ルシィとジョルジュ・ドンの『ボレロ』
モダンバレエに戸惑う真澄
モダンバレエに戸惑う真澄
国際バレエ・コンクールで、モスクワの天才少女リリアナ・マクシモーヴァと互角に戦い、銀賞を獲得した聖真澄は、男性ソリスト部門で金賞を受賞したレオンのパートナーとしてニューヨークに渡ります。
モダンバレエ界の名振付家、ジョージ・バランシンの舞台に出演する為です。
(参考 レオンと真澄の『ドン・キホーテ』 二人で作るバレエと人生 ~パートナーシップとは)
しかし、クラシックしか知らない真澄にとて、モダンバレエの抽象的な動きは全く異質なもの。
バランシンのレッスンを受けるものの、身体が付いていかず、真澄は今までにない挫折感を覚えます。
しかも、レオンの相手役は、最初からベテランのマージに決まっていて、真澄はレオンの強い要望で、あくまでテスト的に呼び寄せられたに過ぎません。
「私にはモダンは踊れない。ずっとバランシンのダンサーとして活躍してきたベテランのマージには敵わない……」
真澄は弱音を吐きますが、レオンは「そんな事は自分で考えろ」と冷たく突き放すだけ。
そんな彼女に優しく手を差し伸べてくれたのが、レオンの友人で、優れた男性ダンサーのルシィでした。
どうしてもモダンのリズムをつかめない真澄が、「モダンは、クラシックと違って、感情表現が無いんですもの」と呟くと、ルシィは「モダンには感情表現が無いだって? 君はモダンをまったく理解してないよ! モダンほど自分を表現できる踊りはないのに!」と驚き、真澄を連れて、夜のバレエ・スタジオを訪れます。
そして、彼女の前で踊ってみせるのが、モーリス・ベジャールの振付による普及の名作『ボレロ』です。
演技の後、「初めてこのバレエを観た時は……」と興奮気味に語られるルシィの言葉は、実際にこの舞台を生でご覧になったであろう有吉京子先生の衝撃そのもので、他のエピソードをはるかに超える熱量で描かれています。
ルシィのモデルは、言うまでもなく、モダンバレエ史のカリスマ的ダンサー、ジョルジュ・ドン。
モーリス・ベジャールの分身として、その世界観をあますことなく具現化し、同性関係が噂されたほど強い結びつきがありました。
(ちなみに、モダン・バレエ振付家と男性ダンサーの同性愛的悲劇を描いた『ニジンスキー寓話』は、ベジャールとジョルジュ・ドンの関係がベースになっているそうです)
モーリス・ベジャールの最高傑作と言われ、世界の名だたるダンサーが熱望してやまない『ボレロ』は、ジョルジュ・ドンとモダンバレエの代名詞といっても過言ではありません。
モーリス・ベジャールの世界
『ボレロ』の世界はいたってシンプルです。
まるで宗教儀式を思わせるような円卓の舞台と、それを取り囲むダンサー。
スポットライトで徐々に照らし出されるジョルジュ・ドンは、まるで神託を告げる巫女のように厳粛、かつ官能的で、この世のものとは思えません。
この『ボレロ』を描きたいが為に、有吉先生は「真澄とルシィの恋」を設定されたのではないかと思うほど。
闇から浮かび上がるダンサーのイメージを、見事に漫画に描いた有吉先生の筆力にも敬服します。
ベジャールの『ポレロ』は、ラヴェルの仕掛けた単調増加関数的な亢進を、舞踊によって表現することに見事に成功している。
音楽が始まると、暗闇のなかにダンサーの右手首だけが浮かび上がる。その手首はゆっくりと頭上に差し上げられ、ダンサーのからだを上から下へと愛撫する。つぎに左手が宙に浮かび、つぎに両手、つぎに上半身、そして全身が照らし出される。舞台に現れたのは、赤く丸いテーブルの上で音楽に合わせてからだを小さく上下させながら踊るダンサーの姿。きわめて官能的な巻くわけである。
初め、テーブルの周りには二十数人の男たちが椅子に座ってうなだれている。そのうちテーブルの上のソリストの踊りとラヴェルの音楽が高揚するにつれて、男たちは一人、二人、三人と椅子から立ちあがり、あたかも神に仕える巫女のようにテーブルの周りで踊り始める。全員が立ち上がってソリストとともに激しく踊り始め、ついには全員が手を上に差し伸べるクライマックスに至って幕となる。
こちらが、ジョルジュ・ドンの『ボレロ』です。
ルシィのイメージですね。
どうしても映像が古いので、スマホなどでは凄さが分かりにくいですが、筆者が初めてNHK教育で見た時は、息が止まりそうなほど感動したものです。
実際に舞台で見たは、それ以上の衝撃だったでしょう。
こちらは、『ボレロ』の最高の踊り手と言われる、デュスカ・シフニオス、ジョルジュ・ドン、マイヤ・プリセツカヤ、ディアナ・ヴィシニョーワ、シルヴィ・ギエムの踊りの比較動画。
私も、シルヴィ・ギエムの日本公演を見たことがありますが、本当に幻想的な舞台でした。
この演目がモダンバレエの祖のように崇められ、今なお熱狂的なファンをもつのも納得です。
日本でも、こちらのパッケージが長い間、販売されていました。当初はVHSテープ、後にDVDに移行しました。
もういい加減、スケールアップして、ブルーレイ化してもいいほどなのに、著作権などの都合で難しいのでしょうか。
amazonプライム・ビデオでもモーリス・ベジャールの作品を視聴することができます。
Bolero and other works, Maurice Béjart
『ボレロ』の創作の背景
解説
この作品のポイントは、ラヴェルの仕掛けた単調増加関数的な亢進である。同じ旋律を偏執的に反復し、およそ十五分間クレッシェンドし続けるという楽曲の構成は、作曲当時(1928年)、画期的な方法だった。
音楽は小太鼓の刻むボレロのリズムで始まる。「タン・タタタ・タン・タタタ・タンタン・・・」という旋律は、一度でも『ボレロ』を聴いたことのある人は、最初の一小節を聴いただけで、その後に続く長大なクレッシェンドを予感して興奮するにちがいない。
≪中略≫
ラヴェルはこの曲を、ダンサー、イダ・ルビンスタインの委嘱で作曲している。初演は1928年、ニジンスカの振付、ルビンスタインの主役だった。その後もこの魅力的な音楽にさまざまな振付家が挑戦している。例えば、アントン・ドーリン、セルジュ・リファール、新しいところではナチョ・デュアト等であるが、現在もっともよく知られている振付はモーリス・ベジャールのものである。
ベジャールは始め、この作品を女性ソリストのために振付けている。1961年、初演はドゥスカ・シフォニオスが主役だった。しかし、二十世紀バレエ団のトップ・ダンサー、ジョルジュ・ドンが男性として初めて主役を演じたことで、この作品の評価は一段と高まった。
さらに、映画『愛と哀しみのボレロ』(1981年)のラストシーンにこの作品が使われたため、バレエ・ファン以外にまで一躍『ボレロ』とジョルジュ・ドンの名前が知れ渡ることになる。
ベジャール版の『ボレロ』は、女性では、マイヤ・プリセツカヤ、アリシア・ハイデ、シルヴィ・ギエム、マリ=クロード・ピエトラガラ。男性では、パトリック・デュポン、エリック・ヴ・=アン、リチャード・クラガンなどが踊っている。
『愛と哀しみのボレロ』 エンディングより
上述の映画『愛と哀しみのボレロ』のエンディングに盛り込まれたジョルジュ・ドンの踊りは、世界的にセンセーションを巻き起こしました。
日本でも、ラヴェルの音楽『ボレロ』がブームとなり、CDも飛ぶように売れたのを記憶しています。
『愛と哀しみのボレロ』は、フランス語の原題を『Les Uns et les Autres』(どちらか一つ)と言います。
第二次大戦を背景に、パリ、ニューヨーク、モスクワ、ベルリンで交錯する二世代4家族の人生を描いています。
本作が通の間でブームになった時、私はあまり興味がなくて、最後まで見たことがないのですが、とにかく、ジョルジュ・ドンの『ボレロ』が話題になったのだけは強烈に覚えています。(女性誌でも特集していたほど)
ジョルジュ・ドンとモーリス・ベジャールについて
SWANでは、ジョン・バランシン、ジェローム・ロビンズ、ジョン・ノイマイヤーの露出度が高く、モーリス・ベジャールのエピソードはルシィの『ボレロ』だけです。
上述の通り、モーリス・ベジャールのエピソードは、彼らをモデルにした『ニジンスキー寓話』で描かれているので、あえてSWANでは大きく取り上げなかったのでしょう。……というか、世界観が違う。
簡単にバイオグラフィーを紹介します。
1981年に公開されたクロード・ル・ルーシュの映画『愛と哀しみのボレロ』の振付を担当したベジャールは、それまでバレエといったら『白鳥の湖』、白いチュチュ姿のバレリーナしか思い浮かばなかった一般の人々に大きな衝撃を与えた。映画を通じて、人々は男性舞踊手の魅力に開眼し、バレエで妖精や王女の物語ではない、原題の若者の感情や行動が語れていることを知った。
彼のバレエの特徴は、人間の肉体の再発見――唯一、肉体を通してしか成立し得ない世界を描いていることだ。さらに彼は、観客とダンサーの一体化を目指す。
初期の出世作『孤独な男のためのシンフォニー』でベジャールは、踊りを単純化し、ストーリーではなく感情を盛り込むことによって、観客に、自分自身の心の内にある問題を発見させた。この一体化の思想は、その後、発表された数々の作品の中にも受け継がれている。
コンプレックスを逆手にとった修業時代
幼い頃から妹やいとことともに芝居ごっこに興じていたベジャールがバレエの道を志すようになったのは、14歳のとき、背骨を強くするためにレッスンを始めてからだった。プロになってからも跳躍力は評価されたが、小柄だったために、いい役はまわってこない。ヴィシーのレオ・スターツのもとで最初についた役は“害虫”だった。肉体的なコンプレックスは徹底したレッスンを求めることとなり、やがて視線、肩、腕、胸、みぞおちを強調した独自のスタイルが確立される。
コンセルヴァトワールのような教育機関でアカデミックな舞踊教育を受けていないベジャールは、指導者と仕事を求めてヨーロッパ各地をめぐった。パリの修業時代に通っていた教師の一人、ルーザンヌ夫人の思い出は、後年「パリのよろこび」となってよみがえる。
また幼いころに亡くした母の死をいまだに受け入れておらず、しばしば作品の中にそのイメージを見出すことができる。美しく、エレガントで、ときには殊勝。しかしすべてのものを包み込む寛容さをもった永遠の存在。ベジャールにとって、女性とは母性そのものなのだろうか。
ダンサーの魅力を120%引き出す力
何事も差別的な視点からではなく、目的の区別がつかなくなるほど一体化するのが好きなベジャールのスローガンは、「ダンサーを愛すること」。世に寛容な振付家は稀といわれるが、ベジャールは数少ないその中の一人。裏を返せば、ダンサー個人の力をうまく引き出して、それを最大限に利用する術をもっているということだ。自分の考え方を一方的に押しつけるのではなく、踊る人間の資質にすべてが委ねられた結果、作品の出来不出来もダンサーによって大きく左右されることになる。振付それ自体ではなく、振付の根拠となるべき肉体そのものが、ここでは問われるのである。
彼の作品を踊るダンサーが、原題の振付家にありがちな“一定のレベルに他逸して入れば誰でもよい”わけでないことは、こうした事情による。
ベジャールは、一番気難しそうに見えて、ダンサーに委ねるタイプなのかもしれませんね。
『ボレロ』にしても『アダージェット』にしても、ベジャールが作った・・というよりは、ジョルジュ・ドンが即興で踊っているようなイメージがあります。
映画でも、役者がアドリブで台詞を口にすることがありますが、バレエも、大筋は振付師が考えて、後はダンサーに委ねる場合もあるのでしょうね。
ジョルジュ・ドンの『アダージェット』
ジョルジュ・ドンとモーリス・ベジャールを語る上で、もう一つ、欠かせないのが、『アダージェット』(ADAGIETTO)です。
マーラーの交響曲第五番第4楽章『アダージェット』は、ルキノ・ヴィスコンティの名画『ヴェニスに死す』でも効果的に使われ、世界に強烈な印象を与えました。
また、この曲は、ローラン・プティも振付けており、『バラの死 DEATH OF ROSE』というタイトルで知られています。一匹の虫が美しいバラを死に至らしめる過程を描いた、哀しくも美しい小品です。
(詳しくは、マイヤ・プリセツカヤの『瀕死の白鳥』 THE DYING SWAN サン・サーンス作曲)
ジョルジュ・ドンの踊る『アダージェット』もまた、一人の男の孤独、愛と死に対する様々な感情が表現され、舞踊というよりは、寸劇のような印象。
ジョン・ノイマイヤーの『アダージェット』
ジョン・ノイマイヤーの『アダージェット』は、男女のペアで踊ります。
モーリス・ベジャール版が一人の男の内面にフォーカスするのに対し、ノイマイヤー版は男女の愛の高まりを描いており、官能的な内容に仕上がっています。
こちらはシルヴィア・アゾーニとオレクサンデル・リブコの『アダージェット』
白い、シンプルな衣装が綺麗ですね。
こちらはおまけ。『海賊』のソロです。
海賊というよりは、「ユニセックスな天使」という感じ。
この世のものとは思えない造形美ですね。
モダンバレエは難しい?
聖真澄は、ニューヨークで始めてモダンの世界に触れた時、大きな違和感を覚えます。
実は私もモダンバレエはいまいち分からなくて、観劇といえば、『白鳥の湖』や『眠りの森の美女』といった、クラシックな演目が圧倒的に多いです。
だから、「モダンバレエには感情表現がない」という真澄の戸惑いも分かるし、 『ボレロ』や『アダージェット』など、一通り、名作と言われるモダンの作品を見ても、積極的にそちらを見ようという気にはなれないんですね。
言い訳みたいですが、苦手なものは無理に好きにならなくていいし、分からないなら「わからない」でいいと思うんですよ。
プロのダンサーじゃないんだし、「分からないのは、バレエ・ファンとは言えない」みたいに思い込んだら、趣味のバレエ鑑賞も受験勉強になってしまうでしょう。
それより、自分が馴染みやすいものからトライして、徐々に心の敷居を低くしていく方がいいと思います。
近年は、ダンサーの個性を生かした、ユニークな演出も多く、YouTubeにもたくさんPR動画がアップされていますので、モダンな苦手な方も、ちょっとずつトライして下さい。
2010年4月30日