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『これが生だったのか。それなら、よしもう一度!』 自己肯定と魂の幸福

たとえば、太陽は海の向こうに沈んでも、また昇って輝きたいと願う。それは太陽である自分自身を悦んでいるからだ。それと同じように、君もこの人生、同じ自分を何度生きてもいいと思えるようになれば、心の底から幸福を感じるようになる。

第1章 運命と意

本作の主人公、ヴァルター・フォーゲルは子供の頃、突然、誰とも話さなくなり、「場面緘黙症」「難読症」と診断され、普通の学校に通えなくなります。その後、優秀なスピーチセラピスト、オステルハウト先生の指導により、幾多の問題を克服しますが、学校で待ち受けていたのは、彼のしゃべり方を揶揄するイジメでした。

父親のグンターは、「死にたい」と嘆く息子をどう力付ければいいのか、カールスルーエの祖母にします。
祖母が見せたのは、『ツァラトゥストラ』の一節。
大切なのは、言葉の問題を正常に直すことではなく、「これが生だったのか、よし、それならもう一度!」と心の底から思えることだと説きます。

ニーチェの『ツァラトゥストラ』の最終章に登場する永劫回帰の思想は、永遠の肯定と生の悦びを高らかに謳った名言です。

目次 🏃

自分に『よし!』と言えますか

地上に生きることは、かいのあることだ。ツァラトゥストラと共にした一日、一つの祭りが、わたしに地を愛することを教えたのだ。
『これが――生だったのか』
わたしは死に向かって言おう。『よし! それならもう一度』と。

ツァラトゥストラ  フリードリヒ・ニーチェ

人間がこの世で生きていく上で、一番辛く感じるのは『劣等感』ではないでしょうか。

周りを見回せば、自分より優れた人がたくさんいます。

頑張っても、頑張っても、報われず、容姿でも、能力でも、とても適わないと打ちのめされることもあるでしょう。

そして、それをこじらせれば、怒りや憎しみに取り憑かれて、他人を攻撃したり、反対に、自分自身を傷つけ、追い込んだり。どれほど努力しても、その人を幸せにすることはありません。

主人公の父親であるグンターも、「今、言葉の問題を直さなければ、将来落ちこぼれて、悲惨な人生になる」と考え、あちこちの医療機関を訪ね歩いたり、スピーチセラピーに通ったり。様々な策を講じて、息子の言葉の問題を改善しようと努めます。

しかし、その努力が逆に息子を苦しめ、自死を考えるようになります。

そんな親子の苦悩を知った祖母が教えるのが『永劫回帰』に謳われる自己肯定の気持ちです。

「この人生をもう一度生きてもいい(永劫回帰)」と思えるほどに、自分自身と生きることを愛する。

それが本当の意味で問題を解決する=自己超克だと、グンターは理解します。

しかし、幼い息子に永劫回帰の思想など、分かるはずもありません。

そこで『永遠の環』= リング という一つの比喩を用いて、永劫回帰の精神を教えます。

それが後々、『海のリング』= 二重の円環ダムで仕切られた干拓型海洋都市のアイデアに繋がっていきます。

「人生に正解はない」と言われますが、自己肯定できる人生と、できない人生の間には、大きな開きがあります。

たとえ言葉に問題があろうと、容姿や能力で他人より劣ろうと、自分で自分に『よし!』と言える気持ち。なおかつ、「もう一度、生きてもいいな」と思えるほど、自分の人生を愛することができれば、それが魂の幸福ではないでしょうか。

第四章 酔歌より ~ツァラトゥストラ

文中での『ツァラトゥストラ』の引用はこちらです。

永劫回帰にもいろんな解釈がありますが、「これが生だったのか、それなら、よしもう一度」の一言に尽きると思います。
ツァラトゥストラも、最初は暗いトーンで始まって、最後に、この一言に辿り着く過程が素晴らしいんですよね。

ちなみに当該個所の文章は次の通りです。

第四章 酔歌
そのとき、この長い驚くべき日のうちで最も驚くべきことが起こった。最も醜い人間が、もう一度、そしてこれを最後として、喉を鳴らし、鼻息をしはじめたのだ。そして、ついにかれがそれをことばにして言ったとき、見よ、かれの口からは一つの問いが、まろやかに、清くおどり出た。一つのよい、深い、明るく澄んだ問いであった。それは耳を傾けたすべての者の心を感動させた。
「わたしの友なるすべての人よ」と、最も醜い人は要った。
「あなたがたはどう思うか。きょうこの一日に出会ったために──わたしははじめて満足した。今までの全生涯にたいして。 だが、それだけを証言したのでは、まだ十分ではない。地上に生きることは、かいのあることだ。ツァラトゥストラと共にした一日、一つの祭りが、わたしに地を愛することを教えたのだ。『これが──生だったのか』わたしは死に向かって言おう。『よし、それならもう一度!』と。

ツァラトゥストラ(手塚富雄・訳)

第四章 酔歌 そのとき、この長い驚くべき日のうちで最も驚くべきことが起こった。最も醜い人間が、もう一度、そしてこれを最後として、喉を鳴らし、鼻息をしはじめたのだ。そして、ついにかれがそれをことばにして言ったとき、見よ、かれの口からは一つの問いが、まろやかに、清くおどり出た。一つのよい、深い、明るく澄んだ問いであった。それは耳を傾けたすべての者の心を感動させた。 「わたしの友なるすべての人よ」と、最も醜い人は要った。「あなたがたはどう思うか。きょうこの一日に出会ったために──わたしははじめて満足した。今までの全生涯にたいして。 だが、それだけを証言したのでは、まだ十分ではない。地上に生きることは、かいのあることだ。ツァラトゥストラと共にした一日、一つの祭りが、わたしに地を愛することを教えたのだ。『これが──生だったのか』わたしは死に向かって言おう。『よし、それならもう一度!』と。

参考になる記事

【小説】 魂の幸福とは、自分自身を肯定し、生きることを悦ぶ気持ち

言葉の問題を抱え、クラスメートからも苛められる息子が「死にたい」と悲しみ、心を痛めた父親のグンターがカールスルーエに暮らす祖母(グンターの母親)に相談する場面です。
図書館司書で、文学にも造詣の深い祖母が語り聞かせたのが、『ツァラトゥストラ』です。

心に効く言葉

個人的に好きなのは、次の二箇所です。
祖母からグンターへ。

「僕はどう力付ければいい?」
「この本に書いてあることを教えてあげればどうかしら。魂の幸福とは、自身を肯定し、生きることを悦ぶ気持ちだと」
「自身を肯定し、生きることを悦ぶ……」
「あなたは以前からあの子の言葉の問題を直そう、直さなければ大変なことになる、と躍起になっている。その気持ちは理解できるし、訓練次第で改善するのも本当でしょう。でも、直らないからといって、あの子の価値が半減するわけじゃない。肝心なのは、受け入れること。言葉に不自由しようが、周りに誤解されようが、『それでよし!』と思える気持ちでしょう」

第一章 運命と意思

グンターからヴァルターへ。
「ewig wiederkehren(永劫回帰)」という言葉を教えようとしますが、幼いヴァルターには難しすぎて、「Der Ring der Ewigkeit(永遠の環)」と言い換えます。

「だから、ヴァルター。皆と違っても、上手く出来なくても、君が心の底から『これが生だったのか。よし、それならもう一度!』と思えたら、それが本当の幸福だ。辛いことがあっても、これが自分の人生だと胸を張って生きられるようになる」
「もう一度、何をするの?」
「生きることだ。ewig wiederkehren(永劫回帰)といって、同じ自分、同じ人生を、何度生きてもいいと思えるくらい、この生を愛して悦ぶ気持ちだよ」

第一章 運命と意思

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上記のパートは、『第1章 運命と意思』に掲載されています。
ストアで立ち読みもできますので、興味のある方はお気軽に覗いてみて下さい。

誰かにこっそり教えたい 👂
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