『まじめの罠』 努力が報われない時、どうするか
初稿:2011年11月9日
無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。
アルベール・カミュの名著『シーシュポスの神話』の冒頭に書かれた、この衝撃の一文に出会ったのは中学生の時だ。
NHK教育番組よろしく、「努力すれば、報われる」と信じていた私にとって、これほど怖ろしい真実もなかった。
もしかしたら、先生や大人が推奨する「毎日コツコツ」「ガンバリズム」の先には落とし穴があって、今、私が「がんばってること」も、大人になる頃には無に帰すんじゃないか……と思うと、目の前が真っ暗になった。
それは、卓球の試合で負けてガッカリするのとは根本的に異なる、救いようのない無駄であり、虚しさだ。
そして、それが神々の懲罰だとしたら、カミュの言う通り、人間にとってこれほど怖ろしいものはない。
押し上げても押し上げても、転がり落ちてくる巨大な岩。
終わることのない無益な労役。
そんな人生に打ち克つ光の言葉などあるのだろうかと、思い巡らせたりもした。
私が高校時代、西洋占星術や心理学やタロット占いや学研の『ムー』にはまって、こっそりエスパーカードもやっていたのは、そのせいである。
矢追先生の『ウンモ星人』は、いつ私をさらいに来てくれるのかと、夜ごと、星空を見上げていた時もあったし。
だが、シーシュポスの岩が山頂にとどまるような奇跡は、ついに起きなかった。
それどころか、岩の下敷きになり、泣いて、叫んでも、誰も助けてくれない。
ああ、人生って、キビチイ……
そんな日々が、10代から30の入り口まで続いた。
あの日、ツァラトゥストラが私の胸に去来するまでは、本当に、本当に、大変で、辛い出来事しか感じなかったものだ。
*
そんな懐かしい心の体験をふと思い出したのは、子供の散らかした部屋を掃除していた時のことだ。
幼児のいる家。
それはまさにシーシュポスの山である。
片付けても、片付けても、数時間後には荒らされ、オモチャが散乱する「悪魔の館」。
「どうせ掃除したって、明日の夜には……」と思うと、どうしようもない脱力感と疲労感に襲われる。
そして、それを、一年365日、何年にもわたって続けなければならない宿命。
これぞ神々の懲罰でなくて、なんであろう。
シーシュポスでさえ、「岩をころがした方がマシ」と思うはずだ。
リンゴを食べろとそそのかしたイブへのこらしめとして(?) 幼児の居る家の清掃ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。
そんなある日。
シーシュポス・ママの目に止まったのが、「わかったブログ・努力だけでは成功できない」で紹介されていた勝間和代さんの近著『まじめの罠 (光文社新書)』だ。
ネットに紹介されていた一文を転載すると・・
私は「勝間和代を嫌う人たち」のプロファイリングをだいぶしてきましたが、その過程でとても興味深い事実を見つけています。 それは、私を嫌う人の典型的なパターンの一つが、「まじめに仕事をしているわりには成果が出ていない人」という事実です。
より具体的には、高学歴にもかかわらず高収入を得ていないとか、頑張っているにもかかわらずつまらない仕事しか与えられていないような人たちです。
それは男性でも女性でも同じです。彼らにしてみれば、「勝間和代はまじめに見えない。自分たちのような努力もしていないように目に映る。
それでも成果を出しているというのは、何かズルをしているに違いない」と考えるわけです。あるいは、「勝間和代という存在自体」が、自分たちの価値やアイデンティティを崩壊させるので許せないと考えるわけです。
こういう人たちが一定数の割合で存在するので、まじめの価値を再考しようとしている本書も評判が悪くなる可能性は高いと思っています。まじめの罠にハマっている人たちは、本当は意味がないかもしれないルーティンワークをつまらないとも思わず、コツコツと長時間それに耐えることが美徳と考えています。
こういう人たちは、小さい頃から何に対しても我慢し続けてきて、小・中学校などでもいい成績を取り、いい学校にも入れて、名のある企業に就職することができて、結婚して、子どもがいて、郊外に一軒家を30年ローンで買って、1時間、あるいは2時間かけてせっせと会社に通勤して……といったような人生を歩んでいます。
さて、こういった人生は、本当に幸せな人生なのでしょうか?――
とか。
「本来であれば自分はもっと他者から評価されるはずなのに、なかなか評価されない。だからこそ、自分をより持ち上げるために他者を落とす必要がある」というわけです。
そのため、落とす相手は、誰でも、何でもよくなります。少しでも差別したり、いじめることが正当化できそうな相手がいたら、まるで鬼の首でも取るかのように襲いかかります。
ここに登場するアンチ・カツマー――他人を貶めることで鬱憤を晴らそうとする人々は、ご指摘の通り、「こんなに頑張ってるのに、なんでオレの人生は上手く行かないんだ!」と悶々とし、そのイライラ、不安を、シンボリックな人や事象にぶつけ、なんとか自分の足場を保とうと必死になっているのかもしれません。
カツマーさんや支持者はどうか分かりませんが、私だって、「あの人、要領いいよなー」「ラクしてるよなー」と思うことがあるので、ここで批判されるような過激な行動に出る人の気持ちもよく分かります。
ただ、なぜそこまでやらないかと言えば、私は『シーシュポスの神話』の読者で、カミュの解釈に感動したからなんですね。
つまり、こういうこと──
・・中略・・
するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下の方の世界へところがり落ちて行くのをじっと見つめる。その下の方の世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならなぬのだ。かれはふたたび平原へと降りてゆく。
こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。岩とこれほど間近に取り組んで苦しんだ顔は、もはやそれ自体が石である! …… いわばちょっと息をついているこの時間、かれの不幸と同じく、確実に繰り返し舞い戻ってくるこの時間、これは意識の張り詰めた時間だ。かれが山頂をはなれ、神々の洞穴のほうへと、すこしずつ降ってゆくこのときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。
この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやりとげられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれをささえているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。
こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。
ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力で、しかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだ中考えているのだ。
かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのである。
このように下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされることもありうる。
「物事が思うようにいかない」と自分や他人を責めている人は、「上手く行けば、楽しい毎日がずーっと続くはず」と心のどこかで思ってるんじゃないでしょうか。
上手く行ってる人だって、雨の日もあれば、曇りの日もある。
ただ、晴れの日が多いか、少ないかの違いだけで、「毎日がハッピー」なわけではないと思います。
誰もあえて口に出さないだけで、世の多くの人は、「まあまあ」「そこそこ」「つまらない」「しんどい」日々を送っているものではないでしょうか。
(特にネットは成功者のイメージが物を言うので、表面だけ見て信じると、自分がバカを見る)
でも、『成功』に幻想を持ちすぎると、それが見えません。
このヤロ、毎日美味いもの食って、いい服着て、バンバン趣味に金使って、笑いがとまらんやろ──なんて思っちゃう。
オレだって、同じくらい実力があるのに、と。
でも、普通の人がそんな風に感じるのも致し方ありません。
何故なら、成功者はみな一様に「努力したから」と答え、努力を美談にしてしまうからです。
確かに、努力もしたでしょうけど、本人の努力以外に、運とか、コネとか、親の資産とか、努力以外で成功を収めている部分も大きい。
庶民が、どう逆立ちしても真似できない部分もあるのに、それをひっくるめて「私の努力」と美談にするから、普通の人が勘違いするんですよ。
相手が子供にせよ、若いワナビーにせよ、周りが諭すべきことは、「あの人は、生まれながらにゲタを履かせてもらってるから、あそこまで到達するのは当然なの。でも、あなたにはゲタがないから、この程度で満足することも覚えなきゃ」という現実であって、「あなたも頑張ったら、同じようになれるわよ」という励ましではないと思います。
なのに、『他人の成功談はおとぎ話だと思いなさい』中島義道氏の人生相談よりにもあるように、1万人か10万人に一人のラッキーケースを持ちだして、「努力すれば、夢は叶う」とか言い出すから、普通の真面目な人も心が狂って、怨念の塊みたいになってしまうのです。
*
ともあれ、無益な労働に追い詰められるシーシュポス。
彼はまた不断の努力家であり、報われない夢の従者でもあります。
でも、そんな彼でも運命に打ち克つことはできる。
たとえ、傍目には、叶わぬ岩を押し上げたり、転がり落ちたり、惨めなルーザーに映ったとしても、意思の力で運命に微笑むことはできる――と説いているのが、カミュの、この一文です。
ニーチェの「これが生だったのか。それならよし、もう一度」と同じですね。
思うようにならなくても、「まあ、いいか」と思えるあの心境。
負け犬の遠吠えと言われたら、それまでだけど、そこに至るまで、人は暗い感情や絶望の狭間で、とことん闘い続けるものです。
みな、いちいち口に出して言わないだけで、最初から白旗掲げて、何の努力もしない人の方が少数と思いますよ。
それと同様に、『夢破れて、山河(人生)あり』みたいな人が9割。
どうにか、こうにか、自分を納得させて、生きている人が大半です。
だから、自分を虐めて、悶々としている人は、もっと自分に優しくなってもいいんじゃないですか。
自分で自分をバカにするから、他人にもバカにされているような気がするのです。
自分の人生にまったく関わりのない勝間和代氏にまで鼻でバカにされてるように感じるなら、そりゃ、相当、あなた自身が傷ついてますよ。
それを「成功」が癒してくれると思ったら、とんでもない。
あなたが成功したって、今度は、もっと上をゆく成功者が、あなたをバカにします。
成功者の世界でバカにされたら、もっと悲惨ですよ。
それこそ、他に逃げ道が無いんだから。
あなたを本当に癒やしてくれるのは、あなた自身の、YES、わたしクリニック!』のこの一言だけ。
その精神を、シーシュポスとニーチェの言葉に学んでもらえたら、と思います。
さて。
ほとんど全文転載状態になっちゃった『シーシュポスの神話』だけども、こういう喩えならカミュも許してくれるだろうと願って、迷えるあなたに贈り物のような言葉をひとつ──。
だが、世界はひとつしかない。
幸福と不条理とは同じひとつの大地から生まれたふたりの息子である。このふたりは引き離すことができぬ。
・・中略・・
(「すべてよし」という言葉)この言葉は、不満足感と無益な苦しみへの志向をともなって、この世界に入り込んでいた神を、そこから追放する。この言葉は、運命を人間のなすべきことがらへ、人間たちのあいだで解決すべきことがらへと変える。
影を生まぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ。不条理な人間は「よろしい」と言う、かれの努力はもはや終わることがないであろう。ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない。
ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう! ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見出す。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さを人に教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。
このとき以後、もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、一つの世界をかたちづくる。
頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。
いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。
こういう言葉は即効性ではなくて、何年、あるいは、何十年も経ってから、ふと心に効くもの。
それが、一瞬の高揚感で心を麻痺させるノウハウ本ではなく、高品質の文芸書を読むべき理由です。
それでも合点がいかないあなた。
これだけは覚えておいて欲しい。
あなたの人生を、他人に肯定させてはいけない。
それを期待すれば、必ず人生に裏切られます。
落ち込んだり、自信を無くしたり、イライラするのは誰しものこと。
だからこそ、つまらない嫉妬や嫌がらせで、ただでさえつまらない人生を、もっとつまらなくするのは勿体ない、と私は思うのです。
*
amazonのレビューで勝間本の悪口をせっせと書いている人も、本当にやっつけたいと思うなら、無関心でいればいいのにね。
本を出しても、し~~~ん( ̄- ̄)
ブログ書いても、ポカ~~ン ( ゚д゚)
勝間氏には、これが一番コタえますよ。
一つ星だろうが、二つ星だろうが、せっせと書き込みしてカスタマーレビューの数を増やせば、一般人は「勝間氏は注目度の高い文化人」と再認識するだけ。
本の批判をしながら、新著のネタ振って、どうすんですか?
シカト(無視)。
これこそ、力なき庶民の最大の武器です。
なんだかんだで擦り寄るから、勝間さんにバカにされるのよ。
実力で敵わないなら、せめて誇り高きシーシュポスでいなさいよ、と私は思います。
-美輪明宏風-
書籍の紹介(新潮文庫・清水徹訳)
神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。―本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。
『シーシュポスの神話』自体はわずか6ページ。すぐに読めてしまいます。
清水徹さんのクラシックな翻訳も素晴らしい。
「まじめの罠」とは、何かに対してまじめに努力した結果、自分や社会を悪い方向に導いてしまうリスクを指す。
そして、いま、日本社会全体がこの罠にハマっていると考えると、いろいろな謎を解くことができる。あなたは、この罠にハマっていませんか? 「究極の優等生」として悩みながら働いてきた著者が渾身の力を込めて綴る、「脱・まじめ」の上手な方法と、そのご利益。
アンチに叩かれながら、むくむくと力をつけてゆく逞しい勝間女史。
でも「まじめにコツコツ頑張る気持ち」は忘れて欲しくないし(特に子供には)、同じ言うなら、「努力しても報われないこともある」「でも、現実を受け入れて、自分にイエスという方法」ぐらいにしてあげた方が分かりやすいかも。
ナチスによる強制収容所の体験として全世界に衝撃を与えた『夜と霧』の著者が、その体験と思索を踏まえてすべての悩める人に「人生を肯定する」ことを訴えた感動の講演集。
「生きる意味があるのか」と問うのは、はじめから間違っているのです──という言葉に共感。
何にでも意味を持たせようとするから、しんどくなるのでは?
無意味、無価値のどこが悪いのか。
「生きる」って、そういうことじゃなかろう、と考えさせてくれる本。
お疲れの方におすすめ。
シーシュポスのギャラリー
古今のアーティストに好まれたシーシュポスのモチーフ。
勝間か、リカか。人生は迷いと後悔の繰り返し
初稿 2011年11月20日
※ 上記の本が話題になった時、『勝間和代 VS 香山リカ』がちょっとしたブームになりました。以下はそれに関連する記事です。
(上記に続いて) 今も続いている『勝間和代 VS 香山リカ』に関する、いろんなコンテンツに目を通した。
もちろん、この論争が、出版社や当事者サイドの話題作りであるのは一目瞭然で、ネット民もそれを知った上で、自身のブログのネタにしている感じ。真剣にジャッジしている人など少数だと思う。
私はどちらの言い分も分かるし、友だちが挫折して落ち込んでいたら、香山氏のように慰め、自分では何一つ努力せず、口ばっかりで、文句たらたらの人がいたら、勝間氏のように喝破するだろう。
要は、相手の人柄やシチュエーションによって、処方箋も異なるということ。
医療でも、痛みの種類によって、温罨法と冷罨法が存在するのと同じだ。
たちが悪いのは、「絶対的に温罨法が正しい」と信じて疑わないことで、主張そのものではない。
それにしても、どうしてバブル世代の申し子身たいな勝間氏のイケイケ理論と、香山氏の癒やし理論を対決させるのだろう。
多くの人は、その真ん中で彷徨っているのに。
仕事でも、勉強でも、勝間氏のように「努力しなきゃ、頑張らなきゃ」と思う。
でも、心が疲れた時には、香山氏みたいに「よしよし」して欲しい。
要はバランスの問題で、『誰の言い分が正しい』という話ではないんですよね。
ゲーテも言ってるじゃない。
人間は、生きている限り、迷うものだ。
勝間氏はどうか知らないけれど、人間って、どの道を通っても、どこかで過ち、どこかで悔やむものだと思う。
あれも正しい、こうかもしれない、答えの見えない道を探して、探して、歩き続けるのが人生の本質であって、たとえ今、これぞと思う答えに行き当たっても、状況が変われば、「やっぱり、これじゃない」と思うものではないか。
そもそも、30代、40代で、「これだ!」という正答に辿り着けると思うこと自体が幻想というか、おこがましいというか。
誰も正しい生き方など教えてくれないから、この世の中を正しく識ろう、人生を楽しもうという探究心も湧いてくるだけで、どこかに辿り着けたなら、誰の人生もそこで終わってしまうのです。
勝間氏も、香山氏も、主張するのが仕事だから、著書でも、ブログでも、あのように言い切っておられるけども、ミドルエイジの悩みって、1か0かで割り切れるほど単純ではないし、今日は1で納得しても、明日には心が揺れるのが凡夫というもの。悩みから解脱することが叶ったら、その人はもう、人間ではなく、釈迦か仙人のレベルです。
辛い時代だけども、我々、凡夫は、それでもコツコツ、やっていくしかない。
大したことは出来なくても、「いい加減なヤツ」とは思われたくないでしょ?
【心のコラム】 どうすれば幸せになれますか?
追記 2018年5月10日
アルベール・カミュの名著 『シーシュポスの神話』は、文庫本にして、約6ページほどのコラムである。
新潮文庫では、「不条理な論証」「不条理な人間」「不条理な創造」といった、不条理シリーズの末尾に掲載されている為、気の短い人なら、本編の『シーシュポスの神話』に辿り着くまでに投げ出してしまうに違いない。(活字も小さいし)
不条理! 不条理! 不条理!
宗教も、哲学も、スピリチュアルも、突き詰めれば、「物事が思う通りにならないんですけど、どうしたら幸せになれますか?」という“怨念(ルサンチマン)の闘い”の一言に尽きる。
チルチルミチルのように幸せを願うだけならまだいいが、中には怨念が高じて、執拗に相手を攻撃したり、逆に、我が身を呪ったり、極端な方向に走るケースも少なくない。
それを効率よく、なおかつスマートに克服しようとするのが、自己啓発。
さらに高次な視点から、悟りを開こうとしているのが宗教。
念じるだけで物事をどうにかしようと試みるのがスピリチュアル。
有料セミナーも、金黒曜石の数珠も、パワーストーンも、根っこは同じ。
自分でどうにも物事を変えられない人に、道筋を示す振りをして、現実的な解決策は本人に丸投げ。
上手くゆけば、教祖のおかげ。
失敗すれば、本人のせい。
で、
教え導く方は、痛くも痒くもない、というのが実情のようである。
*
それで古今東西、ギリシャ悲劇の時代から、『自分で納得すること』――ニーチェに言わせれば『これが生だったのか。よし、それなら、もう一度!』の思想が、究極の解決策として語られてきたわけだが、中には自分の現状にどうにも納得がゆかず、「どんなことをしても有名になる!」「絶対に玉の輿!」みたいな人も少なくない。
そして、現状を変えるべく……というよりは、見た目、輝いてそうな人から、光のおこぼれをもらう為、何万、何十万の入会金を支払って、いかがわしい○○の門戸を叩いたりするのだが、まあ、どちらが人間として正直かといえば、やはり後者だろう。
なぜって、家は貧乏、親は大病、働けど、働けど、稼ぎはお上に吸い上げられて、夢も希望もありはせぬ――みたいな人が、腹の底から『これでよし』と思えたら、それこそ悲劇だからだ。
不満、疑問、反発の気持ちがあればこそ、私たちは現状打破に向かって努力するし、社会にエクスキューズする勇気も湧く。
世の中、どこを見回しても、物わかりのいい善人ばかりなら、世の支配者は笑いが止まらないし、変革の気運も滞ってしまうだろう。
無私無欲の境地も分かるが、怒りこそ行動の原動力であり、満たされぬ心こそ創造の源だ。
そういう意味で、『今の自分に納得する』ということは、一種のまやかしであり、心の麻薬でもある。
私たちは、もっと怒っていいし、苦しんでいい。
それだけのパワーがあればこそ、問題を問題として認識し、解決に向けて、動き続けることができるのである。
*
思うに、『これが生だったのか。よし、それなら、もう一度!』という考え方は、『もう十分に戦い、傷ついた人々』の為のものであって、まだ戦いもしない怠け者に向けられた言葉ではない。
もし、怠け者が「これでよし!」と自分に頷いて、一切の努力を放棄するとしたら、それは「開き直り」であって、悟りではないからだ。
傷だらけの戦士が空を仰ぎ、「オレはもう、十分に戦った。オレの努力は、天が知る、地が知る、己が知る。(他人は知らんけど) もう何も思い残すことはない」と頷く気持ちと、「どうせ、オレは何をやってもあかんのや。どうでもええのや」と開き直る気持ちを一緒にしてはいけない。
『心からの納得』は、戦って、戦って、戦い抜いた後に、ようやく訪れるものだ。
中途半端に――あるいはラクに――自分に納得したい人たちが、教祖に貢いで、褒めてもらって、何かを得たような気分になるのとは訳が違う。
そう考えると、真の自己充足は、本当に戦ったことのある人にしか分からない、究極の魂のご馳走であり、世の名だたる哲学者や宗教家が最後に行き着く所以でもある。
もっとも、現実社会の問題は、個人が悟りを得たところで一向に解決せず、飢えて、虐げられる限り、苦しみもまた続くのだが。
それでも、戦って、戦って、戦い抜いて、悟りを得るべき理由は、如何に?
誰がどのように考えても、いつの時代に生まれても、釈迦も、イエス・キリストも、ギリシャの哲学者も、ニーチェも、カミュも、結局、『そうとしか言いようがない』点に、人間の英知と社会の矛盾を感じずにいられないのである。