「拙い」とケンソンするホームページの素材屋さん
1998年、私がホームページ作りを始めて間もない頃、サイトの背景画像やアイコンなどは、全て『ホームページの素材屋さん』から入手するのが一般的でした。
ホームページの素材屋さんとは、ペイント系のソフトウェアを駆使して、可愛いワンコやキラキラ星アイコン、「New!」「Click !」みたいなボタン素材などを無料配布するサイトです。
こちらは私がお世話になった『Chizukoさんの素材』。こんな可愛いホームページ用素材がいっぱいあったんですね。
当時、FacebookやTwitterはもちろん、「はてな」や「アメブロ」みたいなブログサービスも存在しませんでしたから、サイト運営する者はみな『IBMのホームページビルダー』みたいなソフトウェアを駆使して、自前でHTMLファイルを作成するしかありませんでした。
しかし、テキストやHTML構文は書けても、バナーやイラスト素材を自前で用意できる人など稀です。
ゆえに、サイト運営者は、ホームページの素材屋さんから素材を拝借するのが一般的でした。
自サイトのコンセプトにあった、お洒落で、上質なホームページ素材を探し求めて、数日、数ヶ月、素材屋さん巡りをすることも当たり前。それもまた楽しみの一つであり、自分のイメージにぴったり合った素材屋さんに出会った時の歓びは計り知れないものです。
そんでもって、素材屋さんの大半は「若い女性」でした(ネカマも存在したかもしれないが)
そのせいか、謙遜する人も多く、一番多いフレーズが、
言いたくなる気持ちは分かりますが、「自分で一所懸命に作ったなら、拙いなんて言うなよ」といつも思っていました。
イラスト系のソフトウェアはおろか、絵柄も思い浮かばないテキスト系住人にしてみれば、きらっと輝く星のアイコンが作れるだけでも尊敬もの。
確かに上を見ればキリがありませんが、それでも、何種類ものホームページ素材を手作りし、自分でホームページを立ち上げて、せっせと配布する熱意があるだけでも凄いと思うんですね。
なのに、素材屋さんは、ケンソンして、皆に謝ってばかりいる。
へっぽこ素材でも、ランキング20位以下でも、堂々と配布すればいいのに。
自分で一所懸命に作ったものを「拙い」なんて貶めてはいけません。
「ケンソン」は自尊心の敵
私にとって、日本社会の一番苦手な部分は「ケンソン」です。
謙遜とは異なる、自虐と自衛の感情です。
人に褒められても「大したことないです」とケンソンし、決して等身大で己を語ることはない。
自分が一所懸命に選んだ土産物でも「つまらぬものですが」と前置きし、ホームランを打っても「まぐれです」と誤魔化す。
一見、慎み深いですが、自分が傷つくことを恐れ、先回りして、へりくだっているようにしか見えません。自慢と誤解されたり、下手に妬まれたくない自衛の意味もあるでしょう。
我が子を「愚息」と呼ぶのも、日本だけです。
アメリカに行けば、下手なピアノでも、「うちの子、天才かしら」と大はしゃぎ、近所の人を集めて、ホームコンサートを開いたりします。
その結果、尊大な人間に育ったとしても、ケンソンする日本人に比べたら、いつも幸せそうだし、自己評価も高いです。
「拙い作品ですが」とケンソンする素材屋さんは、たとえ素敵な素材が揃っていても、稚拙にしか見えません。
自己評価がそのまま、他人の評価にも繋がることを、もう少し意識された方がいいかもしれません。
本物の「謙遜」は相手を立てる為にある
ところで、謙遜とは何か。
本当の意味は、相手を立てるためにあると思います。
たとえば、お師匠さんより、弟子の踊りの方が美しいと評判になったとしても、「私など、まだまだです。今日の私があるのは、お師匠さんのおかげです」と謙遜する。心の隅では、ついに師匠を超えたと感じていても、そうした気持ちに歯止めをかけて、常に初心を忘れまいとする。その心がけが美しく見えるのであって、へりくだることが美しいわけではありません。
しかし、自分が傷つくまいと先回りして、自分で自分を貶めるようなケンソンは、百害あって一利無し。「拙い作品ですが」とケンソンすれば、相手もそのように見るし、時には、馬鹿にされたように感じることもあります。
評価は他人が下すものであって、自分で先回りしてランク付けするものではありません。
たとえ未熟で、下手クソでも、堂々と表に出せばよろしい。
自分で自分を低評価したところで、誰かが認めてくれるわけではありません。
作品にはハッタリも必要
ところで、皆さんは、めちゃくちゃ美味しいけれど、店主が暗い顔をして、「拙いタコ焼きですが」とケンソンしながら売っている屋台と、味は大したことはないけど、店主が堂々として、「大阪一のタコ焼き」の看板で売っている店と、どちらでタコ焼きを買いたいと思いますか。
胡散臭く感じても、ギラギラとネオンの輝く「大阪一のタコ焼き」で買うのではないでしょうか。
作品もそれと同じ。
「拙い作品ですが」と前置きしている作品は、たとえ中身が良くても、人を惹きつけることはありません。
作った本人が「拙い」と言うのだから、その通り、稚拙なのだろうと、多くの人は思います。
「私の作品です。一所懸命に描きました」と堂々と表に出しましょう。
そうすれば、道行く人も、「この人は描くのが好きなのだな。毎日、一所懸命、頑張っているんだな」と思いながら見てくれるし、中には作品を評価して、ファンになってくれる人もあるかもしれません。
要は、意気込みです。
まずいタコ焼きも、ギンギラギンのネオンで飾って、「大阪一のタコ焼きやで!」と自信をもって売れば、買う方も「そうかなあ」という気分になって、上手い具合にダマされます。
もちろん、「どこが大阪一やねん!!」と星一つのレビューが付くかもしれませんが、それでも商売にはハッタリも必要。
自分を大きく見せる必要はありませんが、ケンソンすることもないのですよ。
クリエイターは、基本的に、みな同志です。そう思って見ている人が大半です。
自作を発表することは、何も恥ずかしいことではありません。
ハッタリもいつか本物になる
欧米のロック界でも、「俺はスターだ」とふんぞり返っている人がスターになります。ステージでは、自惚れるぐらいが丁度いい。
「拙い演奏ですが」とケンソンする人がスターになることは、まず無いです。というより、「拙い演奏ですが」とケンソンするような歌手のチケットなど、誰も買わないでしょう。
「俺はスターだ」という顔でギターを掻き鳴らし、大声で歌う人が、いつかスターとして体制します。
ハッタリもいつか本物になるのです。