【コラム】 親を捨てよ、家を出よう
ゲルマン神話のジークフリート、ギリシャ神話のエディプス王……etc
英雄は一人前になるために、必ず『父親殺し』をやり遂げる。
行く手に立ちはだかる大いなる敵の屍を踏み越えて、我が道を歩き出す。
『父親殺し』は、子供が大人になる為に無くてはならない通過儀礼だ。
この父を倒してはじめて、子供は自立を手に入れる。
ところが、こうした『精神的な父親殺し』が上手く出来ない子供が最近多い。中には、本当にバットで殴り殺してしまう子供もいる。肉体が消滅すれば、自身の内的な存在も消滅すると短絡的に思い込んでいるのだろう。
また逆に、親に押し潰されて、大人になりそこなう子供もいる。
子供を一人前にしたければ、上手に殺されなさい──と言いたいところだが、自分が精神的な父親殺しを経験してないだけに、分からないのだろう。
かつて、寺山修司は言った。『書を捨てよ、町へ出よう』。
これを応用すれば、『親を捨てよ、家を出よう』になる。
「捨てる」ということは、決して「粗末にしろ」という意味ではない。
大人になりたければ、あなたが執着している親、そしてまた、あなたに執着する親から離れなさい、という意味だ。
そしてそれは、「捨てる」ぐらいの覚悟が無ければ、なかなかやり遂げられるものではない、ということを付け加えておく。
『大人になる』という定義は難しいが、阿月流に言えば、「親を一人の人間として理解すること」このひと言に尽きる。
子供が親に不満を抱くのは、「父親のくせに」「母親のくせに」という強い思いがあるからだ。
「父親のくせに、強くない」
「母親のくせに、優しくない」
父親も、母親も、子供にとっては理想的な人間であるはずなのに、実際は、短気だったり、冷たかったり、愚かだったりする。
いつもいつも愛してくれる訳ではなく、時に不可解なまでに子供の心を突っ撥ねる。
子供にとって、父親はどこまでも『父親』であり、母親は『母親』だ。
たとえ子供を無視したのが『仕事に疲れきった山田一郎』でも、子供の目には『父親』にしか映らない。
だから許せないし、不信も抱く。なぜなら、子供にとって親は絶対的な存在だからだ。
子供には、「譲る」とか「与える」とかいう発想が無い。
いつでも欲求に満ちているからだ。そして、子供のままでいる限り、親への不満はつのり続ける。
『我が親も一人の人間である』ということに気付かない限り、本物の愛と理解は生まれない。
人間として自立することもない。
そして、その気付きを与える一つの契機が、『精神的な父親殺し』なのだ。
いうなれば、親は一つの絶対的な価値観だ。そして強力な庇護者でもある。
しかし自我が目覚めれば、『人間対人間』に転じる。
特に、父親を「一つの律法」と定義するなら、父親こそ最初に打ち破らねばならない壁となる。
自立して生きてゆくには、自我を確立することが必要だ。
そして、自我を確立する為には、既成の概念や価値観を否定することもやむを得ない。
その際、心の中に君臨する、絶対的な価値観であり強力な庇護者である父親像を打ち砕くプロセスが生じる。
これが『精神的な父親殺し』だ。
バットを持って相手の存在を抹消するのは、ただの逃避である。
そうして、子供が一人の人間として親を踏み越えた時、子供は自分の足元に静かに横たわる親の姿を見るだろう。その時、子供は、鉄の牙城か断崖絶壁のように思い込んでいた親が、実にか弱く、平凡で、傷だらけの人間であることに気付く。神でも、理想でもない、一人の人間であることに。
その時、すべてが許される。
あの日の拒絶も、言動も、「一人の人間」のものとして受け止めることができる。求め、期待し、自己主張するだけだったのが、親を一人の人間として理解することで、譲ることを知り、許すことを知り、感謝を知り、与えることを知るようになるのだ。
そのように、「求める子供」が「与える大人」に生まれ変わることが、『大人になる』ということではなだろうか。
「ああして欲しい」「こうして欲しい」……欲しい、欲しい、と連呼するのは、子供の特性だ。子供には自分の欲求しか見えない。だから、三つ、四つの子供は、求めるがままに手を差し出す。
そして親も必死に与える。
与えなければ、子供は育たないからだ。
ところが、十七になっても、二十になっても、中には四十、五十のオッサンになっても、三つ四つの子供のように「欲しい、欲しい」と連呼する子供の心のままの人がいる。
気に入らなければ親から離れればいいのに、要求だけは続ける甘ったれがいる。
そういう大人になりそこなった『おとなこども』が、今の世の中、あまりに多すぎないか。
彼らは大人になる気も無ければ、子供をやめる気も無い。
そして、なお始末の悪いことに、親も子供を大人にする気が無い。
だから、いつまでも甘えあい、もたれ合っている。互いに互いの愛や理解を要求しながら。
本当に親が子供を一人前にする気があれば、家から叩き出しても子供を自立させようとするだろうし(この際、ハッキリ言っておくが、経済的自立の無いところに精神的自立もあり得ない)、子供も一人前になる気があれば、親の制止を振り切っても前に踏み出すだろう。
結局、それが達成できないのは、お互いに失うのが怖いからだ。
愛と理解をめぐる、一種の寄生関係である。
そうして求め合い、奪い合う果てに、不満が昂じて『肉体的な親殺し(あるいは子殺し)』に発展してしまったのでは救いが無い。相手の存在の消滅を願うなら、自身の心の中で踏み越えるべきだろう。
こんな甘ったれた世の中だからこそ、あえて言いたい。
『親を捨てよ、家を出よう』と。
そうして精神的にも経済的にも自立してみれば、親子関係だけでなく、仕事、恋愛、社会、人間関係──すべてにおいて、自立した「自身の眼と意志」を持つことの大切さが分かるだろう。
そしてまた、生きることの辛さと面白さも。
確かに、親の巣の中は、温かくて安全だ。黄色い嘴パクパクさせれば、親鳥は有り余るほどのエサを運んできてくれる。食べる心配も、飛ぶ心配も、敵に襲われる心配もしなくていい。そしてまた、親も雛にエサを運び続ける方がずっと気楽なのだ。雛を巣から突き落として、飛び方を学ばせるよりは。
ところで、そんな寄生関係に、成長なんてあるのか。
親が仕事への自信を示せ : 産経新聞の『一筆多論』より
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12年9月25日(月) 産経新聞 『一筆多論』から抜粋
■ 親が仕事への自信を示せ ■
フリーター増加は緊急の課題 論説委員 : 三浦淑夫
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フリーターの八割は親と同居し、収入の少なさをカバーしている。親の年齢層(50歳代)の資産はこの14年間で1.7倍に増加した。経済的豊かさが子供のパラサイト(寄生)現象を許しているのだ。若者に社会人としての自立をうながすことができない原因のひとつが家庭にもあるといえるだろう。
ところが、こうした若者に対して「夢を追い、その実現にかけるため、安易に就職せず自分に適した職業を追求している」などとおだてる評論家がいる。
しかし、その目指すところは音楽家やイラストレーター、デザイナーなどの華やかさが売り物の職業が大半だ。しかも、夢を語るだけで、実現のための努力を怠る層が多い。努力することを「ダサイ」という若者もいる。だれが教えたのだろうか。
若者は「自己愛」「自己中心」の世界に浸りきっているのだ。こうしたフリーターを後押しするような発言は、無責任きわまるのではないか。
希望を実現したいと若者はいう。では、いつまでフリーターを続けるつもりか。30歳代、40歳代になってもフリーターでは、将来への不安も募るばかりだろう。
自分の夢と実際の人生との折り合いをつけられないまま中途半端な状態で続けるのでは、充実した人生設計も描けまい。親は若者に迎合するのでなく、ダメなものはダメとはっきりいうことだ。
フリーター問題は、税収、年金など社会保障制度の維持に暗い影を投げかけている。若者と衝突するのを恐れず、家庭や学校が真剣に取り組むべき課題なのだ。
【コラム】 生きる限り、痛みは伴う
愛するには、努力が要る。
何もせずとも無条件に愛してくれるのは、親だけだ。愛されるだけなら、赤ん坊にも出来る。
生きて行くには、努力が要る。
何もせずとも生かしてもらえるのは、子供だけだ。
存在するだけなら、アリにも出来る。
この世に楽な努力など無い。
手軽にこなせる努力も無い。
努力とは、常に痛み苦しみを伴うものだ。
皆が皆 、「俺もラクしたい」「あいつよりトクしたい」そう望めば、この世のいかなる関係も壊れてゆくだろうエゴだけが存在する、暗い世界に変わるだろう。
結局、皆、ラクしたい。
ただ、それだけのことのように思う。
誰がそんな手軽なシアワセを発明したのかは知らないが。
河合隼雄の『家族関係を考える』と寺山修司の『時速100キロの人生相談』
一つの参考として、「精神的父親殺し」について書かれた著書を紹介しておきます。
これは読み応えのある一冊でした。思春期の子供のカウンセリングを通して、親子関係の本質や家族の問題などが真摯な筆致で綴られています。
寺山修司を読むなら、これでしょう。寺山修司の『時速100キロの人生相談』~高校生の悩みに芸術的回答~でも紹介していますが、大人で、詩人で、哲学の人らしい機知に富んだ一冊です。
初稿: 00/10/05
【追記】 精神的親殺しは青少年と親にとって普遍のテーマ
『精神的親殺し』と言うと、【親殺し】という言葉だけに反応して、「親を殺すとは何事か、けしからん!」と怒り出す人もあるかもしれないが、「子の自立と親殺し」は、下剋上の時代、あるいはそれ以前から存在する永久不変のテーマである。
これを正しく理解しないと、「大人になり損ねた親(反抗期や殻破りの経験をしてない親)」と「大人になる方法が分からない子(あるいは、自立することに罪悪感を抱く子)」との間で壮絶な摩擦が生じ、最悪、「存在の消滅」をもって解決することになってしまう。
本来、心の中でやり遂げなければならない「親との別離」を、「邪魔だから殺す」という形で始末するわけだ。
遡れば、下剋上の時代にも、子が親に対して殺意を抱くことは普通に存在しただろうし、そこに権利や財産が絡めば、怒りや憎しみもひとしおだったろう。もちろん、その逆も然りだ。
「父は弟ばかり可愛がる」「側室の子に家督を奪われるかもしれない」「父は自分を見捨てて、忠臣を取り立てるつもりではないか」etc
まともに基本的人権や財産分与の概念もなかった時代、それはもう凄まじい猜疑心であったと想像する。
しかし、当時は、父が子の首を刎ねても、子が父を滅ぼしても、「戦国の定め」と捉えられ、あまり問題視されることもなく、子供時代からの怒りや嫉妬を、親兄弟の打ち首や追放という形で決着つけていた部分もあったのではないだろうか。
そう考えれば、いつの時代も、『子の自立』というのは、非常に激しい感情や動機を伴うものである。
(そうした体験とは全く無縁な幸せな子もあるが)
時には、臍の緒を引き千切るような、無情の覚悟が求められることもあるだろう。
そうした子の自立に伴う強い決意や衝動――とりわけ、厳格な親や過干渉な親に対する――を『内面的な親殺し』という言葉で表したのが心理学者の河合隼雄氏である。
なぜなら、生きる自由のない子にしてみたら、「この世の神」である親に背くこと――完全に分離独立して、自らの足で歩き始めることは、さながら『親殺し』にも似た決意であり、非常な罪悪感を伴うからである。
それでも、子が真に自立するには、それを心の中で成し遂げなければならず、それに失敗すれば、いわゆる『こじらせ』――大人になり損なった子供のまま、自分の実年齢と、大人になりきれない自我とのギャップに死ぬほど苦しみ、親も世も恨むようになる。
そして、その反動は『自殺』、あるいは『親殺し』という極端な形で始末をつけることになり、それこそが本物の悲劇だと、河合隼雄氏は述べているのである。
悲劇を回避する手立ては一つしかなく、『それ』が訪れた時、子は親を振り切り、親は子の手を離し、お互いに別離することだ。
具体的に言えば、物理的にも、経済的にも、完全に分離独立して、それぞれの人生を生きることである。
特に、過干渉の親や、依存心の強い親、見栄っ張りで、「子に負かされた」と思いたくない親などは、こういう場面で、脅す(親を見捨てる気か。薄情者)、泣きつく(私たちはどうやって生きていけばいいのか)、けなす(お前みたいなバカに自活なんかできるわけがない)といった抵抗を見せ、あの手この手で子の自立心を封じ込めようとするが、本当に自分の人生を生きたいと望むなら、(心の中で)親を殺すぐらいの冷酷さがなければ、到底、逆らうことはできないし、離れることも難しい。
そして、ここで自立に失敗すると、子は無力感や自己嫌悪に陥り、自分を支配する親を一生憎み続けるだろう。
そう考えれば、子に背中を踏まれることは決して親の敗北ではなく、さながら産卵を終えた鮭が我が身を稚魚に与える如くである。
河合氏の言葉を借りれば、あえて子に殺されることによって、子の幸福と感謝を実現するのである。
そして、親を踏み越えて巣立った子は、いつか親を懐かしく想い、一人の人間として理解するようになるかもしれない。
それが「上手に殺されなさい」の意図である。
とどのつまり、子育てというのは空しい。
そんな事に、己の野望や老後を懸けたところで、子は万分の一も返しはしない。
親の身を全て食い尽くして、たくましく川を上っていくのが、子というものだからだ。
それで納得する覚悟がなければ、到底、親などやれない。
人間も、鮭も、親になったら、あとは立派に死ぬだけ。(生物的な役割は終わり)
「生きること」や「夢見ること」を子から奪ってはいけない。
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