を改善しない限り、不幸はいつまでも続きます。

労働者の値打ちとは何か

マルクスにおいては、プルードンの『貧困の哲学(正しくは、経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』に対する反駁が挙げられます。

プルードンもまた、不労所得(小作料・家賃・地代・利子・利潤)を批判し、当時の小市民に支持されましたが、その立場は「人々の理性に訴えかける」という点で、革新的ではありませんでした。

サービス残業をなくすには、企業を説得するだけでは駄目で、法律を改正し、罰則を設けるぐらいの思い切った改革をやらないと、いつまでも、ずるずる、だらだら、サビ残は続くのです。

プルードンが、労働者の賃金と、その賃金による労働によって生産された生産物の価値とが同じだとするのは、とんでもない。賃金とは、労働者の生存と繁殖(家庭生活)のために必要不可欠なお金(価値)のことである。

この賃金と、この賃金のもとで労働者によって生産されたものの価値とは、けっして同一ではない。

同一ではないから、賃金によって自分の生産物の値打ちと等しいものを、つまり自分の労働時間に相当する値打ちのものを、手に入れることはできない。

逆に、労働者は、働いて富をつくればつくるほど、ますますその富から見捨てられ、貧乏になる。賃金は、プロレタリアートを解放するどころか、宿命的にかれらを奴隷にしておく公式なのである。

マクドナルドもスターバックスも世界的な大企業に成長しましたが、そこで必死に働いた人たちは、マクドナルドやスターバックスの年間売り上げに匹敵するようなものを手に入れたでしょうか。

材料費や光熱費を差し引いても、もっと貰えるのではないでしょうか

コスト計算を正直に全公開すれば、従業員の怒り爆発かもしれません。

でも、経営者にしてみれば、「どうせこんな難しい計算はできないだろう」という考えだし、生かさず、殺さずで、そこそこにお金をやっておけば、黙ってる・・と思っています。

事実、それで飼いならされているのが現実ではないかと思います。美味しい思いをしているのは、上の方だけで。

その点、マルクスの考え方は、「儲けのシステムそのものを変える」という、大胆かつ過激なもので、当時の現状を知れば、そういう考えになるのも頷けます。

現代の従業員は、労働時間も、最低賃金も、そこそこに守られた中で暮らし、休暇も、手当ても、保証されています。「少ないな」と思いながらも、お腹いっぱい食べられて、年に一度は旅行を楽しむほどの余裕があれば、それ以上は追及しない人が圧倒多数でしょう。

しかし、マルクスの時代は、労働法もなければ、失業保険も、育児支援も、何もありません。わずかな給金を得るために、不衛生な工場で、子どもも、年寄りも、何時間も働かされる現状を見れば、「システムを変える!」と決意するのも納得です。

現代は、マルクスの思い描いた社会とは異なりますが、少なくとも19世紀のロンドンよりはマシだし、労働者の権利も保障されています。

そう考えれば、「システムを変える!」は半ば実現したと言えるのではないでしょうか。

私有廃止や共産主義の是非がどうあれ、労働者が自らの権利を自覚し、正しい知識をもつことが肝要です。

儲けの仕組みに合わせて、人の価値観も変化する

しかし、19世紀よりマシになったとはいえ、労働環境は今後もどんどん変容していきます。

なぜなら、生産様式の変化に応じて、儲けの仕組みも変わるし、それに合わせて、労働者の生活スタイルも、労働環境も、どんどん変わっていくからです。

新しい生産力を獲得すると、人間は、かれらの生産様式を変える。生産様式を変えるとともに、かれらの社会生活の様式を変える。物質的生産力に応じて社会関係をうちたてる人間は、またこの社会関係にしたがって、もろもろの思想をつくりだす。こうして、増大していく生産力の運動に応じて、社会関係や思想も、歴史的に変遷し、運動していく。

21世紀のグローバル化やIT化は、その典型ですね。

人は、自宅に居ながら、外資系企業と取引したり、海外の工場に指示を出すことも可能になりました。

エアメールやファックスで書類をやり取りしていた頃に比べれば、格段にやりやすくなった部分もあるでしょうが、グローバル化した為に、工場も資本も格安の国に流れ、仕事を失った人、海外赴任を余儀なくされた人、時差の都合で夜中も働かざるを得ない人など、暮らしが激変した人も少なくないはずです。

こうした労働環境やライフスタイルの変化は、働き方や価値観を変えるだけでなく、国家や国際社会の在り方さえ根本から変えてしまいます。

そして、それは、22世紀になっても、23世紀になっても変わりません。

その中で、「持たざる者」は、どのように暮らしを立て、人間としての尊厳を確立すればいいのか。

現代には、19世紀とは異なる課題が待ち受けています。

根こそぎシステムを変えるのは無理としても、枝葉の部分で変えてゆくことは可能でしょう。

何も考えず、ただ使われるままに生きていくのか、少しでも良い人生を目指して働きかけるか、選ぶことはできると思います。

次ページでは、著書『賃労働と資本』について紹介しています。『労働力の販売、賃金』『資本とは何か』『労働者の相対的貧困とは何か』など。

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労働者の社会的立場と権利 『賃労働と資本』より

マルクスの学びと熱意は、次第に具体化し、著書『賃労働と資本』に結晶します。

ここでは五つのパートに分けて、賃労働と資本の本質が説明されています。

  1. 労働力の販売、賃金
  2. 労働力商品の価格(賃金額)
  3. 資本とは何か
  4. 労働者階級の相対的な貧困化
  5. 労働者の絶対的な貧困化

それまで漠然と受け止められてきた「働くこと」が社会科学的に解明されたのです。

1. 賃金とは何か

「賃金とは何か?」と問われて、即答できる人も少なくないのではないでしょうか。

多くの人は、給料の額面には敏感ですが、それがどのような計算に基づいて算出されたのか、仕組みまで深く知っている人は少数だと思います。

法外に少なくても、「新入社員なら、こんなもの」「この業界なら、こんなもの」、黙って受け入れるのではないでしょうか。

でも、時には考えてみてください。

自分の給料は、誰が、どのように決めているのか。

みな「そんなもの」と言うけれど、本当に妥当なのか。

会社の収支はどうすれば分かるのか。

労働者にも、それを知る権利は、あるのかどうか。

仕組みを知ることが改革の第一歩です。

2. 労働力商品の価格(賃金額)

自分の労働の価値は、何を基準に測っているのでしょう。

資格でしょうか。キャリアでしょうか。

なぜ、Aさんは月給25万円なのに、同じ仕事をしているBさんは15万円しかもらえないのでしょう。

考えてみたら、不思議な話ですね。

自分の労働力が、金額に換算されるのです。

それについて、多くの人は、文句を言いません。

「まあ、こんなものだろう」と諦め、受け入れている人が圧倒多数です。

ハンバーガーショップで1時間、働いた時給が、ハンバーガーセット2個分。

妥当と思いますか?

でも、それがあなたの商品価値=労働力です。

3. 資本とは何か

世の中には、「持っているだけ」で、お金になる人がいます。

サラリーマンのように、あくせく働かなくても、預金額はどんどん増えて、一生お金に困りません。

自分で製品を作っているわけでもなければ、必死に売り歩いているわけでもない。

考えたら、おかしな話ですね。でも、それが現実です。

その点について、小牧氏は次のように解説しています。

資本を有する資本家は、資本の一部である生活資料をもって、労働者の労働力を買い入れる。(手続きとしては、資本家は賃金をあたえて労働力を買い、労働者は、その賃金で生活費を手に入れる)

資本は賃金労働がなくては生存できない。資本は労働力を買い入れ、労働力を搾取しなくては破滅する。逆に労働者は、資本がやとってくれなければ破滅してしまう。

だから、資本と賃労働、資本家と賃労働者という生産関係があってはじめて、資本は資本として、労働者は労働者として、みずからを存続させることができる。

賃労働者が賃労働者であるかぎりは、かれの運命は、永久に資本に依存し、資本に隷従している。資本は、労働者を被支配・隷従の状態におく生産関係ないし階級関係をあらわしている。

この構造は今も変わらない。

仕事を辞めても生きていける人間が、この世にどれくらい存在するだろうか。

4. 労働者階級の相対的な貧困化

上記の通り、仕事などしなくても、工場やマンションなど、持っているだけで、一生遊んで暮らせる人もあれば、仕事を辞めたら、収入も途絶えて、たちまち家賃も払えなくなる人もあります。

ビジネスマンの中には、年収数千万円の高給取りもいて、月30万円ほどの家賃収入で暮らしている人から見れば、羨ましい限りですが、そんなビジネスマンも解雇されたら、肩書きもなくして、収入も途絶えます。

そう考えると、たとえ高給取りでも、将来安泰ではなく、黙っていても月30万円の家賃収入があるマンションオーナーの方が、時間的にも、精神的にも、豊か・・と言えなくもないです。

相対的な貧困とは、額面では十分な手取りがあるけど、ひとたび仕事をなくせば、たちまち底辺に転落するような、不安定な身分も含みます。

仕事を失うまい、肩書きをなくすまいと、私生活も犠牲にして働いて、果たしてそれが人間的に幸福かと言えば、真の豊かさとは別問題という気がします。

5. 労働者の絶対的な貧困化

労働者は、どれほど能力があろうと、性格が良かろうと、いつ仕事をなくすか分からない、不安定な環境です。

多くの人は、仕事をなくせば、収入も途絶えて、一気に底辺に転落します。

調子の良い時は気付かないけれど、病気や介護、その他の事情で仕事に行けなくなった時、自分の身分がいかに不安定で、貧困と隣り合わせか、痛感するでしょう。

多くのサラリーマンがいつも不安で、不幸に感じるのは、こうした不安定ゆえです。

絶対的な貧困とは、底辺だけでなく、常に失業や貧困の恐怖に晒されていることも含みます。

*

改めて、言葉にすると、「はっ」と気付かされることが幾つもありますね。

現代でさえ、これほど気付きがあるのですから、有給休暇という言葉すら存在しなかった19世紀の時代なら、貧しい労働者は目の覚めるような思いだったでしょう。

賃金をもらっているオレたちにも、待遇改善を訴える権利があるのだと。それだけでも、大変なエポックだったと思います。

いろんな不満や意見があっても、それを言語化しなければ、話になりません。

たとえ正当な理由でも、それを論理的に証明できなければ、社会を説得することはできないのです。

マルクスは、誰もがもやもやと胸に抱えていたもの、末端の労働者が恐れて口に出来なかったこと、あるいは、誰も気付かなかった矛盾を、初めて言葉にして著した人です。

その解決策としての、「私有化の廃止」「共産主義」などは、今となっては時代にそぐいませんが、その熱意と力量は偉人の名にふさわしいものではないでしょうか。

賃労働と資本 (岩波文庫)
賃労働と資本 (岩波文庫)

次のページでは主著『共産党宣言』について紹介しています。『自らに宣誓。そして、世界へ』『労働問題につき学び、疑問と理想を言語化する』『マルクスが分かる本と映画』など

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『共産党宣言』 自らに宣誓。そして、世界へ

マルクスと言えば、『共産党宣言』。

共産主義のバイブルのように語られていますが、本書は、1847年にロンドンで開催された『共産主義同盟』の第二回の大会の後、本部の催促によって書かれた小冊子であり、アジテーションビラや思想書とは異なります。

私もどんな大作かと書店に出かけてみれば、ぺらっぺらの文庫本で、「これがかの有名な共産党宣言か……」と書架の前で茫然とした記憶があります。

執筆された時、マルクスは30歳。エンゲルスは27歳。

こんな若い二人が、その後、世界を変えるような著書を次々に生み出したのですから、さながら思想界のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックといったところです。

本書が誤解されるのも、「共産党宣言」という邦題が、まるで「共産党の結成宣言」のようであり、どうしても「日本共産党」と結びつくからでしょう。

ちなみに原題は「マニフェスト(宣言、声明書)」The Communist Manifesto ≪独語 Manifest der Kommunistischen Partei≫
(参考 https://www.marxists.org/archive/marx/works/1848/communist-manifesto/

日本共産党とは全く関係ないですし、ソ連や中国の共産主義とも異なります。

新たな活動を始めるにあたって、自分たちの「共産主義同盟」が、いかなる思想をもって問題解決に当たるか、それを世界に向けて宣言する、ブログのトップページみたいなものです。

その若さと熱量こそが本書の最大の魅力であり、この一冊ゆえに世の中が狂ったわけではないんですね。

文学として読めば、そのみずみずしさに眼を見はるし、執筆時の年齢を思えば、いかにも義憤に燃える青年の文章といった印象で、真っ直ぐさに心を打たれます。

この文章は、20代でないと書けません。(発表時はマルクスは30歳だけど)

『マニフェスト』も、マルクスの思想も、今となっては時代遅れの部分もありますが、人間の崇高な理想や情熱が、どれほどのことを成し遂げるか。

精神と生き様を学ぶことは、現代を生きる若者にも大いに参考になるのではないでしょうか。

何事も行動しなければ変わりません。

言語化すること。

勉強すること。

いつの時代も、若者の支えです。

マルクス&エンゲルスにならって、折れない、諦めない心を手に入れたいものです。

共産党宣言 (岩波文庫) Kindle版
共産党宣言 (岩波文庫) Kindle版

【まとめ】 労働問題につき学び、疑問と理想を言語化する

『共産党宣言』のAmazonレビューに次のような書き込みがありました。

「共産」「Communism」という言葉に対する、世界的なアレルギーというものはすごい。
冷戦崩壊後、一気に資本主義化が進み、壮大な社会実験は完膚なきまでに終わったかに見える。
そしてマルクスは、時代遅れの産物として、社会的に葬られてしまっている。
しかし、今いろいろなことを言っている教授陣、それこそマルクスの影響を受けていない人間はいない。
その思想を読み解くために、マルクスの考えに戻ることは、決して時代遅れの作業ではない。
むしろ、形を変え品を変え、マルクスの思想は根っこで生きている部分が多い。
でなければ、なぜ今のこの時期に「蟹工船」が売れるのだろうか?(ビイハブ氏)

今も、「共産党宣言」「マルクス」というだけで、左翼も、日本共産党も、共産主義国も、マルクス主義者も、何もかも一緒くたにして冷笑、あるいは酷評する向きがありますが、思想と政治は別だし、共産党宣言が後の共産主義革命の手引きになったわけではありません。宗教でも、一冊の経典をベースに、過激化する派もあれば、人生の指針とする哲学派もあり、個々の解釈によるところが大きいです。マルクスだって、一冊の本で、万人の考え方をコントロールすることはできないでしょう。著書を曲解し、良いように利用する人も現れて当然です。

そう考えれば、マルクスほど誤解されやすい思想家もなく、政治的にまずいことがなったからといって、存在ごと葬り去ることもないでしょう。

確かに、方策としては、時代にそぐわぬところも多いですが、労働者の救済を目指した気持ちは本物だし、嘘偽りないからこそ、世界中の労働者の心を動かしたのでしょう。

「人は労働を通して社会的存在になる」の言葉通り、私たちはこの社会の役に立ち、少しでも良い人生を生きようと努力するものです。

資本主義であれ、共産主義であれ、人々が目指す理想は同じ。

現実を学び、認識を高め、互いに助け合うことが、大勢の福利に叶うことではないでしょうか。

マルクスが分かる本と映画

マルクスの著書も膨大で、経済学の素養がある人でないと、理解するのは少々難しいですが、生い立ちや時代背景を理解するだけでもずいぶん違います。

以下、初心者向けの読み物を紹介します。

マルクス (FOR BEGINNERSシリーズ)

マルクスの人物と思想の源流を知りたい初心者におすすめの一冊。
ユニークなイラストが満載で、まんが解説本のようにさくっと読める。
筆者は1980年のエドワルド・リウス (著), 小阪 修平 (翻訳)を所持。橋爪版とは異なります。

マルクス (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 3)
マルクス (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 3)

『ぼくたちのマルクス』 木原武一

学生向けに書かれた名言集。共産主義を推す思想書ではなく、偉人伝みたいなものです。
解説も分かりやすく、木原氏自身のコメントも秀逸。
さくっと読めます。

ぼくたちのマルクス (ちくまプリマーブックス)
ぼくたちのマルクス (ちくまプリマーブックス)

カール・マルクス ──「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) Kindle版

マルクスの伝記は数あるが、佐々木氏の新書版が読みやすいです。
マルクスに関しては、労働者の心配をするより、まずは自分の暮らしを何とかしろよ、、、と言いたくなりますが、自身は貧困に陥っても、万国の労働者のために何かせずにいられなかったのでしょう。実人生を知ったら、別の意味で泣けます。

カール・マルクス ──「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) Kindle版
カール・マルクス ──「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) Kindle版

映画『マルクス・エンゲルス』

本を読んでも、今ひとつイメージがつかめない人におすすめなのが、若き日のマルクスとエンゲルスの活躍を描いた伝記映画です。
現代風に味付けされており、脚本もいいです。青春群像のようなノリです。
当時の苛酷な労働環境もリアルに再現されており、これなら義憤にかられるのも納得です。
マルクスのベッドシーンもあるよ

■ 26歳のカール・マルクスは、その過激な言動により妻と共にドイツ政府から国を追われる。1844年、彼はパリで若きフリードリヒ・エンゲルスに出会う。マンチェスターの紡績工場のオーナーの子息であった彼は、イギリスのプロレタリアート(労働階級)について研究中の身であった。しかし階級も生まれも違うエンゲルスとの運命の出会いは、マルクスが構築しつつあった新世界のビジョンの、最後のピースをもたらすことになる。マルクスとエンゲルスはやがて、政治的暴動や動乱をかいくぐって、まったく新しい労働運動の誕生を牽引してゆく

マルクス・エンゲルス
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誰かにこっそり教えたい 👂
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