『『ファウスト』(悲劇 第一部)』より。翻訳は手塚富雄。
女 |
ほんとうに、女はどうしてよいかわかりません。 独身のほうがいいとおっしゃる方は、なかなか考えを変えてくださらないし |
男 |
そりゃ、あなたがたの腕しだいですよ。 わたしなどの心得違いを思い知らしてくださるのは。 |
女 |
ねえ、はっきりとおっしゃらない? まだ、お見つけになりませんの? どこかに心がつながれてしまったのじゃありません? |
男 |
諺にいいますね。 自分のかまどと よい女房は、金と真珠の値打ちがあるって |
女 | それで、あなたはいつも旅ばかりしていらっしゃいますの。 |
男 |
いや、どうも勤めや商売に追い回されましてね。 土地によっては、発つのがずいぶんつらいこともあるんだ。 腰を落ち着けてしまうわけにもいかないのでね。 |
女 |
それはお元気なうちは、そうやって気ままに世界じゅうをお歩きになるのも結構ですわ。 けれど、おいおい お年を召して、やもめのまま、年々お墓に近くなってゆくなんて、誰しもあんまりぞっとしませんわねえ。 |
男 | そう。わたしも先にそれが見えているから、いやな気持ちになりますよ。 |
女 | ですから、いまのうちに、ようくお考えなさらなくては。 |
正解は、
参考: 『ツァラトゥストラ』で読み解く ニーチェの『永劫回帰』と『自己超克』
台詞だけ見たら、ほとんど現代小説ですね。
いつまでも独身でいたい男と、結婚したい女。
じわじわと包囲網が狭まって、女が暗に結婚を仄めかす展開がスリリングです。
ちなみに、『男』の正体は、悪魔メフィストフェレス。この世で至上の体験をさせる引き換えに、賢人ファウストの魂を買いました。
『女』は、ファウスト博士の恋人グレートフェンの乳母マルガレーテです。
執筆されたのは1770年代から1806年にかけて。
200年以上も前に書かれた作品にもかかわらず、男女の会話は、現代とほとんど変わりません。
追う、マルガレーテ。
逃げる、メフィストフェレス。
女性が遠回しに男に改心(結婚)を迫る手管も、現代の恋愛事情とまったく同じです。
いつまでも独身時代を謳歌したい男性にしてみたら、これこそ悪魔の囁きですね。
悪魔メフィストフェレスでさえ、恐れおののくほどに。
一方、マルガレーテの立場になれば、家事一筋、子守一筋に生きてきて、はたと気付けば、「自分の人生」というものが全く失われていた空しさや焦りもなんとなく分かります。
『ほんとうに、女はどうしてよいかわかりません』の一言に、女性の葛藤の全てが集約されています。
男性のゲーテがこの台詞を書き上げたのは、まさに作家の妙。
婦人公論賞を差し上げたいくらいです。
手塚富雄・訳の『ファウスト』は、第二部だけが廃刊となり、長年、ファンから復刊リクエストが寄せられていましたが、2019年に再発行され、現在はKindle版もリリースされています。『ツァラトゥストラ』で読み解く ニーチェの『永劫回帰』と『自己超克』でも知られるように、格調高い訳文で、昭和中期の翻訳とは思えないほどの読みやすさ。『カラマーゾフの兄弟』の江川卓・訳もそうですが、海外古典文学の双璧をなす翻訳です。
初稿: 2018年9月20日