映画『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』の魅力
作品の概要
恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ -The Fabulous Baker Boys (叶姉妹も大好きな「ファビュラス」は「すごい・素晴らしい」の意味)
主演 : ジェフ・ブリッジス(弟・ジャック)、ミシェル・ファイファー(スージー)、ボー・ヴリッジス(兄・フランク)
音楽 : デイヴ・グルーシン
結局、ビジネスチャンスもものにできず、陳腐なプライドにこだわるジャックを、スージーは弱虫となじり、二人も決別するが、それでも音楽を諦めきれないジャックは少しずつ前を向いて歩き始める……。
本作の見どころは、ミシェル・ファイファーの美しい歌声とセクシーなドレス姿だ。
本職顔負けの、ムーディーなヴォーカルに、幾多の作品でオマージュされた、「ピアノの上にのって歌う」パフォーマンスもセクシーの極致。
売れないアーティストの心情を描いた音楽映画ながら、全編に大人の色香が漂い、哀しくも、深く心に残る良作となっている。
映画史に残る名パフォーマンス。この後、「ホットショット」「CHICAGO」等で、ピアノの上に乗って歌うパフォーマンスが真似された。
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本作はデイヴ・グルーシンのサウンドトラックも素晴らしい。
売れない芸人の夢と悲哀
世界的なジャズ・ピアニストのデイブ・グルーシンは、いろんな場所で、「売れない芸人(ジャズミュージシャン)」の悲喜こもごもを目の当たりにしてきたのだろう。
実力はあるのに、なかなか運がめぐってこない奴。
運よく当たったけども、実力不足で、その後が続かない奴。
せっかくの運と才能に恵まれながら、自信過剰で破滅する奴。
現実を直視せず、夢みたいな成功物語を追い続ける奴。
同じ一流を志しても、功を立て、歴史に名を刻むのは、ほんの一握り。
それ以外はプロのステージにも上がれず、ゴミか泡雪みたいに消えていく。
中途半端にピアノの上手いサリエリみたいに。
1989年に封切られた『恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』も、売れない芸人の悲喜を描いた良作だ。
薬局のおっちゃんみたいな人のいい兄貴、フランク・ベイカーと、伊達男で天才肌の弟、ジャック・ベイカー。
彼らは決して三流ではなく、むしろ高級な部類に入る。
だが、あまりに高級過ぎて、大衆好みのパフォーマンスはできない。
ラウンジとは名ばかり、野球中継しか興味のないような底辺の客が集まる店でピアノ・デュエットをやるが、まともに耳を傾ける客は無く、とうとう馴染みの店からもお払い箱にされてしまう。
そこで兄弟は心機一転。
女性ヴォーカリストを迎え、大衆受けするステージを目指そうとするが、やって来るのは音痴な女性ばかり。
こちらも有名なオーディションのクリップ。実際の歌のオーディションもこんな感じなのだろうと。
そして、最後に駆け込んでくる、スージー・ダイアモンドの器量に魅せられ、兄弟は三人でトリオを組んで、ステージを回るようになる。
スージーの初舞台。最初は興味なかった客も、スージーの美しさとセクシーな歌声に魅了され、だんだん引き込まれる様子が分かる。
そうして、ファビュラス・ベイカー・ボーイズは大人気となるが、もっと客の喜ぶパフォーマンスを見せて、ビジネスチャンスを掴みたいと願う兄・フランクと、音楽にこだわる弟・ジャックの間に齟齬が生じるようになる。
そんな時、ステージを見た業界からスージーに、「キャットフードのCMソングを歌わないか」とオファーがある。
先にスージーを見出したのはベイカー兄弟なのに、スージーの方が大きなチャンスを手にしたのだ。
大成を願うジャックにとって、これほど悔しいことはない。
「まだ決心がつかないの。迷ってしまって……」と躊躇うスージーに、ジャックは冷淡に「引き受けろよ」と答える。
スージーにとって、ジャックの態度は、あまりに酷いものだった。
「行くな。いつまでも、一緒にやろう」
そう言って欲しかったのに、まるで面当てみたいに突き放したからだ。
所詮、遊びの恋だったのか。
スージーは深く傷つき、本当の気持ちも言い出せないまま、ベイカー兄弟と袂を分かつことになる。
ジャックもまた、ミュージシャンとして先を越された悔しさから、スージーに冷たく当たり、二人はとうとう激しく言い争う。
「やっぱり、あんた達、似たもの同士ね」
「ゴキブリみたいに叩き潰される連中が多いこの町で、俺たちはまだ生き残っている。昼間、他のバイトもしないでな。これもみんな、兄貴のおかげってことだ」
「ええ、たいしたものだわ。奥さんも、子供もいて、郊外にマイホームも構えてる。でも、その弟ときたら、年老いた犬とませた女の子を相手に、安アパートで、世の中をひがんでるだけじゃないの」
「いいか、プリンセス。俺たちは、二度、やった。それっきりだ。まだ俺のことを何も知っちゃいない」
「一つ知ってるわ。夕べ、フランクが子供にお休みのキスをしている頃、昔の夢を引っ張り出しているあなたをこの目で見た。あの店へ行って、弾いているあなたを見たのよ。あなた、自分を誤魔化してる。気に染まない安っぽい店で演奏する度に、自分を切り売りしていることを。あたしだって経験あるわよ。ゆきずりの男と寝た後で、自分にこう言い聞かせるの。何も気にすることはない、記憶を空っぽにすればいいんだから、ってね。でも、空っぽになるのは自分自身なのよ。……初めは、あなたのことを負け犬だと思ってたけど、そんなんじゃなかったわ。臆病者よ」
スター歌手の抜けたファビュラス・ベイカー・ボーイズは、人気も落ちて、以前のドサ回りに逆戻り。
とにもかくにも生活を支えなければならない兄のフランクが取ってきた仕事は、深夜TVショーのピアノ弾き。失礼きわまりない現場の態度に、ジャックは癇癪を起こして、スタジオを後にする。
駐車場で苛立つジャックに、兄のフランクは必死に言い聞かせる。
「夜中の三時に、どこの誰が、TVなど見るんだよ」
「だからって、途中で放り出すことはないだろう。それがプロのやることか」
「人の顔色を窺いすぎて、ヘーコラしても、何も感じないのか。俺たちは今日、ピエロにされかかったんだぞ。俺はピエロに成り下がるのだけはごめんなんだよ! 少しは誇りを持て!」
「誇りだとぉ? これまで、おんぶに抱っこで、酒でごまかしてきたお前が、オレに誇りを持てだと?! 一つ、教えておいてやる。オレには養わなきゃならない家族がいるんだ。妻と二人の子供の生活がこの肩にかかっていて、食い物とあったかい寝床も。家のローンも、車の支払いだってある。オレだって、あのTV局の連中の顔につばを吐きかけてやりたいよ。できるものなら、そうしていたさ。だが、できないんだ。なぜなら、オレには責任ってものがあるからだ。毎月、赤字にならないよう、稼がなきゃならない。それで他のみんながちゃんと食っていけるようにだ。いくら頑張っても、メダル一つもらえるわけじゃないが、立派に責任は果たしている。だから、このオレに向かって、誇りなどと二度と口にするな!」
「・・・(ジャックは立ち去ろうとする)」
「尻尾を振って逃げるのか。お前って奴は、いつもそうだ。正面から取り組もうとはしない。会話ですらな。スージーとのことはどうなんだ。あれほど言っておいたのに、手を付けやがって」
兄弟喧嘩の後、ジャックは、さいしょに オーディションを受けに来た音痴の女性と再会し、アパートの女の子と話す中で、次第に本来の自分を取り戻す。
そして、ジャズクラブで仕事を得たことをきっかけに、兄に「もう二度とベイカー・ボーイズには戻らない」と告げる。
ジャックは、今まで兄のため、生活のため、気の進まぬステージを務めてきたが、スージーに痛いところを突かれ、兄と長年の不満をぶつけ合うことで、やっと自分に正直になれたのだ。
ジャックはその足でスージーの元に向かい、以前よりずっと綺麗になったスージーに再会する。
スージーもCMソングの仕事を得たが、それは決して自分の願い通りではない。
ベイカーボーイズの日々を懐かしむスージーに、ジャックは「いつかまた会える?」と問いかける。
スージーは明確には答えない。
これから更に発展し、ジャックのことなど忘れてしまうのか。
あるいは、ジャックの方で諦めてしまうのか。
映画は、余韻を残しながら、スージーの歌う「マイ・ファニー・バレンタイン」で幕を閉じる。
ベレー帽とマキシコートの見事な着こなし。80年代バブル風で、私も懐かしい。
映画は、ミシェル・ファイファーの歌う「マイ・ファニー・バレンタイン」で幕を閉じる。
こちらも本職顔負けの色っぽい歌唱で、まさにファビュラス! のひと言。(叶恭子さん風に)
思い入れたっぷりのファンムービーです。
【コラム】 思い通りに生きられなくても
映画の制作には、デイヴ・グルーシンは直接関わってないが、本作のテーマは売れない芸人の葛藤そのものだ。
全編に流れる音楽からは、グルーシンのようになれなかった、何千、何万のミュージシャンの失意と悲哀が聞こえてくる。
音楽も才能の世界といえば、その通りだが、多少なりと現実を知れば、才能だけで成り立つ世界でないことは子供にも分かる。
その違いを説明せよ、と問われたら、グルーシンにも答えようがないだろう。
芸の世界は厳しい。
誰だって、生活費の為だけに弾くのはイヤだし、芸術家としての自分の個性を分かって欲しい。
好きな時に、好きな曲だけ弾いて、喝采を浴びて生きていけるなら、これほど楽なことはない。
芸の世界で成功するのは、一握り。
だが、その一握りだって、好きで『スリラー』や『I will always love you』ばかり歌っているわけではないし、自分で作った曲ながら、「もう、いとしのエリーにはうんざり」と思っているかもしれない。
それだけに、有り余るほどの才能を持ちながら、兄弟の義理や人間としての不器用ゆえに、今ひとつ抜け出せないジャックの葛藤が痛いほど伝わってくる。
フランクの持ってくる、しけた仕事にうんざりしながらも、「NO」と言えないのは、兄への愛情もあるが、さらに厳しいプロの世界で己の実力を思い知らされるのが怖いこと、自分で身体を張って稼ぐ勇気もなければ、媚びへつらう度量もないこと、そのくせ、ミュージシャンとしての理想とプライドだけは高く、理屈で誤魔化す以外に自分を保てないこと、理由はいろいろだ。
その点、フランクには、妻子という分かりやすい理由があり、家族を養うためなら、道化になることも厭わない。
実社会において、どちらが人間的に強いかと問われたら、答えは言わずもがな。
フランクのように強くもなれず、また夢を諦めることもできない中途半端な芸人は、酒と女で苦悩を紛らわせる他なく、スージーにも愛想尽かしされる所以である。
そう考えると、世間を知り、女性ヴォーカルを入れようと決断したフランクは、実力以上のものを備えたミュージシャンと言える。
一方、自分のやり方に子だあるジャックは、いつまでたってもチャンスに恵まれず、壊れたドーナツ盤みたいに、同じ場所をぐるぐる回り続ける。
どちらが正義と問われたら、多分、兄フランクの方が正解に近いが、それもまた夢のない話である。
本作は、フランク、ジャック、スージーの三人を通して、売れない芸人の様々な生き方を描いている。
それぞれに考えは異なるが、音楽を愛し、よりよく生きたいと願う気持ちは同じだ。
誰もが思い通りの成功を手にできるわけではないが、その中で、笑ったり、泣いたり、恋したり……それでいいじゃないか、と、ラストのそれぞれの笑顔が物語っている。
全編に流れる曲は、デイヴ・グルーシンの励ましで在り、自身への戒めにも感じる。
その足元には、成功に手が届かなかった、何千、何万の同志の無念と悲哀と人生があることへの――。
誰もが、「もしかしたら、明日には願いが叶うかもしれない」と小さな希望を胸に生きていく。
いつか叶おうと、永遠に叶うまいと、それ自体に意味はない。
どうせ思う通りにならないなら、せめて自分に正直に生きよう。
「好きなこと」の中では、誰もが尊く、愛すべき存在であることを、この映画は教えてくれるのだ。