バレエ『若者と死』は、死に魅入られる若者と死に誘う美女を、貧しい屋根裏部屋を舞台に描いた、ローラン・プティの代表作です。
「とある屋根裏部屋、若い男が独りで待っている。そこに乙女が入ってくる。彼女こそが彼の不幸の原因なのだ。彼は身を投げ出す。彼女は彼を押し戻す。彼は哀願する。彼女は彼を侮辱し、嘲笑し、その場から立ち去る。彼は首を吊る」
映画『ホワイトナイツ』の冒頭でミハイル・バニリシコフが演じて、一躍有名になりました。
バリシニコフの圧倒的な技巧と死の天使の官能的な魅力が胸に迫る、モダン・バレエの傑作です。
Le Jeune Homme et la Mort (若者と死) - Mikhail Baryshnikov and Florence Faure
【作品紹介】 バレエ『若者と死』について
ジャン・コクトーの原詩
詩人であり、劇作家でもあるジャン・コクトーが自ら台本を書き、フランスを代表する振付家ローラン・プティが舞台化したこの作品は、1946年にパリで初演された。
音楽は、ヨハン・セバスチャン・バッハの『パッサカリアとフーガ』。
この作品は初演から40年近くたって『ホワイトナイツ』で取り上げられたことから、近年、再び注目を浴び、パトリック・デュポン、ニコラ・ル・リッシュをはじめ、日本からは熊川哲也氏がダーシー・バッセルと踊ってDVD化している。
こちらが台本となったコクトーの詩。
そこに乙女が入ってくる。彼女こそが彼の不幸の原因なのだ。
彼は身を投げ出す。彼女は彼を押し戻す。彼は哀願する。
彼女は彼を侮辱し、嘲笑し、その場から立ち去る。彼は首を吊る。
部屋が消えていく。吊られている身体のみが残る。
屋根を伝って『死』が舞踏服で現れる。
仮面を外すとそれはあの乙女である。
そして、犠牲者の顔に仮面を被せる。
二人は一緒に屋根の向こうに歩み去る。
ジャン・コクトー
『ダンス・マガジン』の解説より
こちらは、別冊ダンスマガジン『バレエって、何?』に掲載されていた解説。
詩人であり劇作家でもあるジャン・コクトーが自らの着想に従って台本を書き、若きローラン・プティが振り付けを担当して、1946年、パリで初演された。青年役はジャン・パビレが演じている。音楽は、スペインの古代舞曲をもとにヨハン・セバスチャン・バッハが作曲した『パッサカリアとフーガ』で、バッハの重厚な旋律が、この作品の幻想的かつ厳粛な雰囲気を高めている。
幕が上がると、そこは天井裏のアトリエ、部屋にはテーブルがひとつと椅子が数脚、梁からは何故か絞首台のように輪差のついたロープがつり下がっている。上手には鉄製のベッドがあり、貧しい画家の青年が横たわって煙草をふかしている。上半身は裸で、ズボンは絵の具で汚れ、靴下もはいていない。青年はおもむろに起き上がり、いわれない焦燥感に身をさいなまされるかのように激しく踊り始める。
ドアが開き、黒い手袋をした若い娘が冷ややかな表情で部屋に入ってくる。青年と娘は見つめあい、手をさしのべあい、一度は互いにいだきあうが、不意に娘は青年を突き飛ばし、そのうえ足蹴にする。青年はみじめに床にころがり、踏みつけられて侮辱されるが、それでも娘の後を追わずにいられない。娘は絞首台のロープを自らの手で確かめると、青年の顔をむりやりロープの方へ向けさせる。
娘は青年をひとり残して部屋から出ていく。青年は激昂して椅子を振り回し、テーブルを引きずり倒し、まるで狂気のように踊りつづける。
ふとロープを見上げると、吸い付けられたように目を離すことができない。ついにタナトスの誘惑に負けた青年は、ゆっくりと絞首台に近づき、ロープの輪差に首をくぐらせ、自ら死を選ぶ。
最終場面。いつしか部屋の壁が取り払われ、絞首台と画家の死体がパリの夜景を背景にして浮かび上がる。そこへ先ほどの若い娘が、赤い頭巾と赤いマントをまとい、髑髏の仮面をつけて登場する。彼女は死の女神だったのだ。彼女の合図で青年は首からロープをはずし、静かな床に降り立つ。彼女は髑髏の仮面を脱ぎ、あたかも祝福するよかのようにそれを青年の顔にかぶせ、二人はおごそかに舞台を退場する。
この作品は、初演から40年近くたってから、スーパースター、ミハイル・バリシニコフが映画『ホワイトナイツ』の冒頭シーンで踊り、バレエ・ファン以外にまで有名になった。もうひとりのスーパースター、パトリック・デュポンも青年役を踊っている。
時代を超えて人々の心に訴えかける力を持っており、もはや古典的名作と呼びうるかもしれない
(海野敏)
私が所持している『バレエって、何?』は1993年発行の初版本になります。
こちらは『ぴあ』から発行された『バレエワンダーランド』のムック本より。なんと表紙は萩尾望都先生です。
若い画家のどん底の苦悩、けだるさ、いらついた様子が、歩き回ったり時計の音を聴いたりというようなマイムでなにげなく表現され、それが徐々に踊りに映っていく場面、若い娘が画家を冷たくあしらう場面などの、日常を感じさせる動きと、踊りがうまく溶け合った振付がシンプルでわかりやすく、巧み。三回繰り返されるバッハの『パッカサリアとフーガ』が悲劇的なタッチを強めている。
ステージガイダンス
これは踊りのテクニックではなく、表現力がものをいう作品。さりげない動作からさまざまな感情が雄弁に語られるところを味わいたい。
この役をこの人で見たい!
画家 → 踊りの「間を取る」ことにかけて抜群のセンスをもつミハイル・バリシニコフ。映画で見てもそれが作品になんともいえない緊張感をみなぎらせている。
娘 → ローダン・プティ作品なら何を踊っても感動的なドミニク・カルフーニ。
初演:1946年 パリ、シャンゼリゼ劇場にて (シャンゼリゼ・バレエ)
構成:全一幕 第二場
ダンス映画『ホワイトナイツ』名場面
こちらは、鬱屈した思いを吐き出すようなミーシャのソロ。
令和のバレエファンには想像もつかないと思いますが、ミハイル・バニシリコフは、米ソ冷戦下、ソ連から亡命したこともあり、存在自体がセンセーショナルでした。ハリウッド好みの美しい容姿に圧倒的な技工、全身から漂う色気。令和の有名ダンサーは草食系が多いですが、ミーシャは非常に官能的で、自分の見せ方を知っている人です。有吉京子のバレエ漫画『SWAN』のレオンもバニシリコフがモデルではないかと思います。ドン・キホーテのバジルが得意で、大きくジャンプするシーンなど、バニシリコフっぽい。
当時、ソ連から亡命した有名なダンサーに、ルドルフ・ヌレエフ、ナタリア・マカロワ、アレクサンドル・ゴドノフなどがいます。
亡命がどれほど命がけの行為か、ヌレエフの半生を描いた映画『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』(YouTube予告編)を見れば分かります。よく生きてたな、とつくづく。
こちらはグレゴリー・ハインズとのタップダンス。
こういうパフォーンスを見て、つくづく思うのは、やはりアカデミックに鍛えられたダンサーは、頭の先からつま先まで神経が行き届いて、ポーズの一つ一つが完成された「絵」であるということ。映画『ウェストサイド・ストーリー』のレビューでも書いていますが、いいダンサーはつま先を見れば分かります。
共演のグレゴリー・ヘインズ氏のダンスも素敵ですが、やはりミーシャに目を奪われますね。
大ヒットしたライオネル・リッチーの「say you, say me」。
その昔、『夜のヒットスタジオ』に特別出演しましたが、口パクがまる分かりでドッチラケでした。
(BGMに合わせて口だけ動かす)
噂によると、世界的大物に『本物の声』を出してもらう為には、もう何百万か積まないといけないそうですよ(笑)
『ホワイトナイツ』に関するCD・DVD
映画『ホワイトナイツ』
ソ連からアメリカへ亡命した著名なバレエダンサー、ニコライ。ある日、彼が搭乗していた旅客機がシベリアに緊急着陸したため、KGBに見つかり軟禁されてしまう。
監視役にレイモンドという男を付けられるが、彼もまたニコライとは逆にソ連へ亡命したタップダンサーだったのだ。
芸術の自由を得るために母国を捨てた男と、自国の政治に反発して芸の桧舞台を捨てた男。
反目しあった二人だが、やがてダンスを通じ心を通わせて行く。そして、再び「自由」を求め密かに脱出の計画をするが…。
バニシリコフの亡命劇を彷彿とさせるような80年代の話題作。
ローラン・プティの夕べ
本場の舞台を楽しむなら、「ローラン・プティの夕べ」で名高いニコラ・ル・リッシュの舞台がおすすめ。
バッハ オルガン名曲集
【amazonレビューより】
フランスの大女流オルガニスト マリ-=クレ-ルアランによるバッハ オルガン作品全集2回目(1978年~80年録音)からの特に有名な曲が抜粋されています。 アランは2O世紀の頂点に立つ名パイプオルガニストで現代彼女の右に出る人はいないといわれるほどです。特に彼女はバッハ作品に多大な献身をしていてバッハ最高のオ-ソリティ-と言われてます。
【コラム】 死に魅入られる若者
映画『ホワイトナイツ』が公開された時、私は高校生だったので、まだバレエにも興味がなく、ラジオから繰り返し流れるライオネル・リッチーの主題歌「say you, say me」をぼんやり聞き流すのみだった。
当時、「ミハイル・バリシニコフ」が世界的にも有名なダンサーで、彼が旧ソ連からアメリカに亡命した時には芸能ニュースがメインの婦人週刊誌でもちょっと話題になるほど衝撃的ではあったようだが、バレエに興味の無かった私にとっては「ルックスのいい人気者がハリウッド入りした」ぐらいの印象しかなくて、「ミーシャ(愛称)」をきっかけにバレエの扉を叩いてみよう――という気持ちにはついにならなかったのである。
しかしながら、それから十数年が経ち、ようやくバレエの素晴らしさに目覚めた頃、準夜勤務明けで眠れぬ私の目にそれよりはるかに衝撃的な映像が飛び込んできた。
『若者と死』。
名作「ホワイトナイツ」のプロローグを飾るローラン・プティの傑作である。
それは深夜番組の枠でたまたま放送されたのだが、眠いような、眠りたくないような、鬱々とした気怠さの中で、ミーシャの死の幻想に取り憑かれた煩悶の表情は、まるで自分自身の破滅を予告しているように暗く、恐ろしく、またこれほど生々しく訴えかけるものもなかった。
内に閉ざされた狂気と絶望、失意、哀しみ、孤独といったものを踊りで表現するとしたら、まさにこれ以上のものはないと思うくらい「完全な具現化」だった。
「若者」と「死」。
それは一見相反するような位置にあるが、これほど強烈に背中合わせに結びついているものもない。
「若者」にとって「死」は遠い幻想のようなものだが、だからこそ、その中に安らぎを求め、身を投げ入れてみたい衝動にも駆られる。
日々、猛り狂うような情熱を持て余している魂には、「死」こそが唯一の慰めなのだ。
ここに登場する黄色い服の女は、彼の思い人であり、彼に残されたただ一つの希望でもある。
彼はそれにすがり、情けを得ようとするが、女は冷たく彼をあしらい、死を選ぶことを示唆する。
若者にとって死は本望ではない。にもかかわらず、その誘惑に抱き込まれるように絞首台に上がってしまう。
彼には生命の尊さなどどうでもいい。死によって狂える魂から解き放たれば、それ以上の幸福はないのだ。
若者が死んだら、人々は「なぜ?」と問いかけるだろう。
でも、これほど分かりやすい話もないのである。
なぜって、若者は苦悩を切り開くだけの知恵も力もない。
あるのは肥大しきった自我と収まりのつかない感情だけである。
それを断ち切るのに、努力や理想論がどれほど役に立つというのか。
単純に道を求めるなら「死」こそが唯一の救いだ。
そこに何のためらいもなく安らぎを求める気持ちに偽りはない。
死の女神に髑髏の仮面を付けられ、あの世に導かれていく時の安らぎに満ちた表情が全てを物語っている。
若者が死の女神に祝福されて、都会の無機的な眺めの向こうに清々しく明けた光の彼方へ旅立って行く時、私たちは恐怖よりもその慈悲深さを思わずにいないのである。
初稿 2010年5月1日