カジミェシ・スモーレンの序文より ~強制収容所について
カジミエシュ・スモーレン(1920年4月19日~2012年1月27日)は、大事に世界大戦中のアウシュヴィッツ強制収容所のポーランド政治犯で、戦後は、アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館の館長として尽力された方です。
公式サイトのプロフィールより。
https://www.auschwitz.org/en/museum/news/kazimierz-smolen-1920-2012,890.html
アウシュビッツに関しては、下記リンクにもまとめています。
映画『シンドラーのリスト』とオフィシエンチム戦争博物館(アウシュビッツ収容所)の記録
以下の書籍は、私がサイト運営して間もない頃、サイトの記事を御覧になった関係者がわざわざ当方まで送って下さったものです。
参考の為、掲載しておきます。
ポーランド国立オシフィエンチム博物館
カジミェシ・スモーレンの序文より
(グリーンピース出版会 東京 1986)
ナチスによる大量虐殺の最も巨大なセンターはオシフィエンチム・ブジェンカ(アウシュビッツ・ビルケナウ)に作られた収容所である。ここではヨーロッパ全土から連行された約400万人が殺されている。オシフィエンチムでは、さまざまな政治的思想家や宗教聖職者の人々が死に、レジスタンスたち、強制移住させられた町や村の人々が死に、ソビエト人の捕虜や一般市民、さらにユダヤ人、ジプシー、そして男女、子供たちと、24カ国の人々が死んだ。
この収容所の建設構想は、ポーランド人で充満した刑務所の状態を解消する目的で1939年末には生まれていた。これはシレジア地方のポーランド系住民の大量逮捕計画と直接結びつけられていた。オシフィエンチム収容所の建設命令は、1940年4月27日にSS(ナチス親衛隊)司令官ハインリッヒ・ヒムラーによって下され、所長に前ザクセンハウゼン収容所長ルドルフ・ヘスが任命された。そこは、高圧電流を通した二重の有刺鉄線と、SS隊員が四十六時中任務する監視塔によって囲まれていたのである。
・・《中略》・・
収容所に送られた人たちは囚人台帳に登録された。つまり氏名生年月日を記載され、番号が与えられたのである。収監ナンバーが囚人にとって唯一の身分証明であり、人間としての人格は番号に取って代わった。1940年の冬から1943年まで、囚人たちは情報部の写真室で3ポーズの写真を撮られていた。やがてこの写真は、左腕に囚人番号をイレズミされることに代えられた。これは囚人の逃亡阻止と脱走者を捕えた際の身分確認を容易にするためである。
・・《中略》・・
オシフィエンチム地域の湿度の高い気候と、極度に不衛生な生活環境と飢え、加えて寒さをふせげず洗濯もできない着たままの服、そしてネズミと虫は多くの囚人を死に至らせる伝染病の原因になっていた。
・・《中略》・・
どのような悪天候でも囚人達は収容所の通路に追い出された。ブジェジンカでは女囚たちが身を洗うために、少しでも水を手に入れようと、水たまりまで利用していた。
朝食はコーヒーとは名ばかりの1/2リットルの苦い液体だった。
この“朝食”が終わると囚人達は点呼のために広場に整列し、数分後には五人一組で12時間労働に向かった。
この労役は休憩も無く、いつも走らされて、警棒を握ったSS隊員やカポー(囚人頭)の監督のもとに行われた。就労時間は作業中に殺された囚人の数で計られ、作業が中断できるのは、腐った野菜で作ったスープを飲む時の1回だけであった。囚人たちの作業ペースは、頻繁に殴りつける警棒とムチによって早められた。さらに苦痛を重ねたことは、泥地や掘り返した地面を歩きにくくする木靴であった。
労働隊の収容所への帰途は、殺されたり、またスコップと警棒で負傷した囚人たちが、引きずられたり担架や手押し車に乗せられていた。今日、悲運の仲間を苦労しながら運んだ者は、明日は自分の“最後の日”になるかもしれないと思っていた。しかしその時が来れば、仲間の誰かが連れ帰ってくれることも分かっていた。それは点呼のためであり、生死を問わず全員が帰らなくてはならなかったからだ。何故なら、収容所の常態として囚人と名簿を一致させなければならないからである。
夕刻の点呼は数10分、時には数時間も続いた。点呼は囚人たちが直立、時には屈んで受けていた。
女性収容所では、たびたび懲罰の点呼が行われた。やり方は、女囚たちの両手を上げさせたまま地面にひざまずかせるものだった。最も長時間の点呼と記録されたものに、囚人一人の脱走の仕返しとして、1940年7月6日オシフィエンチムで行われた約19時間というものもある。
点呼が終了してから囚人たちは、夕食として300グラムのパンと30グラムのマーガリンと薬草の飲み物が与えられた。1日分の食事の熱量は1300~1700カロリーにすぎなかった。
・・《中略》・・
労働と飢えが、囚人達の極度な衰弱の原因になっていた。身体の衰弱と同時に精神も疲弊して、極端に冷淡になり周囲の事柄に無感覚になった。
囚人たちは常に脅迫されている雰囲気の中で生きていた。わずかな休憩でさえ、警棒や銃の台尻で殴打されて中断された。夜中でさえ、恐怖のあまり自殺を決め、有刺鉄線に身を投げる囚人に向けた銃撃音で起こされた。
SS隊員はグループ責任制を採用し、組織的な脱走には仕返しとして囚人仲間の10ないし20人の餓死刑や絞首刑が科された。脱走計画を持つとみなされた囚人たちや、それに失敗した囚人たちは、点呼の際に絞首刑か銃殺刑に処された。銃殺の執行は主にオシフィエンチム収容所の第11号ブロック中庭の”死の壁”で行われた。ここでは、約20,000人が殺されている。
・・《中略》・・
SSの医師達は、何の検査も行わずに新たに到着した人々の70~80%を平均を死に追いやった。選別作業中のSS隊員たちは囚人グループを囲み、収容所に入る前にシャワー消毒を行うといいながらガス室へ誘導した。ブジェジンカ(ビルケナウ)の各ガス室は一度に1,500~2,000人を入れることができた。
ガス室の気密扉を閉じた後、SS隊員は特別に作られた天井の穴から毒ガス・チクロンBを投入した。約15~20分の間にガス室に入れられた人間は全て窒息して死んだ。窒息させられた人々の死体は4カ所の死体焼却所か野積みで焼かれた。灰は、付近の野原に撒かれたり池や川に捨てられた。
・・《中略》・・
ナチスは犯罪行為を容易にするため、死を宣告された人々にさえも新しい地域に定住させると欺いていた。そのため移住させられる人々は、自分の最も貴重な財産(所持品)を携行した。殺された人々の奪われた所持品は35カ所の棟の特別倉庫に収納された。それらの品は分類した後、SSやドイツ国防軍および一般市民用としてドイツ本国へ送られていた。
収奪を追求する上で、死体も対象外になり得なかった。溶かされた金歯をドイツの衛生局や銀行へ送り、殺された女性の髪を刈り取り、服地や寝具などに再生した。そして人間の灰すら肥料として供給された。
・・《中略》・・
オシフィエンチムの収容所は、単に連日数百数千人の人間が消えていった所というだけではない。収容所内では、生きるために人間の尊厳を守るための闘い、SSの犯罪を全世界に向けて告発するための闘いが続けられていた。その闘いは、囚人たちの“生”が収容所の扉によって閉じられた瞬間から開始された。
しかし、その闘いは表だって行うことができなかった。囚人達は、最少の犠牲で最大の効果をもたらす戦術を選ばなければならなかった。なぜなら、ナチスの緻密な絶滅システムは、あらゆる抵抗の兆しさえ見逃さず、容赦なく潰した。
これらの活動内容は、特に危険な状態にある囚人の命を助けること。医薬品の入手と治療、仲間同士人間としての尊厳の確認、神経のバランスを維持する等の助力が行われていた。
一方、ナチス犯罪の証拠を集め、それらを鉄条網の外へ密かに搬出する、他の囚人たちが罰せられない方法での脱走計画、そしてその組織化が行われたのである。
収容所から発する情報は、常に暗号化された隠し文にして外部に渡された。それらは衣服の中や特別に作られた“物”に隠して運び出された。それらは衣服の中や特別に作られた“物”に隠して運び出された。ナチスの犯罪を証明する文書は、土の中に埋められたことが多い。荒れ狂う暴虐手段と闘うためには、囚人同士の結束が何よりも必要だった。SSに対する共通の闘いに、政治的、社会的にも異なる様々な国籍の人々が、宗派も種族も超えて、参加していたのである。
・・《中略》・・
ナチスの緒戦の勝利は彼らを厚顔無恥にさせ犯罪行為を無感覚にさせた。しかし勝ち戦から敗北へ流れが変わると、ナチスは犯罪の痕跡を消滅させる作業を始めた。その実例として、資料の廃棄や収容等の破壊、収容所で殺された人々の財産、所持品や医療などの焼却、ガス室と死体焼却場の爆破などがある。
彼らは、彼ら自身が最も恐れる犯罪行為の目撃者であった囚人たちを、他の収容所へ移動させ始めた。最後の60,000人の囚人たちは数10キロ歩かされた後に無蓋の石炭貨物車でドイツへ送られた。その撤退の道は、殺された囚人たちの死体が累々と続いていた。
収容所は1945年1月27日、第1ウクライナ戦線のソビエト第60師団の兵士によって解放された。
・・《中略》・・
1947年7月2日、ポーランド議会は、元収容所の地域を「ポーランド国民と諸国民の殉難の記念碑として永遠に保存する」ことを決議し発布した。そして、ポーランド人民共和国の国家評議会は、ナチスに殺された人々にその名誉を称える第一級グルンヴァルド十字架を与えたのである。
(以上)
写真: https://de.wikipedia.org/wiki/Kazimierz_Smole%C5%84
【コラム】 アウシュヴィッツは過去の蛮行ではない
私も2002年~2004年にかけて、アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立戦争博物館を訪れた時は、何と恐ろしいことが行われていたのかと、人間の狂気の数々に眩暈がするほどの衝撃を覚えたものです。
と、同時に、今はそんな恐ろしい出来事があったなど、想像もつかないほど、平和で美しいポーランドの景色を目にして、「平和な時代に生まれて良かった。もう二度と、あんな恐ろしい出来事が起こりませんように」「人間はそこまで愚かではない」と思ったものですが、2022年2月24日のウクライナ侵攻によって、その願いも無残に打ち砕かれました。
どうせいつもの脅しだろうと高をくくっていたら(キーウの人々でさえ、ほんの数日前まで“まさか、この21世紀に・・”という思いだった)、本気で攻め込んできて、それも欧米の仲介で、程なく終わるだろうと期待していたら、泥沼の全面侵攻に陥って、今も続いています。いつ終わるのか、誰にも分かりません。
そして、21世紀にもかかわらず、占領地では恐ろしい人権侵害が続いていて、想像を絶するような蛮行が(露政府の容認の元)繰り返されています。
相手が、非文明国の半獣人なら、納得もいったでしょうが、つい先日まで、普通の一般市民として暮らしていた人達が、武器を与えられた途端、狂気の蛮族に変貌し、丸腰の一般市民を捕まえて、平然と手足を切り落としたり、生きたまま焼き殺したりしている。
第二次大戦下のユダヤ人迫害も、「ねつ造」を主張する人があり、「同じ人間がそんな恐ろしい事をするわけがない」と思いたいのかもしれませんが、それは現実だったのだと、改めて思い知らされた次第です。
寺山修司も、「戦争とは国家によって正当化される殺人 『死者の書』と述べていますが、本当にその通りで、人間というのは、国に承認されれば、ガス室でも、強制労働でも、平然とやるものなのです、残念ながら。そして、戦時下においては、それが英雄的行為とされ、まさに『人を一人殺せば人殺しだが、数千人殺せば英雄』という名言の世界。そこに理性も抑止力もなく、ただただ獣性があるだけです。
その獣性を制御する為に、教育があり、文化があり、法律があり、秩序ある人間社会を維持できるわけですが、武力……というよりは、それを容認する権力は、何千万人が懸命に築き上げてきたものを一夜で破壊し、良識ある市民を獣人に引きずり下ろすようです。
それが可能になるのも、個々の中に、そうした獣性が眠っているからで、もしかしたら、それを利用する為に、日頃から数千万の人民を飢えさせ、弑逆し、日常的な鬱憤、不満、怒り、妬みを、第二の兵器にするのかも知れません。
先日は、とうとう、私の居住国の首相が「冷戦後の束の間の平和は終わった。今は新たな戦前である」と宣言しました。
そして、その通りだと、私も思います。
自分たちは、たまたま平和な時代に青春時代を謳歌して、それが永遠に続くと、暢気に考えていただけなのだと。
ウクライナ侵攻も、一日も早く終わることを願っていますが、それも一時の気休めに過ぎず、また戦火の時代は襲ってくるのだと肝に銘じて、我々、一般市民は、自分に何が出来るか、少しでも考えるより他なさそうです。
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