『あしたのジョー』が真っ白な灰になるまで
情熱の対極は魂の死
今時、根性とか、情熱とか、闘魂なんて言葉は流行らないかもしれない。
皆、あまりに現実生活が凄まじく、現時点で十分闘っています……というのが本音だろうから。
だが、その闘いは何の為なのか。
世間体の為か。
一斤のパンの為か。
己の意地や見栄ゆえか。
突き詰めて考えれば、およそ『闘い』などとは程遠い。
少なくとも、矢吹丈や力石徹がリングで見せた闘魂や情熱とは、まったく質が異なることに愕然とする人もあるのではないだろうか。
では、闘いとは何か?
矢吹丈や力石徹は、何の為に命がけで心身を鍛練し、リングで火花を散らしたのか。
それはひとえに自己に殉じる為だと思う。
自己に殉じるとは、「何ものかになりたい」「いい暮らしを手に入れたい」という自己実現の欲求や欲望とは違う。
それ以外に生きようがない、自分自身に対して人生の全てを捧げる――という意味だ。
ゆえに、彼等の中に「何ものか」という言葉は存在しないし、「あれもこれも欲しい」という欲もない。
何故なら、彼等は自分というものを誰よりも一番よく知っていて、それ以外に欲もなければ夢もなく、ただただ己に尽くすという、究極のシンプルライフを生きているからだ。
つまり、「○○になりたい」「○○が好き」という自己実現の欲求も超越すれば、自己実現の為に人生が存在するのではなく、人生の方から自己に飲み込まれていく――分かりやすく言えば、一年365日、24時間、朝から晩まで、それしか頭にない状態になっていく。
食べる時も、歩く時も、眠っている間さえも、ボクシング、ボクシング、ボクシング、ボクシング……。
目指すところは”世界最強の男”ではなく、自分の思い描く最高のパンチである。
ゆえに、チャンピオンベルトに手が届かなくても、ライバルに負けても、その一瞬、最高のパンチを繰り出せれば満足する。
もちろん負ければ悔しいが、それはあくまで結果に過ぎず、最高のパンチに向かって毎日が存在すること、それ自体が生きる目的になってしまっているわけだ。
だから、物語のラスト、ジョーはこうつぶやく。
燃えた。燃えつきたぜ。真っ白にな……。
勝った、負けた、家買ったの価値観ではない。
徹底して己に殉じたものだけが味わえる最高の充足感だ。
人生とは何か。
誰もが一度は問いかける青春の質疑に、彼等ならこう答えるだろう。
人生とは、ひたすら己を生きることだと。
真の自己実現は、夢も欲望も伴わない。
何故なら、既に自分が何ものであるかを知っていて、それ以外に求めるものなど無いからだ。
そこまで研ぎ澄まされるには、それ相応の意思や情熱が必要であるし、漫然とした思いには花も咲かない。
根性も、情熱も、だるいし、必要ない……というなら、それもいいだろう。
だが、その先にあるのは、緩慢な魂の死ではないだろうか。
己に負けることも人間らしさ : 力石徹のエピソード
「あしたのジョー」にはクライマックスが二つある。
前半は、永遠のライバル、力石徹との決戦。
後半が、世界チャンピオン、ホセ・メンドゥーサとの死闘だ。
孤児院で育った不良少年の矢吹丈は、下町のドヤ街で酔っ払いの元プロボクサー、丹下段平に絡まれる。
丈の素早い身のこなしから、段平はボクサーとしての優れた資質を見抜き、自分の手で育てようとするが、丈は関心も示さず、逆にチンピラの喧嘩に巻き込まれ、少年院送りとなる。
↓ 70年代は実際にこういう町並みがたくさんあった。
それでも丈の可能性を諦めきれない段平は、かび臭い少年院でクサクサする丈に葉書を送り、ジャブ、ストレートといった、基本の技を伝えようとする。
最初は小馬鹿にしていた丈だが、退屈もあって、段平の通信教育に興味を示すようになり、パンチの練習に励むようになる。
「右脇腹から、えぐりこむようにして、打つべし!」と、ベッドのマットレスを相手にパンチの練習に励む場面が印象的。
そんな中、同じ少年院に服役する現役プロボクサーの力石徹と運命の出会いを果たす。
腕っ節の強さが自慢の丈も、力石のパンチには敵わず、少年院を出たら、必ずプロのボクサーになり、力石を打ち倒すことを自身と力石に誓う。
『打倒・力石』という目標を得た丈は、丹下段平のボクシングジムを訪れ、本格的なトレーニングを開始する。
しかし、丈と力石が対戦するには、「体重(級」の違いという大きな障壁があった。
そこで、力石は決死の減量に挑み、ついに同じ級での対戦を実現する。
この過程で、もっとも印象的なのが、厳しい飲水制限に耐えきれず、力石が狂ったように地下室から飛び出して、水飲み場に駆け寄る場面だ。
しかし、水道の蛇口はすべて針金でぐるぐる巻きにされ、栓を捻ることができない。
その様子を見ていた白木ジムの令嬢、白木葉子は、
「冷たい水はあなたの渇ききった身体には毒だと先生が言っていたわ。
でも、ここに白湯があります。あなたが求めている冷たい水ほど美味しくないかもしれないけれど。
ごめんなさいね、水道の蛇口に針金を巻いたりして。いつかはきっと、こうなると思っていたの。
でも、今まで、これだけ頑張ったんですもの。
さあ、これ、あなたのよ。大丈夫。
私はあなたが渇きに耐えかねて、減量を諦めたことを悲しんだりはしていません。
それより、あなたがほんの少しでも人間らしい弱さを持っていてくれたということが、とても嬉しいの。
これを飲んだからといって、力石徹が、力石徹でなくなった、なんて言う人など無いのよ
と涙ながらに白湯の入ったコップを差し出す。
その思いやりに、我に返った力石は、「お嬢さん。そのお気持ちだけ、ありがたく飲ませて頂きます」とコップの水を床に流すのだ。
↓ これはファンビデオですが、忠実に再現されています
そうして、二人の対戦が実現し、丈も力石も死力を尽くして闘うが、最後は力石の強烈なアッパーで丈がノックダウン。夢の対戦は力石の勝利で幕を閉じる。
しかし、ジョーの放ったテンプル(こめかみ)への一撃が力石に致命傷を与え(ふらついて、ロープで後頭部を強打したのが原因)、握手を交わそうとしたところ、そのままリングに倒れ込み、帰らぬ人となってしまう。
好きなのよ、矢吹君!
力石のショックで、頭部へのパンチが打てなくなった丈は、プロのボクサーとして立ち直れないところまで追い詰められる。
そんな時、世界的なボクサー、カルロス・リベラが丈に勝負を挑む。
試合を通して二人は友情を結び、丈も自信を取り戻すが、カルロスは天才ボクサー、ホセ・メンドゥーサの必殺技、「コークスクリュー・パンチ」を無数に浴びて、パンチドランカーとなり、廃人になってしまう。
それはまた、丈の身体も蝕み始めていた。
一方、勝利に酔うホセは、「カルロスが負けたのはジョーとの対戦で大きなダメージを受けていたから」と聞かされ、自身の実力を知らしめる為に丈を次の対戦相手に指名する。
丈の病状を知る白木葉子は、丈のみを案じて、対戦を思いとどまらせようとするが、丈は葉子の思いを振り切り、世界チャンピオンの待つリングに上がる。
「今さら試合を中止すれば、莫大な違約金をチャンピオンや主催者に支払わねばならないでしょう。でも、そんなことは私がすべて責任を持ちます。だから……(思いとどまって)」という葉子に対し、
もう、すでにポンコツだからとか、勝ち目があるとか無いとか、そんなことじゃない。
それはあんたも、よーく知ってるはずだ。
俺はそうやってここまで来た。
そして、これからもだ。せっかくだが……出て行ってくんねぇか。ここは女の来る場所じゃねぇ。
あんたが出て行かねえんなら、俺が出て行く。
それでも涙ながらに「頼むからリングに上がるのは止めて。一生のお願い……」と思いを打ち明ける葉子。
好きなのよ、矢吹君。あなたが !
へ……? って感じの丈の表情がいいんですよ(*^_^*)
そして、葉子の肩を掴み、ここでキスでもするのかなーと思ったら……
「リングでよ……世界一の男が俺を待っている。だから行かなきゃな。」
「矢吹君……」
「ありがとう」
この「ありがとう」の一言に男の心情が詰まってるんですね。
大人になって見返すと、良さが分かります。
今ではこんなアダルトな恋を描いた漫画もなくなりましたけど^^;
圧倒的な強さで攻め続けるホセにジョーも苦戦し、幾度となくダウンするが、その都度、立ち上がり、自身の得意技で応戦する。
「クロスカウンター」に「トリプルクロス」。
そして、「燃えた、燃えつきたぜ……真っ白にな……」。
判定を聞く前に、丈は静かに目を閉じ、結果的に「判定負け」となってしまうが、ホセもまた髪が真っ白になるほど消耗し、廃人みたいになってしまう。
丹下段平が丈に声をかけた時、すでに返事はなく。
漫画史に残る有名な場面です。
なお、この作品で、原作者「高森朝雄」と名乗っているのは、「愛と誠」の原作者でお馴染みの梶原一騎さんです。
「巨人の星」のようなスポ根漫画と思われたくない――という理由から、ペンネームを変えられたそうです。
『燃えた、燃えつきたぜ、真っ白にな』の意味
この世に生まれて「自分のやりたいことが分からない」「好きなことが何も無い」というほど淋しいものはないと思う。
逆に言えば、「何か」が見つかった時点で、その人生は8割成功したも同じ。
何も無ければ、お金を得ようと、世間の賞賛を得ようと、常に虚しさを覚えて、何も残らないのではないだろうか。
「何か」の中身はなんでもいい。
歌うこと。描くこと。夜釣り。自家菜園。パッチワーク。プログラミング。etc
大好きなアーティストの聖地巡礼も一つの生き甲斐だし、好きな絵を見る為だけに地球の裏側まで出掛けることも、他の人にはまるで無意味でも、本人には至上の喜びだったりする。
自分の為の「何か」。
自分だからこそできる「何か」。
その為に生きたい。
それゆえに生きていける。
それほどまでに自分を熱く懸けられる「何か」があって初めて、生きる意味や自己実現を実感することができる。
いろんなことに興味はあるけれど、必死でやったり、失敗した自分を笑われるのがイヤ……という気持ちでは、悦びすら手に入れることはできないだろう。
もっとも、「何か」を持っている人は、周りの嘲笑や失敗など、まるで苦にならないほど突き抜けているのだが。
アニメ版『あしたのジョー』のOPの作詞を手掛けた寺山修司は、自著『寺山修司から高校生へ 時速100キロの人生相談』でこんな事を書いている。
それにしても、きみに限らず、だれもかれもが臆病すぎる。
カシアス・クレイは、フレイザーと戦う前に、「あなたはどれくらい強いですか」などと手紙を書くだろうか。
「好きな気持ちよりメンツが大事」「必死にやって、馬鹿を見たくない」という人は、物事に取りかかる前から「あなたはどれくらい強いですか」という手紙をあちこちに書きまくっているのと同じではないだろうか。
しかし、そんな手紙を書いて、成功の保証を取り付けている間に、時間はどんどん過ぎていくし、自分の好きなことをして生きていくというのは、丈の言うように「もう、すでにポンコツだからとか、勝ち目があるとか無いとか、そんなことじゃない」だろう。
最初から無敵のチャンピオンなど無いし、みな、しくじり、恥をかき、滅多打ちにされてマットに沈んでも、「それでもやりたい」という気持ちで立ち上がり、「何を間違ったのか。どうしたら上手く行くのか」ということを死ぬほど考えて、今に至るのではないだろうか。
『あしたのジョー』のクリップでは、丈を慕う女友達のノリちゃんが、凄惨な丈の日常を見て、
「毎日毎日、薄暗いジムに閉じこもって、縄跳びしたり、サンドバッグを叩いたり、、、
食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まず、悲惨だわ」
とボクシングが全ての丈の青春を嘆く。
だが、丈の答は非常にシンプルだ。
よく分かんねぇけど、一つだけハッキリしてるよ。
俺、拳闘ってやつが好きだからやってきたんだ。
まさにそれ。
自分の好きなことを貫くのに、理由などあるだろうか。
だから、丈は、世界チャンピオンのホセ・メンドゥーサに挑戦する時も、ホセに「あなたはどれくらい強いですか」なんて手紙は書かない。
ホセが「僕の強さはこれくらいです」と返事をくれて、勝てる見込みがあれば戦う。
そんなものは好きでも、生き甲斐でもなく、ただ周りに自慢したいだけ、それだけ。
失敗すれば、みじめな屍となり、恨み辛みが残るだけ。
だが、丈のように、「好きだから」、それだけが理由で貫いている人間は、灰も残らないほど、真っ白に燃えつきることができるのだ。
ノリちゃんの言う、青春を謳歌する、ってのとは、ちょっと違うかもしれないけど、
俺は俺なりに、今まで燃えるような充実感を何度も味わってきたよ。血だらけのリングの上でよ。
ブスブスと、そこらにある、見てくれだけの不完全燃焼とは訳が違う、
ほんの瞬間にせよ、眩しいほどに真っ赤に燃え上がるんだ。
そして、あとには、真っ白な灰だけが残る。
燃えかすなんか残りゃしない。
真っ白な灰だけだ。
力石だって、あのカルロスだって、きっとそうだったんだ……!
今は「好きなことをして生きる」がトレンドだが、正解は「好きを貫く」だろう。
そして、好きを貫くには、生半可な憧れや欲望だけでは絶対に達成できないのだ。
※ 「好きを貫く」という言葉は、『ウェブ進化論』で有名な梅田望さんの言葉です。
灰も残らぬほど創作に燃え尽き
ニュース記事【ちばてつやさんが「わいせつ表現におおらかさを】を読んで
(現在この記事は削除されています)
このニュースを目にする前、私は、日本から送られてきた「ガラスの仮面 42巻」を読んで、消化不良を起こしていた。
マヤと桜小路のサイドストーリーばかりが描かれて、肝心な、紅天女の試演の話がちっとも進んでないじゃないか!
何年かぶりに新刊が発売されたとあって、家族に頼んで42巻を送ってもらったのだが、この展開にはがっかりだ。
背景もすっかり現代風に変わり、カツオとワカメが、ネットでチャットしているような違和感を覚えた。
それでも、三行半を突きつける気にはならないんだよね。
やっぱ、好きだから。
サイドストーリーで盛り上がってもいい。
桜小路が気持ち悪くてもいい。
死ぬまでに完結してくれ。
それさえ果たしてくれたら、私は何も言わないよ。
……そんな気持ちです。
ところで、「オチに苦しむ」といえば、非常に有名なのが、スポーツ漫画の傑作「あしたのジョー」だ。
梶原一騎の原作&ちばてつやの作画で連載された「あしたのジョー」も、いよいよ佳境に入り、下町のヒーロー、矢吹丈が、いよいよ世界チャンピオンの座をかけて、華やかなリングで闘うことになった。
対戦相手は、必殺技コークスクリュー・パンチで、何人ものボクサーを廃人にしてきた、無敵のチャンピオン、ホセ・メンドゥーサ。
ジョーが苦戦を強いられるのは必至の上、ジョーの身体はすでに深刻なパンチドランカーの症状に蝕まれ、これ以上闘えば、勝ち負けはおろか、命の保証すらない状況だ。
TVドキュメンタリーによると、この試合の結果、すなわち「あしたのジョー」の結末をめぐって、原作者の梶原一騎と作画のちばてつやの間で激しい口論となり、ついには梶原一騎が「勝手にしろ!」とぶち切れたとまで言われている。
丈を勝たせれば、物語はありきたりのスポ根漫画になってしまうし、負ければ、丈の闘いはすべて無駄になってしまう。
勝ちでもなく、負けでもない、万人が納得いく結末とは何なのか。
一人ですべてを負うことになった、ちばてつやは、夜も眠れないほど苦悩したという。
そんなある日、アシスタントの一人が、すでに発行されていた単行本をちば氏に差し出した。
そこには、丈を慕う女友達に対し、ジョーが自分の人生について、「真っ白になるまで闘う。灰なんか残らないほどに……」と語る場面が掲載されていた。(上記のノリちゃんとの会話)
「これだ !」と悟ったちば氏は、次のようなエンディングを完成させる。
「燃えた……燃え尽きたぜ……真っ白にな」
最後の1ページに描かれた丈の安らかな微笑みは、まさに漫画史に残る名場面だ。
勝ちでもなく、負けでもない、万人の納得いく勝利がそこに描かれている。
そんな結末を、美内さんも用意しておられるのだろうか。
マヤが勝っても、亜弓さんが勝っても、おそらくファンは納得しない。
「紅天女を演じる」以上の勝利を、ファンはマヤに期待しているからだ。
そんな事を考えていたら、上記のニュースが目に入った。
ちば氏の漫画に対して、どんな結審が出るかは分からないが、「チャタレイ夫人の恋人」みたいに、作品の評価は後にいくらでも変わるもの。
それこそ、勝ちでもなく、負けでもない、結審を超えた漫画家の勝利というものを見せて頂きたいと思います。
初出 2005年秋
1970年代の青少年を熱狂させた学園ドラマの金字塔。ブルジョア令嬢・早乙女愛と男の美学を貫く太賀誠の恋は哀しくも美しい。花園スケバングループの『影の大番長』や新宿マフィア緋桜団など、悪役も魅力的で、名言の宝庫でもある。
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