死刑囚が独房から死刑執行室に向かうことを指す刑務所内の隠語
「死刑囚が行くぞ」 Dead man walking
映画『デッドマン・ウォーキング』 あらすじと見どころ
デッドマン・ウォーキング(1995年) - Dead Man Walking
監督 : ティム・ロビンス
主演 : スーザン・サランドン(シスター・ヘレン)、ショーン・ペン(死刑囚マシュー・ポンスレット)
デッドマン・ウォーキング [DVD]
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あらすじ
貧困地区でアフリカ系アメリカ人の為に働くシスター・ヘレン(尼僧)は、死刑囚マシュー・ポンスレットから手紙を受け取り、刑務所で面会する。
森の中で若いカップルを殺害した罪で死刑を宣告されたマシューは、自分は無実だと言い張り、罪を認めようとしない。
ヘレンはマシューのカウンセラー的な役割を務めながらも、マシューの挑戦的な態度に、時に怒り、時に失望しながら、死刑執行日を迎える。
だが、死の間際、マシューが見せた態度は、思いがけないものだった。
見どころ
映画『デッドマン・ウォーキング』は、実力派女優・スーザン・サランドンを修道女ヘレン・プレジャン役、何かとお騒がせのDQN系俳優ショーン・ペンを死刑囚マシュー・ポンスレットに起用して、アカデミー賞主演女優賞、ベルリン国際映画賞・男優賞をはじめ、様々な映画賞を受賞した、1995年公開の社会派ドラマです。(ちなみにショーン・ペンはマドンナの元夫であり、飲酒運転と暴力で逮捕されるなど、ハリウッドの問題児みたいな存在でした。本作を機に映画人としてのキャリアを磨き、現在は多方面で活躍中です。彼を死刑囚役に起用したのはイメージ的にも大成功だったと思います。ショーンもマシュー役を演じることで憑き物が落ちたのでは?)
監督は、スーザン・サランドンの元夫で、『トップガン(主演 トム・クルーズ)』『ショーシャンクの空に』など出演経験豊富な俳優のティム・ロビンス。
実生活でも、「死刑制度反対」や「イラク戦争反対」など、活発に政治的発言を行うことで知られ、本作も、キリスト教的人道主義の立場から死刑制度の在り方を問いかけます。
本作は、実際に刑務所で死刑囚の面会を続けている修道女ヘレン・プレジャンのノンフィクション作品『デッドマン・ウォーキング(徳間文庫)』に基づいており、映画向けに若干の脚色はあるものの、死刑判決から執行までの実態と被害者家族の心理を如実に描いています。
本作の見どころは、決して「死刑廃止」を声高に叫ぶのではなく、マシューの言動(恨み、受容、改悛)の変化を通して、「本当に死刑は正しい解決策なのか」と観る人に問いかける点です。
また、一方的に死刑反対を唱えるのではなく、被害者家族の怒りと現実を如実に描くことにより、双方の立場から死刑制度の是非を問う内容に仕上がっています。
日本では当たり前のように死刑が叫ばれますが、それは本当に遺族にとっても、社会にとっても、救いとなっているのか。
一度、じっくり考える上でも、おすすめの良作です。
ちなみに、ヘレン・プレジャンの原作で、「パトリック・ソニア」のエピソードがモデルになっています。
以下、本作のレビューと死刑制度に関するコラムです。(作中の重要な台詞を含みます。未見の方はご注意下さい。)
死刑をテーマにしたコラムは『死刑囚に手術をすること ブラックジャックの怒り』にも記載しています。
【レビュー】 死刑制度を考える 映画『デッドマンウォーキング』
2000年発行・メルマガeclipseより
昨今、少年法改正について論議を呼んでいるが、「何が人間にとって本当の罰なのか」、「本当の改悛とは何なのか」についてはあまり論じられていないような気がする。
果たして、刑罰を重くすることによって、少年犯罪は激減するのか、罪を犯した少年は改悛し、きちんと社会復帰するのか──こればかりは施行してみないと分からない部分も多い。
何故なら、件数は減っても凶悪化する可能性はあるし、人を殺すような少年には社会復帰などして欲しくないという反感情もあるからだ。
「盗むな」「殺すな」という教えは数千年前から存在するが、相変わらず人は盗むし、殺しもする。単純に刑罰を重くしても、根本的な問題解決にはならないだろう。
少年法改正の問題は、ひいては死刑廃止論に繋がる。
果たして、死刑という極刑が被害者を救済し、犯罪防止の特効薬となり、罪人に罪を贖わせるのかという点で。
死刑廃止論も、以前は活発な討議がなされ、あちこちに支持者を見かけたものだが、オウム実行犯に次々に死刑判決が下っても、誰も何も言わなかった。
彼らは何所に姿を消したのだろう。
罪が罪だけに、こいつらは例外的に「死刑OK」とでも言うのだろうか。
本当に死刑廃止論を支持するなら、麻原に死刑判決が下りても擁護できるはずである。
人はなぜ殺すのか。
死刑は本当に罰となり得るのか。
凶悪犯でも弁護せねばならない理由は何なのか。
そうした命題に真っ向から取り組んだ作品がある。
ティム・ロビンス監督の映画『デッドマン・ウォーキング [DVD]』だ。
主演は『テルマ&ルイーズ』『依頼人』などでお馴染みの演技派女優スーザン・サランドン。死刑囚を演じたのは、マドンナの元旦那、ショーン・ペンだ。
*
ストーリーは、一人の死刑囚がサランドン演じる修道女ヘレンに一通の手紙を宛てるところから始まる。
死刑囚マシュー・ポンスレットは、6年前、悪友とつるんでデート中の若いカップルを車から引きずり出し、雑木林で惨殺した。なのに、悪友は死刑を免れ、彼は死刑判決を受けたのである。
「俺は殺していない、裁判をやり直してくれ」と訴えるマシュー。
神に仕えるヘレンは、彼の気持ちを汲み、審問会に上訴審を持ちかけるが、請求は却下され、死刑執行は確定してしまう。
その間、マシューはTVに出演してヒトラーを賛美し、釈放されたら政府の建物を爆破すると叫んだり、
「俺が悪いんじゃない。社会が悪い。法律が悪い。人種差別が悪い。あの雑木林にいたカップルが悪い」
とヘレンに毒づいたり。
しまいには、ヘレンも(私はこんな人間を助けようとしているのか・・)とウンザリしてしまうほどだ。
それでもヘレンは、事件への理解を深めるために、被害者の家庭を訪ねて歩く。
被害者少年の家庭は、息子の死の受け止め方をめぐって夫婦が対立、事件を忘れ、未来に希望を見出そうとする妻は、あくまで息子にこだわる夫を置いて、家を出て行った。
また被害者少女の両親は、今も犯人に激しい憎悪をつのらせ、マシューの弁護に当たるヘレンにも容赦ない言葉を浴びせ掛ける。
私は一体どうすれば良いのか。
何が彼らにとって救いになるのか。
ヘレンは苦しみながらも、『死刑』という現実に対峙し、マシューと被害者家族の救済に努める。
やがてマシューの死刑は確定し、死刑執行の日取りも決まる。
時間が迫る中、ヘレンは必至にマシューに訴えかける。
「友人として、私はあなたに尊厳ある死を迎えて欲しい。
あなたは、自分が死刑になったのは、社会のせい、クスリのせい、政府のせい、雑木林にいたカップルのせい、と言うけれど、“あなた自身”はどうなの。マシュー・ポンスレットという一人の人間としては?
あなたは、ご両親に、神様にしか癒せない悲しみを与えたわ。
あなたは死んだ二人の気持ちを考えたことがある?
残された家族の気持ちは?
二人が死んだことについて、責任は感じないの?」
すると、マシューは涙ながらに答える。
「今では自分のした事に責任を感じている……。夕べ、はじめて、消灯の後、ベッドの端にひざまずいて、二人の為に祈った」
「あなたは今、人としての誇りを得たわ。あなたは神の子よ、マシュー・ポンスレット」
「“神の子”なんて、はじめて言われた……。なあ、あんた、賛美歌を歌えるんだろう、歌ってくれよ」
ヘレンは鉄格子の向こうから、賛美歌を優しく歌って聞かせる。
「あなたが残されたご両親に出来る最善のことは、心の安らぎを願うことよ」
「俺は今まで、本当の愛がどんなものか知らずに来た。
女を本気で愛したことも無かった。
だが今、俺はやっと愛を知ることができた。……愛してくれて、ありがとう」
やがて時計が零時前を指すと、執行官はマシューに紙オムツを履かせ、両脇から抱えるようにして処刑室へと連れ出す。
『デッドマン・ウォーキング!(死刑囚が行くぞ)』
マシューは怯え、その場にへたり込むが、ヘレンはその肩に手を置き、聖書の一節を読んで聞かせる。その声に支えられるようにして、処刑室へ歩いて行くマシュー。
処刑は、被害者遺族らが見守る中、執り行われた。腕に薬液を注入する為の注射針を刺され、幅広のベルトで処刑用ベッドに固定されたマシューは、ガラス越しに刑を見守る被害者遺族らに言う。
「俺の死が、あなた方の慰めになるように」
スイッチ・オンと共に、シリンジの薬液が次々にマシューの体内に注入される。マシューは眠っているように見えるが、全身の筋肉は弛緩し、肺臓は破れ、やがて心停止へと至る。
ラストは、マシューの葬儀の場面で終わるが、墓地には被害者少女の父親の姿もあった。
「来て下さって、ありがとう」
微笑むヘレンに、父親は言う。
「それでもまだ、犯人への憎しみを忘れることはできない」
「……では努力しましょう」
望み通り、犯人が処刑され、この世から抹殺されても、被害者遺族と加害者家族の苦しみは続く。そして、マシューの死は、死刑という名の殺人であり、確かにひとりの人間の死に相違なかった。
映画は、遺族の救われない心情や家庭崩壊などの深刻な傷跡、世間から爪弾きにされる加害者家族の悲惨な状況、死刑制度の現実などを、決して感情に溺れることなく、公平な目で描いている。
死刑の是非については結論付けていないが、死刑執行を目前にした死刑囚とヘレンのやり取りを見れば、主張は一目瞭然だ。死刑によって犯人の命を絶つことが必ずしも遺族を救済し、犯人に罪を償わせるわけではない、という事を如実に物語っている。
殺された少女の両親は言う。
「歯科医の伯父は、娘の喉に詰まった泥を指で掻き出すまでは死刑廃止論者だった。だが今では死刑賛成派だ」
どんな奇麗事を並べていても、実際、自分の身内が理不尽な殺人に遭ったら、犯人を八つ裂きにしたいくらいの憎しみにかられるのが当然だ。
『人殺しは殺されて当然』というリクツでいけば、どんな殺人犯も死刑に値する。ならば、人権など全く無視して、遺族の手でなぶり殺しにすれば良い。衆目の中、被害者がされたと同じように、身を焼き、ナイフで刺し、ベルトで首を締めて、地中に埋めればいい。
だが、そうしないのは、彼もまた『人間』だからだ。たとえ法で報復が許可されても、実際にそうする遺族は少ないだろう。
それくらい、人ひとりの命を絶つということは重い事実なのだ。
刑の重軽はあくまで社会的な示しであって、根源的な救いにはならない。犯人が死刑になっても、遺族の悲しみは消えないし、死んだ人間も返ってこない。誰かが見せしめで死刑になっても、人殺しはまた現れるだろう。
大切なのは、『何をもって罰とするか』『何が遺族を救済するか』『真の改悛とは何か』を明確に打ち出すことである。
ただ刑の重軽だけを取り沙汰し、『罪』『罰』『改悛』『救済』といった本質的な問題に触れずに、法や制度だけを改正しても、根本的な問題は解決しないだろう。
ある人の話によると、例のバスジャック少年に乗客の女性が刺された時、側にいたもう一人の女性客は、自分も瀕死の重傷を負いながらも、その女性の傷口を必死に手で塞ぎ、『彼女が死んだら、少年は殺人犯になってしまう。少年の為にも、彼女を死なせてはならない』と踏ん張ったという。
もちろん、犯人には相当な罰を与えて欲しいが、全ての人がそれを最善策に考えている訳ではないということも知っておくべきだろう。
また、法だけでなく、被害者遺族のケアや加害者家族の保護、犯罪者予備軍らへの対策をどうするかという問題もある。これも本来なら社会的にサポートしなければならない、重要な課題である。「あなた方の望み通り、犯人を死刑にしましたよ」、それから後は知らん、というのでは、何の意味も無いではないか。
話は少年法改正に戻るが──
先日、某新聞に、少年刑と大人の刑の違いが掲載されていた。書いたのは、現役の弁護士さんである。
『世間一般の風潮として、「少年法は軽すぎる」と見る向きがあるが、果たしてどれくらいの人が、刑の内容と違いを理解しているのか。
少年法を改正し、少年に大人と同じような刑罰を与え、大人の刑務所に入れても、刑期が終われば出所して終わりである。
その点、少年院だと、出所してからも面接や調査などのフォローがある。
刑期が終わっても、問題が生じれば、再び少年院に連れ戻すことが出来る。
“法的に拘束される”という点では、少年院に入れられる方がはるかに重いのだ。
もちろん、従来の少年法は、非公開で審問するなど、被害者家族の感情を無視してきた部分もある。そういう意味で見直しは必要である。
いたずらに刑を重くしても、少年が更生するわけではない・・・』
等々……考えさせられる内容だった。
私は、凶悪犯罪に走った少年を全面的に支援する訳ではないが、それでも『成人』の犯罪と混同してはならないと思う。
17歳の少年がバットで親を殺すのと、50歳の男が行きずりの少女をナイフで刺すのとは発生までの機序が違う。
また「目立ちたいから」と無差別に人を殺す『自己実現の為の殺人』と、親子間の激しい葛藤から発作的に凶行に走る『尊属殺人』も、根本から違う。
同じ少年犯罪でも、その一つ一つが全く違う意味合い、原因、機序を持つのだから、何もかも一緒くたに考えるのもおかしな話である。
誰でも、自分が17歳の頃を思い出してもらえば分かると思うが、大人のようでもまだまだ子供、情緒的にも極めて不安定で、自己制御する能力も未熟だったはずだ。
特に、今は青少年をしっかりサポートできる大人がいない。
社会情勢も良くはないし、大人からして間違いばかり犯している。
高度成長期やバブル期に青春時代を過ごした今の大人が17歳だった時とは、社会も文化も価値観も、何もかも違ってきているのだから、その感覚のズレから合わせていかなければ、いつまでたっても今の17歳世代の事など理解できないだろう。
右下がりの未来を見詰めて生きてゆかねばならない今の子供たちは、本当に気の毒に思うし、まだ問題が小さかった時に、良い大人にしっかりサポートしてもらえなかった事も残念に思う。そういう意味で、少年を大人と同じように裁くのは、それこそ大人の得手勝手──20年刑務所にぶち込もうが、死刑にしようが、少年も被害者も、誰も救われないような気がするのだが、いかがだろうか。
ともかく今は、「少年にも極刑を」「刑罰を重くせよ」の大合唱だが、一体、どれくらいの人が、実際の刑の内容を知った上で発言しているかは疑わしい。
何となく、『今の少年法は軽すぎる』『重くすれば懲らしめになる』みたいなノリで言っている部分もあるのではないだろうか。二年の刑期が長いか短いかは、本人にしか分からないものだ。
十年刑務所に入っても再犯を繰り返せば同じ事だし、二年の少年院服役で心が入れ替わることもあるかもしれない。
それから、少年にとって『最大の罰』とは何かを考えてみるといい。
私は、死刑より無視だと思う。
「お前のやった犯罪も、存在自体も、たいしたことないんだよ。誰もお前のことなんか興味ないし、お前のやった事なんか三日で忘れるんだよ」
そんな風に、少年の犯罪など、全国的に無視してやればいいのである。
なのにTVも新聞も大々的に取り上げ、あれこれ分析したり、評論したり。
そうやって、国民皆で注目し、大騒ぎするから、少年も誤った方向に自己顕示を求めるのではないか。
関心を持ちすぎるのも、一つの甘やかしだと私は思う。
『自己実現としての殺人』を作り出した(犯罪をワイドショーにしてしまった)、サカキバラ事件のフィーバーぶりこそ、非難されて然るべきだろう。
今は闇雲に改正を急ぐのではなく、まず少年刑の実際や少年院の機能、成人刑との差異などを明瞭にし(私も少年院がどんな所か知りたい)、実態を踏まえた上で、何が少年の更生と犯罪防止になるかをよくよく考えてもらいたい。
マシューの面会に来たヘレンに、刑務所専従の牧師は言う。
「ポンスレットの魂は罪を悔い改めることによってのみ救われる。あなたの使命はそのように導くことだ」
だが、こうした思想も、社会や文化にキリスト教という精神的基盤があっての話である。それをそのまま日本に持ち込んでも、日本の慣習や感性にはそぐわない。
それより、日本には、西洋社会におけるキリスト教のような精神的基盤が存在するのか。まずはそこから確立しないと、少年法はおろか、教育、政治、文化、福祉──あらゆる分野で、どんどん立ち遅れていくような気がする。
初稿: 2000/09/23
日本の死刑制度と執行人の苦悩
2010年10月11日 追記
私が日本の死刑制度に興味を持ったのは、1990年代半ば、カルト教団による連続凶悪犯罪が毎日のようにメディアで報じられたのがキッカケだ。
首謀者のAは、救いようのない極悪人。
被害者と同じやり方でとことん苦しめるべき。
死刑は当然だ。
週刊誌やTVなどで、野次も含めた死刑肯定の意見をたくさん目にした。
確か、それ以前には、死刑反対の動きもあったはずなのに、あの死刑反対論者は何をしているのだろう。
相手がこれほどの凶悪犯にもなれば、世間を納得させる反論も出てこないのか。
今こそ安易な死刑肯定論に待ったをかけ、真剣に討論すべき時ではないのか。
彼らの犯罪は決して許されることではないけれど、死刑、死刑の大合唱には正直うんざりした。
死刑と言えば聞こえはいいけれど、要は「殺せ」ということだもの。
人ひとりが死ぬって、その程度のことなのか。
相手が凶悪犯なら、理由が合法的であれば、それが正義なのか。
いろいろ考えずにいなかった。
そんな時、たまたま深夜のTVロードショーで見たのがティム・ロビンス監督の映画『デッドマン・ウォーキング』だ。
ハリウッド屈指の演技派スーザン・サランドンがアカデミー主演女優賞を獲得し、マドンナの元夫で、暴力事件を繰り返していた鼻つまみ者のショーン・ペンも迫真の演技で高く評価された社会派ドラマである。
後述にもあるように、この映画は、死刑囚の心理カウンセラー、シスター・ヘレンと、ちょっとイカれた若者マシュー・ポンスレット(原作ではパトリック・ソニア)とのやり取りを通じ、アメリカの死刑制度および刑務所の実態や社会問題、被害者のおかれた状況などを浮き彫りにし、観客に是非を問いかける非常にシリアスな作品である。
人間にとっての罪と罰、被害者家族の深く激しい怒りと心の傷、永遠に決着のつかないテーマを目の前に突きつけられ、おそらく見終わった後は自分まで当事者になったような悶々たる思いに息苦しささえ感じるだろう。
しかし、この映画の「本当に死刑を肯定していいのですか?」という問いかけは、法治国家に生きる人なら、一度は立ち止まって考えるべきテーマだと思う。
普段、何気に「こんなヤツは死刑にすればいいよ」と世間に同調しているなら、なおさらに。
日本にも死刑制度を取り上げた本が幾つかあるが、坂本敏夫さんの『元刑務官が明かす死刑のすべて』には、死刑囚のみならず、死刑を執行する側の人間の葛藤やシステムなども詳しく紹介されている。
あまり話題にならないけれど、死刑には必ずそれを執行する人がある。積極的に刑の執行を望むシンパの集団ではなく、「公務員のお仕事」、いわばよき社会人であり、家庭人でもある、普通一般の人々である。
あなたなら、その部署に配属されたというだけで、よろこんで死刑の手伝いをするだろうか。
まともな感覚をもった人なら、たとえ相手が凶悪犯であっても、「人ひとりを殺す」という重さに打ちのめされ、できるならそういう任務に携わりたくない、と考えるのが普通だろう。
著書の坂本さんは、『死刑』というものをこんな言葉で表現されている。
当たり前のことだが、死刑は死んではじめて形の執行が完了する。
どんな状況にあっても絞首して殺さなければ死刑にならないのだ。
暴れようが、気を失おうが、なんとしてでも踏み板の上に立たせ、首にロープを掛けなければならない。
この状況を思えば、事件がいかにエンターテイメントな要素を帯びようと、「死刑」など軽々しく話題にすべきではないし、死刑肯定者も、それを執行する人間の立場や気持ちを少し想像してはどうかと思う。
「だったらあなたが首にロープを掛けて、死刑囚を突き落としなさい」と言われたら、やはり何の躊躇いもなくできるものなのだろうか。
この著書もまた「考えさせる本」であって、死刑の是非を断言するタイプのものではない。
坂本さんご自身も、永遠に答えの出ないテーマを必死で模索しておられる途中、誰であっても、その是非を絶対的に言い切ることはできないだろうと思う。
最後に坂本さんが引用しておられる重松一重先生の文章、
死刑制度は恒星のごとく永久に存在してこそ人間の真価を問うものなのである。ひと口に言って、死刑の法条を法典から消去すれば社会の秩序が立ち、死刑廃止を看板として掲げれば文化国家の証であるなどというほど、人間は、社会・国家は単純なものではない。
いわば、「死刑制度は存続させ、処刑の反対」という立場が非常に興味深かった。
それに対し、「デッドマン・ウォーキング (徳間文庫)」の原作者、ヘレン・プレジャン女史の著作はもっと明快である。
死刑は「国家による合法的殺人」であると断言、死刑廃止のキャンペーンの先導に立つ一方、被害者家族の集まりにも積極的に参加し、「あんたは神に仕えるシスターのくせに人殺しを弁護するのか」と詰られても自らの立場を変えることなく、また被害者家族の意志や感情をリクツで変えようと試みることもなく、『魂の救済』という一つの大きな目的に向かって働きかけている。
ここに描かれる電気椅子処刑の生々しい描写はもとより、人種差別、教育格差、貧困問題など、日本より深刻かつ救いがたい現状にいっそう気持ちが沈むかもしれないが、「殺した者と殺された者」「裁く者と裁かれる者」「糾弾する者と弁護する者」という立場を越えた人々の手探りの努力に、何かしらの希望を感じずにいないはずだ。
死刑制度の是非に決着がつき、万人がその結論に納得したとしても、殺された側の傷は永遠に癒えないし、また殺人者にとって何が償いとなるかは一人一人によって違う。
だからこそ「皆が納得する意見で解決する」のではなく、どちらの側にもきめ細かなアプローチと時間が必要であり、死刑はそのプロセスを一方的に、また永久に断ち切ってしまうものだ、というのが、プレジャン女史のスタンスでもあるように思う。
こんなことは一人一人が考えても何かの助けになるわけではないし、絶対的に正しい答えも恐らく永久には出てこない。
そして、人間社会がどんな結論に辿り着こうと、やはり殺人はおき、傷ついた人間は取り残される。
おそらく、何かが完全に魂を救済するなどあり得ない話だ。
だからといって、殺人という絶対悪の前に、誰もが正義を唱えれば絶対的に正しいというものでもない。
少なくとも、「死刑」の現実を知らずに「死んで当然」と合唱するのは野次馬以外の何ものでもない。
無差別に人を殺すのも悪いが、安易に死刑と口にするのも根は似たようなものだと思う。
そういうことを教えてくれる作品である。
何度でも考えたい ~死刑制度の是非
2012年12月15日 追記
最初に結論から言えば、この作品は「死刑反対」の立場から描かれています。
その為、死刑囚に同情的な演出も多々あり、人によっては腑に落ちないと感じるかもしれません。
というより、死刑の是非なんて、永久に答えの出ないテーマです。
「人が人を裁く」ということ自体が不条理ですから。
「人を殺すのは悪いこと」──これは明白ですが、じゃあ、どれくらい悪いのか。
三年刑務所に入れば許されることなのか。
皆で仕返しして、火あぶりにしてもいいくらい、罪深いのか。
その度合いを決めるのは人間であり、その人間自体が不確かで、どちらかに偏った価値観を持っている限り、「絶対的に正しい裁き」などあり得ないからです。
この世に本当に「神さま」がいて、その神さま自身が裁きを下さるなら、納得する部分もあるかもしれません。
しかし、同じ人間が、同じ人間を裁き、時にはその命を奪うこともある。
では、その判断の是非は誰が裁くのか?
万一、その判断に誤りがあった場合、処刑された人は、誰に助けを求めればいいのか?
もう答えに行き詰まりますよね。
ゆえに、死刑について考えるということは、社会正義や法律うんぬんにとどまらず、人間の領分を突破することであり、そこで「正論を得た!」と断言するのは傲慢以外のなにものでもありません(賛成、反対にかかわらず)
だから、私たちは、永遠にこのテーマの前に立ち止まり、何度でも考え直す必要があります。
それだけが唯一、誤りを防ぐ道だからです。
下記にも書いてますが、被害者の遺族が「こんな畜生は一日も早く死刑に! 同じ目に遭わせてやりたい!」と叫ぶのは、人間として当然の感情ですから、いっこうに構いません。
でも、無関係な人間が、ろくに事情を知りもせず、世論の尻馬に乗っかって、「こんなクズ、即死刑だよな」と軽々しく口にすることには甚だ疑問を覚えます。
いかなる理由があろうと、何の関係もない第三者が軽々しく口にすべきではないのです。
『デッドマン・ウォーキング』はそういう事を教えてくれる作品です。
持ち前の正義感から、盲目的に死刑囚を庇うのではなく、作中には、愛する子供を無残に殺された両親の生々しい叫びがあり、葛藤があり、死刑囚を弁護するシスターヘレンに厳しい批判を投げかける場面もあります。
ゆえに、見る者は、何度も、何度も、立ち止まって、自分に問いかけずにいられません。
私(世間)の考え、本当に正しいの──? と。
参考文献
アメリカで死刑制度廃止委員会の全国会長を務め、死刑囚の支援や被害者家族の救済にあたるカトリックのシスター、ヘレン・プレジャン女史の著書。
二人の死刑囚とのやり取りをヒロイックに描くのではなく、自身の反省も交えながら、人間としてのあらゆる可能性にスポットを当てている。アメリカ社会が根本的に抱える問題に関しても詳しく記述され、「死刑が決して解決策にはならない」という立場を貫いています。
映画では「薬を使った処刑」に設定されているが、原作では電気椅子による処刑の模様がリアルに描かれており、気の弱い人はそこでアウトだと思います。
廃刊になって久しいですが、映画の原作として、また米国の死刑制度の実情を知る上でも、非常に参考になる本です。
興味のある方は、図書館でリクエストして下さい。
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恐らく、日本人に理解しがたいのは、キリスト教的人道主義でしょう。
にほん昔話と日本人の懲罰好き ~悪者を懲らしめる日本文学 許しか嗤いに走る海外文学にも書いているように、日本の精神風土は赦しよりも懲罰を重視し、罪に相応の報いを受けることが社会的に良しとされます。
キリスト教における『赦し』の感情は、日本人の「これぐらいにしといたろ」という許しとは大きく異なりますし、「赦す人もまた救われる」という発想もありません。
ゆえに、欧米など、カトリック教圏で死刑制度の廃止を訴える人たちの心情や理念を理解するのは、なかなか難しいかもしれません。
それでも、他国の廃止論は、どのような信義に基づくのか、知っておいて損はないですし、映画に興味があれば、原作も一度、目を通されることをおすすめします。
アメリカの死刑制度をはじめ、凶悪犯が生まれる背景(人種差別や貧困)、被害者家族の過酷な日々、死刑支持者と反対派の確執などが克明に描かれています。
感情的にならず、自らを諫める形で書かれている点も秀逸です。
デッドマン・ウォーキング(原作本)
貧しい黒人のために活動していたシスター・ヘレンは知人から死刑囚との文通を持ちかけられる。その死刑囚、パトリック・ソニアは若いカップルの女性を強姦したうえに二人を殺害していた。文通をきっかけに面会を重ね、彼の命を救おうと奔走するが、パトリックは電気椅子に送られてしまう。死刑制度のもつ困難な問題に直面しながらも、ヘレンは死刑囚と被害者の家族の救済に取り組んでいく。感動の映画原作。
元刑務官が明かす死刑のすべて(文庫)
刑務官という立場から死刑制度や死刑囚の置かれた立場をリアルに描く良書。
私も「犯人と被害者」という構図でしか考えたことがなかったが、「刑を執行する人」というのも確かに存在し、その人たちが任務と割り切っていると思ったら大間違いである。
決して同情一色ではなく、「法」という観点から真実を見出そうとするスタンスがいい。
死刑の実際を描いたマンガも怖かった・・
Kindle Unlimitedも公開されているので、興味のある方はぜひ。
*
起案書に30以上もの印鑑が押され、最後に法務大臣が執行命令をくだす日本の“死刑制度”。「人殺し!」の声の中で、死刑執行の任務を命じられた刑務官が、共に過ごした人間の命を奪う悲しさ、惨めさは筆舌に尽くしがたい。死刑囚の素顔、知られざる日常生活、執行の瞬間など、元刑務官だからこそ明かすことのできる衝撃の一冊。
死刑執行人サンソン
フランス革命の時代、死刑執行人を務めたサンソン一家の家族史と、ルイ16世の処刑にまつわるエピソードがメインですが、当時の公開処刑の惨さと執行人の苦悩がリアルに描かれ、非常に読み応えのある一冊に仕上がっています。表紙絵が、ジョジョでお馴染みの荒木飛呂彦氏なので、マニア向けのキワモノ本のイメージがありますが、内容は、仏文学者・安達正勝による本格的な歴史読み物で、文章も綺麗です。現代の死刑制度とは遠くかけ離れていますが、公開処刑も、国王の死刑も、いたずらに人の命を弄ぶだけで、国家や人民の救済にはならない現実が伝わってきます。
*
敬虔なカトリック教徒であり、国王を崇敬し、王妃を敬愛していたシャルル‐アンリ・サンソン。彼は、代々にわたってパリの死刑執行人を務めたサンソン家四代目の当主であった。そして、サンソンが歴史に名を残すことになったのは、他ならぬその国王と王妃を処刑したことによってだった。本書は、差別と闘いながらも、処刑において人道的配慮を心がけ、死刑の是非を自問しつつ、フランス革命という世界史的激動の時代を生きた男の数奇な生涯を描くものであり、当時の処刑の実際からギロチンの発明まで、驚くべきエピソードの連続は、まさにフランス革命の裏面史といえる。
死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書) Kindle版
ドキュメント死刑囚 (ちくま新書)
これも読みましたが、内容的には上記の方がリアルで好かったです。
■処刑すれば償いになるのか?
子どもを襲い、残酷に殺害。そして死刑が執行された宮崎勤と宅間守。また、確定囚として拘置されている小林薫。彼らは取り調べでも裁判でも謝罪をいっさい口にせず、あるいはむしろ積極的に死刑になることを希望した。では、彼らにとって死とは何なのか。その凶行は,特殊な人間による特殊な犯罪だったのか。極刑をもって犯罪者を裁くとは、一体どういうことなのか。彼らと長期間交流し「肉声」を世に発信してきたジャーナリストが、残忍で、強烈な事件のインパクトゆえに見過ごされてきた、彼らに共通する「闇と真実」に迫る。