マリア・テレジアの選択 ~娘をもつ母として / マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡

ハプスブルグ家の偉大な女帝マリア・テレジアは、娘マリー・アントワネットの軽率な性格を知りながら、フランス王室に嫁がせる。母として迷いながらも、最後には女帝としての判断を優先する母の哀しさについて語るコラム。『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』の紹介と併せて。

仕事を持つ母親にとって、一番心に突き刺さるのが、「子供と仕事と、どっちが大事なの?」という問いかけだろう。

「どっちが大事」と訊かれても、どちらとも言えないし、こればかりは比べようがない。

もちろん、「子供が大事」なことは言うまでもないが、子育てと同じだけの力配分を持って、仕事にもアクセルをかけようと思ったら、体が二つ、一日二十四時間あっても足りないからだ。

かといって、誰もが冷静に割り切って、仕事も子育ても両立しているわけではない。

たとえば、子供が病気をした時、母親なら、元気になるまで側について看病してやりたいと願う。かといって、一週間も二週間も仕事を休むわけにはいかないし、それこそ引き裂かれるような思いで、社会的責任を全うする母親も少なくない。瀕死のルイ・ジョゼフを病床において、三部会に出席したマリー・アントワネットなどは、まさにその極致である。

マリア・テレジアというのは、極めて特殊な社会的責任を負った母親である。

娘の破滅を予感しながらも、国益を優先し、政略結婚を推し進めるあたりは、非常に理性的な母親像を感じる。

かといって、母娘の情など完全に無視して、冷徹に事を運ぶ身勝手な母親かといえば、決してそうではなく、その後の苦悩を見る限り、彼女もまた、娘の事に心を砕く、どこにでもいる母親である。

娘の結婚にあたっては、「いつかは分かってくれるのではないか」という親らしい期待もあっただろうし、「何かあれば、助けてやれる」という自負もあっただろう。破滅を予感しながらも、ある種の期待をもって我が子を送り出すあたりは、現代の母親と何ら変わりないと感じる。

「子供の幸福」というのは、いつの時代にも、親にとって最高位の願いである。この世に産み落とした瞬間から、「可愛い」とか「楽しい」とかいう気持ちを超えて、親たる責任がずっしりと肩にのしかかる。

どんな愚かな親でも、最初から子供を不幸にするつもりで育てる親はないし、間違ったやり方にも、子の幸せを思う気持ちはあるものだ。
 
しかし、あまりにも凝り固まった親の願いは、しばしば子供の人生を狂わせ、親自身をも闇に突き落とす。

「この子は、家業を継ぐより、サラリーマンとしてこつこつ生きた方が幸せなのではないか」

「この子は、一流の進学校に通うより、大好きなサッカーに打ち込んだ方が伸びるのではないか」

と分かっていても、親の主義や価値観から、その道を押しつけることは少なくない。

娘の性格を知りながらも、「皇女にとって王妃になるという以上の幸福が考えられるだろうか」と信じて、政略結婚を推し進めたマリア・テレジアも、娘の幸せを読み違えた、哀しい母親の一人である。

いや、もしかしたら、女帝の中にも、国益などこの際無視して、娘の幸せこそ第一に、という思いもあったかもしれない。

だが、彼女は、母親としてではなく、女帝として決断した。

その結果、フランスとの間に同盟が結ばれ、彼女の女帝としての功績はますます偉大なものとなったが、娘は破滅して、断頭台の露と消えた。

この哀しい運命は、女帝母娘に特異なものであろうか。

現代の母親も、多様な側面を持っている。それは仕事であったり、社会活動であったり、趣味であったり、実に様々だ。「女は育児だけしていればいい」という時代と違い、内面の充実や、女性としての輝きを求めて、外に羽ばたきたがっている。

それは時として、絶対的に相手を優先する育児とは、対極に位置することもあり、いかにして自身とのバランスを取るか、悩むところである。

自分のことばかり追いかければ、我が子の幸せを見失うし、子供に遠慮してばかりでは、自分自身を見失う。

マリア・テレジアとマリー・アントワネットの哀しい運命は、現代の母親に、多様な側面を持って生きる難しさと危うさを教えてくれるのである。

目次 🏃

マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡

私もこの本を購入したが、読んでいて苦しくなるほどのプレッシャー。

話題といえば、夫婦生活が大半で、「また生理がきました」というマリー・アントワネットの返事が生々しいほど。

一般公開にあたって、伏せられている部分もあると思うが、マリーの手紙を読んでいると、世間のイメージとは裏腹に、彼女なりに必死に妻(王太子妃)としての務めを果たそうとする姿が伝わってくる。

また、マリア・テレジアの返事も、「夫を敬い、悦ばせ、世継ぎを産め」と日本の武家社会も顔負けの内容で、今時の女性なら泣いて逃げ出すだろう。

愛する人の面影を留めて ~ルブラン夫人の肖像画でも、若くして王妃となり、享楽に耽るマリー・アントワネットの青春時代に触れているが、こうもプレッシャーをかけられては、めげない方が不思議なほど。

ちなみに、国王夫婦が長い間、子宝に恵まれなかったのは、『ルイ16世が性的不能だったから』というのが定説だが、安達正勝氏の『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書) Kindle版』では、夫妻が非常に年若く、性行為そのものに無理があったと解説しておられ、その方が納得がいく。

国王夫妻といえど、現代に喩えれば、高校生カップル。

今時の女子高生が「夫を悦ばせ、世継ぎとなる男児を産むのです」と求められたら、発狂するのではないか。

彼らは結婚するには早すぎたし、王族でなければ、もっと幸せな人生があったはず。

そう考えると、マリー・アントワネットも、ルイ16世も、つくづく不運な時代に生まれついたと思わずにいられないのである。

マリア・テレジアの選択 ~娘をもつ母として

マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡

マリア・テレジアが結婚当初から娘の将来を案じ、幾度となく忠告を与えたのは有名なエピソードだ。
娘を叱咤激励し、何とか遊び好きな娘を偉大な君主に導こうとしたが、マリア・テレジアの願いが叶うことはなかった。
本書でもあるように、せめて娘の破滅を目にすることなく息を引き取ったのが、せめてもの救いかもしれない。

母娘の間で交わされた手紙は、何人もの手を経て大切に保管され、一冊の伝記として編纂されるに至った。
ここでは一部をご紹介したい。

マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡
マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡

著者、パウル・クリストフの前書きより。

フランス国王ルイ15世から、マリー・アントワネットを孫の妃にという申し込みがあってから、ウィーンでは大慌てで皇女をフランス王太子妃に、そしてゆくゆくは王妃としてふさわしい女性に育て上げようと、その訓育に全力を注いだ。それまではまだ教育らしい教育はなされておらず、人間形成の面でもとうてい十分とは言い難かったからである。

しかしながら、1796年にフランスからやって来た教育係のヴェルモン神父にしても、たいそう活発で言いつけは守らず、注意力は散漫という少女を相手に、効果らしい効果をあげることはできなかった。

このため、家族のなかで「トワネット」と呼ばれていた少女は、ウィーンを発ったとき、ドイツ語もフランス語も、話すにせよ書くにせよ、お粗末なかぎりであった。しかもヴェルサイユに着くとまもなく、母国語はすっかり忘れてしまう。かといって、新しい国の言葉もまだ自由に使いこなすにはほど遠かった。

マリア・テレジアは娘の人間形成と教育について、自分がこれまで怠慢の罪を犯してきたことを自覚していた。そこで、嫁いでからもできるだけのことはと、手紙によって啓発し、警告をあたえ、助言し、指示を出し、あるいは必死になって諭すことにした。元気いっぱいの娘をおしとやかにし、正しい道に導こうとしたのである。

≪中略≫

こうして1770年からマリア・テレジアが没する1780年まで、ほぼ11年間にわたって、一方では母と娘のあいだで、もう一方では女帝と大使メルシーのあいだで、秘密の文通が続けられたのである。しかも最初から最後まで、すべては女帝の希望したとおりに時計のような正確さで行われた。そればかりか、1774年にルイ15世が天然痘のために世を去り、王太子妃が19歳にして王妃となったとき、女帝は連絡をさらに緊密にするべく、月初めだけではなく月の半ばにも死者を派遣することにした。そうすることで少なくとも母親としての助言をあたえて娘を補佐しようとしたのである。

子供の未来というのは、親には薄々、分かるものだ。
どれほど尻を叩いても、カエルの子はカエルにしかなれないように、小さいアオガエルを立派なトノサマガエルに育てようとしても、どこかで無理が生じる。
しかし、親は、自分の教育次第で、どんなカエルもトノサマガエルに成長するはず、いや、しなければならないと思い込み、様々に間違える。

本書を読む限り、マリア・テレジアもまた一人の母であり、マリー・アントワネットの気質も、未来も知りながら、一縷の望みを託して、フランス王室に嫁がせた。

その願いと判断を、愚かと笑える人間など、一人としてない。

何故なら、私たちは、多かれ少なかれ、マリア・テレジアと同じ過ちを犯さずにいられないからだ。

我が子を信じる気持ちに、女帝も、庶民も、関係ない。

それが分かるから、いっそう、マリー・アントワネットの悲劇が胸に迫るのではないだろうか。

書簡 1
マリア・テレジアからマリー・アントワネットへ
1770年4月21日 

特に注意すべきこと

誰それを推薦してくださいと頼まれても引き受けてはなりません。煩わしい想いをしたくなかったら、他人の言うことには耳を貸さないことです。好奇心を抱いてはいけません。あなたは好奇心が強いので、これは特に心配されるところです。下々の者と打ち解けることは、どんなかたちであれ避けなさい。どのようなこともノワイユ夫妻に尋ねなさい。
それだけでなく、あなたは外国人であり、何としてもフランスの国民に気に入ってもらう必要があるのですから、何をするべきかについても、おふたりに教えを請いなさい。

偉大な女帝の最大の苦悩は、なまじ賢いがゆえに、ごまかしがきかず、娘の欠点も、それゆえに引き起こされる問題も、手に取るように分かる点だろう。
愚鈍な母親なら見過ごすことも、女帝の慧眼は決して見逃さず、先々まで見てしまう。
だから、いっそう苦悩も深いし、改善の為の努力もする。

王家の親子関係は希薄というイメージがあるが、マリア・テレジアは、それはそれは娘の教育と幸福に気を揉んでいるし、また、マリー・アントワネットも、頼みにしている様子がよく分かる。

書簡 3
マリー・アントワネットからマリア・テレジアへ
1770年7月9日 

国王陛下はそれはそれはやさしくしてくださり、私は心から陛下を愛しています。(ルイ15世のこと)
でも陛下はデュ・バリという夫人にお弱いために、お気の毒です。
デュ・バリというのは考えられるかぎりもっとも愚かで無礼なふしだら女です。
マルリーでは毎晩私たちとカード遊びをしましたが、二度も私のとなりにすわりながら、私とは口をきかないのです。
私も必ずしもあのひととお話しをしようとはしませんでした。でもどうしても必要なときは、少し言葉を交わしました。

早速、デュ・バリ夫人に関する文句が綴られているのが興味深い。
手紙によると、最初はいくらか言葉を交わしたが、だんだん無視するようになり、マリア・テレジアやメルシー伯爵に戒められる様子が詳細に綴られている。

しかし、母娘の最大の関心は、世継ぎを生むことだ。
結婚から3年経つが、まだ懐妊の知らせがないことに対して、母からはプレッシャー、マリーも何とか実現しようと心を砕いている様子が見て取れる。

書簡 37
マリー・アントワネットからマリア・テレジアへ
1773年7月17日

王太子殿下はパリではいつでもたいそうご立派です。
そして、私がこのようなことを申してよいかどうか存じませんが、明らかに殿下は、私たちがより深く理解し合うようになったときから、いや増しに民びとの敬愛を集めるようになられました。こうした状況があってのことなのでしょうかが、殿下が人目もはばからず私にキスをなさった、という噂が広まっています。
でもこれは本当ではありません。
けれども、私がこちらに参ってから、殿下はそのようなことはなさったことがないと愛するままがお信じになるなら、それも大きな間違いです。
本当はまったく逆で、誰もが殿下の私にたいする愛情に気づいています。

愛するママ、私はママに、ママだけに、打ち明けますが、こちらに参りましてから、私の問題はうれしい展開を見せ、私は夫婦関係が実現したと考えています、たとえ子を宿すところまではいっていないとしましても。殿下はそこまでいっていないというだけの理由で、まだ人に話す気持ちにはなっておられません。
もしも子供が五月生まれでしたら、なんと幸せなことでしょう!
月の障りはまだたっぷりとあります。
ですから、私がこのところ乗馬していないことは、信じていただけるでしょう。

娘が母親に夫婦関係について相談し、月の障り=月経があることも報告するなど、現代ではなかなか考えられないが、マリア・テレジアにとっても、マリーにとっても、世継ぎの懐妊は最大の務め。こうしたことも相談できる間柄だったのが、せめてもの救いだろう。

安達正勝氏は著書『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書) 』の『七年間成就されなかった結婚』という章で、「二人の結婚が成就しなかった理由については、長い間ツヴァイクの説が信じられてきたが(包茎)、二人の結婚がなかなか成就しなかった最大の理由は、二人ともまだ子供だった、ということである。結婚したとき、ルイ16世は15歳9ヶ月、マリー・アントワネットは14歳6ヶ月だった。今の日本で言えば、まだ中学三年生と二年生である」と述べている。

いわば、中学生~高校生のカップルに、「世継ぎとなる男児を産め」とハッパをかけているわけであり、普通に考えれば、異様な状況である。
精神的のみならず、肉体的にもまだまだ未熟な状態で、夫婦関係をもち、男児を懐妊するなど、現代なら、未成年者の人権侵害で訴えられる案件だろう。

そう考えると、マリーが様々なプレッシャーから放蕩に走ったのも分からないでもないし、王妃という地位も非常に重いことが理解できる。

せめてもの救いは、夫婦仲が決して冷め切っていたわけではないことだろう。

漫画ではフェルゼンとの恋愛がメインなので、ルイ16世は、ぼんくらとした男性に描かれているが、実際には、そこまで疎遠でもなく、互いに敬い、思いやっていた様子は窺える。

ちなみに、懐妊のプレッシャーから、贅沢三昧に耽る様子は、ソフィア・コッポラの映画『マリー・アントワネット』でもユニークに描かれている。
豪華絢爛なドレスやアクセサリー、洋菓子は注目。

書簡 51
マリア・テレジアからマリー・アントワネットへ
1774年

世間ではまた、建築に何百万フランとういお金が遣われるということも、問題視しています。これまでの古い体制が廃棄され、新しく生まれ変わろうとするこの時期、宮殿の建築に費やすのはその10分の1がいいところで、これほどの出費はとても許されるものではありません。

またこんな話もあります。
王妃はあまりにもなれなれしくて、ほかの王子のp妃と区別がつかないというのです。こう申したからと言って、どうかお願いですから、神様から授かったあなたの優位な立場を王弟の妃たちに思い知らせてやろうなどとは、ゆめゆめお考えになりませんように!

しかしあなたはすでに何度も、叔母様たちやプロヴァンス伯夫人の計略にのせられたではありませんか。またアルトワ伯については、あまりにも恨みを欠いているという噂があります。あなたがこうした状態を黙って見逃すのは、良い事ではありません。

このままでは、あなたはいつか最悪の事態に陥りかねません。

若いマリーが「いい人」でいようとして、あっちの口利き、こっちの口利きに無分別に耳を貸す様子が目に浮かぶ。
それにしても、ネットも電話も新聞もない時代、使者から伝え聞くだけで、問題点を見抜くマリア・テレジアの慧眼は流石である。

書簡 60
マリア・テレジアからマリー・アントワネットへ

(無分別に、アルトワ伯と一緒に遠乗りに出掛けた事に対して)
あなたが完全に手にしておられたこのすばらしい評判というかけがえのない財産を、みずから失うような真似はどうかなさらないでください。君主は世の尊敬を集めるためには一顰一笑をも惜しむもの。化粧にせよ娯楽にせよ、掃除女の真似をしてはなりません。世の人はあらさがしをするものです。いくら気をつけても十分すぎることはありません。

ところで、私にはもっとはるかに悲しいことがあります。パリからの便りはどれもが、あなたは陛下と別な部屋でお休みになっている、あなたは陛下から信頼されていない、と伝えています。しかも、正直に申して、あなたが日がな一日、陛下は放っておいて、外に楽しみごとを求めていると聞くに及んで、たまげるばかりです。

そのうえ、陛下があなたのところにお休みに来られないのでは、お世継ぎは断念するほかありません。このようなことでは、愛情もいっしょに暮らすという習慣も、まもなくおしまいになるでしょう。そうなると、もうあなたの行く手には不幸と苦悩しか見えません。

夫婦関係にも厳しい指摘。
現代でも、実母にこのように叱咤されたら、心が折れるだろう。

それにしても、延々とこのようなやり取りが続き、母の心労と娘のプレッシャーはいかなるものだったろうと想像するだけで胸が苦しくなる。
そして、これが王族として生きることなら、贅沢に憧れる若い女性も裸足で逃げ出すのではないだろうか。

それでも、最後の最後まで、娘の身を案じ、正しく導こうとしたマリア・テレジアの根気と愛情には頭が下がる。
現代の母娘でも、こうはゆくまい。

非常に興味深い内容なので、いつか機会があれば、ぜひ手に取って頂きたい。
 

この投稿は、優月まりの名義で『ベルばらKidsぷらざ』(cocolog.nifty.com)に連載していた原稿をベースに作成しています。『東欧ベルばら漫談』の一覧はこちら

誰かにこっそり教えたい 👂
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