映画『アマデウス』の魅力
作品の概要
アマデウス(1984年) - Amadeus
監督 : ミロス・フォアマン
主演 : F・マーリー・エイブラハム(宮廷音楽家サリエリ)、トム・ハルス(アマデウス・モーツァルト)、エリザベス・ベリッジ(アマデウスの妻・コンスタンツェ)
アマデウス 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ&DVD(2枚組) [Blu-ray]
本作は、TVロードショー向けに編集された吹替え版も素晴らしく、ファンの熱望に応えて、追加収録版がリリースされています。
アマデウスを演じた三ツ矢雄二さんの「ヒャハハ笑い」が非常に印象的。
役者のトム・ハリスもバカっぽくて良かったですが(゚▽゚*)
★三ツ矢雄二、日下武史、宮崎美子 他による日本語吹替音声を収録
★テレビ朝日「日曜洋画劇場」版
★ディレクターズカット版用に吹替欠落部分を追加収録
★LD-BOXにのみ収録されていた納谷悟朗(ピーター・シェーファー)&納谷六朗(ミロス・フォアマン)による幻のコメンタリー吹替を収録した劇場版DVD付
★劇場版DVD本編にも日本語吹替音声を収録
あらすじ
ウィーンの宮廷音楽家として栄光を一身に集めるサリエリは、神童と名高いウォルフガング・アマデウス・モーツァルトと邂逅するが、想像していた傑物とは全く正反対の、バカで、卑しい若者だった。「なぜ神は自らの代理人に、かくも下劣な若造を選んだのか」。サリエリは歯ぎしりするが、アマデウスの才能を誰よりも理解しているのは、サリエリ自身だった。
やがてアマデウスの音楽はウィーンの聴衆に好意を持って迎えられるが、サリエリは憎悪をたぎらせ、アマデウスに黒い罠を仕掛ける。
謎の男から「死者に捧げるミサ曲(レクイエム)」の作曲を依頼されたアマデウスは、高額な報酬を目当てに引き受けるが、アマデウスの身体はすでに病に蝕まれていた……。
見どころ
神童モーツァルトと宮廷音楽家サリエリの葛藤を描いた映画『アマデウス』は、チェコ・スロヴァキア出身の監督ミロス・フォアマンが指揮を執り、当時のクラシック界の一流どころを招いて、絢爛豪華な音楽劇に仕上げた大作です。
アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、美術賞など、各国の映画賞を総なめにし、サウンドトラック盤も飛ぶように売れました(日本でも一時期、モーツァルト・ブームになった)
この後、ベートーヴェン、ショパン、マーラー、ラフマニノフなど、クラシック界の巨匠を題材とした作品は数多く作られましたが、今なお本作を凌ぐクラシック音楽映画は存在しません。
主役二人の熱演もさることながら、全編に流れる音楽は、モーツァルトの解釈で定評のある巨匠ネヴィル・マリナーが指揮し、サミュエル・レイミー、ジョン・トムリンソン、イゾベル・ブキャナなど、当代一のオペラ歌手が美しい歌声を聞かせる豪華版。サウンドトラック盤だけでも価値があります。
なぜ神は自らの代理人にかくも下劣な若造を選んだのか
天才と凡才の苦悩
映画『アマデウス』は、一人の老人が首を切って自殺を図る場面から始まる。精神病院に収容された老人は、”魂を救いに来た”神父と面会し、これまでの経緯を語る。
老人は神父に、自身の作品を弾いて聴かせるが、神父はまったく知らない。だが、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の出だしを弾いてみせると、神父はすぐに反応する。
かつて大衆に愛された自身の作品は忘れ去られ、今は亡きモーツァルトの曲が語り継がれているのだ。
老人はかつての栄光を振り返る。
敬虔なクリスチャンで、神の為に美しい音楽を創造することを自らに課した作曲家のサリエリ。
時のオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ二世が大の音楽好きであることも手伝って、サリエリは宮廷作曲家という地位と名声を手に入れる。
だが、遠くから聞こえてくるのは、神童モーツァルトの評判だ。いよいよ皇帝の御前に招かれたこともあり、サリエリは気が気でない。
音楽の天才、モーツァルト。
どんな男なのか。容姿は? 人柄は?
天才の名を欲しいままにするからには、天稟がきらめくような人物に違いない……。
と思い描いていたら、女といちゃつき、猿みたいな声で笑う、とんでもない下種だった。
なぜ神は自らの代理人にかくも下劣な若造を選んだのだ。
人柄卑しい者が天賦の才に恵まれるのは、よくある話。
サリエリはなまじ才能があるだけに、モーツァルトの天才が誰よりも理解できてしまう。
私の賛歌など臨まぬなら なぜ切望を与えたのだ
熱い欲求だけで 才能は下さらない
自分が神の道化と悟ったサリエリの胸に黒雲が渦巻く。
そうとは知らず、意気揚々と宮廷にやって来たモーツァルト。
皇帝からオペラの作曲を依頼され、モーツァルトはドイツ語の作品を提案する。
だが、それは宮廷音楽の伝統を守ってきた劇場監督らの神経を逆なでするものだった。
それでも必死にドイツ語オペラの可能性を説き、ついには実現する。
現在では偉大とされるモーツァルトも、当時は慣習の破壊者だったのだ。
スヴィーテン男爵は中立派。モーツァルトの才能を認めながらも、改革には慎重。
心密かにモーツァルトのファンである宮廷音楽長(左側のおじちゃん)。難色を示す関係者の中で一人グフフと喜んでいる。
劇場監督のローゼンベルク伯爵は、慣習を無視したやり方には断固反対。
それでも自国の文化を愛するヨーゼフ皇帝の理解を得て、初のドイツ語オペラ『後宮からの誘拐』を完成させる。
しかもサリエリの恋するソプラノ歌手がモーツァルトの舞台で歌い、おまけに彼女とデキていたという、おまけ付き。
ところで、芸術家にとって最大の賛辞は何だろう。
「上手い」か「綺麗」だろうか。
正解は、『新しい』である。
皇帝は自らの印象を「うーん、そうだな、新しいな」と語り、モーツァルトも嬉しそうに頷く。「そうです、新しい音楽です!」。
今でこそ古典の中の古典、教科書のような作品であるが、当時はとても斬新だった。
別の場面で劇場監督が「若者が目立とうとして書いた音楽です」と揶揄するが、真の才能はいつだって時代の敵なのだ。
上手いとか綺麗とかいう修辞は技術を表す言葉であって、創造性を意味する言葉ではない。
芸術家にとっては、誰も見たことのない、他の何処にも存在しない、新しい物を作りだす事こそが至上の喜びなのだ。
とはいえ、宮廷の音楽界は旧態依然とした世界。たまたま最初のオペラが当たったぐらいで、そう簡単に名誉と大金は手に入らない。
生活を危ぶむ妻のコンスタンツァはサリエリに支援を求めて、モーツァルトが書いた譜面を見せる。
そこでサリエリが目にしたのは、驚愕の才能だった。
曲想のまま綴られた楽譜。どこにも書き直しはなく、どれもがバラエティに富んでいる。
サリエリの手から楽譜がこぼれ落ち、音楽の神に愛されているのはどちらかを思い知る。
たった一曲でいい
私への愛を示してくださるなら モーツァルトを助けます
というサリエリの願いは、ついに聞き届けられることはなかった。
嫉妬と憎悪にかられたサリエリの心は神への復讐にひた走る。
にもかかわらず、依然として、モーツァルトの最大の理解者はサリエリ自身だった。
おどろおどろしいオペラ『ドン・ジョバンニ』はサリエリの圧力で5回で打ち切られるが、その5回ともサリエリは観劇し、音楽の意味を理解した。
そして、亡父の怨念を利用して、モーツァルトを破滅させることを思い付く。
黒騎士の衣装をまとい、モーツァルトにレクイエムの作曲を依頼するのだ。
その結果、モーツァルトは早世し、サリエリは生き残る。
だが、その後の32年間はサリエリにとって生き地獄だった。
モーツァルトの音楽が見直されるのとは対照的に、サリエリの存在は薄れ、忘れ去られていく。今では演奏もされない凋落を味わいながら、モーツァルトの不滅の輝きを見届けなければならない。
サリエリの告白に衝撃を受ける神父に言う。
凡庸なる人々よ。罪を赦そう。
ラストシーン、精神病棟に送られるサリエリの姿に、モーツァルトの馬鹿笑いが重なる演出が素晴らしい。
あれは神の嘲笑――凡庸な人間の愚かさを嘲う。神になりたがる者、神を妬む者、神を真似る者。神の目から見れば、全てが滑稽で、浅はかに映る。
それでも、サリエリはその罪を赦す。
なぜなら、彼こそ才能に見放された者たちの最大の理解者だからだ。
神は凡人の努力を嘲笑う
これも印象的なパート。
サリエリはモーツァルトの初の宮廷訪問を歓迎してマーチを作曲する。サリエリは自分で演奏するつもりだったが、音楽好きのヨーゼフ二世がすっかりその気になり、下手なピアノを披露。その間にモーツァルトが皇帝の間に入場する。
動画ではカッとされているが、ここで宮廷音楽家らを交えて『後宮からの誘拐』について話し合いがなされる。
その後、サリエリはモーツァルトに歓迎マーチの楽譜を授けようとするが、モーツァルトは「すでに記憶しました」。
「一度、耳にしただけで憶えられるものか」という周囲は訝るが、モーツァルトはあっさりピアノで再現してみせる。
それだけならまだいいが、モーツァルトは、サリエリが苦心して作った行進曲の粗に気づき、その場で変奏。
いくつものバリエーションを見事に弾きこなし、最後に「キャハハハハハ」と馬鹿笑い。
これが才能の差だ。
天才は、凡人が10年かけるものを、一夜でこしらえてしまう。
ラストのモーツァルトの笑いは、凡人の浅はかさな苦闘に対する神の嗤いだ。
いつまで希望を抱き続けるのか。まだ己に才能があると信じているのか。
これこそが、本当の神業。天才のなせる技。いつまで夢を見ているつもりかね、凡人くん――と。
ヨーゼフ皇帝のピアノも微笑ましい。習いたての子供の演奏がちょうどこんな感じ。
こっちで躓き、あっちで詰まり、傍で聞いててイライラする。私は絶対に教師に向かない。
※ 作曲ってのは、こうやるんだよ、バーカ って感じの笑い↓
【コラム】 才能とは、人類への贈り物(ギフト)
世の中には、『天才コンプレックス』というか、才能が欲しくて、欲しくて、たまらない人がいる。お金よりも、地位よりも、何よりも、才能のある人と思われたい、それが自分であれ、我が子であれ、才能さえあれば幸福に生きていけると盲信し、才能ビジネスにころりと騙されるタイプだ。「我が子をみるみる天才にする10の方法」とか、「驚異の○○法! あなたの人生が劇的に変わる」とかいうアレ。
だが、才能を追いかけている時点で、才能が無いと自覚しているようなものだし、才能の無い者が才能を追いかけても、行き着く先はたかが知れている。第一、天才の自覚のないものが、どうやって天才になる方法を教えるというのか。そもそも、教えられるような才能が『天才』といえるのか。天才とは誰にも真似できない技術や感性を有しているから『天才』というのであり、教えられるものなら、それは天才ではなく、特技である。そして、特技に長けた人なら、この世に掃いて捨てるほどいる。
それより、努力を努力と思わぬ分野で勝負した方がいい。絵の勉強の為に10000枚のデッサンを難なく描ける人は、それだけで十分に才能があるし、義務でも苦痛でもなく、一日十二時間、ピアノの基礎練習ができるのも、その道の人である。それが本田宗一郎の言うところの『得手に帆を上げて生きる』だろうし、辛い努力は不幸でしかない。
能力が目的ではなく、成功への手段になってしまえば、後は底なし沼しかない。「美しい音楽を奏でて、聴衆の心を動かす」のが目的ではなく、ピアノを上手に弾いて有名になる為のツールになれば、演奏の価値は観客動員数で決まるようになる。さながらモーツァルトを羨むサリエリみたいに、一生、自分より成功した人間の影を追いかけて苦しむことになるだろう。
そういう意味で、サリエリは、サリエリでいいのだ。
サリエリがモーツァルトになりたがっても、どこまでも似非モーツァルトでしかないし、モーツァルトの二番煎じを奏でたところで、誰も感心しないだろう。
それにサリエリが無能であれば、オーストリアの音楽環境はもっと乏しいものだったろうし、フランツ・ヨーゼフ二世もそこまで熱心にパトロンにならなかっただろう。モーツァルトが世に出てきた時、サリエリをはじめとする音楽関係者の尽力で土壌が成熟していたから、モーツァルトも活躍できたわけで、もし、オーストリア国民がアリアの一つも解せない低レベルな集団であれば、たとえモーツァルトが逆立ちしてピアノを弾いても、誰も見向きもしなかったに違いない。
才能の真価など後世まで分からぬこともある。
今になってようやくサリエリの音楽が見直されているように、評価や人気も時代と共に変わる。
逆に今日のスターが百年後にはすっかり忘れ去られることもある。
一つだけ確かなのは、才能とは、人類への贈り物(ギフト)ということ。
個人の我欲や周囲の思惑を遙かに超える。