作品の概要
血は立ったまま眠っている(1960年) ・・ 『文学界』に掲載
作 : 寺山修司
演出 : 浅利慶太
出演 : 劇団四季
音楽 : 松村禎三
美術 : 金森馨
照明 : 吉井澄雄
あらすじ
1960年代の安保闘争のまっただ中。
テロリストを自称する「灰男」、「良」は革命を目的に、爆弾を仕掛けようとするが・・
女友だちのペギー、詩を書く少女・夏美、床屋らとの会話が示唆に富んだ、寺山修司の戯曲・処女作。
初期三部作の一つ『星の王子さま』もそうだが、シェイクスピアのような起承転結のあるドラマではなく、台詞やモチーフを愉しむ、詩的な作品である。
一場面、一場面が、様々なメッセージをたたえた抽象劇であり、「詩の朗読会」のような印象がある。
実際の舞台は見たことがないので、何ともコメントのしようがないが、随所に閃くような言葉が散りばめられ、文章として読んだ方が初心者には分かりやすいのではないだろうか。
名言
本当は自由なんかちっとも欲しくないくせに
良: 刺青、と言ってもただの刺青じゃないんだ。「自由」って彫ったんだよ、お姉さん、右腕のつけ根のところに。
夏美: 自由 って?
良: そうだよ、自由だよ(シャツをめくって)見てごらん!
夏美: 本当は自由なんかちっとも欲しくないくせに
『自由』という言葉は水戸黄門の印籠だ。自由の名の下には誰も逆らえない。
表現の自由、選択の自由、個人の自由、国家の自由、etc
絶対正義で、永遠の理想。
もちろん、その通りだが、自由が人間を幸せにするかといえば、決してそうではなく、自由の為に道半ばで迷っている人もたくさんいる。
自分の好きなようにできて、なおかつ生活も保証されるような自由など、どこにも無いのだけれど、こと『自由』に関しては、魔法の杖のように語られることが多い。
自由の本質は、孤独で、不安定で、脆いものだ。
口では自由を叫びながら、本質的には、支配され、庇護されたがっている人も多い。
自由を求めながら、その場を離れようとしないのは、自由のリスクを負う勇気がないからだろう。
自由は人間と社会の解放者ではあるけれど、同時に孤独と不安をもたらす死に神でもある。
生き神と死に神と、同時に手なずけながら道を切り開けるものは少ない。
良も、自由に憧れるだけ、本当のところ、自分が何を為すべきか、この世に何が必要かなど考えちゃいない。
自由という言葉がもつ開放的な響きに憧れているだけで、自分の立ち位置や本当の望みさえ分かってないような気がする。
『自由』は他人に認めさせるものではない。
己の中に深く静かに宣言するものだと思う。
ぼくは自由に恋していたのだ
良: きみは海を見たことってある? ぼくねえ。ことしの夏はじめてみたんだけど海ってのはあれはやっぱり女なのだろうか? 海はフランス語で女性名詞なんだけど。そうそう自由はどっちだと思う。ラ・リベルテ、女だ。女なんだな、自由ってのは……ぼくは自由に恋していたのだ。
上記に続く台詞。
「本当は自由なんか欲しくないくせに」という夏美の言葉を裏付ける。
良にとって、自由は美しい憧憬みたいなもの。「自由に恋していた」というのはその通り。
姉さんの年が、そのまま世界の年のような気がする
良: これを読んでみて下さい。
灰男:
わが撃ちし鳥は拾わで 帰るなり
もはや飛ばざる ものは妬まぬ
・・・何だ、歌じゃないか。
おれたちは詩や歌なんて用はない(と、投げ出す)良: 何をするんです
灰男: きみが、書いたのか。
良: 姉さんです。
灰男: それを何できみがもって歩いてるんだ。
良: 僕とちがって姉さんは勇気があります。それに学問がある。十八なんだけど、ぼくには姉さんの年がそのまま世界の年のような気がするんだ。それにぼくと血がつながっているくせに詩人なんです。
良(=17歳。自動車修理工)は、灰男(=23歳。テロリスト)の舎弟みたいなものだ。
「がらすがあったら石をぶつけろ。壁があったらけとばすんだ」という灰男と一緒に、物を盗んだり、壊したり、を試みている。
そのくせ、どこか臆病で、躊躇いもある。
破壊と従順の狭間に立ち、現実を憎むことも、変えることもできない良にとって、夏美は別次元に生きる人。
この世の中において、堂々と詩を書けるのは、『自分の心』というものをしっかり持ち続けられる強さに他ならないから。
他人の首に剃刀をあてられるのは、他人に信用されているから
床屋: おれが床屋になったのはなぜだと思うね。
南小路: 毎日鏡をおおっぴらに見られるからですね。
床屋:
いいや違う大違いだ
おれはな、いまの時勢みたいに人が信用できなくなってるときに、他人の首にじゃりじゃりっと剃刀をあてる仕事をしていられるのは、自分が他人に信用されているからだと思ってるのさ。な、そうだろう。誰だって仇の剃刀に自分の喉をあずけっこねえやな。
≪中略≫
おれは近頃ふっと思うんだがな。だんだんとこう時勢がわるくなってくると床屋がふえるんじゃないかと思ったりしてね。
町中の男という男がみんな床屋になってしまったらどうだろうね、と。ぞっとすることがあるんだよ。
朝、店のあめん棒がくるくると廻り出す。
無論町じゅうの全部の家の前でだ。
客は一人もいない。
男たちはめいめいに鏡に向かって自分の首を剃りはじめる。
自分さえ信用出来なくなった奴は、ひょい、ずばりっ、だ。な、南小路。
信用ってことが何より大事な世の中じゃねえか。
床屋というのは不思議な職業で、他人にハサミやカミソリを当てても咎められない、
客も文句を言うことはないし、そこには無言の信頼がある。
今までも床屋が散髪中に人を襲ったという話は聞いたことがないし、考えようによっては、他人さまに一番信用されている職業かもしれない。
去年の汽車に ことしのおいらが乗るってことはできないだろう
子供: だけど待ってたって永久に汽車にのれないって知らなかったんだ、ねえ張さん、去年の汽車は、今、すぐそこをでも走ってるよ。
張: ちっとも見えないじゃないか
子供:
目がわるいからだ。去年の汽車は、こんな夜でもすごい轟音でおれたちの目の前を走っている。ゴオゴオってすごい音をたててね。
……ただいくら走っても走っても去年の汽車にことしのおいらが乗るってことはできないだろう。
時は足早に過ぎ去る。
自分は何も変わらないのに、世界の物事は物凄い勢いで傍らを走り去っていく。
過ぎ去ったものに、憧れても、悔やんでも、どうすることもできない。
それを諦念とするか、後悔のままとどめ置くかはその人次第。
ただ一つ、確かなのは、去年の汽車に今年のあなたが乗ることはできない、ということ。
歴史を信じないものは歴史に復讐される
歴史というのは難しい。家族史でさえ、誰が言ったの、言わないので、口論になる。
妻: 「あの時、福岡に移住しようと言ったのはアナタじゃないの」
夫: 「オレはそんな事は言ってない」
妻: 「いいえ、言いました。西区のマンションのパンフレットをもって来て、こういう所に住まないか、と勧めたのはアナタですよ」
夫: 「オレは”こういう所がいいな”と言っただけで、引っ越すとまでは言ってない。引っ越しを決めたのはオマエじゃないか」
妻: 「そりゃあ、決めたのはアタシですけど、最初に何所にするか相談した時点で、あなたが西区を押したから、そうなのかと思ったんじゃないですか」
夫: 「そんなものはオマエの思い込みだ」
妻: 「じゃあ、どうして西区がいいな、など言ったんですか」
夫: 「いいなと思ったから、いいなと言ったんだ」
妻: 「じゃあ、あなたにも責任の一端はあるでしょう」
あとはエンドレス。
まして国家間のイザコザなら、いわずもがな。
誰がやったの、彼がやったの、自国に都合のいいように記録を編纂し、他国より有利に運ぼうとうのは、いずこも同じだろう。
しかし、どのように語り継ごうと、史実というのは厳然と存在するわけで、爆弾が勝手に歩いて爆発するわけでもなければ、鉄砲がひとりでに相手国の将校だけ狙い撃ちするわけでもない。そこには必ず、計画した人間があり、指示した人間があり、実行した人間が存在するわけで、その事実を明白にするのが『歴史』であり、是非を問うのは『解釈』だと思うのだ。
歴史に忠実に……というのは、「爆弾を落としたから、○○国が絶対に悪で、永久に許すまじ」という話ではなく、そこに至るまでの経緯を多角的に分析し、未来に活かすことだ。感情的に断罪するのはジャッジであって、歴史にのぞむ態度ではない。このあたりを履き違えると、真の意味での歴史的考察はストップしてしまうし、どちらかを断罪したところで、双方にとって良き教訓になることはないだろう。
『歴史を信じない者』とは、自分に都合が悪いからと、あったことを無かったことにしたり、誇張したり、削減したり、一方的にストーリーを書き換えてしまうことをいう。それは一時期、物事を有利に運ぶかもしれないが、事実は事実として永久に変わらないのだから、いつかは自分自身が書き換えられ、糾弾されることになる。歴史に裏切られるというのは、そういう意味だ。真実は決して黙ってないのである。
一方、既存の歴史に拘る者は、検証しようとする世の動きの中で孤立する。大多数が見直しを迫る中、何が何でも黒と言い張る者が、どうして共感を得られるだろう。
歴史と向かい合うには、謙虚さと客観性が何よりも大事、という喩え。
『きみたちのその子供っぽい、思いつきの行動』というのは、革命を起こそうと、自衛隊の兵舎の壁に『自由』と書いたり、部品を盗んだりしている良と灰男のこと。
灰男:
おれにできたことは表札やラッパを盗んできて、それに唾をかけ、蹴飛ばすことだったんだ。
おれはどんな小さな、たとえ空き缶ぐらいの栄光でさえゆめみたりはしなかった。
盗んだり、壊したり、叫んだり、揶揄したり。彼らは何かしているような気がするだけで、ちっとも社会の方に向いてない。そんなものは往来のお祭り騒ぎと同じで、何をも変えることはない。では、彼らはどうすべきなのか。真に改革すべきは、兵舎の壁や制度ではなく、人間の意識の方だ。まず内面が変わり、ついで外面に現れる。それは非常に遠回りかもしれないが、確実に物事を変えていく。一部の企業では育休や定時帰宅が推奨されているように。
歴史に影響するには時間がかかる。五年、十年、時に、百年、二百年。
歴史は私たちを失望させることもあるが、正しいものには報いる部分もある。
短絡的な革命家が頓挫するのは、物事を急ぎすぎるあまり、表面だけ壊して、何かを成した気分になるからだろう。
みんな目ざめたら、また一つの歌をうたいはじめるしかない
男:
歴史を信じない者は歴史に復讐される。
ところが歴史だけしか信じない者は孤独になる。灰男:
そんなこと位わかっているよ。男:
いやいや、わかっているとは思えない。
言ってみれば君らのしてることは歴史とは無関係なんだ。
≪中略≫
きみたちのその子供っぽい、思いつきの行動にしてみても個人的な非合理主義の侵略性ということで説明がついてしまう。
結局スポーツですよ……それも町の真ん中でアメリカンフットボールをやるようなもんだ。
革命家はね、わき目をふっちゃいけないんだ
良: 実を言うと、あんまり姉さんと灰男さんと仲良くなってほしくないんだ。
夏美: なあんだ、妬いてるの?
良: そんあんじゃないさ、ただぼくらが仕事していくには、まわりのものに目をくれていちゃいけないんだ。革命家はね、お姉さん、道端にひなげしの花が咲いてもそれにわき目をふっちゃいけないんだ。
夏美: (喜んで)あたし、ひなげしなのね。
良: 「ひなげしを摘まないで」だ。
夏美: でも、どうして? ひなげしを摘める日のための「お仕事」じゃなかったの? 良たちのは。
良: もの事には順序があるんだ。
夏美: 花よりさきに実のつく草もあるわ。
人は、しばしば一つの思想に囚われ、わき目もふらぬことがある。
自由や平和の為に始めた運動が、いつしか「自身の思想を叶える為の手段」になっていく。
上記に喩えれば、『ひなげし』の為に始めた運動が、いつしか己の思想の正当性を証明する事が目的になるような場合だ。
そうなると、『ひなげし』は口実で、運動の是非が重要になる。
それは万人の為に見えて、その実、自分が正しいか否かのアピールに過ぎない。
『ひなげし』の為に始めた運動が正しければ、その恵みはいつか『ひなげし』に還元されるのだろう。
だが、その為に、わき目もふらず、省みもせず、邁進することが、果たして社会全体の益となるのか。
革命家が往々にして失敗するのは、最後には自己の正当性に固執するからではないだろうか。
血は立ったまま眠っている
地下鉄の
鉄筋にも
一本の電柱にも
ながれている血がある
そこでは
血は
立ったまま眠っている窓のない素人下宿の
吐瀉物で洗った小さな洗面器よ
アフリカの夢よ
わびしい心が
汽笛を鳴らすとき
おれはいったい
どの土地を
うたえばいい?
冒頭で歌われる。
血は存在するが、眠っている=活動を停止している、あるいは、実際は行動しない、といったイメージ。
存在はするけど、生きてはいない。
寺山修司の解説より
単行本に収録されている、寺山氏自身による解説。
「一本の樹の中にも流れている血がある。そこでは、血は立ったまま眠っている」というみじかい私自身の詩から発想されたこの戯曲は、60年安保闘争との関係を省いて語ることは難しい。私の中には、その頃から、
「政治的な解放は、所詮部分的な解放にすぎないのだ」
といういら立ちがあり、それがこの戯曲をつらぬく一つの政治不信となってあらわれている。勿論、処女戯曲だけに、言葉ばかりがあふれ出し、劇であるよりは集団朗読的な様相を呈している。要するに、この戯曲ははじめから、「文学」を目指しており、そのことが決定的な弱点となっている。それでも、23歳という弱年で書かれたこの戯曲に、私が愛着をもっているのは、この戯曲の中にその後の私の演劇のあらゆる要素が萌芽しているからである。
とくに、第三幕におけるストーリーの崩壊、人物の仮面の剥離、素明かりによる虚構の異化、そして挿入される歌、雑誌記事、天気予報などのコラージュ的手法は、天井桟敷の演劇へそのまま引き継がれていったものである。
政治にエクスペリエンスというルビをふるか、ストーリーというルビをふるか、ということが、当時の私たちにせまられた二者択一であった。大部分の学生たちは、エクスペリエンスというルビが正解であると主張し、闘争の挫折の中での「経緯の喪失」という危機を味わった。時代は、あやふやな綱わたりをしており、その下の谷間には変革の炎が燃えさかっていた。しかし、「彼ら」は、うまく綱を渡り切ってしまったのである。
ストーリーというルビをふって、「たかが政治じゃないか」とうそぶいていた私たちもその渦中にいなかった訳ではない。私は、闘争がその中心を失い、指導のないままにプリダンの驢馬のように餓死してゆくのを見ながら、私なりの焦りを書きつづけていた。アーゼフやサヴィンコフについての論文、テロルへのオマージュなどを書くことによって「危険分子」とされながら、いたずらに23歳の若さで、ハネあがっていた。それは、私自身の生き方をふくめて、歴史の総体を一つの物語として監督してしまう、若気のいたりであった。
だれだ、あくびをするのは……
まだすることは一杯あるんだ!という台詞で終る、この戯曲はその後も大学の劇研などでたびたび上演されてきた。なかでも、早稲田大学の劇団なかまでの上演の際に演出をした東由多加、劇作をした高木史子らとの出会いが、演劇実験室天井桟敷創立の直接の動機となったことは、忘れがたい。
エクスペリエンスとしての政治
私は安保闘争は経験してないので、何ともコメントしようがないが、どれほど立派な理想を説いても、結局、青臭い学生の感傷や正義感に過ぎず、ブームが過ぎれば、みな、おとなしく大企業に就職していった・・という話を聞けば、彼らにとって、政治は『青春のエクスペリエンス』だったのだろう。
それに対して、ストーリーは、歴史という大河の中で、現在の政治の在り方を見詰めるので、理想を説く者には都合の悪いこともある。
「学生時代の素敵な経験」で終らせたい人にとって、大局とか、内省とかいうものは、妥協や理性を必要とする、苦痛な作業なのだ。
昔から、「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」で、日本社会は大問題が起きても、数ヶ月後には関心をなくし、また同じことを繰り返す欠点がある。
それは、多くの人が、種々のの物事を「エクスペリエンス」として捉え、歴史という大局の中で、「何故、こんな事が起きてしまったのか」「二度と繰り返さないようにするには、どうすればいいか」という事を深く考えないからだろう。
騒ぐだけ騒いで、溜飲を下げると、いつもの日常に戻っていく。
その繰り返しだ。
そうした人々にとって、未来も、歴史も、魅力あるものではなく、現在の快楽が全てである。
政治をエクスペリエンスとして語りたい人にとって、灰男や良男のような革命ごっこは、甘酸っぱい青春の思い出だろう。
だが、国家や文化の向上において、エクスペリエンス志向は、政治も思い出として消費するだけえで、反省も、改革も、もたらさないのである。
政治的なことをちゃらちゃら主張したところで、それは人生の一部を強調するに過ぎず、全人的な革命とは、もっと盤石で、後戻りしないものだと思います。
参考 全人的な意味での革命とは、自分が望んでいることが何かを知ること