映画『コックと泥棒、その妻と愛人』
作品の概要
コックと泥棒、その妻と愛人(1989年) ー The Cook, the Thief, His Wife & Her Lover
監督 : ピーター・グリーナウェイ
主演 : ヘレン・ミレン(ジョジーナ)、マイケル・ガンボン(夫・アルバート)、アラン・ハワード(恋人・マイケル)、リシャール・ポーランジェ(シェフ)、
ディスクはDVDのみだが、U-Nextでも配信されているので、興味のある方はぜひ(字幕版・吹替え版)
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あらすじと見どころ
1989年に公開された『コックと泥棒、その妻と愛人』は不思議な映画である。
グロテスクでありながら、映像は絵画のように美しく、『尻』『尿』『便器』など、下品極まりない台詞が連発するにもかかわらず、脚本はどこか甘く、切なく、それでいて知性的。
ロンドンのテート・ギャラリーやパリのポンピドゥー・センターに行けば、小躍りするようなタイプなら、映像を見るだけで大満足だし、『ファッション通信』で延々と流される最先端のコレクションを飽くことなく楽しめるタイプなら、ジャン=ポール・ゴルチェの手がける衣装に目を見張るはずだ。
決して全方位におすすめできる快作ではないけれど、芸術全般に親しんでいる人――とりわけ、文化人気取りの薄っぺらい評論に辟易している人には、一度は見て頂きたい異色作である。
物語は、いたってシンプル。
天才料理人リチャードが腕を振るう高級フレンチ・レストラン『ル・オランデ(Le Hollandais)』のオーナーのアルバートは、下品極まりない大泥棒だ。店のスタッフは言うに及ばず、妻のジョジーナも虐待し、周りの人間を不快にさせている。
そんなジョジーナが心引かれたのは、いつも店の片隅で静かに本を読んでいる学者のマイケルだ。
いつしか二人はアルバートの目を盗んで激しく愛し合うようになるが、口軽女のせいで、情事がばれてしまう。
妻の不倫を知ったアルバートは怒り狂い、マイケルに残虐な仕打ちをする。
悲しみに暮れるジョジーナは、リチャードや従業員らの協力を得て、凄惨な復讐を遂げる――というものだ。
本作の見どころは、赤とゴールドを基調とした豪華絢爛なインテリアに、ジャン=ポール・ゴルチェの斬新なファッション、料理人リチャードによる最高級のフランス料理、横に流れていく独特のカメラワークと挙げればキリがない。
ずっと以前、ネットで目にした映画評によると、メニューや絵画、本のタイトルなど、画面に登場する一つ一つに意味があり、それが分かれば、楽しみも倍増すること請け合いだ。
これほど観る人の知性と感性に依る作品も二つとなく、大衆に媚びないところが、いっそうの魅力でもある。
エログロ描写は賛否あるだろうが、見終わった後、なぜか二人のロマンスが心に残る、不思議な作品だ。
ジャン=ポール・ゴルチェの衣装も素晴らしいが、ヘレン・ミレンの着こなしも溜め息もの。
【画像で紹介】 食と死とエロス
※ 本作の見どころを画像で紹介しています。ネタバレも含みますので、未見の方はご注意下さい。
権力よりも知性に惹かれる女 ジョジーナ
本作は、いきなり糞尿リンチで始まり、その後も、延々とアルバートの下品な喋りが続く。
妻・ジョジーナに対する暴力も半端なく、見ていて、痛々しいほど。
それだけに、レストランの片隅で読書を楽しむマイケルが非常に知的で、洗練されて見える。
そんな彼に惹かれるジョジーナの女心が手に取るように分かるし、アルバートもいっそう品性下劣に感じる。
だが、二人の恋はアルバートの知るところとなり、妻を寝取ったマイケルに凄惨なリンチが加えられる。
それまでジャン=ポール・ゴルチェの華麗な衣装に身を包み、高雅な貴婦人として一流フレンチに舌鼓を打っていたジョジーナが、惨殺されたマイケルの傍らに身を横たえ、「もう疲れた……」とつぶやき、物言わぬ恋人に「キスしないの? じゃあ朝食は私が作るわね。短かったけど、とてもステキだった」と語りかける場面は白眉のものだ。
ジョジーナの顔が大写しになり、ゆっくりとカメラの方を向くのだが、これ以上ないほどボロボロに傷つき、感情すら残ってない虚無な表情を完璧に演じている。
日本語字幕では「ステキ」と翻訳されているが、英語では「short and very sweet」。
この「sweet」という言葉が全てを物語ってる。
長い人生の、ほんの一瞬の触れ合いだったけど、溶けてしまいそうに甘く、優しく、女に生まれた悦びを堪能した日々。
それに続く告白で、偉ぶっているアルバートが実は性的不能者だと分かるのだが、それだけに余計で、愛人マイケルと分かち合った悦びの深さが伝わってくる。
この場面とヘレンの演技力がなければ、本作はただのキワモノ映画で終わっていただろう。
終盤、ジョジーナがなぜあれほど冷酷、かつ凄惨な復讐を思い立ったのか、この愛の告白で合点がいくからだ。
見終わった後、なぜかグロテスクな演出より、二人のロマンスが心に残る所以である。
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黒い食べ物は死を思い起こさせる
この作品の見所は、人間にとって最も基本的な「食」と「死」と「エロス」が一体になっている点だろう。
終盤、料理人リリャードが、「食」と「死」の関わりについて語るが、「何かを食べる」ということは「何かが死ぬ」ということでもある。
人はいちいち意識しないが、魚も、鶏も、野菜も、人間の食の為に死ぬのであり、我々は死を頂いて生きている、というのは、本当にその通りだ。
一方、命はエロス(性愛)から生まれる。
この世から性愛が無くなれば、子孫も生まれず、人類という種も途絶えてしまう。
生物は、他の生物の死を食べて、命のエネルギーとし、そのエネルギーで交わって、新たな命を創生する。
こうした、食と死とエロスの連なりが、美しい料理と斬新なラブシーンで描かれているのも本作の醍醐味だ。
秘密の恋人たちは、豊穣とした食に囲まれて愛し合う。
料理人リチャードの背後で、絡み合う二人のシルエットが浮かび上がる演出も秀逸だ。
わけても印象的なのは、終盤、リチャードが語る『黒い料理』のエピソードだ。
人は死を思い起こすものを好む。
黒い物を食べるのは、死を食べる事と同じだ。
胸をはって言うんだ。
”死よ、おまえを食うぞ”と。
トリュフが最も高価だ。キャビアも。
死と誕生。終わりと始まり。
黒は最も高価な食物にふさわしい色でしょう。
虚栄も高価な食物だ。
私はどちらかと言えば、ハンバーグ、ビーフステーキ、ミートソース、カレーライスなど、赤い食べ料理が好きなので、黒い料理に大金を積んでまで食べたいと思わないが、「黒い物が死を思い起こす」というのは全くその通り。
赤い料理が「血潮」の象徴なら、黒い料理は、ひたすら地味で、無口で、それ自体が既に死んでいる。
黒い料理ではなく、赤い料理を好む私は、より多くのエネルギーを欲しているのかもしれない。
そして、黒い料理を好む人は、もうこれ以上、望むものも無いのだろう。
黒という色は、それ以上でもなければ、それ以下でもなく、その先にあるのは完全な「無」だからである。
大食という大罪
子供がもりもり食べる姿は微笑ましい。
だが、大人ががっつく姿は美しくない。
キリスト教でも、『大食』が七つの大罪に含まれる所以だ。(参考: 神への回帰と殺してもいい権利 映画『セブン』と七つの大罪
一度、食べだしたら、止まらない。
腹が割けるほど食い貯めなければ気が済まない。
食べても、食べても、充たされることのない、際限なしの大食は、さながら心の飢えを現すかのようだ。
なぜ、大食は醜悪なのか。
理由の一つは、大食も、美食も、金持ちだけに許される快楽だからだ。
貧乏人が木の根を囓り、雨水をすすって飢えをしのぐ間も、金持ちは肉汁たっぷりの料理に舌鼓を打ち、高級な酒を嗜む。
施すこともなく、憐れむこともなく、自分の腹を満たすことだけに終始し、ぶくぶく太っていく。
そして、それで満足するかと思えば、もっと寄越せと高望み、食欲に制限はない。
これが大罪でなくて、何であろう。
たとえ一流レストランでも、アルバートと同席して、料理を味わうことができるだろうか?
最上級のヒレ肉も、上質なテリーヌも、下品なトークと中身の無いウンチク、頭はからっぽのくせに、贅肉だけはたっぷりの巨漢を目にすれば、どんな豪華な料理も汚物にしか見えないだろう。
大食の罪は、大食そのものを非難しているのではない。
節度もなければ、感謝もなく、際限なく欲する強欲を断罪しているのだ。
妻ジョジーナのみならず、従業員さえも虐げてきたアルバートは、『人肉』という最も罪深い料理を与えられ、最低最悪の罪人として死んでいく。
最後の瞬間まで、己の罪を悔いることなく。
【コラム】 エセ文化人が美と知性を滅ぼす
下品なアルバートは、レストランでも蘊蓄をたれ、仕事でも屁理屈をこねる。
それも中身の無い、どこかで聞きかじったようなグルメ論や人生論だ。
知性のない人間が小金を持つと、すぐ一流の真似をしたがる。
一流人の集う場所に顔を出し、知った顔で理屈を並べ、芸術家や有名人の隣で写真を撮って、いかに自分が有力で優れているかを誇示する。
金や地位や権力は、せっせと働けば、それなりに手に入るが、知性はコネや試験で身に付くものではないからだ。
そんな卑小な人間にも泣き所はある。
真に優れた者には、絶対に太刀打ちできない点だ。
アルバートの場合、料理人のリチャードには決して手を下さない。
自分に権威づけしてくれる「有名シェフ」は、アルバートにとって自身の勲章みたいなものだからだ。
自身のアクセサリみたいに扱いながらも、料理人リチャードに対しては、どこかヘイコラしたところがある。
そのみみっちさが、ますますアルバートの卑しさを浮き彫りにし、傍で見ている分には、まるで愚かなピエロのようだ。
それでも、芸術は金の力には勝てない。
今も、昔も、芸術は食えない商売で、スポンサーなしに生き残れない。
そのスポンサーに教養があるならともかく、今は知性の欠片もない人間でも、小金さえもてば、紳士淑女や芸術家の仲間入りができる時代。
芸術家の魂さえも金で買い、自身も、さも芸術家になったように振る舞う。
「まったく吐き気のする連中だ」と声に出したい人も少なくないだろう。
この作品がストレートな物言いを避け、とことん抽象的に表現しているのも、高尚な揶揄でしか仕返しできない、芸術家の立場の弱さを物語っている。
面と向かってスポンサーを批判すれば、どれほど才能のある芸術家も、たちまい干されて、名誉も奪われるから。
高尚を目指せば目指すほど、俗世から乖離し、妥協すれば、芸術の質が低下する。
そんなジレンマの行き着く先は、バカには理解できない、高尚な皮肉と、冷ややかな復讐だ。
一流の料理人が、「これが最高級のヒレ肉でございます。世界の珍味です」とおだてれば、イモリの肉でも食するような連中である。(作中には無いけれど)
馬の尻尾で描いた絵を「時価5000万円の名画でございます」と売りつけたところで、何の咎があるだろう?
そして、真の芸術家は、エセ文化人が、イモリの肉や馬の尻尾の絵で悦に入る姿を横目で見ながら、そんな彼等の生態を芸の肥やしとし、新たな創作に打ち込むのだ。
リチャードの人肉料理には、そんな気概と復讐心が溢れている。
あの場面、本当に勝利したのは、復讐に燃えるジョジーナでもなく、無残に殺されたマイケルでもなく、史上最低の卑しい料理を一口でも口にさせることができたリチャードではあるまいか。
エセ文化人が一流レストランを我が物顔で闊歩し、一番上等な席で、一番上等な料理に舌鼓を打つ時、その周囲で、本物の知性や愛や美は失われていく。
読書家のマイケルのように、声も上げずに、無残な形で。
それでも真の芸術は最後まで生き延びることを祈ろう。
エセ文化人に「クソでも食らえ」と銃を向けながら。
【レビュー】 この世は恥知らずの天下
※ レビュー その2です。
知性とは儚いものだ。
なまじ知性があると、出しゃばらず、欲張りもせず、人間の品を保つことに命を懸けてしまう。
その高潔さゆえに、世間に踏みしだかれてしまう。
その点、知性のかけらもないと、威張り、叫き、やりたい放題できる。
あたかも自身が世界の中心であるかのように錯覚し、世辞と称賛の区別もつかなくなる。
善が、知性が、と仰ぎ見たところで、結局は、恥知らずの天下だ。
強欲な者が生き残り、美や知性を尊ぶ者は良心を口に詰められて死ぬ。
そんな皮肉を、独特のカメラワークと絢爛豪華な美術で描いたのが、ヘレン・ミレン主演の『コックと泥棒、その妻と愛人』(The Cook, the Thief, His Wife & Her Lover)だ。
一見、エログロに見えるが、それなりの芸術的素養があれば、一つ一つに込められた風刺が理解できる。
見る人を選ぶ作品ではあるが、決して高飛車ではない。
それは、現代社会において誰もが感じる「違和感」をユーモラスに描いているからだ。
下品な美食家で、腕っ節だけが自慢の悪漢、アルバートの振る舞いに、誰もがこう思うだろう。
「おるおる、こういう奴。名前はあえて出さないけど」
最後のズドンは、あえて批判を口にせぬ大衆の真情だ。
そして、この世の美と知性と良心を平気で踏みにじる泥棒は、死んでもその事実に気付かないのである。
初稿 2015年12月12日