ヴィーナスとクピドの誕生
ローマ神話の『ヴィーナス』はギリシャ神話のアフロディーテ、『クピド』はエロスに当たります。この章では、ローマ神話名に統一し、ギリシャ名は()に表記しています。
海の泡から生まれたヴィーナス
世界の初めに誕生したのは混沌(カオス)でした。
そこから母なる大地(ガイア)と、光と闇とが生まれ、やがてガイアから天空ウラノスと海ポントスが生まれます。
ガイアはウラノスと交わり、巨神族ティターンと一つ目怪物キュクロープス、百の手足と五十の頭をもつ怪物ヘカトンケイルを作りますが、彼らがあまりに醜いため、ウラノスはこの怪物たちを冥界タルタロスに閉じ込めてしまいます。
ティターン族の末弟クロノスは、父ウラノスに復讐する為、ガイアと交わりにやってきたウラノスの男根を切り落とし、海に投げ捨てました。
海に落ちた男根は、波間を漂ううちに精液の白い泡を湧き出し、その中から美と愛の女神ヴィーナスが誕生しました。
【小さなお子様に説明する時は、“ヴィーナスは海の泡から生まれたのよ”とお話しましょう。私も、あしべゆうほのマンガ《悪魔の花嫁》を読んで、そう信じてきました。真実を知った時はぶっとんだ】
ヴィーナスと神々の祝福
ヴィーナスは西風ゼピュロスの息吹によって地中海上を東に運ばれ、キュプロス島の海岸に辿り着きます。
すると季節の女神ユースティティア(ホーライ)たちが彼女を祝福し、美しい衣装をまとわせ、オリンポスの神々の仲間に迎え入れました。
一方、父ウラノスを殺したクロノスは、父に代わって天界の王となりますが、自分も同じ様に子供に殺される事を恐れ、生まれてきた子供たちを次々に飲み込んでしまいます。
しかし、母レイアの英知によって命を救われた息子ユピテル(ゼウス)は、他の兄弟たちを助け出し、巨神族ティターンを討ち滅ぼして、ついに全宇宙の王になります。
「ヴィーナスの誕生」を描いた絵はたくさんありますが、一番有名なのはボッティチェリの『La Nascita di Venere』ではないでしょうか。
ボッティテェリが描いたヴィーナスのモデルは、当時、フィレンツェで一番の美女だったそうです。
アレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』も官能的です。
ヴィーナスの恋と結婚
ヴィーナスの完璧なまでの美しさに、オリンポスの神々は“我こそは彼女を妻に”と色めきます。
しかし大神ユピテル(ゼウス)は、オリンポス一の醜男ヴァルカン(ヘパイストス)に彼女を与えます。
ヴァルカン(ヘパイストス)は生まれながらにビッコで醜かった為、母ユーノー(ヘラ)に嫌われ、天から突き落とされました。
しかし河の神に助けられ、河底の洞窟で暮らしながら、物を作る技術を身に付けます。
そしてゼウスの為に立派な雷電を鍛え上げ、ゼウスを大いに喜ばせました。
しかし、美しい妻ヴィーナスは、醜い夫だけでは物足らず、美少年アドニスや、ワイルドで逞しい戦神マルス(アレス)と浮気を重ねます。だって恋は、彼女にとって美と生命の源泉だから。
おまけの絵
ヴィーナスの息子 クピド
クピド(エロス)は、ヴィーナスの息子で知られますが、ギリシャ神話の世界創造説によると、エロスが生まれたのは、カオスから大地ガイアと暗黒エレボスが生まれたのと同時期であるとされています。
つまり、母ヴィーナスよりも先に誕生しているわけです。
しかし、ヴィーナスが神々の仲間に迎えられると、クピド(エロス)も欲望のヒメロスと共に、彼女の後に付き従うようになり、後期の神話では、ヴィーナスの最愛の息子とみなされるようになりました。
ギリシャ神話における『エロス(愛)』は、ニュクス(夜)の卵から生まれ、矢と炬火であらゆる物を刺して刺激を与え、悦びと生命を生み出します。
彼はいつも弓矢を持って、美の女神に付き従い、人や神に気まぐれに恋の矢を射ます。
エロスが仕掛けた恋は数知れず。
中でも有名なのが、「アポロンとダフネ」の悲恋でしょう。
フローラの画家(名前は不明)が描いたクピドの誕生は、さながら聖母子像のようです。
ヴィーナスの腕に抱かれたクピドが赤ちゃんみたいで可愛いですね。
【クピドの誕生】- The Birth of Cupid - フローラの画家
【コラム】 エロスとは上昇する『生』
ローマ神話の『クピド』は、ギリシャ神話では『エロス(eros) 』と表されます。
エロスは夜(死と眠り)から生まれる
「愛と死の世界 ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』のあらすじと名盤紹介」でも少し触れていますが、「愛(エロス)と死(タナトス)」が一体とされる理由はここにも起因しています。
愛(エロス)は夜(ニュクス)から生まれ、夜の中で生命を生み出すからです。
夜(ニュクス)は、冥界の兄弟、死(タナトス)と眠り(ヒュプノス)の住処であり、夜から生まれた生命は、やがて冥界の兄弟たちに迎えられ、夜の中へ帰っていく……というわけです。
「トリスタンとイゾルデ」では海が舞台になっていますが、海は「生命の母」であり、「死と再生」の象徴でもあります。
愛の媚薬( = 死)を飲んだ二人は、その瞬間にこの世を離れ、死の世界で一体となりました。
それはまた新しい生命と悦びの誕生であり、再生の瞬間でもあったわけです。
さらに話が飛躍しますが、一昔前、ヨーロッパでは、セックスは「小さな死」と考えられていました。
要するに、セックス=愛は、「生」を生み出すと同時に、「死」をもたらすものなんですね。
ゆえに「トリスタンとイゾルデ」は、まさに「愛と死」の根本を描いた名作といえます。
【弓を作るクピド】-Cupid carving his Bow- パルミジャニーノ
エロスとは上昇する『生』のエネルギー
ところで、『エロス(クピド)』とは、何を表わすのでしょう?
一般に「エロス」というと、「性愛」とか「欲望」といった、性的なものを連想しがちですが、基本的には、上昇する生(エナジー)と当方は解釈しています。
ギリシア語には「愛」を表わす言葉が四つあります。
- フィリア = 友愛
- ストルゲー = 親子の愛
- アガペー = 神的な愛
- エロス = 価値への愛
このうち、比較対照されるのが「アガペー」と「エロス」であり、アガペーをキリスト教的な無私の愛とするなら、エロスは自己充足の為の愛。“自己の欲求から発する無限の情熱”であるとされています。
プラトンは著書「饗宴編」の中で、エロスを次のように説明しています。
エロスの父はポロス(豊満)であり、母はベニア(貧困)である。エロスはその中間的存在であり、常に自らの中に不足を持っている。
したがって、エロスは自己充足を求めて、自己を満たしてくれるものを、無限に追求していくパトス(情熱)である。
それはまた地上の不完全で低次の価値に出会い、触発されることによって、最高の価値である完全なイデア(形相、価値)をどこまでも追求する、探求的情熱なのである。*
エロスの愛は最初、男女の愛から出発し、天上界にある全き愛そのものにどこまでも近づこうとして、上昇していく。
このように、低いものからより高いものへ、不完全なものから完全なものへ、たえまなく上昇していこうとする情熱を「エロス」と呼びます。
しかし、その愛はあくまで“自己の欲求に基づく、自己充足の為の愛”であり、「他者の為の愛」「無私の愛」であるアガペーには及びません。
エロスの愛が、「“僕の恋人だから”彼女を愛する」とするなら、アガペーの愛は、「彼女であるがゆえに彼女を愛する」といったところでしょうか。
エロスの愛は、「条件付き」「所有と欲望」の愛なのです。
【俗愛に打ち勝つ聖愛】-Heavenly Love Conquering Earthly Love-ジョバンニ・バリオーネ
欲望こそが世界の根源
「じゃあ、エロスは次元が低いのか」というと、決してそうではありません。人間の全ての行為は、自分の欲望に基づいているからです。
芸術を例に挙げて私流に解釈しますと、あらゆる芸術作品は自分の欲望=自分を表現したい、より高次なものを創り出したい……といった、強い希求と情熱から生まれます。
「世の為、人の為」というのはあくまで二次的な動機であり、その根本には必ず「自己の欲望」というものが存在します。
「欲望」こそが人間を突き動かし、創造へと駆り立てる、莫大なエネルギーの源なのです。
もちろん、その欲望の原点は、妬みや憎しみ、劣等感といった醜いものかもしれません。
しかし、その人の中に、ひたすら天上を目指す強い意志があれば、いつか闇も光に変わるでしょう。
社会への怒りが美しい音楽に昇華するように、鬱屈した負のエネルギーも、無から有を生み出す原動力となります。
逆の見方をすれば、欲望の少ない人間には何も作り出せないし、何事にも疑問をもたない人は自己と社会を認識することもありません。
欲望とは、己を知り、欠乏を感じるところから始まるので、欲望がなくなった瞬間に「生」も終ってしまうんですね。
欲望することは、生きている証しであり、全てが間違いというわけではありません。
仕事にしても、恋愛にしても、欲望がなければ、何も始まらないからです。
要は、その欲望をどこに向けるか。
いかに正しく維持するかの問題でしょう。
クピドの矢のように気まぐれでは、何事も長続きしません。
ギリシャ神話に関する書籍
ギリシャ神話の本はたくさん出ていますが、絵画と合わせて知りたいなら、こちらの本がオススメ。
学術書のように堅苦しくなく、マンガ感覚ですらすら読めます。
登場する神々のイラストも可愛いし、ピックアップされている絵画も、美術ファンなら是非とも抑えておきたい名画ばかり。
これを一冊読めば、ギリシャ神話はもちろん、美術鑑賞の基礎的な知識も身に付きます。
【amazonレビューより】
ギリシャ神話を中心に、北欧・ケルト神話の主なエピソードをシンプルなイラストや漫画で表現してあります。
特に西洋のルネサンス周辺の絵画ではこれらの神話をテーマにしているものが多いので、それらもあわせて取り扱っています。
「あの絵のこの人物はこういう人なのか!」
「この絵のこんな虫一匹がこんな意味を持っていたとは……」ということになります。
ルネサンスの絵を見て「??」となっていた人や、「ギリシャ神話って複雑で読む気がしない」と思っていた人に読んでほしい一冊です。
ギリシア神話の本も数ありますが、読むなら岩波文庫のトーマス・ブルフィンチがおすすめ。
訳文が古くさいというレビューもありますが、古典文学の素養があり、クラシックな文体に馴染んでいるなら、これがベストです。
ギリシャ神話のエピソードを元に、西洋絵画の名画を紹介。
解説も一つのテーマに数百字程度で、学術的ながら、非常に読みやすい案内書に仕上がっています。
【amazonの解説】
本書ではギリシャ・ローマ神話をはじめ、伝説・歴史・文学にいたる絵画の主題を網羅、物語の主人公たちは何をしたのか、その主題を画家はどう表現しているか、を「名画」と「物語」と「解説」で一目で確認できるように展開。主題を通しての西洋美術の理解に、美術作品を通しての西洋文化の理解に、展覧会や海外旅行に、美術を愛する万人必携の1冊。
ウィリアム・ウォーターハウスをはじめ、ラファエル前派の絵画に興味をもったら、この本がおすすめ。
様々な神話や伝説に基づいた、幻想的で美しい大人の絵本です。
水の女 溟き水より From the Deep Waters (〓.T.Classics)
初回公開日 1998年11月24日
初稿:1998年秋 (1998年11月1日)